ここまでのあらすじsanjou.hatenablog.jp
いま流行りの画像生成AIを使って◯◯(例:林檎)に関する注文を出すと、人間がこれまでネットにあげてきた林檎に関する膨大な情報を渉猟して一つのイメージにまとめることができる。
別に、林檎の画像が欲しければ画像検索でフリー素材がいくらでも手に入る。だが、それは画像をつくった誰かにとっての林檎であって(別に、そこまで気合い入れてつくってないかもしれないが)、「俺にとっての林檎」ではないし、「俺とみんな、人類全体にとっての林檎」でもない。
「俺にとっての林檎」や「みんなの林檎」を見えるようにしたければ自分でつくるしかないが、俺にそういうスキルはない。また、できたとしても膨大な手間がかかる。
かつて、「俺とみんな、人類全体にとっての林檎」が見たければ、天才画家の力を借りる必要があった。
林檎という例えについて、実際の果物のリンゴで「みんなの林檎」を描くことに成功した画家は正直思いつかない。いないのかもしれない。
ただ、「最愛」や「無垢」、「希望」、「存在の骨そのものまでしみ込んだ絶望や悪意」といった概念を人物の姿によって表現し、人類全体の奥底に届いた作家はいたと思う。モディリアーニとか、ベーコンとか。
脱線するが、モディリアーニやベーコンなどの画家がスペシャルなのは、彼が大切だと感じたものや感情を動かされたもの、人間や裸体、生物を描いたものが、結果として人類全体が奥底で抱いているビジョンに届いたからだと思う。
これらの芸術家は、個人が個人的な活動を続けた結果、ある意味で人間全体を代表してしまった。そういう才能や手間を称えることが、画家を評価するということの意味の一つだと思う。
話を戻す。
そういう意味で、昔は画家の力を借りないと視覚的な媒体で人類全体の中には入れなかったのだが(俺はデザイナーのことをよく知らないけど、きっと、同じような天才はいるのだろう)、いまはAIの力によって、インターネットという集合知を一枚の絵にまとめることができる。
一つの絵にする、というこの統合作業によって、人類の集合的無意識の中にある「みんなの林檎」に届く。だとしたら、AIすごくねえ? ということだ。
「いやいや、それって、出てきた絵の良い悪いよりプロセスの方を評価してるだけだろ」という批判はあると思います。それで本当に「みんなの林檎」だって言えるのか? という。それは、いまんところ言い返せません。その通りかも。
脱線ついでに、言葉とイメージについて
「俺の林檎」について、絵で描くことは難しくても、頭でイメージすることならできるだろう、と思いきや、それがけっこう難しい。
例えば本を読んでいて、「林檎」という文字を視界に入れても、俺は頭の中に赤や緑の林檎を思い浮かべていないからだ。俺は基本的に、文字を脳内にイメージする行為を完全に放棄して文章を読んでいる。
もしかすると、これは全然ピンと来ない人がたくさんいるのかもしれない。人によっては、頭の中でビジュアライズしているのかもしれないが、俺はまったくやらない。
そのせいか、小説とかで出てくる地理関係や方角に関する記述を理解するのを、俺は異様に苦手にしている。◯◯は△△の北にあって、とか言われてもなんのことだがまるでわからない。こういうやつはどのくらいいるのだろうか?
とにかく、俺は文章を頭の中で視覚化しない。
それでどうやって理解しているかというと、「言語覚」としか言いようのないところで感じている気がする。視「覚」とか聴「覚」と同じ、言葉をキャッチして認識するための感覚だ。
そこで言葉は言葉として扱われていて、いちいちビジュアルに再構成されない。赤い(緑でもいいけど)あの林檎とも、音としてのringoとも違う、言葉の世界の「りんご」があるということで、これは不思議なことだな、と最近思う。
ただ、その「言葉の世界のりんご」は本当に俺のためだけに存在し、俺以外に感じようがなく、それを誰かと共有しようすると、目に見える赤い林檎や音としてringoに変換せざるを得ない。
このときに取りこぼされるものはあまりに多い。その不可能さが悲しく、同時に贅沢なものだな、と思うが、もしかすると、この壁を突破するためのアートが詩なのかもしれないな、と思う。