絶賛されている『ダークナイト』に感じる違和感について(感想に代えて)

 要は、誰にも検証されないものを、はたして正義と呼んでいいんだろうか? ってことで。
 
 10月に公開をひかえた『ジョーカー』が面白そうで、期待を膨らませていたらなんだか我慢できなくなって、同じジョーカー(世界観は違うみたい)が活躍している『ダークナイト』をもう一回見直したんですね。
 
 で、実は何年か前に最初に『ダークナイト』を観たときに、面白かったんだけどなんか腑に落ちないな、と感じる部分が確かにあって。
 見直すまでその違和感についてはすっかり忘れていたんだけども、先日観たときにその正体が少しはっきりしたので、ここに書いておくことにします(以下、『ダークナイト』のネタバレを含みます)。
 
 作品の最後に、バットマンは恋人を亡くして協力者も失う。
 そして、かつて目的をともにしたものの途中で悪役に堕落し死んでしまった検事のハービー・デントを、表向きは英雄という扱いにして、反対に自分は濡れ衣をかぶって社会的に悪者になる。
 本当は悪くないのに罪人となって姿を消すバットマンを、仲間の警部ジム・ゴードンが、「沈黙の守護者。我々の監視者。闇の騎士(ダークナイト)」と評して、物語は終わる。
 
 このエンディングなんですよ。俺が「うーん…」と思ったのは。
 
 なんで『ダークナイト』のエンディングに「うーん…」と思ったか伝えるために、次のことを整理しておこうと思います。
 
・作中でバットマンに向けられる2つの理解の『層』
 
 これです。
 
 2つの理解の『層』とは何かというとですね。
 エンディングで、本当は無実のバットマンが罪をかぶって姿を消したため、バットマンに対する理解はキレイに2つの層に分かれた。
 一つは、事情を知らない一般市民たちによる、バットマン=悪人という理解。
 もう一つは、ゴードン警部、そしてバットマン本人を含む(ここが重要)、バットマン=善人という理解。
 
 もちろん、後者の理解の方が正しいです。
 しかし後者がバットマンを正しく理解できるのは、バットマンの目的や行動について、前者よりも多くの情報を持っているからです(当たり前だけど)。
 そして、バットマンたちがその情報を公開しない以上、一般市民がバットマンの意図を理解するチャンスはなく、2つの層は絶対に交わらない。
 一般市民がバットマンの目的を検証し、正確に評価する機会は永遠にこないわけですね。かりに、バットマンの選択が正しかったとしても。
 
 俺は、自分に対する情報を多くの人に対してしめ切った状態で、ごく少数の、自分を含む人間だけが真実を正確に理解できる状態で姿を消したバットマンの判断に、なんか不快感というか、もっと言ったら、少しゾッとするものを感じてしまったんです。
 つまり、わからないやつには言わせておけよ、的な。
 俺の目的は必要な人には伝わってるから問題ないよ、的な。
 真実を知らないやつも、トータルでは俺の判断で平和で幸せに過ごせるんだからオッケーだよ、的な。
 そういう、独善性とナルシシズムです。
 
 何をもって正義とするかは人それぞれだから、これは俺の好き嫌いでしかないけど、俺はもっとオープンな判断の方が好きだな。
 それは、たとえそこで示される情報が民衆が情報処理できるキャパを超えていて、俺たちの混乱につながり、愚かさを示すだけの結果になっても。
 ひととおりの情報は示しました、と。そこからどうするか、ボールはそっちに委ねるから、みんなで決めてね、と。
 そっちの方が好き(無責任なのかしら?)。
 というか、作中の市民が乗った船と囚人が乗った船の2隻を登場させたあの場面のメッセージだって(デカい囚人の行動もそうだけど、市民代表のあの男性の決断も、地味だけどしびれた)、そういう一般人の判断力への信頼ってところにあったんじゃないのかな?
 
 あと、『ダークナイト』の世界においてバットマンの選択は実際正しいかもしれないけど、リアルに生活している俺たちはどこまで行ってもやっぱりバットマンみたいな全知じゃないのだ。
 悪と戦うときも(でも誰が「悪」なのだ?)気絶とかで済ませられなくて、やり過ぎて殺しちゃうこともありそうです。
 あと、自分だけが傷つけば済むと思ってたら、周りもどんどん巻き込んで犠牲が増えることもありそう。
 そんな俺らが、もしもバットマンみたいに「俺の目的は俺含めて必要なやつには伝わってるからオッケー。知らない奴らには言わせておけばいい」だと、やっぱまずくないですか?
 だって、『ヘルシング』のマクスウェルと大佐の問答じゃないけど、全知じゃない俺らの正義や正気を、現実では誰が証明してくれるのだ?
 フィクションのことを現実に持ち出すバカバカしさもいくらかは理解しようとしているつもりだけど、バットマンのアレはあくまで、リアルにはありえないカッコよさなんだと思います。
 
 そう考えると、アメリカという国からこの『ダークナイト』が送り出されたことも俺の「うーん…」の一因なんでしょう。
 この辺はまあ、勘ぐりすぎかもしれないけど。
 ただ、『ダークナイト』におけるバットマンを、現実にはあり得ない、もしくは「こういうやつがもしかしたらいるかも」と一瞬想像するだけのヒーローにとどめるべきか、あるいは実在の誰か、あるいは国家の比喩とするのかは、けっこう大事なポイントじゃないかな、と思います。
 
 もし『ダークナイト』のバットマンが、リアルの俺たちの生活と永遠に重なるところのない、これまでもこれからも存在することのないヒーローの、ごく個人的な葛藤と決断を描いたものだとしたら。
 これまで長々書いてきた批判は大部分がひっくり返ります。
 そして、たぶんそのとき、俺は『ダークナイト』を本当に賞賛できるんだと思います。
 
 でもフィクションというのは、たとえ嘘っぱちの出来事と偽りのキャラクターの思考をたどっていても、いくらかは現実の思想を反映したもの、もしくは現実にしみこんでくるものだとも思っていて。
 そう考えると、俺は『ダークナイト』が少しだけ不快だし、少しだけおっかない。
 
 あまりに手放しの評価が多いので、ちょっとムキになって書いてみた次第です。
 総合ではやっぱかっけえよ。あの船のシーンも、ヒース・レジャーのジョーカーも。
 
 以上、よろしくお願いいたします。