『バトゥーキ』5巻が普通に面白かったことについて

 普通に面白かった、という話。
 
 
 5巻が引き続き面白いです。キャラクターが増えてきて、主人公を除いたキャラ同士にも因縁が生まれ、群像劇感が出てきました。
 昔倒した敵が仲間として物語に帰ってくる展開はやっぱり熱い。『嘘喰い』だったら主人公サイドより密葬課とか、準メインクラスの立会人の方が好きだったんですが、そのことを思い出しました。
 
 フォルチ(強者)はこの巻で全面クリア。ここからはドゥロ(難)編に入るみたいです。
 ドゥロへの導入がカッコいいですね。
 5巻で出てくる新キャラに三箸というヤクザがいて、このキャラクターも格闘技の心得があって(ヤクザに日拳というイカした組み合わせ)底が知れない感じなんですが、その三箸があのB・Jパネルのドゥロシールを剥がして正体が判明する、という演出。
 三箸自体が相当強いというのを見せつけた後で、その三箸も、ドゥロの名前には驚愕させられる、という流れが最高です。
 フォルチが各格闘技の有望株というレベルだとすると、ドゥロからは暴力を日常的な生業にしているステージなんでしょうか。そこから推測すると、ゲヘイロ(戦士)はプロの格闘家最強クラスとか、武道の達人とか、そういう人たちかな…。
 カポエイラという格闘技の、マイナーさゆえの有利性に言及しつつ、ここ(5巻)からは研究され、対策される側に回る、と自ら釘を刺していくのも潔い。『バトゥーキ』の立ち会いは不意打ちOKですが、それ込みでも、ここから登場する難敵に一里がどこまで通用するかは未知数です。
 
 あと、今巻で特に良かったのはB・Jをめぐるくだりです。
 B・Jの一里への接し方は、歪んでいるものの愛情を感じさせることがあって、そこから、俺は『バトゥーキ』のテーマの一つに、B・Jと一里の疑似家族関係があると思っています。
 今巻でもB・Jの掘り下げは深められていて、もう、準主人公ってことでいいですかね? 一里と境遇もある意味似ているみたいだし。
 そしてB・Jにも、上でも書いたように、一里とは別のところで色々な因縁が生まれています。三箸の所属する組ともモメてますし、一番注目したいのは栄子(一里の友達)との関係です。
 栄子はB・Jに一目惚れなんでしょうか。確かにあのヘアスタイルをやめたB・Jはなかなか男前ですが。
 もう一つ、今巻でB・Jの割とガチのバトルが見られます。ポイントはB・Jはやはり相当強く、『嘘喰い』で言ったら中堅立会人ぐらいの戦闘力はあるということ。
 これはつまり、『嘘喰い』の暴のレベルと『バトゥーキ』がある程度地続きであるということ、将来的に両作がクロスオーバーする可能性が生きているということではないですか。どうでしょう(それでも夜行さんとか出てきたら一気にバランスぶっ壊れそうだけど)。
 あと、相変わらずお化けネタでB・Jをいじるのが迫さんは好きらしいです。レイとの会話は結局どうなったのかな?
 
 というわけで、『バトゥーキ』5巻が普通に面白かった話でした。以上、よろしくお願いいたします。

 

バトゥーキ 5 (ヤングジャンプコミックス)

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10月19日について②

 深更に襲来し俺のテントを水煙のるつぼに変え周囲を湿原にしてしまった雨は、朝になるとともに徐々に弱まり始めた。
 コンビニに買い出しに行った後、テントに戻った俺は、カップラーメンと残ったスープに五目おにぎりをぶち込んで汁ごと喰うという悪魔のような食い物を咀嚼しながら、その様子を眺めていた。
 ちなみにカップラーメンは『蜂屋』というお店のラーメンをモデルにしたものだった。美味かったので紹介しておく。
 
 雨は午前8時頃に完全に止んだ。雨粒を乗せながら荒れていた風は、そのまま雨雲をどこかに流し去り、やがて、青い晴れ間が空に広がっていく。
 日差しが熱いぐらいだった。テントから出た俺はそのままテントを解体すると、靴下を脱ぎ、トレーナーを脱ぎ、ランニングにベージュのパンツという裸の大将のような格好のまま、しばらく呆然と、唐突にあたりを照らし始めた太陽で体を温めていた。
 気温が上がったのを感じ取ったのか、昆虫があたりを飛び回り始めた。
 キャンプや釣りができる場所なのでどこかにゴミでも投棄されているのか、蠅が多い気がする。
 
 たぶん人が聞くと奇異に思うだろうけど、蠅という生き物が嫌いではない。
 いや、うっとうしいし不潔だし嫌いなのだが、近くに留まっていたりするとじっと観察してしまう。装甲のような複雑な背中を持つものや、紋様めいた何かが描かれているもの、キラキラ輝いているものまで、見ていて飽きない。
 そのとき芝生の上に一瞬留まったキンバエも美しい生き物だった。その体の緑色は鉱石のような光沢を持っているが、よく見てみると、全体は緑でも、生物的としか言いようのない微妙なグラデーションが隠れている。
 眼は乾かした果物の種のような深みのあるえんじ色で、キラキラの背中との対照がすごい。そんな驚くような現象が自分の身に起きているとはつゆ知らず、蠅はやがてどこかに飛んでいった。
 
 持ってきた本は雨にやられ、なんだか年季の入ったかたちに変貌してしまっていた。表紙のインクがにじみ、心なしぶわぶわと膨らんだそれを読みながら、コーヒーを煎れ、スナック菓子をかじり、また小説に戻る。
 目を上げると赤トンボがたくさん飛んでいた。あるものはつがいをつくり、あの記号のようなかたちになっている。そして、今朝の雨でできた、やがて干上がって消えてしまう水たまりに、一生懸命卵を産み落としていた。
 俺は小説を開き、数ページ読んでやがて閉じ、また開くのを繰り返した。本を閉じると、眼は自然とトンボたちを追いかけていた。
 俺のテントに迷い込んでから半死のようになっていたあの蠅はどうしただろう、とふと思った。どこかで生きているといいんだが。
 いつしか俺は本を開くのをやめて、ただ、トンボの産卵をしばらく眺めていた。
 
 以上、よろしくお願いいたします。

10月19日について①

 午後11時、テントの天井から吊ったランプの周りを、迷い込んだらしい蠅が一匹、嬉々として飛び回っていた。うっとうしいな、と思いながら寝袋の中でもぞもぞ体を動かす。
 
 この日、俺は都内のキャンプ場に泊まっていた。テントの外には小糠雨が、降ると言うよりも宙を薄く包むようにして漂っていた。
 気温はかなり下がっているはずだが、それがかえって寝袋のぬくもりを実感させてくれるようで、蠅の存在が気になりながらも、明かりを点けたまま心地よく眠りに落ちていった。
 
 いつの間にか強くなっている雨に起こされたのは、午前4時前だ。た、た、たた、と、かなり存在感のある音で雨粒がテントを叩いていた。
 テントの表面に溜まった雨が、生地の細かい編み目をくぐり始めているらしい。煙のように微細な水分が、風の動きを教えながらテント内の狭い空間を流れていた。
 そのとき、宿泊を予約するときは「残数わずか」だったキャンプ場内に、いざ到着したとき、拍子抜けするくらい他の宿泊者が少なかったことを思い出した。その理由がようやくわかったような気がしたが、時すでに遅し、だった。
 
 ちょっと困ったな。
 そう思ったのを合図にしたように、雨がさらに勢いを増した。風も強くなりテントが外から揺さぶられ、きい、ときしむように布地が引っ張られて張り詰める。
 やがて、テントの表面に張りついていた雨水が、本格的に中に染み込んできた。迂闊すぎることにタオル類を持ってこなかった俺は、慌てて、寝るときに脱ぎ捨てていたトレーナーの袖部分を使い、テントの内側から染み入ってくる水滴を拭う戦いに突入した。
 
 焼け石に水、という諺があるが、この戦闘にはまさにそうした絶望感が伴っていた。そして今回はその水こそが襲いかかる敵なのだ。
 シャレにならん、と思いながら、水滴の対処を続ける。
 水の浸食は、やがて、テント内の温もりであり精神的支えでもある寝袋にまで、じっとりと染み込み始めた。湿った繊維の皮膚に不快に張り付く感じが、わずかではあるが始まっている。
 気休めのつもりでテントの上に掛けたビニール傘は、数分後に強風で吹き飛ばされていった。脳裏に、暗いキャンプ場の中を果てしなく、ビニール傘が転々と遠ざかっていく光景が浮かぶ。
 バカなことをした。いま継続中のこの事態はいったん脇に置くとして、何時間か後にはこのキャンプ場から出て行くのだ。そのときも今ぐらいの強さで雨が降っていたら、俺はどうやって帰路につくのだ?
 後悔先に立たず。とにかくこの戦闘は俺を大きく消耗させたが、俺以外にテントの中で弱り果てている生き物がいた。
 あの蠅だ。
 水煙が何やら悪霊のように渦を巻くテント内で、蠅は天井に吊り下がったランプに留まったきり、まるで飛び回ろうとしなかった。
 蠅は神経質そうに、ときおり足と足を拭い合わせ、俺が水滴を払うために動かす腕がそばをかすめるときだけよろよろと飛び立った。それは、水気で重たくなったテント内をまるで泳いでいるような鈍重な動きで、精一杯、という感じで、テントの一画に必死にしがみつくのだった。蠅は、数刻前の意気軒昂ぶりが嘘のように衰弱していた。
 この地獄のような状況で、俺と蠅はおそらく同じものを同じように呪いながら、同じように戦っている。つまみあげて外に放り出すことも簡単な話だが、そうする気は起きなかった。
 
 文字通りの光明が射してきたのは、雨漏りとの格闘が1時間を過ぎた頃だったと思う。ふと、テントを透かして見える外の様子が、かすかに白んできていることに気がついた。
 雨は弱まることなく降り続けている。しかし、もしや、と思ってテント脇のジッパーを開けて外の様子をうかがった俺は、夜が明けようとしているのを確かに目にした。
 もう一つ心の助けになったのは、はるか遠くに風で持ち去られたと思っていたビニール傘が数m先の植え込みに引っかかっているのが、弱々しい朝日の中で見えたことだ。これで、最悪帰路の心配はなくなった。
 このタイミングで、俺は携行していたカップに水を注いだものをガスバーナーにかけてお湯にすると、冷えた体にあてがい、飲み、また注いでお湯を作っては肌を温めた。
 
 やがて、午前7時を過ぎる頃、雨は次第に弱まっていき、小雨と呼べる勢いに落ち着き始めた。
 俺はしっとりと保湿されたようなソックスのまま足を靴につっこむと、湿原と化した地面に足をつき、地獄の亡者のようにふらつきながら、およそ8時間ぶりにテントの外に這い出した。空はまだ灰色に覆われていたが、ところどころ、晴れ間の予感と呼べなくもない感じがあった。
 『ショーシャンクの空に』の逆バージョンだ。水没した芝生をばしゃばしゃ踏みながら、俺はビニール傘を手に取る。張ったままの傘をひっくり返すと、傘いっぱいに溜まった水が音をあげて流れ落ちた。
 それをさして、俺は朝飯を買うために近所のコンビニに向かって歩き始めた。

今週のお題「運動不足」について

 運動というと、最初にスポーツのイメージが浮かぶ。
 週に2回くらい、30分程度のランニングをこころがけている。
 走る前はこれがまあやりたくないこと、こんなに億劫なことがこの世にあるのか、という感じだが、なんとか自分を無心にして(「気合い」や「克己」ではない。「無心」がコツです)走り出すと、大層気分がいい。
 そういうわけで、最後に運動=スポーツをしたのはいつか、となると、これは今朝になります。
 
 ところで運動と言えば、社会に対して何かしらの訴えかけを起こすことも運動の一つである。
 不買とか、デモとか。この運動となると、おこなった憶えがまったくない。
 無意識のうちに、何か大きな流れに加わっている、ということはあるだろう。選挙とか。
 そういう意味では「運動」に参加していた可能性もあるけど、意識してそうした経験があったかというと、ゼロである。
 
 率直に言うと、俺はこういう運動のことがあまり好きではない。そこには、我ながら情けないと思わざるを得ない理由と、たぶん俺は間違ってないだろう? という理由が混在している。
 
 情けない理由から述べると、単純に平穏が乱されて嫌だからだ(あ、本当にしょーもないですね)。
 「運動」と聞いて俺がイメージするものがアクティブすぎるのかもしれず、実際は穏やかなものも多いのかもしれないが、例えば人物の写真にデカデカした真っ赤なフォントや赤いバッテンとかを貼って、プラカードの列が大声を上げながら市街を練り歩く感じ。これが苦手。
 ただ、この場合乱されている平穏とは、あくまで「俺の」平穏に過ぎない。
 デモを行う彼女ら/彼らは、何かの理由によって、すでに平穏を破壊された側。俺の知らないところで平穏は保たれる一方でどこかで崩れており、ズレが生まれる。
「運動」とは、こうしたズレを調整しようとする活動かもしれない。
 
 一方、俺が「運動」を嫌うのは間違ってないと言える理由はなんだろう。
 それは、「運動」には勢いが必要なゆえに、宿命的に、冷静さの欠落と不寛容さを抱えるように見えるところだ。
 その主張が、科学的に、法学的にどこまで正しいのか。勢いと結束を維持するために、外部の意見を耳に入れる柔軟性が失われていないか。
 「運動」の多くは、俺にはそう見える。
 だから俺は「運動」に対して一歩退いてしまうし、軽蔑することもある。批判を受け付けない状態で何かの正しさを主張するのは、ルーレットの赤と黒のどちらかに金を賭けるのとたいして違いがなく、場合によっては社会全体を巻き込んだ悲劇になるからだ。
 極論、かつて西洋で、魔女と疑われた女性を水に沈めて、浮かんでくるかどうかで正体を暴こうとしたように。
 あるいは、20世紀のアフリカ、ルワンダで、鼻の大きさが違うという冗談みたいな目印などを頼りに、仕立てられた民族対立の中、すさまじい加虐が吹き荒れたように。
 
 もちろんこれには反論があると思う。
 中には、客観的な証拠をそろえて起こされる正しい「運動」もあるだろう。そして、俺がいま平穏に暮らしていられるのはなんのおかげかと言ったら、そうした正しい「運動」によって勝ち取られた自由や豊かさのおかげに違いない。
 それらを成し遂げた人たちは、必死さと冷静さを兼ね備えた、「明確なデータがそろうまで云々」なんて言って結局行動しないような悠長なやつじゃなかったはずだ。
 あれ、「運動」について書いていたら、なんだか逃げ場がなくなってきたぞ。
 
 じゃあ、俺の最後の(最初の)「運動」はいつやってくるんだろう?
 
 俺の知り合いに、こうした「運動」に参画することを一切辞さない人がいる。
 俺はこの人の言動のすべてが正しいとは思わないし、活動を支持しないこともあるけど、一方で、社会的な弱者を助けるために、自分の理念のためにためらいなく問題の中に飛び込んでいくその人は、なかなか魅力的な人物だ。
 
 いつか自分がそうなるのもいいかな、という気もする(知性、体力が伴うかは別として)。
 でも、やっぱりできなさそうだな、という気もする。
 かったるいから、というのもあるけれど、俺は自分が何かの集団に、数字の一つとしてカウントされることが、根本的に好きじゃないのだ。
 自分が、無感覚でつかみどころのない、何かいやらしいマジョリティに属している自覚もあるので、何を言う、という気もするけど、今のところ、これが俺の偽らざる感想。運動不足という言葉について、そんなことを思った次第です。
 
 以上、よろしくお願いいたします。

お題:「#わたしの推し米」について

お題:「#わたしの推し米」について

 シロメシがうまい食事どころというのがある。

 考えてみるとなんだか不思議な気がするが、それは定食屋だったり中華料理屋だったり飲み屋だったりして、どういう店ならシロメシがうまいとか、一概に言えなかったりする。
 何気なくシロメシを口に運んだとき、「そういう店」だと判明するのである。「うわっ、米がうめえ」となって少し驚く。
 
 シロメシがうまくて驚くというのも考えてみればおかしな話で、大変失礼な話だが、「米というのはだいたいこのようなもの」というイメージというか、おおよその水準みたいなものを、自分勝手に作っている感がある。
 自分で勝手にこしらえたシロメシの水準をその店のシロメシに超えられて、勝手に驚いているという。バカな話である。
 
 例えば、最寄り駅から歩いて5分ぐらいのところにあった、とある中華料理屋のシロメシがそうだった。
 いわゆるキレイに炊けた米ではなく、やや水気の多すぎる感じのシロメシだった。
 これを、特にたいした期待もなく塩ラーメンや麻婆豆腐などの箸休めとして口に運ぶと(文字でいちいち書き起こすと、なぜこうも失礼な感じが際だつのか?)、そのうまさに驚かされた。
 噛んで含めるたびに、白米の甘さと滋味みたいなものが食感とともに広がるような、そういうシロメシだった。俺もアホなので、その店に行ってシロメシを食うたびに「うわっ、うまっ!」と驚いていた。
 
 おかしな話と言えば、行った店のシロメシのうまさに驚いた後、にもかかわらず、店の人に「シロメシうまいっすね」と言う気があんまりしないというのがある。
 なんというか、主菜ではなくシロメシをほめられて、店の人ははたしてうれしいのだろうか…という。
 
 店の人になんと言えば喜ぶかとか、そういうことで悩んでいる時点で馬鹿馬鹿しいが、シロメシをほめられても店の人も困るんじゃないか…、という考えはぬぐい去れない。
 例えば人と話をしていて、どこどこの店が美味しかったという話題になり、「なにが美味かったの?」と聞いて「シロメシですね」と答えられたら、「こいつはいったいなんの話をしているんだ?」となるんじゃないだろうか。俺はなる。
 
 ひとつ言い訳をさせてもらうと、シロメシのうまさについて俺がこんなに曲がりくねって考えているのは、シロメシがうまい店がある一方で、そうでもない店もある…というか、たいていの店のシロメシが「普通」だからである。
 
 しかし、各店のシロメシのレベルの平均が上がるのならばこれは喜ばしいことだろう。
 そのためには、「色々食べた結果、『シロメシが一番うまかったです』なんてのはバカみたいじゃないか…」などと悩んでいてはいけない。
 むしろどんどん各店のシロメシについて意見発信していき、シロメシの重要性を業界に再確認させるべき…と思ったが、おそらく、こんなことは完全な世迷いごとであり、長々と書いた割にわけの分からない話になって、読んでくださった方(いるのだろうか)には詫びるしかない。また、詫びると言えば、まるでこの記事の広告元(パナソニック)の販促に利することのない内容となり、その点についても重ねてお詫びしたいと思う。
 
 以上、よろしくお願い申し上げます。

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たぶん俺だけが思う狂気の正体、映画『ジョーカー』の感想について

(この記事はとても長いので、読むのに10分ぐらいかかります。ネタバレなしのとこまでなら2分ぐらい)
 

はじめに

 思ったよりも複雑な映画でした。そして、思ったとおり、いや、思った以上に美しい映画でした。
 
 複雑な、というのは、俺の想像していたのは、もっと主人公アーサー・フレック=ジョーカーの正気と狂気が、物語の前半と後半でくっきり分かれている展開だったからです。
 例えば、物語の中盤あたりでアーサー・フレックが何かのきっかけで完全に狂ってしまい、それによってストーリーが一気に激しく動き出す…そういう構成を予想していました。
 
 実際はそうではなく、アーサーの行動は冒頭からすでに、やや常軌を逸しています。
 例えば、アパートのエレベーターで偶然乗りあった住人の女性に好意を持ち、彼女のことを勤め先まで尾行したりしています。
 アーサーは「自分の意図とは関係なく笑い出してしまい、一度笑い出すと止めることができない」という障害を持っていますが、それよりも、こういう偏執的な性格の方が危険で病的な感じがします。
 一方で、アーサーが物語の中で悪事を行ったり、ひどい不幸に襲われても、彼はなかなか完全に「ジョーカー」として覚醒しません。
 このあたりは観ていてけっこうやきもきします。正直、「早くジョーカーになってくれよ!」とかムチャクチャなことを思ったりしました。
 そういうわけで、アーサーは基本的には善人ですが、かなり複雑な人格でもあり、そして、少し矛盾するようですが、そういう複雑なところを含めて、わりと「普通」の人間です(俺はそう感じた)。
 

ネタバレなしの感想

 いい映画なので観て欲しいのですが、ススメ方にかなり困る作品です。
 上に書いたとおり、けっしてシンプルなストーリーではないし、爽快感も、終盤まではあまりありません。
 例えるなら、長時間ボコボコに殴られ続けた後、少しだけ休息の時間があって、また殴られるのが始まる感じです。あるいは、無理やり水に顔を沈められて、ときどき呼吸をするのを許されて、また沈められる感じ。
 それでも観続けられるのは、ひとつには、主演のホアキン・フェニックスの演技と、この人の身体そのものが素晴らしいからです。
 本当に、本当に、素晴らしい。もはや鬼気迫る、のひと言ですが、あえてつけ加えるなら、美しかった。たたずまいも、動作も。
 もともとは体格のいい人なんだと想像しますが、それをギリギリまで削り落として、それでも落ちきらなかった筋肉が残っている。
 苦悩しているときの緊張感と、晴れやかに踊るときの伸びやかさの両方に目を奪われました。作品というか、この人を観るためだけに劇場に行ってもいいと思います。以上。

ネタバレありの感想

 物語の中で、アーサーを、何度か転機になりそうな出来事が襲います。
 
・地下鉄の車内でサラリーマン3人にからまれリンチに遭った結果、持っていた拳銃で彼らを射殺したとき
・アパートのエレベーターで会って以来、いつしか恋人同士になっていた女性との関係が、すべて自分の妄想であったと判明したとき
・最愛の母とは実は血のつながりがなく、彼女がかつて幼かった頃の自分を虐待していたことを知ったとき
 
 転機というのは、ジョーカーとして覚醒し、善人から、世の中を転覆させようとする悪役へと転じるきっかけという意味です。
 しかし、観客(というか俺)の予想に反して、アーサーは簡単にジョーカーにはなりません。悪徳と反逆の高揚と解放感に歓喜しながら、一方で、常に良識との間で苦しんでいるように見えた。
 それは、殺人を犯しても、彼には守るべき母がいて、恋人がいて(それは彼の幻覚だったわけだけど)、なにより、コメディアンになるという夢があったから。
 そんな彼の、手足を一本ずつもいでいくように、彼を善へと縛り付けているもの、ある意味しがらみみたいなものが、一つずつ失われていきます。
 そして終盤、彼は酔狂で自分をテレビショーに呼んだ大物司会者を前に、ようやくこう言います。「自分を観客に紹介するとき、『ジョーカー』と呼んでくれないか」と(このセリフから、カーテンの向こうのステージに登場していく流れはマジでヤバかった)。
 
 ただ、これは俺の解釈ですが、このときでもアーサーはまだ、100%の狂気の中にはいないと思う。
 それはステージにたった彼が、司会(ロバート・デ・ニーロ)の挑発に怒りを覚える、そして、ギャグで人を笑わせたいと願っているからです。つまり、人に理解されたい、人に評価されたい、という、とても「普通」な感性を持っているからです。
じゃあアーサーはいつ完全に狂ってジョーカーになったのか。
 ショーの最中に司会者を射殺したとき、そして、物語の終盤、自分のシンパである一般市民たちによる暴動の中に、カリスマとして立ったとき、というのが正解…なんでしょうけど、俺は、実はそれも違うんじゃねえか、と思います。
 

アーサーは悪のカリスマになって幸せになったのか?

 アーサーの最終的な目標は、コメディアンになることです。これは、人を殺しても、好きになった女性との恋愛が幻覚だと知っても、最愛の母を失ってもなお残る、最後の希望です。
 
 ところで、じゃあ、アーサーは物語の中で、実際にギャグで何回ひとを笑わせたか。
 俺は、笑わせたと明確に言えるのは2回だけなんじゃないかと思います(ちょっと自信ないけど)。
 序盤、バスの中で男の子を笑わせたのと、病院の慰問に行って笑わせたのの2回。病院のときは隠していた拳銃を落としてしまうミスが原因だったので、ちゃんと人を笑わせたのは、1回だけということになります。
 ひどすぎる成績ですが、俺は、ここにはなんかしら物語の意図があるんじゃないかと思います。
 
 ポイントは、アーサー=ジョーカーは、物語の中で社会に不満を持つ多くの市民を味方として獲得するわけですが、アーサーのギャグで笑ったものは、彼らの中に一人も描かれていないことです。
 コメディアンになるのが最大の希望だったアーサーにとって、これは果たして幸せなのかな? 本当の意味で、彼は理解者を得たと言えるのかな? と俺は思うわけです。
 
 物語の一番最後で、精神病院(医療刑務所? バットマン的に言うなら『アーカムアサイラム』)にアーサー=ジョーカーが収容された場面。
 カウンセラーらしき女性と会話していたアーサーが、「ジョークを思いついた」と言って笑い、それはどんなものか、とカウンセラーが聞き返します。それに対して、アーサーはこう答えます。
 言ってもたぶん理解できない、と。
 
 もし、アーサーがジョーカーとして完成した瞬間、100%の狂気に落ちた瞬間があったとしたら、俺はここなんじゃないかと思います。
 ずっとコメディアンを目指してきた男が、人を笑わせることを放棄した瞬間。
 自分の意図しないところで笑いはじめてしまう障害を抱え、誰も笑わせることができなかった男が、ようやく自分一人をちゃんと笑わせることができ、それで満足した瞬間。
 
 『ジョーカー』を、不満を持った民衆を煽動する悪のカリスマの誕生として、一種のサクセスストーリーとして観るのは、おそらく正しいと思います(アーサーも暴動の混沌に落ちた町を「美しい」と表現していたし)。
 でも俺は、アーサーにとっては結局、多くの賛同者ができたことなんてどうでもよく、自分の人生を喜劇、それも演者も観客も自分だけの、ひとりっきりのショーとして受け入れることが大事だった、と観る方が、孤独で、イカれてると思うので、そっちの解釈でいきたいと思います。
 
 最後に。
 
 ホアキン・フェニックスの演技や物語について長々書きましたが、演出も優れた映画でした。
 正気/狂気のオンオフを暗示するようにチカチカ点滅する照明とか、カウンセリングの場面で、アーサーを追い立てるようにしつこく鳴り続ける電話のベルとか。
 ここまで、がっつりネタバレまで書いてしまってますが、未見の方は、いい映画なので観て欲しいと思います(「ブルース・ウェイン少年」についてはあまり触れない方向で…。あの因縁をどう評価するかで、作品の印象そのものまでかなり違うと思います。俺はファンサービスぐらいにとらえたい…)。
 
 以上、よろしくお願いいたします。

2019年10月2日について

 日本人以外のアジア人はうるさい。うるさくて周りの迷惑を全く考えていない。日本以外のアジア人に恥という感覚などないのだろう。
 
 公共の場で大人数で移動しながらデカいスーツケースを引きずってデカい声で騒いでいるのはたいていアジア人。
 俺には広東語と北京語、上海語の区別は付かないから(韓国語なら響きはわかる)出身まではわからないが、連中が日本人でないことはわかる。とてもうるさい。
 
 それに対して日本人はとても礼儀正しい。
 礼儀正しいので、ときどき礼儀正しくない人がいると、とても目立つ。
 箱根で泊まったホテルのロビーはとても静かで、本なども置いてあったので、夜、それを読んでいたら、フロントの方でがちゃがちゃ騒ぐ大勢の声が聞こえた。
 その人たちは、「自分は金だけは持ってるんだ。金だけは」みたいなことをデカい声で言いながらコンシェルジュの人にしつこくからんで、居丈高に命令して自分たちの集合写真を撮らせていた。
 でも、こういうのは少数派だ。俺は知っている。大多数の日本人は誰に対しても丁寧でもの静かな民族だ。
 
 ホテルでの翌朝、ビュッフェ式のレストランで朝飯を皿に取っていた。料理の並んだテーブルの向こうから、ずいぶん幼い声で、ふにゃふにゃした鼻歌が聞こえた。
 アジア人の幼い女の子がそこにいて、口ずさんでいるのは俺の知らない、おそらく彼女の国の歌なのだった。
 その子が皿にフルーツを盛り付けていて、その盛りつけ方がとてつもなくヘタクソなので俺は目が離せなくなって、じっと見ていたら、少女は俺に気づいてビックリして黙り、少し恥ずかしそうにしたので、「ごめん、俺はただのおかしい日本人だから気にするな」というつもりで二、三回大きくうなずいて見せた。
 彼女はにっこり笑った。笑顔には前歯がなくてたぶん生え替わるところで、それでも花が咲いたような笑顔だった。
 
 日本人は物静かな人が多い。
 日本人以外のアジア人は騒々しく、恥という感覚を持たない連中が多い。
 
 俺はそのことを知っている。
 でもその「多さ」は、俺たちが思うほど「多い」だろうか。意外とそこまで「多く」ないのかもしれない。あるいは、全然「多く」ないのかも。
 そして俺たちの思う「多さ」が本当の姿から離れれば離れるほど、俺たちが失うものがあると思う。手に入らない、ではない。失うのだ。それは失い、失い続け、いつか消えていくものだ。
 
 でも俺は日本人の中でもおかしい日本人。
 だから俺がいっていることもたぶん間違っているのだろう。それこそ間違いのないことだ。
 
 以上、よろしくお願いいたします。