芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて。その1

はじめに

 いきなりで恐縮ですが、これまで31年生きてきて、けっこう小説とか戯曲とかを読んできました。ここで、俺の好きな作品の上位10作を紹介してみたいと思います(順不同)。

 

・『告白』 町田康

・『行人』 夏目漱石

・『淵の王』 舞城王太郎

・『ねじまき鳥クロニクル村上春樹

・『審判』 フランツ・カフカ

・『氷』 アンナ・カヴァン

・『カラマーゾフの兄弟フョードル・ドストエフスキー

・『ムーン・パレス』 ポール・オースター

・『マルテの手記』 ライナー・マリア・リルケ

・『マクベスウィリアム・シェイクスピア

 

 実はこれらの作品の多くにはある共通点があります。なんでしょう。

 答えを言ってしまうと、それは主人公がクズであるということです。

 彼らは社会的には害悪、マイナスの存在であるか、せいぜいいてもいなくてもどちらでもいい、まあとにかく少なくともいなくても誰も困らないような人たちです。

 例えば『告白』の城戸熊太郎はゴロツキの博打打ちで、最終的には大量殺人犯です。

 『マクベス』の主人公も自分の私欲のために朋友と君主を殺します。

 これらはさすがに極端なケースです。ただ、学問に打ち込み過ぎてまったく伴侶を大切にしない『行人』の一郎とか、周囲の人間を自分に利をもたらすかどうかでしか判断しないところのある『審判』や『氷』の主人公もたいがいクソ野郎です。

 それ以外の主人公たちもかなり視野が狭いところがあって、周りの人間を多かれ少なかれ傷つけたり不幸にしたりしています。また、彼らはかたちのあるもの、家とか製品とかを作るわけではないので、別にこの世からいなくなっても誰も困りません。

 

 彼らの特徴は、思考の中心が自分自身のことしかないという点にあります。

 彼らは自分のことしか考えません。

 自分がこう思う。自分が傷つく。自分が何かを達成する。

 彼らの意識は常にその中で動いています。そして、基本的にずっと苦しんでいるし、乾いています。

 にもかかわらず、もし誰かが彼らを救おうとしても、彼らはそのことにあまり感動しません。差し伸べた救いの手をぞんざいに扱われて相手が傷ついても、彼らはそのことにそれほど心を痛めません。

 

 この鈍感さは、個人的には、ナルシズムと厳密に区別されるべきだと思います。

 いや、実際彼らの多くはナルシストなんですが、別に自分がカッコよくて価値があり、周りはそれを大切に扱うべきなんだから、苦しんでいたら助けられて当然だと思っているわけではないと思います。

 彼らは本当に自分のことしか考えていないので、親しい人が自分を助けようとするとき、そこにどれだけの労力が必要なものか、単に想像が働かないのだと思います。

 その方が罪が重いのかもしれませんが、とにかく彼らにとって周囲の援助とは自分が特別だから与えられて当然、というものではなく、まあ酸素とか水とか、あって当然とさえ思わないそういうものの方が近いです。

 だから、何気なく受け取っていた好意の裏に本当は血のにじむような想いがあったことを知ったとき、彼らは猛烈に恐怖を覚えたり動揺したりするのですが、少し話がずれてきたので軌道修正します。

 

 話したとおり、上に挙げた作品の主人公はクズばかりなので、これらはある意味単なるクズの行動の記録です。

 しかし一方で、世間的には「文芸」というカテゴリーに入れられ、作品によっては岩波文庫とか新潮文庫とかに入って偉そうな顔をして書店の本棚に並んでいます。

 ここから、芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて話します。

 

芸術は本当の本当にゴミなのかもしれないことについて

 今日ツイッターである記事を読みました。これです。

 

www.cinra.net

 すごいショックを受けました。

 俺は荒木経惟の写真が好きで、特に『チロ愛死』という彼の愛猫の病と死を追う様子を写した写真集が大好きでした(この写真集について考えることもいつか書きます)。

 俺の好きな写真を撮るこの人の作品とその被写体の間にはちゃんと理解と納得があるはず…というか、そもそもそういうことすら考えていませんでした。

 俺は、とにかく目の前に写真を提示されて、俺はそれを美しいと感じるかどうか、そういう接し方をしてきました。

 でも実際はそうじゃなかったことがわかりました。

 

 一般に芸術家とか作家とかには変わり者が多いとされています。

 彼らは普通の人たちと比べて何かが欠けていたり、歪んでいたり、劣っていたりします。

 それによって、彼らは周りの人たちを傷つけます。これは確かな事実です。

 考える必要があるのは、彼らの作品は彼らが「そういうクズであるからこそ」生み出されるとされている点です。

 クズであるからこそ、そのクズ独自の視点によって新たな美しさが創造されたり、秘められていた世界の姿が明らかにされたりするとされています。

 また、クズであるからこそ、その作品が帯びる「クズ性」は同じようなクズを救う力を持っているとされています。

 

 しかしその背景に、製作の根底に関わった誰かの苦しみがあったのを知って、俺は個人的に二つの問題を考えないといけないと思いました。

 あらかじめ断っておくと、おそらくこれはリンク先の告白が生む色々な議論の中でもかなりおかしなものというか、飛び交う議論で形成される空間において、相当はしっこの方にある話だと思います。

 なぜかというと、そこにはこの議論の発端にある、男性による女性の搾取とか、雇用者による被雇用者の支配とかいう要素が完全に抜け落ちているからです。

 ここで主な要素になるのは、「創り手であるクズ」と「作・クズならでは作品の良さ(とされるもの)」と「受け手であるクズ」の関係性だけになります。

 

 まず問題の一つ目は、「芸術とは結局、クズの変わり者が免罪符のつもりで吐き出したものを受け手側のクズがありがたがって評価するただのゴミに過ぎないのか」というものです。

 

 これは特に芸術に関心がない人からすれば何を当たり前のことを、という話だと思います。

 なので、俺が読む本が実用書ではなくいわゆる文芸作品が多いこと、よくわからない現代作品のものも含めて年に十数回展覧会に行ったりする人間であることをふまえて、まあその問題意識の深長さを汲んで欲しいと思います。

 

 二つ目は、「芸術に感動するとき、それは作品に感動している自分が好きという感情以上のもの、要は自慰行為以上のものになりうるのか」という問題です。

 

 一つ目の問題が創り手というクズと受け手というクズの間だけの話だったのに対し、こちらは範囲がもっと広いです。

 つまり、一部の文芸作品とか荒木経惟の写真のような一種のいびつさ、危うさを含むものに限らず、何かの作品から受け手が感じるものなんて結局自己満足のクソでしかないんじゃないの?という話です。

 これはたぶん、ツイッターで「荒木の写真ってなんか気にいらないと思ってたらこういう裏があると知って納得だわ」と言ってた人たちに俺がなんかムカついたから出てきた話だと思います。

 そういう意味でもやはり俺はクズなんでしょう。

 

 長くなりすぎたのでここで一度切って、続きはいつか書きます。

 なお、鋭い人は気づくかもしれませんが、俺がこの記事のはじめに書いた10の作品と、荒木経惟が撮った作品とは、厳密には別のものとして区別する必要があると思います。

 「クズによって創られたクズを題材にした作品」と、「クズが創った作品」は別のものです(漱石荒木経惟がクズだという前提で話しています。すみません)。

 この辺は次回以降整理しますので、以上、よろしくお願いいたします。

異界とはどこにあるもののことか。『全滅領域(サザーン・リーチ1)』の感想について

はじめに

 最初にことわっておかないといけないことがあって、実はこの記事、作品を強くおすすめする記事ではないのである。
 もちろん面白い本ではあって、良かった点もちゃんと紹介する。
 しかし、一方で、最後までぬぐえない違和感もあって、興味を持っている人、特に俺と同じようなかたちで関心を持った人向けに伝えておきたいなあ、と思ったので、その違和感についてもあわせて言及する。
 そういうわけで、なんか陰気なねちねちした感じの話になっているかもしれないので、容赦して欲しいと思う。
 

あらすじ

 世界に突如出現し、人類が暮らす世界とは〈境界〉で隔てられたその領域は、〈エリアX〉という名で呼ばれている。
 内部がどうなっているかはほとんど解明されていない。調査隊が何度か派遣されているが無事に帰ってきた者はおらず、その正体については怪しい都市伝説だけが伝聞として一人歩きしている状態だった。
 かつて衛生兵として〈エリアX〉に挑んだ夫を持つ女性生物学者は、今度は自らが、心理学者、測量技師、人類学者の仲間とともに、〈エリアX〉に入ることになるのだった。
 

感想

 興味を持ったきっかけはというと、映画『アナイアレイション』の宣伝を観て面白そうだと思ったからであった。
 で、ネガティブなことから話し始めてしまうのだが、読む上での注意点というか、まず、一大スペクタクルとかアドベンチャーとかの要素をこの原作小説に期待してはいけないと思う。
 映画版のトレイラーを観てそういうスリリングな冒険譚としての期待を小説にも向けてしまった。でも、そういう需要はあまり満たされないのである。
 なぜか。それは、この小説が主人公の手記という体裁で物語が進んでいくことが大きい原因であると思う。
 つまり、行動も知識も制限された、あくまでいち個人の視点で書かれる手記なので、良くも悪くも書かれていることが一人の人間の主観、視野以上の大きさで描写されることがない。主人公が見聞きした範囲でしか、世界の謎も解明されない。
 要するに、読んでいてもどかしいのである。
 「つまり、〈エリアX〉ってのはなんなのよ?」「結局、ここで見つかる謎の生命の正体はなんなのよ?」
 そういう疑問が、個人の思考の速度でしか解き明かされないし、その思考も色々な雑念に邪魔されるので、なおさら先に進まない。読んでいてあまり爽快感がないのはそういう理由による。
 この、なんかすごいことが世界に起こっているはずなのに視点が個人以上のものにひろがらないために地味な印象が最後までついて回る感覚、どこかで覚えがあるな、と思ったら、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』だった(ファンに聞かれたらぶっ飛ばされそうなことを言っているな)。
 
 一方、物語の進行をいち個人の視点に委ねたことで見えてくるものもあった。
 例えば、未知の領域に集団で踏み入っていくので、当然というべきか、ある程度話が進むと仲間うちで不和が発生する。
 その際、主人公の思考が詳細に書かれることになるため、不和による混乱の増大と探索計画が破綻していく過程はすごくリアルで緊張感がある。
 もしもこの作品が、個人の主観にしばられないもっと自由な語り口を採用していた場合、メンバー間の不和からこの苦しいぐらいに張り詰めた雰囲気が漂ってくることはななく、あくまでよくあるイベントとしてしか消化されなかったのではないかな、と思う。
 もう一つ。主人公は実は〈エリアX〉先遣隊であった夫との間にすれ違いを生じていて、その傷を抱えたまま今回の探索に臨んでいるのだが、この辛い過去と向き合い、立ち直っていく過程がしっかり描かれることになったのも、物語が主観による進行という形式をとった結果であると思う。
 異界を探索する中で、主人公は夫がこの地に残したある物を発見する。
 彼女はこの発見をきっかけにして、自分の夫の心にようやく寄り添えるようになる。これは、主観に制限された鈍重な展開を取ることによって見えてきたものだと思う(あ、考えてみれば、これも『ソラリスの陽のもとに』で抱いた感想の一つだったな)。
 作者の狙いなんてわからないので、結果として、ということなんだけど、『全滅領域』における〈エリアX〉の扱いは、攻略されるべき物語の焦点ではないんじゃねえかな?
 その本当の役割は、人の心の動きとか機微を明確に描き出すための一つのヒントに過ぎないのかもしれない。探索されるべき本当の異界とは〈エリアX〉のことではなく、我々の心の中にあるんじゃないかな、とか知ったようなことを書いておく。
 

おわりに

 そういうわけで、映像版の印象を期待して原作を読むのはあまりよろしくないかもしらんよ、と思ってこの記事を書いたのである。
 ただ、ひとえにこれは俺の動機というか入り口が間違っている気もして、「個人による手記のていで書かれた気持ち悪いけどなんか面白い異界探索ものがあるらしいぜ」というきっかけで読んだんだったらもっと楽しく読めたかもな、とも思ったのだった。
 
 映画はたぶん観にいくでしょう。小説の続編は…Amazonのレビューで見たらなんかすごい地味っぽいのでどうしましょうかね。考えます。
 
 最後に。上記で悪口書きついでに言うのだが、この小説によるとどうやら心理学を習得することは死神の落としたノートを拾うことに同義なのでもしいつか心理学を修めたと語る人に出会ったらダッシュで逃げた方が良いなと思ったので、以上、よろしくお願いします。

 

全滅領域 サザーン・リーチ?

全滅領域 サザーン・リーチ?

 

 

レベル100の「あんたすごいの憑けてきたね…」にありがちなこと。『ぼぎわんが、来る』の感想について

はじめに

 妻一人子一人、平穏で幸せな家庭を築いた男性を襲う、正体不明の怪異「ぼぎわん」の恐怖を描くホラー小説。

 バカにしたようなタイトルを記事につけてしまったが、すごく面白かった。

 この小説は基本的にネット怪談でよく見るフォーマットに見事にのっとっている(地元の伝承である謎のオバケ、そのオバケに妙に詳しい実家の爺さん、ひょんなことでその怪異に魅入られる主人公、主人公からオバケを祓うために霊能者が執り行う儀式、など…)。

 しかし、文章がすごく上手くて、怪談パート以外の主人公の生活描写もリアリティがあって、チープな印象はまったくない。

 中でもすげーな、と嘆息したのは、「ぼぎわん」という一見すると由来がよくわからないオバケの名前に関する伝説が紹介されたときで、もちろんこの伝説は作者の創作によるデタラメなんだけど、これがすごく真に迫っていてマジっぽくて感心した。ここでもうこの作品にのめり込んでしまった。

 しかもこの小説、おっかないホラー作品というだけでなくミステリーの部分もあるのだな。

 読み進めるうちに、「怖がらせようとする部分」とは別のところで話が思わぬ方向に展開し、秘められていた出来事がどんどん明るみに出てきて、それがストーリーに厚みを持たせる。物語が骨太になると、ホラーとしての完成度も上がる。物語の構造としてすごくよくできているのである。

 まとめサイトで有名な怪談…というと思い当たるものがいくつかある人、俺は、ああいうのをけっこう熱心に読んだクチなんですが、同じような経験をお持ちの方は読んだらきっと満足すると思います。

 ネタバレつきの感想を下に書いています。でも、その前にまず読んじゃって、と言いたい。あらためて、とても面白かった。おすすめです。

ネタバレありの感想について

 ここからネタバレありです。未読の方は、できれば読了後に読んでください。

 

 面白いからネタバレを見る前に本作を読んじゃって…と書いておきながら、罠にかけたようで恐縮なんですが、第三章からの展開はちょっとガッカリであった。

 第二章までは本当にすごく面白かった。

 なにしろ、オバケ「ぼぎわん」がもたらす絶望感はマジすごかった。

 余裕こいてた歴戦の霊能者がクソびびらされた挙げ句あっさり血祭りにあげられるところ、展開としてありがちなのは間違いないけど、描写が優れているため、「ベタだなー」とか思うこともなく、しっかりちゃんと恐ろしかった。

 また、第一章、第二章の締め方には驚かされた。

 各章の終わりの衝撃に、あれ? この小説は単にネットの怪談に肉付けしてブラッシュアップしただけの作品じゃねえぞ、と思った。これはもう話がどこに転がっていくかわからんぞ、と。

 第二章が終わった時点では、この作品はよくある怪談のパターンをあくまで最初のフックにしつつ、それを飛び越えてまったく新しい物語を書こうとしているのではないかと、そういう可能性を感じていた。

 それだけに、第三章で霊能者 琴子が出てきてからのストーリーは少し残念だった。

 琴子、出たときからもう強キャラ感がハンパなかったもの。噛ませにするためにあえて立ててるとかでなくて、もう出たときから勝ち確なのがわかってしまったもの。

 この時点で「ぼぎわん」が、完全に正体不明なおそろしい異物ではなく、怖いけど最後に負けることがわかるただのオバケになってしまった。

 最終決戦も、第一章、第二章にあったような非力な人間が理不尽に蹂躙される不気味さを失い、よくあるバトルアクションになってしまった。

 もったいない、と思う。

 途中までは、よくある「あんたすごいの憑けてきたね…」ものにおさまらない、何かとんでもないことが起こっている、と思っていたのに、最後はありがちなパターンの中に結局回収されてしまった。

 それでもめっちゃ面白かったけども。だから、「あんたすごいの憑けてきたね…」レベル100。記事のタイトルはそういうことです。同じ作者の次の作品も読んでみようかな、と思いました。

 あと、映画化するんですね。中島さんは小松菜奈松たか子と妻夫木くん好きなんでしょうか。

 面白そうだけど実写で「ぼぎわん」観たらたぶんしょんべん漏らすので観るかどうかは検討します。以上、よろしくお願いいたします。

 

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

 

 

シャチの挨拶と菩薩の拳、あるいは0.9でもいいじゃないかと思うことについて

はじめに

www.cnn.co.jp

 シャチがハローと言ったようである。

 本人は自分が何を言ったのかわかっていないらしい。しかし、人間にハローと言うと人間もハローと返してくること、人間が遠くにいるときにハローと言うと人間がこっちにやってくることがわかったら、自分が何を言ってるのか、なんとなくわかってくるのではないかと思う。

 人と人がしているように、ハロー、ハローで人とシャチが挨拶ぐらいはできる日がいずれ来ると思う。

 

0.999…を求める愚地独歩と俺たち

 愚地独歩が小さいときに、自分の書いているものがいつか「1」になると思って、ひたすら紙をつなげて0の後ろに999…と書き続けていた。

 それはお前、ならないって気づけよ、と思う。思うが笑えないのは、俺もいつか「1」になると思って、あることを続けている。というか、俺だけじゃなくてみんな続けていると思う。

 俺と俺以外の人間の間に一枚の膜があって、この膜は相手との関係によって薄かったり厚かったりするが、ともかく誰との間にもあって俺と俺以外を隔てている。

  例えば俺が俺の思っていることを相手に伝えようとするとき、俺はそれをできるだけうまく伝えるためにいろんな表現や方法を使う。

 できるだけ、というのは実は謙遜で、方法がうまくハマって相手がそれをうまく受信できれば、俺の思っていることは完全に伝わる、つまり「1」になると心のどこかで信じている。だから頑張って伝えようとする。0.999…。

 実際、説明のしかたがうまくいったり、話を聞いてくれる相手が俺と興味や知識を共有している場合、俺は自分の思っていることが限りなく完璧に近い内容で伝わったことを実感することがある。

 じゃあそれはいつか「1」になることがあるのか?

 俺はたぶんないだろうと思う。

 どれだけうまく伝わっても、たぶんどこかが欠損しているのだろうし、というか、本当に「1」伝わったのか相手の心を切り開いて確認することができないというだけでも、その時点でそれはもう「1」ではないのだろう。

 俺は愚直に0.999…を繰り返して、いつか「1」になると信じている。でも、その一方でそれが果たされることがないのも知っているのである。

 

シャチと挨拶を交わすとき

 シャチにハローと言われたら俺はたぶんビビる。ビビるが、そんなに悪い気はしないと思う。

 俺にハローと言うときシャチは機嫌がいいのだろうか。それとも俺のことを心配してくれたのか。あるいは単に暇だっただけなのか。

 わからないが、とりあえず俺もハローと返すだろうと思う。何かが伝わることなんか期待しないで、単にシャチと言葉を交わした愉快さだけが残る。

 そこは0.9の先がない、0.9で終わりの世界である。そして、それでいい世界である。

 人間は0.9を1にしようとして言葉や音楽や宗教を作って、その営みは大事であるしたぶんやめることができないのだが、0.9でも別にいいじゃないか、と思う。

 0.9を受け入れることが本当の「1」なのか。そうかもしれないな。

 でも別に上手くまとまらなくってもいいんだ。今後も0.999…を続ける。続けながら、0.9だって別にいいじゃないかと思っている。

 

加入したまま忘れていたAmazonプライムの年会費を返してくれた件について

はじめに

  今日クレジットカードの請求書を見ていたらAmazonプライム年会費3,900円という項目があって、「ありゃ?」と思う。

  記憶を懸命にほじくり返した結果思い出したのは、以前Amazonで買い物をしたときに、プライム会員のひと月無料キャンペーン中で加入を提案されたことと、確か試しでそれに加入していたことだった。

  やっべえ。完全に忘れてた。

  あれ以降買い物もしていないし、プライムビデオも観ていない。入った意味がまるでないまま、マネーが発生してしまった。

  ひとつ言い訳をさせてもらうと、「そろそろ無料期間が終わりですよ〜」とか、「ここから料金が発生する期間ですよ〜」とか、そういう連絡がAmazonからなかったのである(たぶん)。

  それはだから思い出すわけねーよ、と思う。思う一方、じゃあお前がAmazonだったらその言い訳聞くか?  と考えると、たぶん聞かねーな、と思う。

  加入したの忘れてた?  知らねーよそんなこと。ごろついてねーでとっとと金払えや、となるだろう。

  少し考えた結果、ダメ元で照会をかけることに。「忘れちゃってたんすよぉ、なんとかなんないすかねぇ」つって。

 

Amazon、返金に応じてくれる。

  驚くべきことだ。その日のうちに連絡があって(この早さにも驚いた)、返金してくれるという。

  Amazonすげえ、と単純にも思ってしまった。

  クレームの対応は逆にファンを増やすチャンスだという(俺の注文はクレーム以下のポンコツぶりだけど)。

  俺なんか、仕事でクレームを受けるときなど「うるせえんだよこの野郎、早く死ね」というのを社会通念に照らして翻訳した言葉で伝えるだけだが、Amazonは違った。人や資金にそれだけ余裕があるからこそできること、なのかもしれないが、あっさり感動させられてしまった。すごいぞAmazon

 

  というわけで、感動すると同時に同じことで困っている他の人がいるかもしれないから、参考としてここに記して残しておく。

  注意、この記事の主意は「そういうことがありましたよ」という報告だけであって、他の事例でも同様の結果になることを約束するものではない。

  また、Amazonに対して、今後も他のカスタマーに同じような対応をしろよ、と圧をかけるつもりもない。

  単に、特に客単価も高くないいちユーザーとして感激することがあったから、同じ状況の人は気軽に聞いてみたらどうっすかね、ということなので、以上、よろしくお願い申し上げます。

乙でした。『へうげもの』最終巻、25巻の感想について

はじめに

 第1話で、松永久秀という武将が平蜘蛛という家宝の平たい釜を抱えて自爆して、城ごと釜が爆散。主人公・古田織部は飛散した破片を鎧を着たままダッシュで追いかけて空中キャッチしていた。
 なんだこれは…すげえと思うしかなかった。
 その後、信長が自分の血で茶を淹れたりとか、千利休が最期の瞬間まで茶の鬼だったりとか、秀吉が狂った王様になって悲しくて恐ろしくって愛おしかったりした。
 あと、明智光秀石田三成。それまで俺は光秀は単なる裏切り者で、三成は関ヶ原で負けただけの人だと思っていた。
 本当はこんな魅力的な人たちだったのか…。いや、実際はどうか知らないが、漫画のキャラクターとしてこうも目が離せなくなる人物が次々出てくるのはなんなんだ。
 すごくあり続けた『へうげもの』が終わりました。お疲れ様でした。
 

最終巻の感想について。

 大阪の陣で豊臣が崩壊し、清廉を大正義とする徳川一強の世になる。そこにいくらかの侘びと楽を残そうとする織部と、清き世を固めるべく織部に腹を切らせようとする家康の因縁がこの巻で決着する。
 いろんな人物が出てくるが、織部憎しの執念の鬼となった家康を説得するべく、三浦按針や息子である秀忠、家康の密かな想い人であるねねが登場するくだりがすごくいい。
 結局、親子の関係でも恋情でも家康を翻意させることはできない。織部と家康の対立は、かの有名な風神雷神図屏風にもなぞらえて、最高潮に緊張したところで織部の切腹を迎える。
 
 二人の決着は、これはすごい答えの出し方だと思った。
 笑ったら負け、という秀吉の名言どおり、まずは主人公である織部が一本取っているけど、その勝利のきっかけになるところに、ライバルであり一本取られた側である家康の影響をからめてくるのがすごかった。
 織部の洒脱と家康の無粋と、互いに互いを超えようとし続けてのあのラストなのか?  と深読みしたくなる。
 
 芸術家である織部と為政者である家康が最後に戦わせる問答もすごかった。
 家康は、人間とは単に知恵のついた猿であるという。
 好きにさせればいつまた戦乱の世のように互いに傷つけあうかわからないから、清い理念のもとで厳格かつ一元的に管理するしかないという。
 ちなみに、知恵がついた猿云々というのは元々は秀吉の発言で、自分より先に王になった男に、家康が密かに影響されているのがわかる。
 家康は他にも光秀も多大にリスペしているのだが、一方の織部も、秀吉、信長、利休の多大な影響のもとに、当世最大の反逆者としてのいまの自分をつくっている。
 二人が、ひとつのオリジナルな個人であると同時に、偉大な先人たちのハイブリッドとしてもここに立っていることがわかるのが、この漫画のすげえとこであると思う。
 で、家康の主張に対して、織部は猿のように好き勝手生きられる自由さからは世の中を面白くするもの、楽しく生きていけるようにするものも生まれるだろう、面白さを欠いた世の中に生きる理由などあるのか、という。
 ここには、「安全に」生きることと「自由に」生きることの両立の難しさがあると思う。
 一方が勝ちすぎた世界はきっとどこかで破綻するので、バランスを取らないといけない。
 悲劇なのは、双方を代表する立場である家康、織部たち自身は、軽々に相手サイドに理解を示すことができないということである。相手の主張もわかる、と気軽に言ってしまうと、自分たちサイド全体の覇気、パワーが落ちるから。
 そういう、一つの立場の急先鋒に立ってしまった者の運命はどうしても苦しいものになると思うけど、それで言ったらあのラストは救いがあった。よかった。
 あと、もちろん『へうげもの』はフィクションなのだが、日本史に実際に、質実と享楽にそれぞれ殉じてきた人たちがいたからこそ、いまの日本は間違いなく安全で、かつそれなりに楽しい国でいられているのかな? とも思ったりする(ここは異論があるかもしれないけど…)。
 

おわりに

 ちなみにネタバレをすると、最終回には織部が出てこない。しかし、存在がすこんと抜けているために、かえって世の中に及ぼしたその影響がしのべる気がする。
 
 そういうわけで、最終巻、とてもよろしかったです。これまで単行本はすべて単一色のカラーリングだったのが、はじめて緑と白の二つの色が使われています。大変よい調和かと思います。あらためて、長期連載、本当にお疲れさまでした。
 完結記念に、個人的な名場面集の記事とか書こうかな?

夢について

  自殺した有名なミュージシャンが作ったある曲がリバイバルされて、最近いたるところでかかっている。

  曲はCMや映画のタイアップに使われたり、今のアーティストにカバーされたりして、耳にしない日がない。

  俺は死んだミュージシャンのこともその曲のことも好きだったので最初はなにか嬉しい気持ちだったが、度を越していつまでも聴かされ続けるので、段々いらいらしてきていた。

  曲はずっと止まずに誰かによって歌われ続けた。それで、もう俺は、しばらく耳聴こえなくていいかなあ、と誰かに言われたのか、それとも自分で思いついたのか、とにかくそれもそうだなあ、と思い、気づいたら細長い紐にとげが生えたような器具を自分の耳に入れていた。

  くるくるやっているうちに鼓膜が破れたようで辺りから音がすうっと抜けていくのがわかったが、どうも耳のさらに奥にある三半規管まで傷つけてしまったらしい。方向感覚を失って倒れ、その場でもがいている間に視界が歪んで、やがてぐにゅうと床に引き込まれるような感覚があった。

  箱や荷物が狭いところにたくさん置かれて山のようになった、倉庫のようなところで目を覚ました。荷物の山の真ん中にはぽっかりとスペースが空いていて、そこに俺ともう一人、あの自殺したミュージシャンが、木箱の上に座って俺のことを見ていた。

  よう、と彼が言った。

  あなたはもう死んでるはずですよね、と俺は聞いた。

  そうだよ。死んでるよ。と彼は答えた。  「でもそんな細かいことどうだっていいだろ?」

  ここはどこですか?と俺は続けて尋ねたが、ミュージシャンは笑ったまま何も答えなかった。

  彼は、やがて手にしたギターで一つの曲を演奏した。それはこれまでに一度も聴いたことのない曲だった。なかなか良いと思ったが、不思議なのは、曲が終わって、その余韻の中でそれがどんなメロディだったか思い返そうとしても、何も思い出せないことだった。

  「新しい曲を作っても、ここでは誰も覚えていられないんだぜ」

  ミュージシャンはそう言った。「録音することもできない。もちろん、それを売り物にすることも」

  だから、俺もここでなら音楽を嫌いにならずにすむんだ。彼はそう続けて、また新しい曲を、おそらくいまはじめて生まれた曲を演奏した。

  それは、とても良い曲だったはずだ。なので、いまそのメロディを覚えていないことをとても残念に思っている。