植物すごいぜと思うことについて
昨年末に植物の鉢を一つ買った。
きっかけは、BRUTUSで植物の特集をやっていて、アホのようにそれに影響されたからである。ちなみに、この特集自体はしゃれおつな写真とわかりづらい専門用語ばかりの解説とあたりさわりのない紀行文とが寄せ集められた、いかにも編集者が手クセで仕立てましたというようなろくでもない出来だった。少なくとも俺にはそう感じられた。猛省されたい。
にもかかわらず、ともかく俺は植物の鉢を買った。そして、ほどなくして植物は枯れた。というか、生えていた葉にどうも元気がないな、と思って観ているうちに一枚落ち二枚落ち、最後は幹だけ丸はだかになって、枯れているとしか見えなくなった。
俺はあきらめ悪く、日があたって湿気が多いところに行けばもしかしてと思って、地獄の底のような俺の部屋から日があたる風呂場の窓辺へと植物を移した。植物はしばらくじっとしたまま黙っていた。
これに再び葉が生えることがあったら、それは元気になるという次元の話ではない、文字どおりの復活という言葉がふさわしいと感じられた。
植物が吸っているのか、単に蒸発しているだけなのか、土だけはちゃんと乾いて白くなるのでその度に水はやっていたが、それ以外は何もない日が続いた。あるとき、俺はこれで枯れているのがわかったら諦めて捨てようと思い、鼻毛を切るための小バサミで植物の幹の頭を薄く切って落とした。
すると、固く乾いた表皮の内側に緑色の芯が広がっているのがわかった。死んではいないのである。やがてその芯は徐々に鮮やかさを失い、他の部分と同じく茶色に乾いてしまったが、ともかく死んではいない。
ただ、一方で生きていると言えるかというと、それは動物や草木と言えば青々と茂ったものばかりイメージする俺にとって、「生」という言葉の意味を見直す必要があるというか、多少戸惑うところがあるというか、要は考えるのがめんどくさい部分だった。
植物は俺の考えなど意にとめず、ある日幹の頂点に薄い緑色の点を二つ、唐突にぼやけたように浮かべた。俺はおっ、と思いつつ、まあ気のせいかも知らんし、とも思った。それでも無意識に植物を眺める頻度は増してしまい、そしてその目の前で、緑の点は徐々に濃さを増していった。そして唐突に(すべてが唐突なのである)、音を立てるくらい力強く、二つの若葉がにょきにょき生えてきた。
死んだと思っていたものが芽を吹いたのだからこれは地方版タンホイザーと言ってはばかるつもりもないが、その驚きもさめてあらためて植物を見てみると、こいつらはどうも変である。
というのは、芽が生えたということは植物自体の体積も当然増加したということだが、俺が植物に与えたものというと水と日光だけであって、たとえば俺ら人間が成長したり太ったりするときに関係するとイメージされるところの固形物など一切与えていないからである。
要は、こいつはどうやってでかくなり、そもそも一体何でできているのだ?
そう思って調べたところ、インターネッツというのは本当に便利で、植物も俺らと同じように細胞はたんぱく質、繊維質は炭水化物からできていて、それぞれ地中から吸い上げたり光合成により吸収した二酸化炭素を使っていることがわかった。
光合成の方はまあなんとなくわかるが、地中の窒素?
じゃあ土が俺も気づかんけどその分微妙に減ってんのか? それとも量自体はそんなに必要じゃないのか? とあんまり腑に落ちていないが、まあ事実として、人や動物でいうところのメシ、他の生き物の肉も他の植物も食わないで成長するメカニズムなのである。知識としては中学生の理科の範囲なのだろうが、この体験をとおしてはじめて実感として理解できた。
そういうわけで植物はいま4~5cmほどの葉を二つ、勝手に生やかしている。
勝手に、と感じられるのは、植物というのはどうもおかしなもので、育てられているとか俺の庇護下にあるという感じがまったくしないで、平然として俺から切り離されているように思えるからで、これは残酷な想像をして俺が世話を放棄したり鉢を叩き割って中身を土ごと踏みにじっても、そこに動物的な意味での感情の揺れ動きはまったくないように思える。
ただ、俺が感知できない、言葉にできないところで何かが起きる気はする。それがなんなのかよくわからないが。
また、例えば俺が植物を踏み潰して火をつけて徹底的に破壊してしまうとき、俺や動物や虫の命がぽっと消えるのとはまた違う意味で、何かしらの消失がこの世界で起きる気がするのだが、それがなんなのかも、なぜそう感じるのかもよくわからない。それは文中で書いた「生」の意味の見直しをするとわかる…かもしれない。おわり。
カブトなし。クワガタほぼなし。それでよし。『きらめく甲虫』の感想について
昆虫が好きなのだが子供の頃はもう今の比ではなくて、狂ったように山野を網を振って走り、即席のヒシャクのような道具をこしらえて水中をかき回したりしていた。
昆虫にも色んな種類がいるわけだが、そんな当時、甲虫の特別さときたらすごかった。花の中に全身を突っ込んでむぐむぐやっているハナムグリだとか田んぼをすいすいやっているゲンゴロウだとか、その流線型の体、つややかな表皮など、「生き物は美しい」という感慨を俺に最初に与えたチャンネルは甲虫であった気がするし、日本のカブトムシのサイズを鼻で笑って圧倒的な海外カブト勢など、「どうも世の中ってのは俺の想像を超えて広いらしいぞ」と小学校低学年のクソガキに思わせた最初のきっかけも、これまた甲虫であった気がする。
という前置きをふまえて『きらめく甲虫』の感想である。
表題のとおり、甲虫と題しているがカブトムシは出てこないしクワガタムシもほぼ出てこないのだが、将棋で言う飛車角を落としてそれでも満ち足りた読後感があるのがすごい。タマムシだけどなんか毛みたいなん生えてるやつとか、ハムシの後ろ足の主張がえぐいやつとか、わりと甲虫について知っているつもりの俺でもなんじゃこいつっていうのがけっこう出てくる。
表紙を見てもらうとわかるとおり、写真も美しくて見ていて飽きない…だけでなく、種別の拡大写真を載っけられて肉眼だと同じキラキラだけど顕微鏡レベルだと質感が全然違っていてその理由は一体、みたいな疑問もわいてきて楽しい。
本書によると、甲虫は地上で最も繁栄している生き物であるという。これも本書で得た知識だが、あのきらめく硬い羽が外気の温度から内臓を守ったり空気を溜めるのにひと役買ったりするおかげで色んなところで生活できるようになった。
昆虫全体が地上に約100万種いるそうだが、うち37万種は甲虫によって占められるそうだ。地球は昆虫の星、という言説はよく聞かれるが、そのうちの最大勢力ということになる。つまり音楽業界の頂点をスピッツだとするとその最高傑作は三日月ロックであるから、甲虫≒三日月ロックのファン、というようなことである。なお、この例えはわかりにくい上におそらく敵しか生まない。自覚はある。
そういうわけで、もうヘラクレスとかネプチューンとかゴライアスとか横目で見て終わり、という中級者以降に、ぜひ読んでほしい本であった。もちろん昆虫ビギナーにもすすめます。おわり。
友人同士のお笑いコンビについて
友人同士で結成されたお笑いコンビが好きで、コンビ仲など良いと大変ほほえましい。ダウンタウンとか。さまぁ~ずとか。
実際のところはそうずっと仲良くもしていられないと思うのである(さまぁ~ずは本当に仲よさそうだけど)。
ファンの人に具体的な仲良しエピソードを挙げられて、「だから二人はずっと友達の延長線上でお笑いやってるんですよ!」と力説されたらあ、そうっすか…と尻尾を巻くしかないんだけども、大人になってそれぞれ付き合いも複雑になってどんどん新しい遊びを覚えて、新しい恋人も家族もできて…ってそりゃ自分と隣に立ってる男だけ前と同じあり方のまんま、友達のまんまとはいかんだろう、と思う。
ただ、友達由来のコンビがきっと強い特定の瞬間というのがあるだろうなあとも勝手に想像していて、そこはやっぱり相手との関係の起点が好きという感情から始まっているということ、こういうのがいざというとき強いんじゃないかと思う。
例えばお互い忙しい時期が続いて殺伐とするとき、もしくは舞台の上でとっさの機転が要求されるとき、相手との関係性の根幹が損得勘定や理屈ではなく友情である(友情であった)というのはある意味お互いの弱みと命綱を握りあっているようなもので、こういうのが強いんじゃないかしらん。危機でかえってヒビが入ってしまうこともあろうが、そうじゃないかしらん、とダウンタウンが二人でへらへらしながら浜田が松本をどついているのを見ながら思うのであった。
映画版『無限の住人』の感想について
はじめに
主な感想
あえて批判を挙げるなら次のようなことでしょうか。
俺はへそが思いっきりひん曲がってついているので、映画化作品において原作の内容を守るのって、まあ本家に対する敬意も当然あるでしょうけど、とかく実写に対してひと言言いたくなる原作派を黙らせるための方便でもあるよな、とか思うわけで、後半の大乱闘を除けばほぼ原作に忠実であったこの映画に正直その「方便」を感じないでもない。特に前に触れた槇絵の扱いは、あれをあえて取り込むのはけっこうクサいな、と思う。
細かい話
さまぁ〜ずの三村があるとき「金玉」という言葉についてふと考えてみて、「これ字義をふまえてあらためて考えてみると実はいい言葉だよなあ。全然下ネタじゃないよなあ」と思った後、ここまでの思考の流れを一切説明しないままそのとき横にいた女性に急に「ちょっと金玉って言ってみて」と声をかけた、というのは単に俺がエピソードとして大好きというだけでこの映画と全然関係ないんですが、「万次」のイントネーションって皆さんは「卍」そのまんま、例えば「漢字」とかと同じだと知っていただろうか。卍さん。俺は「三時」や「甘美」と同じだと思っていたので、映画でこれを知って少し衝撃だった。
俺がこの映画を良いと思う理由の一つは、『無限の住人』のキャラクターは傷つき何かを失ってある意味ちょっとイッちゃってから良さを発揮するやつばっかりだな、というのに気づかされたからである。
例えば、福士蒼汰の天津は、率直に言って最初は天津のコスプレをした福士蒼汰でしかなかったが、戦闘のさなか段々血みどろになって手にした得物の重たさが観客にも伝わるようになってきて、本当にそこに天津を感じるようになった。よく考えれば天津も敵方の大ボスにもかかわらずよくボロボロになるキャラだった。
髪を断ち落とす戸田恵梨香の槇絵も、途中で白髪になり隻腕になる市原隼人の尸良も、見慣れた姿になって「やっぱこっちの方がしっくりくるよな」と思った。そして同時に、「そうか、無限のキャラってそんなんばっかか」と思った。
こういう生き残るためのいたし方なさみたいなのが彼らの魅力か、というのは、映画をとおして気づかされたことである。そんな発見も含めて、まあ実写化の常ですから批判も当然あろうが、一人の原作ファンにはちゃんと楽しめたぜ、という報告であり感想でした。吐がオニギリを食ってても気にならない人は(観てないとなんのこっちゃわからないけど)、行かれたらよろしいかと思います。(おしまい)
原作未読の方は↓。映画よりももっと残酷で、あらすじも複雑で、漫画ならではの美しさ。おすすめです。
悪夢について
アレクサンドロス、この圧倒的捕食者。『ヒストリエ』10巻の感想について
※以下、作品の内容について激しくネタバレしています。注意。
はじめに
表紙をめくって現れた絵を見て、思わずそのまま見入ってしまった。
顔と体に敵兵の血を浴びたアレクサンドロス。その表情が、もうなんか凄い。こいつとはもう話が通じないというか、こいつの前に立たされた時点で死亡確定感がハンパじゃない。
感想について、って記事の題名に書いたけど、あんまりストーリーの内容とか触れない。ただもう王子がヤベェ。そういう話。
アレクサンドロス、この圧倒的捕食者。
新刊が出るたびに「あれ、俺どこまで話追ってたっけ?」となる恒例行事を無事済ませ、いざ『ヒストリエ』10巻。
ストーリーは主人公・エウメネス属するマケドニア軍と、敵軍であるアテネ・テーベ連合とが激突するカイロネイアの戦いにて、マケドニア王子・アレクサンドロスが一番槍で敵陣に突っ込んでいくところから始まる。
王子は王子なので周りは当然そのケアに気を遣うんだけど、王子は父親であるマケドニア王からも病気呼ばわりされる…端的に言うとイっちゃってる人なので、愛馬を駆って文字通り先駆けし、そのままなんと敵の列をぶち抜いてしまう。
そしていわゆる無双が始まる。アレクサンドロス無双であり、岩明均的強キャラ無双である。
戦闘シーンを描く漫画においてその作品世界における強キャラの強さを、ヤバさをどう表現するかは大きな問題で、多くの作家さんたちがその方法を試行錯誤してきたわけで、それで俺はその中でも、岩明均は強キャラを描くのがめちゃくちゃ上手い作家だと思っている。
この人の漫画の強キャラは、別の作家・森川ジョージの表現を借りると、他のキャラクターと「流れている時間が違う」気がする。
たとえば狩る側が狩られる側をロックオンする。攻撃する。体を武器で撃ち抜いたり、首を落としたりする。
このとき、狩られる側には自分が標的にされているという意識が表情にない。別に狩られる側がノロマなわけではなくて、意識が追い付いていないのだ。岩明均の描く「怪物」の動く速度に、狩られる側の弱者はまったく対応できない。
ヤバいと思った時には相手のモーションが終わっている。もうやられていて致命的な損壊を体に負っているのだが、まだ痛覚が追い付かないのでなんだかポカンとしている。そして、痛みがやってくる前に絶命している。
狩られる側が本来持っている命の時間の流れというか、ある種の尊厳みたいなものが、戦場において強キャラにあっけなく蹂躙される。圧倒的な速度を持つ強者に生殺与奪の全権限が集約され、弱者は自分の命の扱いについてさえ主権をとれないというか、バカみたいな感じになってしまう。
その理不尽さ。にもかかわらず、これはフィクションの中だけではなくて、なんとなく実際の戦争も殺人もそういうものかもな、と思わせる説得力が岩明均の殺陣にはある。
というわけで王子は思うがまま馬上から敵兵の首を狩って落とす。上で口絵の表情ヤバすぎ、と描いたけど、本編で剣を振りかぶってるときの顔も同じくらいヤバい。すごく静かで、でももう間違いなく話し合いとか絶対成立しない。
黙って殺しまわってるから怖いのかというと喋っても怖くて、王子は敵陣ではしゃぎすぎて携行していた剣をすべて折ってしまう。なのでしかたなく馬を降りて、まだ大勢生き残っている他の敵兵の前で、淡々と自分が殺した敵兵の武器を集め始める。
自分を見てヒイている敵の顔を見て、王子は自分の行為を弁解する。
敵兵、もっとヒく。
敵兵の気持ちがよくわかる気がする。王子の口上の内容がおかしいのではなくて、単騎でこちらに突っ込んできて相手を殺しまわった奴が、敵に包囲された状態で悠然と自分の行為を説明していることがおかしい。
だけど、これが相手の中ではちゃんと理屈が通っているらしくて、そして忘れてはならないことに、生物の格として、どうやら相手は圧倒的な捕食者、こちらはこれから喰われるのを待つだけの存在である。
これは恐怖しかないだろう。で、なんかマゾっぽいけど、俺はこの際この殺される側の恐怖に共感して楽しんだ。俺も王子に強襲され、なで斬りにされ、王子の演説にヒいた。
要は、読者にも殺られる覚悟を嫌でも決めさせる迫力が今巻の王子にはあったということだと思う。
あとは巻の後半でエウメネスのロマンスとか。
ちょっと王子の余韻がすごすぎたんでその話ばっかりしちゃったけど、「私のため」「俺のため」と、お互いあり余る感情を、相手を試すかのように短い言葉に表してみせ、1コマずつ刻まれるその表情とか、なんとかなるようでならないのか、本当にならないのか、と揺れ動く心情とか、とてもよかったと思います。
おわりに
月並みな感想だけど、とても面白かった。他方、死ぬほど面白いものを作るのにはやっぱり時間がかかるのかなあ、とかも思った。
マケドニア軍の軍人たちとか王子の学友たちにも魅力的なキャラクターがたくさんいて、あ、この人らとエウメネスとまだ絡ますんすか、楽しそうだけどもっと話進まなくなりませんか、という、ワクワクと「マジで完結前に作者死ぬんじゃねえ?」な危惧がごっちゃになった複雑な気持ちになったりした。
とりあえず、以上、王子ヤベェの話でした。2年後にまた会いましょう。(おわり)