マルハナバチが好きなことについて

 マルハナバチが好き。

 五月に入って街路のあちこちでピンク色のツツジの花が咲くようになって、日中に脇を通り過ぎるときに「もしかして」といくらか期待して耳を澄ませてみると、ぶんぶらぶんぶらマルハナバチが仕事をしている音が聴こえることがある。

 暇なときは立ち止まってじっと観察することにしている。黒い毛でもふもふの親指の爪ぐらいのやつがツツジの周りを忙しく飛び回ってから、「うおーっ」という感じでツツジの花弁の中にぐんぐん入っていって、花の中に生えているめしべやおしべを短い脚で頑張って足がかりにしながら花粉を回収している。そして、背中の黒い毛に点々と黄色い花粉をつけてよじよじ出てくる。この花粉が次にもぐり込んだ花のめしべについて受粉が果たされ、ハチも花もwin-win、という感じになっている。

 

 ハチの働きぶりを見ていると妙に心がいやされる。

 彼女たちが集めた花粉は丸められて足の付け根に明るい色のダンゴになる。巣から出てきたタイミングによるのか、要領がいいやつと悪いやつがいるのか、ハチによってダンゴがたくさん集まってるやつと全然集まってないやつがいるのも面白い。

 ちなみに、同じ季節でクマバチも発生する。マルハナバチが手の親指の爪だとすると、クマバチは正味、足の親指一本分ぐらいのデカさがある。どちらも(いじめない限り)刺さないが、クマバチの飛行音はリアルに爆音と形容できるもので、かなりビビる。そいつがマルハナバチと同じくツツジの花弁の中にもぐり込んで力ずくで奥の花粉をかき集めるのも見ている。

 ダーウィンの進化論の有名な逸話に花の形状と蛾のエピソードがあって、「どんな形状の花にもその花粉を回収し媒介する昆虫が存在する」という前提から、蜜がきわめて細く奥まったところに溜まっているランの花にも、それを吸い出す口吻を持つ昆虫が必ずいることをダーウィンは推測していたという。

 実際、そういう長く伸びる口吻を持つ蛾があとになって発見されたわけだが、ただ、クマバチのように力こそ正義で目当ての花の中に潜り込んでいくやつを見ると、あんま体の構造とか関係ねえよな、という気がしないでもない。

 

 花粉を集め終わったマルハナバチは花から離れて、えーと、という感じでしばらく浮遊してから、次の花に目標を定めて飛び込んでいく。

 不思議なのだが、一体、どういう基準で次に入っていく花を決めているのだろうか? おそらく何かしらの根拠、アルゴリズムのようなものがあるのだろうが、完璧とは言えなさそうだ。

 なんでかというと、他のハチがすでに入って用を済ませたあとの花弁(=あんまり花粉が残っていない花弁)を選んでしまっていたりするからだ。ハチの立場で言えばいくらか徒労のはずだ。ただ、花の立場で言えば、花粉をハチにまぶせるチャンスなのでラッキーだ。

 この世界で花が咲くとき、それはハチなりのアルゴリズムとその限界とのミックスで成り立っている。いま住んでいる街だけでなく、この季節の路上のいろんなところにツツジの花が咲いていて、その大半はまあ、人間の都市計画や剪定による部分が大きいとは思いつつ、ハチたちの合理性といい加減さが混じり合ったハチ基準としか言えないものによってこの世界の美しさのいくらかが成り立っていると思うと、なんだか妙な感じがする。

 ツツジ&ハチに限らず、生命というのが基本的に、余計な手間の繰り返しを嫌う合理性と、それを突き詰められない精神的・身体的な制限からできていると思っていて、この世界にもたらされた自然や芸術、もしくは目に見えない構造の「美しさ」を考えるときに、その根底になんか、そういうものがあると思っている。ロジックと適当さのせめぎあい、もしくは適当さそのもの。

 

 AIの本を読んでいると強力な人工知能には合理性はあっても生命的ないい加減さはどうもなさそうで、これからの未来、諸々の設計や工業化、あるいは芸術をAIが完成させることはあっても、それはたぶん別物なんだろうな、という気がする。良い悪いは別として。

 最近、AIが作成したというイラストやアートが話題になることがあって、なんかちょっとそれっぽい、生命的な「ゆらぎ」みたいなものを感じないでもないが、これはCPUの性能がまだそんなでもないとか、学習量が足りないとかが理由で、その結果としてなんかそういう風に見えてるだけで、結局、ディープラーニングでもニューラルネットワークでも、ゆくゆくはまったく違うものとして完成されていくんじゃないかなー、と思う。

 そもそも生き物の脳をまねてAIを設計してもその「適当さ」までは言語化・定義ができない気がして、だいたい定義する必要もなく、さっきも言ったようにこのことの良い悪いは別の話で、すでにハチや人間がこの世界にもってきた美しさをなぞるだけならAIなんて作らなくていいので、AIはAIなりに合理性をこの地上初、徹底的に追及してはじめての良いものや美しいものをつくればいいが、その片隅にいくらかは、合理性といい加減さのあいのこが残っていればいいと思っている。