惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

たぶん俺だけが思う狂気の正体、映画『ジョーカー』の感想について

(この記事はとても長いので、読むのに10分ぐらいかかります。ネタバレなしのとこまでなら2分ぐらい)
 

はじめに

 思ったよりも複雑な映画でした。そして、思ったとおり、いや、思った以上に美しい映画でした。
 
 複雑な、というのは、俺の想像していたのは、もっと主人公アーサー・フレック=ジョーカーの正気と狂気が、物語の前半と後半でくっきり分かれている展開だったからです。
 例えば、物語の中盤あたりでアーサー・フレックが何かのきっかけで完全に狂ってしまい、それによってストーリーが一気に激しく動き出す…そういう構成を予想していました。
 
 実際はそうではなく、アーサーの行動は冒頭からすでに、やや常軌を逸しています。
 例えば、アパートのエレベーターで偶然乗りあった住人の女性に好意を持ち、彼女のことを勤め先まで尾行したりしています。
 アーサーは「自分の意図とは関係なく笑い出してしまい、一度笑い出すと止めることができない」という障害を持っていますが、それよりも、こういう偏執的な性格の方が危険で病的な感じがします。
 一方で、アーサーが物語の中で悪事を行ったり、ひどい不幸に襲われても、彼はなかなか完全に「ジョーカー」として覚醒しません。
 このあたりは観ていてけっこうやきもきします。正直、「早くジョーカーになってくれよ!」とかムチャクチャなことを思ったりしました。
 そういうわけで、アーサーは基本的には善人ですが、かなり複雑な人格でもあり、そして、少し矛盾するようですが、そういう複雑なところを含めて、わりと「普通」の人間です(俺はそう感じた)。
 

ネタバレなしの感想

 いい映画なので観て欲しいのですが、ススメ方にかなり困る作品です。
 上に書いたとおり、けっしてシンプルなストーリーではないし、爽快感も、終盤まではあまりありません。
 例えるなら、長時間ボコボコに殴られ続けた後、少しだけ休息の時間があって、また殴られるのが始まる感じです。あるいは、無理やり水に顔を沈められて、ときどき呼吸をするのを許されて、また沈められる感じ。
 それでも観続けられるのは、ひとつには、主演のホアキン・フェニックスの演技と、この人の身体そのものが素晴らしいからです。
 本当に、本当に、素晴らしい。もはや鬼気迫る、のひと言ですが、あえてつけ加えるなら、美しかった。たたずまいも、動作も。
 もともとは体格のいい人なんだと想像しますが、それをギリギリまで削り落として、それでも落ちきらなかった筋肉が残っている。
 苦悩しているときの緊張感と、晴れやかに踊るときの伸びやかさの両方に目を奪われました。作品というか、この人を観るためだけに劇場に行ってもいいと思います。以上。

ネタバレありの感想

 物語の中で、アーサーを、何度か転機になりそうな出来事が襲います。
 
・地下鉄の車内でサラリーマン3人にからまれリンチに遭った結果、持っていた拳銃で彼らを射殺したとき
・アパートのエレベーターで会って以来、いつしか恋人同士になっていた女性との関係が、すべて自分の妄想であったと判明したとき
・最愛の母とは実は血のつながりがなく、彼女がかつて幼かった頃の自分を虐待していたことを知ったとき
 
 転機というのは、ジョーカーとして覚醒し、善人から、世の中を転覆させようとする悪役へと転じるきっかけという意味です。
 しかし、観客(というか俺)の予想に反して、アーサーは簡単にジョーカーにはなりません。悪徳と反逆の高揚と解放感に歓喜しながら、一方で、常に良識との間で苦しんでいるように見えた。
 それは、殺人を犯しても、彼には守るべき母がいて、恋人がいて(それは彼の幻覚だったわけだけど)、なにより、コメディアンになるという夢があったから。
 そんな彼の、手足を一本ずつもいでいくように、彼を善へと縛り付けているもの、ある意味しがらみみたいなものが、一つずつ失われていきます。
 そして終盤、彼は酔狂で自分をテレビショーに呼んだ大物司会者を前に、ようやくこう言います。「自分を観客に紹介するとき、『ジョーカー』と呼んでくれないか」と(このセリフから、カーテンの向こうのステージに登場していく流れはマジでヤバかった)。
 
 ただ、これは俺の解釈ですが、このときでもアーサーはまだ、100%の狂気の中にはいないと思う。
 それはステージにたった彼が、司会(ロバート・デ・ニーロ)の挑発に怒りを覚える、そして、ギャグで人を笑わせたいと願っているからです。つまり、人に理解されたい、人に評価されたい、という、とても「普通」な感性を持っているからです。
じゃあアーサーはいつ完全に狂ってジョーカーになったのか。
 ショーの最中に司会者を射殺したとき、そして、物語の終盤、自分のシンパである一般市民たちによる暴動の中に、カリスマとして立ったとき、というのが正解…なんでしょうけど、俺は、実はそれも違うんじゃねえか、と思います。
 

アーサーは悪のカリスマになって幸せになったのか?

 アーサーの最終的な目標は、コメディアンになることです。これは、人を殺しても、好きになった女性との恋愛が幻覚だと知っても、最愛の母を失ってもなお残る、最後の希望です。
 
 ところで、じゃあ、アーサーは物語の中で、実際にギャグで何回ひとを笑わせたか。
 俺は、笑わせたと明確に言えるのは2回だけなんじゃないかと思います(ちょっと自信ないけど)。
 序盤、バスの中で男の子を笑わせたのと、病院の慰問に行って笑わせたのの2回。病院のときは隠していた拳銃を落としてしまうミスが原因だったので、ちゃんと人を笑わせたのは、1回だけということになります。
 ひどすぎる成績ですが、俺は、ここにはなんかしら物語の意図があるんじゃないかと思います。
 
 ポイントは、アーサー=ジョーカーは、物語の中で社会に不満を持つ多くの市民を味方として獲得するわけですが、アーサーのギャグで笑ったものは、彼らの中に一人も描かれていないことです。
 コメディアンになるのが最大の希望だったアーサーにとって、これは果たして幸せなのかな? 本当の意味で、彼は理解者を得たと言えるのかな? と俺は思うわけです。
 
 物語の一番最後で、精神病院(医療刑務所? バットマン的に言うなら『アーカムアサイラム』)にアーサー=ジョーカーが収容された場面。
 カウンセラーらしき女性と会話していたアーサーが、「ジョークを思いついた」と言って笑い、それはどんなものか、とカウンセラーが聞き返します。それに対して、アーサーはこう答えます。
 言ってもたぶん理解できない、と。
 
 もし、アーサーがジョーカーとして完成した瞬間、100%の狂気に落ちた瞬間があったとしたら、俺はここなんじゃないかと思います。
 ずっとコメディアンを目指してきた男が、人を笑わせることを放棄した瞬間。
 自分の意図しないところで笑いはじめてしまう障害を抱え、誰も笑わせることができなかった男が、ようやく自分一人をちゃんと笑わせることができ、それで満足した瞬間。
 
 『ジョーカー』を、不満を持った民衆を煽動する悪のカリスマの誕生として、一種のサクセスストーリーとして観るのは、おそらく正しいと思います(アーサーも暴動の混沌に落ちた町を「美しい」と表現していたし)。
 でも俺は、アーサーにとっては結局、多くの賛同者ができたことなんてどうでもよく、自分の人生を喜劇、それも演者も観客も自分だけの、ひとりっきりのショーとして受け入れることが大事だった、と観る方が、孤独で、イカれてると思うので、そっちの解釈でいきたいと思います。
 
 最後に。
 
 ホアキン・フェニックスの演技や物語について長々書きましたが、演出も優れた映画でした。
 正気/狂気のオンオフを暗示するようにチカチカ点滅する照明とか、カウンセリングの場面で、アーサーを追い立てるようにしつこく鳴り続ける電話のベルとか。
 ここまで、がっつりネタバレまで書いてしまってますが、未見の方は、いい映画なので観て欲しいと思います(「ブルース・ウェイン少年」についてはあまり触れない方向で…。あの因縁をどう評価するかで、作品の印象そのものまでかなり違うと思います。俺はファンサービスぐらいにとらえたい…)。
 
 以上、よろしくお願いいたします。