心地よい場所を目指してゴー。『動物たち』の感想について

 幻想紀行、とでも言ったらいいんだろうか、不可思議な世界を旅することをテーマとするジャンルが俺の中にある。

 それフツウのファンタジーじゃん…というと違くて、このジャンルの特徴は、作中で描かれる異界の理屈、常識を、こちらの常識と近づけようとする処理をまったく行わず、おかしなものがおかしなものとしてそのまま提供されている、というところである。

 その世界の理屈を説明しだしたり、攻略する対象として認識するとこのジャンルとしては除外されてしまうので、例えば『ダンジョン飯』とか面白いし不思議世界の探索を行ってるけど、幻想紀行には入らない。

 

 夢で考えると、このおかしさはわかりやすい。

 例えば、夢を見ているときは、どれだけ変なことが起こっても夢の世界ではありなので、夢を見ている俺らはそのことにいちいちツッコミを入れたりしなし、いちいちマジメに対応する。でも、目を覚ましてしまうと、「よく考えるとあれとかあれとか色々変だったし、それにとり合う俺も変だなー」と思う。起こっている出来事も変だし、そこにツッコミが入らないも変な、そういう感じである。

 

 で、個人的に、このジャンルのマンガ作品で極致と思う作家が二人いる。

 一人は逆柱いみりで、この人が描くのはグロテスクでバイオレンスありの文字通りの『異界』が多い。もう一人はpanpanyaで、こちらは、日常が、少しだけど決定的にズレている、やや不安で珍妙な世界であることが多い。

 作風は違っても、夢をのぞき見して感じるような違和感が楽しいのは一緒で、マンガのコマの隅っこにいかにも思わせぶりなヒトやモノが配置されているのにまったく触れられないのでもやもやさせられたり、今いる状況に対してヒントが少なすぎるか、かえって過多なので処理できなくて混乱しているうちに陶酔していて、ってのは共通しており…

 …ながなが書いたけど、いざ説明しようするとむつかしいわ。実際買って読んでください(ダイマ)。

 

 さて、そのpanpanyaの新作『動物たち』の感想である。

 上でさんざん幻想幻想言っといてなんだけども、今回は不思議成分少なめ。作品内でよくわからない異物と接点を持つと言っても、主人公が引っ越ししたばかりだからそれも当然だったり、相手が言葉の通じない動物なのでしょーがなかったりする。

 なので、過去作品のように異国や海、果ては冥界まで行ってしまうアドベンチャーを想像すると、「ありゃ?」となるかもしれない。

 それでも『動物たち』は面白い。それは、この人の作品で繰り返し描かれている、異物と接触してそれが少しだけ理解できたり、理解できないなりにその結果をポジティブに受け入れられたり、といったことが、この『動物たち』でも引き継がれているからだと思う。

 自発的にか、やむにやまれずか、慣れた場所を離れたりよく知らないものを理解せざるを得ないことがある。生き死にってほどセッパ詰まってるわけじゃないが、より心地いい場所、心地いい落としドコロを求めている。そして、過去の作品と同じように、それはちゃんと見つかるか、見つからなくても同じくらい大事なものが見つかったりする。大事なことだ。

 というわけで、作者のファンにはあいかわらず楽しいし、知らない人にとってはクセがないので入門編にもなるだろう作品である(偉そうですんません。ご笑納。すっげえ乱暴な薦め方すると、サブカルクソ野郎にはなりたくない人でもここなら入れる裏口って感じかもしれません)。

 また、作品の合間合間にご本人が書いた小文がはさんであって、これがとてもいい味出してます。日々のたいしたことないこと、あえて分類するならメモリ1mm分だけ「良いこと」よりの出来事について、淡々と書いておられる。こちらのファンも多いんじゃないか、と思う。以上。

 

 おまけ。ぼくのかんがえたげんそうきこうさくひんいちらん。この辺のことまだ書き足りないので、あらためて記事に起こすかもしんない。

 

逆柱いみりpanpanya

(異界探索そのものがテーマの壁)

『BLAME!』(弐瓶勉)、『殻都市の夢』(鬼頭莫宏)、『カクレンボ』、『ブレード・ランナー』、『氷』(アンナ・カヴァン)、『審判』・『城』(カフカ)、『バベルの図書館』(ボルヘス)、『武装島田倉庫』・『みるなの木』など初期椎名誠SF

(異界探索が重要な要素になる壁)

ドロヘドロ』(林田球)、『よるくも』(漆原ミチ)、押切蓮介作品

(描いてる方に異界嗜好が感じられる壁)

 

別格:内田百閒神

(クソジジイの壁)

 

 作品をくくって一覧化すること自体がある意味不遜だとも思うので、ご容赦+参考程度に。あと、ゲームだとどうしても攻略対象になっちゃうから、『LSD』とか『ゆめにっき』とか『mother』のムーンサイドとかタネヒネリ島とか惜しいけどちがうんだよな…。

 なお、俺の需要に対して供給がまったく足りてないので、詳しい人は「こういう作品があります」っての教えてください。喜びます。俺が。

 

動物たち

動物たち

 

 

不時着…「航空機が故障・燃料不足・悪天候などのため運航不能となり、目的地以外の場所に着陸すること」について

 今日こちらに来ると言っていた知り合いから電話があったので出てみると、来る途中で乗っていた飛行機が不時着してしまったのだという。

 「え?マジですか。大丈夫すか」

 「うん、大丈夫大丈夫。でさ、見に来る?飛行機」

 「え、不時着したやつですか?」

 「そう」

 「見に行けるんすか?」

 「来れるよ。まあ警察とか海上保安庁とかいるからね、適当によけてきてね」

 「じゃあ行きますわ。…もしもし、いま着きました」

 「ああ、こっちこっち」

 「お疲れす。って、ええ?これですか?」

 「うん、これ」

 「…これって、ははっ。ぶっ壊れちゃってんじゃないすか」

 「うん、まあねえ」

 「不時着ってもっとこう…。不時着って言いますか?これ」

 「言うんじゃない?」

 「そうすかね?どっちかっつーと墜落じゃないすか?」

 「不時着だよ」

 「こだわりますねえ」

 「ところで今日の夜何食べたい?」

 「おお…この流れで飯の話します?普通」

 「なんにも決めてなかったからさ、そっちで考えてくれる?」

 「俺魚食いたいっす」

 

 墜落ではなくて不時着なんだそうだ。

 

 朝のNHKでは「不時着して」「大破」という言い方をしていた。それぞれの言葉が噛み合っていない、という印象はあった。

 「『墜落』とは絶対言わないようにしような!」。番組前に円陣でも組み、スタッフ一同気合いを入れたりしたんだろうか、とか朝飯を食いながら思った。

 怒るか、戦慄するか、「ん?自分の『不時着』って言葉の定義が誤ってるのか?」と辞書を引くか、普通…というか望ましい反応というのはまあそんなところなんだろう。でも、俺に起こったのは、ただ「ははっ」という軽い笑いを洩らすことだけだった。それは、コケにされてんな、という自虐ではなく、面白い冗談言うね、という皮肉でもなかった。どこから来たのかよくわからない笑いだった。

 

 今年の9月に行った沖縄の海は美しくて、そのことを思い出す。

 海水は体が浮きやすいので、たっぷり肺に空気を吸い込んでおくと、仰向けになって水に浮かんだまま、空を見上げることができる。夕方になって空の色が変わり始めるまで、アホのように息を吐いては吸い込み、ずっと海から空を見上げていた。

 美しい、という形容詞で、あの土地を自然に飾っている。けれど、その見方はもしかするとそこに住む人々と俺の間に溝を作っているのだろうか。

 美しい、からなんだというのか。

 美しくなかったら、どうなるというのか。

 どう見るべきで、どうすべきで、どうして欲しいのか知らないから、免罪符のように美しいと表して、無関心さをごまかしている。

 

 ははっ、と笑う。不時着だか墜落だかなんだかしてオスプレイは大破したが、その後事態がどこに向かうのかあまり想像が働かないし正直働かせる気もなくて、近所にある魚が美味い沖縄料理屋に年内にもう一度行きたいなあとかだけ考えている。俺のあの笑い声は、あるいは、「土人」という言葉よりあそこに住む人たちを傷つけるのかもしれない。

 

 同じ国の国民としてともに解決に臨むべきなのか。

 もう放っておいて欲しいのか。

 そもそも何が問題なのか。どこから何が間違っていてどこを目指すと誰が喜ぶのか。

 よくわからないし、正直知る気もないし、暗闇の中に差し出した手が誰かがいつか流した血で血塗れになって返ってきそうで怖いなあ、と思っている。そんな風にへらへらしていてそれでいつかバチが当たったら…それが正義だなあ、とか思っている。以上

クズの地平から見えることについて

 twitterを見ていたら、最近の社会人に仕事でありがちなことについて意見が交わされていて面白かった。

 簡単に言うと、

 社会人A「最近の社会人(部下、もしくは取引先など業務上接点のある人)は、仕事を頼んでも言われたことしかやらず、自分でその先を考え、その業務における最終的な着地点まで遂行することができない」

 社会人B「↑は、『業務の着地点』について説明をはしょるAの指示が悪いから動けないか、勝手に着地点を想定して自分で動こうものならそれが正しかろうとAが騒ぎだしてうぜーからやんないだけ」

 として、AとBで対立する構図になっている。

 

 なぜこれが俺から見て興味を引いたかというと、AとBは「そんくらい言わねーでもわかれや」という陣営と「言われもしねーでわかるわけねえし、仮にわかっててもやんねえわ」という陣営とで仕事に関する論陣を張り合っているわけだが、双方、結局、「仕事のできる人」同士が、互いに想像力かコミュ力をもっと持とうぜ、と主張し合っているだけで(もともとお互いに十分高いステータスを持ってるだろうに)、そこには「何を言われようが自分の仕事に対してピンとこないし、そのせいで当然何も上手くいかないんだけど、とにかく能力が低すぎるせいで汗水だけは人一倍かいちゃうバカ」の存在がまったく考慮されていないからである。

 

 AとBとは、人間は、想像力を働かせるか指示を出す方がちゃんと説明してあげれば、最低限の業務をこなすことができると考えている。要は、こなせないやつは、本当はこなせるはずなのに本人の努力が足りないだけだと思っている。

 もちろん、そういう人間もいる。それを、社会人Cとする。

 しかし、中には、上や取引先がどれだけ心を砕いて説明しようがまったく理解できず、発奮はするのだが、実際それを実行するとなると途方に暮れる人種が存在する。それを社会人Dとする。

 

 なぜそんな者(D)が存在するとわかるのか? それは俺がDだからである。

 

 D本人にまるでやる気がないなら関係者はそういうつもりで扱う(接点を持たない、閑職においやる)のがいいんだろうが、なまじっかマジメだったりするとDを含めて周り全体が地獄を見る。

 そして、おそらくAやBにはDという存在が理解できない。それは、自分が優秀で、誰かに指示を出されれば、指示の向こうにあるものも含めてすべて理解できるし(やるかどうかは別として)、自分が指示を出せば相手もだいたいそのとおりに動いてきたからである。

 そういうとき自分の理解できない相手とぶつかるとき、AやBはどう思うか。おそらくこう思う。「こいつは社会人Cだ」と。

 そして、Aは「考えりゃわかるだろ、自分で考えてどんどん動けや」と思うし、Bは「Aの指示が悪い。あれではCにはわからないし、仮にわかってるとしたら(本当は自分と同じBだとしたら)先行して叱られるのが嫌でやらないだろう」と思う。

 しかし、本当のところは? 本当に彼/彼女がCなのか、もしくはDではないのか…誰にもわからない。本人を除いては。

 

 

 もし、AやBが自分以外の社会人の在り方を意識することができたら、何が起こるだろうか。

 たとえばAが、なぜBが(昔はAであったかもしれないBが)、いまはそう考えるようになったのか考えてみたら。

 たとえばBが、いままでのやり方でずっとうまくやれてきたせいでああいう発言をしてしまうAの「しかたなさ」を想像してみたら。

 そして、Dという存在のどうしようもなさを双方が意識してみたら。

 たぶん、AとBとはもっとうまくやれるんじゃないかと思う。つまり、「言わねーでもわかれやボケvs言われもしねーでわかるかバカ」論争が、もうちょっとソフトに現実的なところで解決するような気がする。

 お互いにあるべきかたちに落ち着いてそうなったんだし、双方の主張ではすくいとれない領域の意味不明な存在もいる、という共通項を持ったら、仕事の効率ももっとよくなるんじゃないかな、と思う。こうして世の中はよくなるんじゃないか? 多少は。

 

 ただ、おそらくAとBは和解しないだろう。

 ここからがクズの地平から見える景色なのだが、AとBはSNSで仕事の話をして別に業務を効率化したいわけではない。他人がどうなるか、ましてや世の中が良くなるかどうかなんてどうでもいい。twitterのfavやリツイートの数字を増やして、対立陣営よりも稼いで、間接的に相手を打倒して自分の正しさを証明したいだけである。

 そこに手をとりあう余地はない。

 そして、Cはともかく、Dの存在が彼らに認識されることもないだろう。仕事のできない何者かはずっと、優秀なAから罵倒され、優秀なBから片手間の優しさを投げられたまま、結局「できるはずなのにやらない」という誤解を押し着せられたままだろう。

 Dでありクズである俺は、別にそれに不平もない。しかたがない。ただ、くだらねーな、と思うだけである。それでいいのかというと、わからない。おそらくよくはないだろうが、どうしようもない。以上。

アメリカ大統領選でフツーにアホのように驚いただけのことについて

 ドナルド・トランプが次期アメリカ大統領だという。職場で昼休みに点いていたテレビで「優勢」のニュースを観て、夜帰宅したら決着していた。

 

 驚いた。

 

 俺は30になったが、世間の人がちょっと引くぐらいものを知らないので、俺の中でアメリカ大統領選とはメールのおばさんと頭髪の怪しいセクハラおじさんとが繰り広げる口ゲンカだった。そして、おばさんが勝つと世の中がどうなり、おじさんだとどうなるのかなど、まったく考えないし考える気もなかった。twitterなど見ていると、みんな円がどうとか国防がどうとか言ってて、すげーな、と思った。 

 それでも、俺はメールのおばさんが勝つと思っていた。おばさんのメールがどれだけまずい行為だったのか、また、おばさんが嫌われる他の要因がなんなのか俺は知らないが、対する頭髪の怪しいおじさんは猥談垂れ流されちゃってて、p---y言ってる音声がダダ漏れちゃう人に誰が票を入れるんだと思っていた。

 おじさんはスキャンダル流された割りに善戦しているという。でもなんだかんだ言っておばさんが勝つでしょ、そういうもんでしょ。知ってるんだぼかぁ。だてに30年生きてないからね。

 

 結果どうなったか。

 

 おじさんが勝った。

 

 そもそも、おじさんはただのおじさんではない。不動産王(このキャッチも報道の受け売りで俺の知識のつたなさを物語るが)で富豪になる時点で並のおじさんではないし、大統領選で並みいるライバルを蹴落とし、最有力候補の一角となり、最大の強敵であるおばさんとの優劣は開票直前になっても不明、とされているおじさんが普通のおじさんであるはずがない。

 事実を、事実だけを拾えばおじさんが大統領になることはありえる。というか本当にそうなった。俺の、「結局おばさん勝つでしょ」とか関係なかった。そういうもんでしょ、とか全然関係なかった。そういうもんじゃなかった。

 

 繰り返すが、それでも俺は驚いた。

 

 確信を持って出した解答にペケがついて返却されたとき、おおげさなことを言うと、それはただの誤答や減点だけを意味しない。解答者の、そいつの人生におけるルール自体が間違っていたのである。

 

 俺と同じように自分のルールが間違っていたことを知った人は、今日この世界に何人ぐらいいるのだろうか? 多いのだろうか? 少ないのだろうか? それは誤答を発する前に気づきようのない誤りだったのだろうか? 彼らに情報をもたらすメディアに一因があるのか? それとも、単に彼らの勉強不足のせいなのだろうか?

 

 とりあえず俺の答案用紙にはでっかいバツがついて返ってきた。俺はクズなので、以降はがんばって勉強しよう、という風には思わない。おじさんが大統領になって世の中が、日本が、俺の生活がどう変わるかにも想像を働かせる気は起きない。

 また、どう知識を集めようと世界はそれをすり抜けていくものだから、という悟ったような結論まで進む気もない。

 ただ驚いた。そんな感想で終わっとくのが俺にはお似合いだと思う。p---y。

イモムシ、もしくは世の中はちゃんと気持ち悪いことについて

 今朝歩いていたら、歩道のわきにイモムシがいた。

 サツマイモのような色としっぽのトゲが毒々しいやつが、ずんぐりしながらそこでじっとしていた。

 俺は、うわー、などと言いつつ歩くのをやめ、かがみこんでその姿をしばらく眺めていた。

 

 虫が好きだがイモムシは嫌いである。その一方で、外で見かけたりするとついじっと見てしまう。

 つくづく気味の悪い生き物だ。もしその存在を知らない人がいたら、俺がその生態について説明して聞かせてそれを信じるだろうか。

 「子どもの頃は棒に足がついたみたいなかたちなんだ。でも、成長したら殻を作ってその中で一度体をどろどろに溶かして、それから、羽を生やした姿になって殻から出てくる」。

 きっと信じないんじゃないだろうか。

 そしてあの遠慮なく張りつめたような体ときたら。今朝見たやつも少し大きすぎるんじゃないですか? と言ってやりたいような立派な姿をしていた。大人になったときに羽になる部分に使うための肉体も含めてあの姿で、ひたすら、いつか空を飛ぶときのために力を蓄えるためのかたちなのだと感じる。そのヒタムキさも生理的に気持ち悪い。

 

 ただ、俺はそんな気持ち悪いイモムシを見るたびにある一つの感覚をいつも抱く。それは、「世の中はちゃんと気持ち悪い」という安心感である。

 

 俺は人間としてのキャパシティがとても小さい。そんな俺は、しんどくなると生活の色々なものを遮断していくという行動をとる。

 親しい人とも話をしなくなり、どこかの店にもよらず自宅と会社だけで日々を完結させる。テレビも見ない。雑誌も見ない。

 そうすると、世の中というのはだんだん、「やるべきこととやらなくてよいこと」、「気持ちいいことと苦しいこと」という風に、すとんすとんと最低限の箱におさめられるようになっていく。

 これはきっと、俺が子どもも嫁さんもおらず両親も健康…と周囲に心配のない環境であることも大きい。が、ともかくそんな生き方をすることが一応許されている。課題と解決、快楽と苦痛の生活。そこには、大変なことはあっても、正体不明の気持ち悪さというものはない。

 

 オタクなのでまあ一応…つってどういう生活時期だろうとマンガと小説は読む。

 最近だと『ワールドトリガー』16巻、『BLUE GIANT』9巻、『惑星9の休日』、『海流のなかの島々』がよかった。

 そこに描かれたものはどれも熱く、もの悲しく、美しい。

 これらの作品内で、人間が対するモノは別の人間だったり、自分自身だったりする。世界とは自分を試す場所、もしくは希望と絶望を万華鏡のように鮮やかに振りまく玉手箱である。

 ここにも気持ち悪さはない。正体不明なものは、せいぜい人のこころぐらいである。

 

 俺はまったく断じてこれらの作品を貶めるつもりはない。でも、単純化した日々の中でこれらの作品を手にとった俺は、それを読んで読み終えて「ああ、良かったな」と思い、「あ、そういえば」とやりたくないことを思い出し、「まあしょうがねえな」とかなんとか言ってなんとなく家を出て、たまたま道で見かける一匹のイモムシにきっとガツンとやられずにいられない。

 

 俺が世の中をどう単純化しようと俺の勝手で、そうすることで楽になること、そうすることで得られる強さがあるから別にいい。

 でも、その中で処理できない圧倒的に気持ち悪いものをいきなり現させてみせるのは世界の勝手で、そしてその方が正しいんだからしかたがない。イモムシはいなくならない。イモムシはイモムシの勝手で蛾になるために頑張って葉っぱとかを食う。

 俺は彼らを目にしたときの気持ち悪さが嫌いじゃないのだ。結局。いや、嫌いだけど。

 なんとなく自分がちゃんと正しいものに接続されたような安心感があって、それで、できればその存在を受け入れたい。でも、なかなかそうもいかないんですよ、って変な恥ずかしさというかむずがゆさがわいてきて、これは俺にとっていい気持ち悪さなのだ、と地面に転がった生き物を見ながら思うのである(悪い気持ち悪さについてはいつか機会があったら書こうと思う)。

サマーソニック2016の感想について(サカナクション編)

はじめに

 ソニックマニア2015最高! perfumeかわいい! マンソン、プロディジーカッコいい! 2016年も最高のアーティストの演奏で夜通し踊りたい!

 

 って、あれ…?

 

 「2016年ソニックマニア中止のお知らせ」

「リアクションガイズ」の画像検索結果

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 …
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 …
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 …
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 でも行ってきた。
 
 レディオヘッド観たい友人の同行と、サカナクション観たい、あとやっぱ俺もついでにレディへ観てえ、の合わせ技一本による決心。6月のことであった。
 というわけで、以下サマーソニック2016、東京はサカナクションレディオヘッドのステージレビューです。
 
開演まで

f:id:kajika0:20160829235319j:plain

 8月21日14時頃、東京会場の公演を見るべく海浜幕張に到着。知人と合流し、他のお客さんたちの流れに乗って幕張メッセに向かう。
 日差しがものすごい。来るときに買ったポカリを早くも空けて、水を追い買いする。
 前夜祭であるソニックマニアは過去3回参戦(笑)したことがあるけど、日中開催のサマーソニックははじめて。メッセに入り、トイレの行列、空いてるスペースで横になって体力を回復させてる人たちの光景にフェスの空気を感じつつ、場内右手の通路から屋外へ。いざ、未知の戦場マリンステージに突入したのだった。
 
サカナクション…エンターテイナー。そして、けっこう汗くさくロックバンド。つまり、カッコよし
 前回サカナクションを観たのは2014年のソニックマニア。そのときと同じ、「ラップトップコンピューターの前にメンバーが集結するかたちで開演→そこから展開してバンド形態にフォルムチェンジ」というスタイルが今回もとられる。
 
 この日は、後半の怒涛の攻勢がイカす『ミュージック』で開戦。その後、『アルクアラウンド』、『Aoi』とアガる曲が三連続。
 いきなり沸かせに来た印象が強く感じられたのは、おそらく会場内に一定数いるだろう「サカナではなくレディへの位置取りが目的でいまから会場内にいる勢」まで楽しませる作戦…かどうか知らないけど、いきなり体揺すぶり続けられる十数分。
 
 『蓮の花』からしばらくスローな曲が続いた後、舞妓さん?もステージに交えて再度攻撃態勢。『夜の踊り子』、『アイデンティティ』、『ルーキー』と、陽が落ち始めた場内を疾走。最後は『新宝島』で〆。PVでもやってたサビ前の「オゥ!」ダンスが観られた。
 全体的に縦ノリできる曲が多く、俺ぐらいの「体動かせるサカナクションが好きなライトなファン」がけっこう得するセットリストかなあ、とか勝手に思いました。
 
 感じたのは、この人たちはやっぱりロックバンドで、汗くさくてカッコいい、ということ。
 開演時のラップトップ形態が示すように、電子的でスマートな部分も確かにこの人たちの一面だと思うけど、それはあくまで一つの表れに過ぎなくて、最初つけていたロボメガネを外した一郎さん(山口)は喉にスジを浮かべて叫び汗を散らせ、踊って煽って踊る激情と身体のヒトだった。
 途中でなぜか和太鼓をぶっ叩くパートがあったんだけど、他のメンバーの人もなぜか獅子舞を従えて楽しそうにドコドコやってたりとかギターの人の『新宝島』のソロとか、みんな体使っててバンドしてていいなあ、とか思った。
 
 屋内会場であるソニックマニアからサカナクションを知った俺としては、実は室内の音響と照明で観た方が没入できるバンドだと勝手に思っていて、それは正直この日のサマソニを体験した後もそうなんだけど、覆うもののない空の下で体から吹き上がる熱気もあらわにロックしてる一郎さんたちは、これはこれでなかなかよかったと感じた次第です。ちなみにセットリストはコチラのサイトに詳しい。
 
 長くなったので続きは分載。後半はレディオヘッドの感想。です。

ポケモンGOを通して思った「オタクを嫌うオタク」について

 ポケモンGO界隈で様々な情報に接しながら、ある感情を抱くことが多くなった。同属嫌悪である。そのことについて書く。

 

 俺はオタクなので、その憎悪が向かう先は同じオタクということになる。

 最近ポケモンGO関連で「オタクうぜえよ」と思う機会が二度ほどあった。

 1回目はtwitterで「ポケモンGOやって人に迷惑かける人はやってなくても普段から迷惑かけてる」というツイートがRTされてるのを見たときである。

 いやあ、それはどうなんですか。どうだろう?

 

 俺は違うと思う。何かがある人のそれまで顕在化していなかった面を触発、増長させる事例はたくさんある。あれさえなければああならなかった物と人の組み合わせ、良いものでも悪いものでも色々あるはずだ。

 ただ、発言が全面的に間違ってるとは思わない。じゃあ俺をムカつかせたのはなんだったのか?

 俺をムカつかせたのは、この意見とはまったく別に、他のポケモンGOユーザーがいかにも我が意を得たりという感じでわやわや沸いてきてわっしょいわっしょいRTしてるその状況だった。お前ら非ユーザーに対する反論を用意するのと、同じユーザーだけど気にいらないやつを自分と差別化することに必死すぎんだよ、おとなしくひとくくりにされて批判されとけ、という感じだったのだ。

 

 2回目は、やくみつるポケモンGOユーザーを心の底から侮蔑するという発言をしたときである。

 案の定、「人の趣味をとやかく言うな」とか「ゲームから学べることもたくさんある」とか、やくみつるはボロクソ言われフクロにされていた。

 

 ま、そういう考え方もあるわな、とやくみつるに対して思っていた俺をイラつかせたのは、このときも反論する側の必死さだった。

 「それ」しか持っていない者が唯一の所有物であるそれをコケにされたとき、彼らは怒りながらも喜び混じりで反論を振りかざす。いざ批判されたときのため、かねてからうす暗いところでひっそりと研いでいた反撃の刃を。

 俺にはその必死さが不快だった。

 お前ら本当にそれしかないんだな、と思う。他の何かを探そうとはせず、批判にはどこまでも不寛容で、身内の中で攻撃の材料を交換し育て合いながら、敵が罠にかかるのを待ってるんだな、と思う。ムカムカする。

 

 …うーん、でも、俺はなんでこんなに彼らに気持ちを逆なでされるんだろう?

 

 同属嫌悪は、自身の嫌な部分について、それを同じように持っている別の人間から見せつけられたときの不快感を憎しみに転化することで生まれるらしい。たぶんそのとおりだと思う。

 

 俺が見つめて嫌うべきなのは、本当は俺自身なんだろう。

 他者に不寛容なのも、同属内での差別化に執心しているのも、前述した内容を読み返すと、本当は俺自身であることがよくわかる。

 俺はたぶん、俺の方こそゲームとマンガしかない、そんな自分の生活が嫌なのだろうな。

 だから「たかがゲーム」でカッカくる他のオタクを見ると、自分の最悪の姿を見せられているようで、やめてくれ、となるのかもしれない。そして、それに毒づくほど自分がそこから距離をとれるようで安心するのかもしれない。

 ポケモンGOは、まったくはからずもそんなことを気づかされる機会になった。

 

 で、その後どうすればいいかはいま考えている。

 オタクが趣味の問題なら、いまから人生パリピに舵を切っていち抜けてしまえばいい。

 でも、中身ではなく生き方の問題だったら? そしたら俺が浜辺でビール片手にEDMで日没まで踊ろうが俺の心は憎悪の虜のままだ。

 うーん、とか勝手に悩みながら、ポッポからアメ(進化素材)を剥ぎ剥ぎ博士に送る日々。いまのところ。以上。