マジメになっていく俺たちの中から天才という人種はそのうちいなくなることについて

  いきなりでなんだけど、才能とはなんだろうか。みなさんはなんだと思います?

 

  俺は、才能とは倫理観、マジメさのことだと思う。あえてそう言い切る。

  他者への想像力をちゃんと働かせること。

  社会で幅を利かせる欺瞞に対する鋭い嗅覚。

  そして、そういう気づきを抱いた人間に対して、それを鈍磨させようとする様々な娯楽や社会的な煩雑さをかいくぐり、疑問を持って生き続けること。

  こうした姿勢はあらゆるクリエイターの根底に根付いていると思うが、これが、マジメさでなくて他のなんだろうか。

  人によってはそれを言葉にして小説にしたり、目に見えるマンガや映画にしたりする。

  あえてそれを笑いに変える漫才師になる場合もあるだろうし、毒にも薬にもならない消耗品へと適当に調理し、小金を稼ぐこともあるだろう。

 

  いずれにせよ、そうしたものの根幹にあるのはマジメさなのだ。

  マジメさが才能というものを支えている。例え、その持ち主がマジメとはほど遠い人物に見えたとしても、それはマジメさから獲得した風景をわざと反転させたり、茶化しているということだ。

 

  さて、俺は以前ある本を読んだ。『暴力の人類史』という題名の本だ。

  そこには、ちょっと聞いただけではなかなか信じることが難しい、なかなか刺激的なことが書いてあった。

  どんなことかというと、なんとこの世界で、差別、殺人、テロリズム、戦争といった規模の大小を問わないあらゆる暴力行為は、統計的に減少している傾向にあるというのだ。

 

  ネットでときどき聞く、ワイドショーにどっぷり浸かった情報弱者をあざ笑うための質問の一つに、「戦後、少年犯罪は増えているか、減っているか」というものがある。

  答えは「減っている」。

  しかし、主な情報の入手先がテレビや週刊誌しかない人たちは、煽情的な報道にさらされる中で、いかにも犯罪が増加し、凶悪化しているような印象を受けてしまう。

  メディアが選別するニュースから受ける感覚は、統計が示す実態とかくも離れている、という話だ。

 

 それでも、世界規模で暴力行為が減少している、という説には、かなりのインパクトがあるのではないだろうか(検証は必要にしても)。

  報道を通して見えてくるこの世界には、常にどこかで戦火が吹き荒れ、暴動が起こり、差別・対立は煽られ続け、そこに減少の兆しなんて一片もないように見えるのに。

 

  しかし、(あくまで統計的には)この世界は平和になりつつあるらしい。

  これまでの世界が酷すぎたのであって(『暴力の人類史』で描かれる近世近代は完全に地獄の世界だ)、それと比較して良くなっていても、世の中はまだまだ酷い、という考え方はあるだろう。

  しかし、どうやら世界は少しずつ良い方に向かっている(数字上は)。

  言われてみれば、かつて現代ほど、多人種への差別、弱者への支配が糾弾され、外国の圧政や為政者の不正が批判された時代は、実はなかったのかもしれない。

 

  では、その理由は何なのだろう。

  科学の発達。たぶん、それもある。

  文明によって最低限の生存が保障されたことで、人間はお互いを、破壊し奪う「資源」ではなく、継続的に付き合う「パートナー」であると認識するようになった。その方が経済的、合理的だからだ。

  ただ、『暴力の人類史』は、それとは別の理由があるとも言う。

  どうやら人間という種族の精神自体が、社会の矛盾を批判する思想や他者への想像力を獲得し始めている=マジメになりつつあるらしいのだ。

 

  それも明日の衣食住を心配しなくてもよくなったからなのか、情報の受信・発信の活発化によるものなのかはわからない。

  しかし、俺たちはどうも全員マジメになりつつある(その可能性がある)。

  これまで、天才と呼ばれる一部の作家、芸術家、コメディアンだけがそうであった存在に、追いつきつつあるのだ。

 

  俺が言いたいことはここからだ。

  俺は近い未来に、天才と呼ばれる存在は大勢の一般の中に埋没し、消滅すると思う。

 

  才能とは結局マジメさのことだ。強い倫理観と、透徹した観察眼がその核心だ。

  小説も映画も戯曲もコメディも、消耗品のポップミュージックでさえ、すべてマジメさを通して見つけ出したこの世界の矛盾、欺瞞、ズレが核の役割を担っている。

  クリエイターとはそのズレを創作に変換する存在だ。そして、彼らがどれだけ無頼や露悪を気取ろうと(「フマジメ」を装おうと)、一流ならばその根底にはマジメさがある。フマジメはマジメの反転に過ぎないからだ。

 

  天才のコアであるこのマジメさを、いま一般人も手に入れつつある。

  一般人が天才に追いつき、世界はいま、平板化されつつあるのだと思う(ただし、高い水準で)。その世界で天才の存在は次第に見えなくなっていき、やがて消滅するだろう。

 

  俺にそんなことを思わせたのは、ある有名人の近況がきっかけだ。

  おそらく大抵の人が知っている人物だと思う。

  その人自身は自分がマジメだとは認めないと思う。でも俺は、誰よりも切実なほどマジメな人だと思う。

  その人のこれまでの言動は、だからこそ、無茶を言っているようで無視できないものがあったし、鋭さを感じさせたのだ。

  その人の最近の発言は、以前に比べてはっきりと精彩を欠く。

  劣化した、という声もある。でも俺は、それだけではないと思う。

 

  その人はきっと、自分がマジメであることを知っていたと思う。しかし、それ以上に、自分の価値はズレから生まれたことも知っていただろう。

  いまや、一般人たちが自分と同じマジメさを獲得していくなかで、その人はズレを生むために、マジメになっていく一般人と逆行したことを言う。

  しかし、マジメさに基礎を持たないズレなんて、妄言にしかならない。だから、いまこの人の言説は、ことあるごとに要点を外しているのだ。

 

  非情な言い方をすれば、これは天才の「断末魔」だと思う。

  マジメな自分とそうでない社会のズレが武器だった人が、その差異が解消されていく中で、ズレを作ろうと袋小路にハマっていくときの末期のあがきだと思う。

  そういう現象がこれからどんどん増えて、どこかの時期を境になくなるんじゃないだろうか。すべての人間がマジメさを獲得したときに。

 

  あらゆる人間がマジメな人格に統一されているというのは、ディストピア的なイメージもある。

  でも、俺はやっぱりユートピアなんじゃないかと思う。そこではもう差別も不正も搾取もないからだ。

  そのとき俺たちが何に感情を動かされ、何に熱中し、笑っているのかはわからないけど。

  何しろ俺たちは、マジメでないからこそ、マジメな人たちが見せてくれた世界の真相に夢中になっていたんだから。

  でもまあ、それはそれでいいんだと思う。どう思いますか?

  以上、よろしくお願いいたします。

  

 

group_inou聴こうぜ、ということについて

  もう完全に、いま自分がハマっているものの話をしたいだけなんだけど。

 

  半年ほど前のある日のこと。

  youtubeのおすすめ楽曲のサムネイルに、やたら濃いアニメーションの妙な曲が登場(その時点ではAC部の存在も知らない)。

  なんだこりゃ?  無視無視、つってしばらく放置していたのだが、延々とポップされ続けるのに根負けしてクリック。

  いま思えば、好きなアーティストのPV見続けてるうちに嗜好を把握されていたのだろう。恐ろしい話だ。

 

  とにかくそれですっかりハマってしまう。

  ノリと疾走感の混交。歌詞はわけわかんないしPVもふざけきってるのに、曲の終盤に襲ってくる、苦しいような謎の切なさ。

  セックスを想像させる言葉が多くて、愛情というものを乾いた目線で冷笑してるようで、ふとときどき、胸を刺すような感じ。

 

  (歌詞は別として)この音楽は何に似ているんだろう?

  あまり思いつかない。思いつかないのがgroup _inouのイカしたところ、という説もありますが、俺が好きな楽曲だとサカナクション。とにかく聴いてて気持ちがよくて、じっとひたりたくなる一方で、体がじっとしてられない感じ。

  そういうわけだから聴いてみてくれってPVを貼っておく。サブスクリプションも解禁されたからみんな聴こうな。

 


group_inou / EYE

 


group_inou / CATCH


group_inou / JUDGE

  どの曲もどこか終わりの気配があって、活動停止した現在から振り返ってみてそれも切ない。でもそこも含めていい。

  以上、よろしくお願いいたします。

善悪がいい加減でよろしい『呪術廻戦』8・9巻の感想について

ネタバレ含みます。注意。


  相変わらず回転がはえーな、と。
  前巻からの呪胎九相図vs.悠仁・野薔薇のタッグマッチが決着、と思ったら一年トリオ三人がいきなり1級呪術師候補に。
  勝手に、今後→2級 →1級とこつこつ登っていく過程が描かれる、そこがストーリーの一つの軸になる…と思っていたら…。あれ? 作者さんの中では昇級とか実はどうでもいい? な感じで、一瞬混乱する。

  ただ、狙ってやっているのかどうなのか、段位に象徴されるようないかにも少年マンガ的なシステムを、登場させた上で高速で回して消化していくところが、俺が『呪術廻戦』を評価している大きな理由なので、それならそれでOK。むしろ良い。


  で、舞台は一転して過去編に。
  五条と夏油に何があったのか。
  五条はいかにして最強の術師となり、夏油はなぜ闇堕ちしたのか。
  読者が気になっていたこうした過去がついに明かされるのだが、こちらもめちゃくちゃ展開が早い。


  五条と夏油が共同であたったとある任務が描かれるのだが、ここに、間違いなく物語のキーパーソンである、伏黒くんの父親が前振りなく敵役で登場。
  あまりにしれっと出てきて驚く。ハンタの会長選挙編でジンがポッと出てきたときも「え、そんな登場?」とかなり衝撃だったが、それに勝るとも劣らない。
  伏黒父のキャラ設定は、呪術が使用できない代わりにステータスは身体能力に全振り、高性能な呪具を装備して挑んでくるスタイル。まあ異能バトルものなら特殊能力なしで戦うキャラの登場はお約束だけど、それをここに当ててくるか、という。


  伏黒父の前に若い頃の五条、夏油(闇堕ち前)と相次いで敗北、と思ったら五条が覚醒して復活し、リベンジマッチで伏黒父に完勝する。
  しかし、二人が請け負っていた任務的には失敗してしまっており、これをきっかけに夏油は「呪詛師」に堕ちてしまうのだった。


  よくもまあ、これだけの連戦を2巻分のスペースに詰め込んだな、と思うんだけど、それは、戦闘マンガの暗黙の了解である「ターン制」が短いからでもある。


  ターン制とは何か。
  基本的に相手の攻勢から始まったのが、
→相手の攻撃パターンを解読、手番がこちらに回り、反撃に転じる(ターンが1巡)
→相手が本気になるなどして、再び相手の手番に
→それをなんとかして見切って再反撃、こちらの勝利(ターンが2巡)
…というのが戦闘マンガにおけるターン制で、多い場合はこれが3〜4巡、しかも手番が移るまでに何週もかかったりする。
  一方、『呪術廻戦』の場合はこれがせいぜい2巡。
  伏黒父vs.覚醒五条のリベンジマッチという大一番に至っては、実質五条が初手で奪った優勢から力業で押し切ってしまうので、1巡さえしていない。早いわけなのだ。


  これだけ高速で物語が動いていて、しっかりした読後感がちゃんとあるな、と満足・感心する。
  その一因かな、と思うのが、記事の題名にも書いたとおり、作中の善悪がいい加減なところである。

 

  前巻(7巻)を読んだときに、俺は半分冗談で「これもう呪霊じゃなくて野薔薇が悪役じゃん」と思った。
  しかし、8・9巻ときてそれもあながち間違いでなかったようで、敵を殺めてしまったあとの悠仁と野薔薇の戦闘後は、正義を果たした清々しさとは程遠い。
  ボスキャラで登場した伏黒父も、悪というよりはビジネスライクな人物。むしろ味方サイドの方が、ある意味おかしくないか? と思わせる部分もある。


  特に印象的だったのは、伏黒父を倒した直後の五条と夏油の会話。
  五条は、(事情はあれど)一般人を自分の能力で殺しても別にかまわない、と言ってのける。
  それは呪術師としての大義に反するからやめろ、という夏油の言葉で殺戮は決行されなかったが、この時点の五条は少なくとも「善」ではないし、なんなら悪になってもおかしくなかった。
  このとき呪術師の存在意義を説いた夏油が、後に一般人の全滅こそ自分の使命だと思うに至ること、善悪などどうでもよかった五条がかろうじて「イイモノ」の方にとどまったのは面白い。
  間違いなく作品のテーマの一つが倫理観なのに、一方で、善悪の境界がぼやぼやしているところ。
  敵味方の陣営が、単なる巡り合わせによっていまのかたちに分かれているに過ぎないところ。
  それが、この漫画がすさまじい速度で進行とショートカットを繰り返しながらも、読んでいて充実感のある理由じゃないかな、と思う。どうでしょう。


  9巻終盤で舞台は再び現代へ。味方内に、夏油陣営への内通者がいるみたいです。以上、よろしくお願いいたします。

 

飛行機で旅行することについて

 12月30日に乗った飛行機は、成田空港から出て韓国の仁川を経由し、エチオピアのボレ空港に到着する便だった。日本人が思ったよりも多く搭乗していたから、エチオピアに行く人がそんなに多いのか、と意外に感じたが、考えてみれば一度韓国に寄るのだから、そちらが目的地なんだろうと思った。
 俺は、飛行機なんて乗り物はだいたい落ちるものだと信じているから、搭乗するまでずっと憂鬱だったし、いよいよ機体が滑走路を走りはじめたときは、乗らなければよかった乗らなければよかった、と頭の中でずっとわめいていた。
 離陸した瞬間から、気持ちを支配していたのは飛行機における「魔の11分」というやつで、どこに向かって心を落ち着けようというわけでもなく、ただ精神が疲れ果てるまで無意味に、1秒、2秒、地面を離れてからの時間を数え続けた。
 
 隣に座っていたアフリカ系の男性から話しかけられたのは離陸してから十数分経った頃だったと思う。
 「どこに行くのか?」 緊張でぐったりしているところにそう尋ねられて、エチオピアだと答えた。その人も、てっきりそうだと思っていたら、男性はナイジェリアまで行くという。母国に里帰りするのだと言った。
 彼は立川で車の部品を扱う仕事をしているとのことだった。日本で日本人女性と結婚し、子供をもうけた。家族はナイジェリアに行ったことがあるのか、と訊くと、まだない、とのことだった。「いつかは連れていきたい。でも飛行機代が高いから」、と。
 
 エチオピアのメケレという街に行くのに、再び、今度は国内線の飛行機に乗る。
 機内の通路を挟んだ反対側の座席に、頭部まで、全身を白い衣装に包んだバアさんたちが乗っていた。エチオピア正教というエチオピア独自のキリスト教派があるが、その人たちかな、と思う。
 飛行機が滑走路を走りはじめたとき、ああ、落ちる、落ちる。またそう思う。ふと隣を見ると、バアさんがむにゃむにゃ何か小声で唱えていた。
 飛行機が落ちませんように。バアさんも神様にそう願っているのか。
 でも、それじゃあ特別信仰を持たない俺と変わらないな…。宗教を持つ人間というのは、こういうとき何を祈るのだろう?
 自分自身の恐怖を横目でにらみつつ、離陸してからしばらく、バアさんを見続けていた。顔をうつむけて祈りを口にするバアさん越しに、窓から機外の光景が見えて、茶色い大地がみるみる遠くに離れていく。
 
 エチオピアの暦では、1月の初旬にクリスマスを迎える。
 最後に寄ったラリベラという街でクリスマスを祝う人々の集いを見た後、ボレ空港に戻るため、また国内線を利用した。ボンバルディアなんとかいう、小さな飛行機だった。
 隣の席に座ったのは、民族衣装なのか礼服なのか、見たことのない深い緑色をした衣装を身に着けた少女で、ほとんど青いぐらい黒い肌をしたその人は、目の前の座席の背中を、なぜか穴が空くほどじっと凝視していた。
 よせばいいのに(?)、こんな小さな飛行機が、ちゃんと雲を超えてその上を飛ぶ。機体は乱気流にあおられて、よく、骨に響くようにガタガタと震えた。
 一度、なにか底が抜けたように、はっきり体が落下したとき、隣の席から手が伸びて俺の腕を取った。
 俺は驚いたというか、なんというか、隣の少女を見た。その人は相変らず、自分の前の座席を、なにか念でも込めるようにひたすら見つめ続けていた。
 
 最後に、飛行機に乗ってからではなくて、搭乗する前の話をする。
 1月7日、ラリベラからボレ空港に戻ってきて、日本に帰るための便を、搭乗ゲートの前で待っていた。
 今回の空路も仁川を経由する。そのためか、この国のどこにこんなにアジア人がいたんだと思うぐらい(他の国に滞在していたのがエチオピアを通っていくのかもしれないが)、韓国人も日本人も、多くの東洋人が飛行機を待っていた。
 俺は今回の旅行で計8回も飛行機に乗ることになっており、それはようやく終盤になりつつあった。ここまでくればもう落ちることもないような気がしたし、そんなことは関係なく、落ちるときは落ちるような気もした。結局俺は疲れていた。
 ゲートが開いて搭乗する列ができ始めたとき、俺がいる少し前から日本語が聞こえてきて、日本人らしい女性が小学生くらいの女の子の手を引いて並んでいた。
 女の子はアフリカ系の血が混じっているようで、あらためて見ると、二人と一緒にとても背の高い、おそらく夫なんだろう、黒人の男性が立っていた。そして三人の周りを、小さい男の子が一人、こま鼠のように楽しそうに、ひたすら嬉しそうに、くるくる走り回っていた。男性は、ひょいと軽々男の子を持ち上げた。
 どういう人生なんだろうな。俺は、女性に対してというかその家族全体に対してというか、漠然とそう思ったが、そういう人生なのだ。大きなお世話だ。というか、俺の人生だってそういう人生だ。みんな、各々のやり方で生きてきたのだ。(このときはそこまで考えなかったが)そして、今後も各々のやり方で生きていくのだ。誰もそれを邪魔するべきではないのだ。
 
 世の中で起きていることについて、どこからが自分事(?)で、どこまでが他人事なのか、よくわからない。
 よくわからないことに口を出すこと、自分が傷ついたわけではないことで誰かを批判することが嫌いなのだ。
 じゃあ憤るべきではないのか、というとそれもわからないし、何か教訓ということで言葉でかたちにしていいのかもわからない。まるで何もわからない。
 ただ、言うべきではない部分に届くまで、余分なところというか、余白みたいなものを削っておこうと思ったから、こういうことを文章にして書いておく。
 俺は飛行機で、こういう人たちと外国を旅行し、外国から帰ってきた。俺の乗った飛行機にはこういう人たちが乗っていたんだ。

観なかった「笑ってはいけない」の感想にかえて。俺は笑いが好きで怖いことについて

 ガキの使いの『笑ってはいけない』については、観ていて本当に楽しかったのはハイスクールまでで、警察署以降は、従来のファンとしては観ても面白くないと思っている。

 

 今年も結局観なくて、登場したネタについてニュースやSNSで目にしただけだったが、そのネタの扱い方については感じたことがあったので、整理しておく。

 

 新しい地図の3人が出演したみたいで、これはよかったと思った。

 外野の素人にはわからない大変な戦いの連続だったのだろうし、これからもそれは続くんだろうけど、大晦日のガキという地上波テレビの大一番で活動できることは、きっと彼らの願うところだったと思うので。

 最後に3人揃って挨拶をしたみたいで(その後にオチがついたようですが)、これは以前、解散騒動をめぐって放送された会見ともかかっていたのかな?

 もしそうなら、きっと辛い思い出だと思うんだけど、笑いに変えられてよかったと思う。

 

 笑いに変えられた、という点で、真逆に、少し苦い気分になった情報もある。

 吉本の闇営業に関する社長の発言、会見が、やはりネタにされて何回かこすられたらしい。

 はっきり言って、俺はそれは違うだろ?と思う。

 この件について、悪い側にどういう態度でいて欲しいのか、どう反省して欲しいのかは、俺にもよくわからない。

 別に俺が直接傷ついたわけじゃないし、どう罰されるべきで、どう許されるべきかも説明できない。

 でも、いわば身内が笑いのネタに変えてそれを消費するのは、やっぱり違うだろう? と思う。

 

 『へうげもの』という漫画で、登場人物の豊臣秀吉が「笑ったら負けよ」というセリフを吐く。

 笑いはそこが怖い。相手に非があっても、笑わせられるとそこで、なんかもういい感じになってしまう。それ以上口を開いて糾弾する、そのすべてが無粋になってしまう。

 別に『ガキの使い』自体が悪いことをしたわけじゃない。

 でも、同じ吉本の松本が強い影響力を持つこの番組でそれをネタにするのは、よく言えば絶妙の距離感だし、悪く言ったら巧妙だと思う。

 部外者がネタにするように、毒としての本質を残すわけでもなく(ナイツもこれいじってましたね)、ちょうどいい感じの距離感で、なんかもうどうでもいい感じになってしまう。

 なんというか、「うちの偉いのがやんちゃしまして」みたいな。「そんなわけで、今年もまあ色々ありましたけどね」みたいな。これがいやらしい。

 

 悔しいのは、俺も以前、同じガキの松本挑戦シリーズで松本が社長の会見を絵に起こしたジグソーパズル作ってる小芝居で笑わせられたから。

 そのときの、チクショウ、一本とられた、というのが、まだくすぶっていたみたいで。

 この度、いや、俺はやっぱり認めてねーぞ、と。笑ってはいけない自体観てないのに。なんなら、社長のあの恫喝よりも、その処理の仕方の方に、相容れないものを感じるところです。かたくなに。以上、よろしくお願いします。

 

 

 

命がわからないことについて

 

www.asahi.com

www.cnn.co.jp

www.jiji.com

 

 生きるために死ぬような思いをしなければならない人がいれば、生きていくにはなんの支障もなくても、危険を伴うような場所に行かなければ生の実感を持てない人もいて、明日自分が死ぬなんて思っていなくても死ぬ人がいれば、死ぬことが不安なあまり、死にたくなってしまう人もいる。

 30年以上生きたけれど、俺には命がわからない。もらえるものなら、もう少し考えさせてくれ。

11月3日について

 今朝、近所の店で買ったパンとコーヒーを近所の公園で食べていたら、少し離れているところで、ようやく歩き始めたという感じの小さい子供が泣いていた。
 子供は、ときどき何か言いながら両手をぶんぶんと振る。その視線の先には、お母さんらしい女性が公園の椅子に座っていて、じっとして動かずに、その様子を見ていた。
 お母さんは椅子に腰掛けて、足を組みながら、すっと背を伸ばしている。そして、おそらくはこっちに来て欲しい、と駄々をこねている子供の要求に応えないで、子供の方があきらめて自分の方に来るのを待っている。
 その姿は、怒っているようにも、耐えているようにも見えない。ただ穏やかで、あえて言えば少しだけ困りながら、微笑んでいるように感じられる。
 その様子は、教育とか、しつけとか、あるいは厳しさ、優しさという言葉にも、うまく表すことができなかった。
 ぼんやりと、親子にいくらか時間に余裕があるのはわかる。そういう時間の中で、この微妙な綱引きを、母親と子供が互いの間の距離を、一方は声を張り、一方は無言で、相手の方がこちらに来て欲しい、と向き合っているのを、俺は眺めている。
 子供があきらめてお母さんの方に、二つの手を前に突っ張りながら歩き始めた。母親は椅子から立ち上がり、両手を広げる。
 しかし子供の方は、母親に飛び込むほんの少し手前でぴたりと歩くのをやめ、そこでまた両手をぶんぶんと振った。
 駆け引きしよるな、と思って、俺はなぜか少し嬉しい。
 最後はお母さんの方が、しょうがねえな、という感じで、自分から歩み寄った。そうして二人で、手を引いて、引かれながら、どこかに向かって歩いていった。