シャチの挨拶と菩薩の拳、あるいは0.9でもいいじゃないかと思うことについて

はじめに

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 シャチがハローと言ったようである。

 本人は自分が何を言ったのかわかっていないらしい。しかし、人間にハローと言うと人間もハローと返してくること、人間が遠くにいるときにハローと言うと人間がこっちにやってくることがわかったら、自分が何を言ってるのか、なんとなくわかってくるのではないかと思う。

 人と人がしているように、ハロー、ハローで人とシャチが挨拶ぐらいはできる日がいずれ来ると思う。

 

0.999…を求める愚地独歩と俺たち

 愚地独歩が小さいときに、自分の書いているものがいつか「1」になると思って、ひたすら紙をつなげて0の後ろに999…と書き続けていた。

 それはお前、ならないって気づけよ、と思う。思うが笑えないのは、俺もいつか「1」になると思って、あることを続けている。というか、俺だけじゃなくてみんな続けていると思う。

 俺と俺以外の人間の間に一枚の膜があって、この膜は相手との関係によって薄かったり厚かったりするが、ともかく誰との間にもあって俺と俺以外を隔てている。

  例えば俺が俺の思っていることを相手に伝えようとするとき、俺はそれをできるだけうまく伝えるためにいろんな表現や方法を使う。

 できるだけ、というのは実は謙遜で、方法がうまくハマって相手がそれをうまく受信できれば、俺の思っていることは完全に伝わる、つまり「1」になると心のどこかで信じている。だから頑張って伝えようとする。0.999…。

 実際、説明のしかたがうまくいったり、話を聞いてくれる相手が俺と興味や知識を共有している場合、俺は自分の思っていることが限りなく完璧に近い内容で伝わったことを実感することがある。

 じゃあそれはいつか「1」になることがあるのか?

 俺はたぶんないだろうと思う。

 どれだけうまく伝わっても、たぶんどこかが欠損しているのだろうし、というか、本当に「1」伝わったのか相手の心を切り開いて確認することができないというだけでも、その時点でそれはもう「1」ではないのだろう。

 俺は愚直に0.999…を繰り返して、いつか「1」になると信じている。でも、その一方でそれが果たされることがないのも知っているのである。

 

シャチと挨拶を交わすとき

 シャチにハローと言われたら俺はたぶんビビる。ビビるが、そんなに悪い気はしないと思う。

 俺にハローと言うときシャチは機嫌がいいのだろうか。それとも俺のことを心配してくれたのか。あるいは単に暇だっただけなのか。

 わからないが、とりあえず俺もハローと返すだろうと思う。何かが伝わることなんか期待しないで、単にシャチと言葉を交わした愉快さだけが残る。

 そこは0.9の先がない、0.9で終わりの世界である。そして、それでいい世界である。

 人間は0.9を1にしようとして言葉や音楽や宗教を作って、その営みは大事であるしたぶんやめることができないのだが、0.9でも別にいいじゃないか、と思う。

 0.9を受け入れることが本当の「1」なのか。そうかもしれないな。

 でも別に上手くまとまらなくってもいいんだ。今後も0.999…を続ける。続けながら、0.9だって別にいいじゃないかと思っている。