SFについて

今週のお題「SFといえば」

アホなので、

 高校生の途中ぐらいまで、SFのことをSpace Fantasyの略だと思っていた。

 宇宙に戦艦とかが進出して宇宙空間で戦争したり、よその星に旅行に行ったりするイメージだ。「でも、宇宙に行かない『SF』もあるのに、同じSFってくくりで呼ばれてるのは不思議だな~」とか思っていた。

 いま思い出しても、特に恥ずかしいとか思わない(無知だとは思う)。

 何を言いたいかというと、要するに、そのぐらいには思い入れがないということだ。

 思い入れがないので、こういうことを言う資格はないかもしれないが、どんなScienceでFictionを描こうと、ターゲットは人間に置かれている作品が好きだ。あるいは、反対に人間にまったく焦点が当てられていないか。

 ただ、人間が中心に据えられていない作品であっても、それがかえって作家の人類への偏愛を感じさせるというか、やっぱり人間なんだよな~とか思って読んでいる。

アルジャーノンに花束を

 中学生のときに読んだ。後半の「失われていく」描写がすごく悲しかった記憶があるが、いま読んだら別の印象も抱くかもしれない。得たものはなくなっても、彼が生まれついて持っていた優しさみたいなものは残ったんだな、という。

 若い頃に読めてラッキーだったな、と思うのは、成人してからだとたぶん手に取らなかっただろう。というのは、「泣ける小説」として、あまりに有名だったということを大人になって知ってしまったからだ。

 俺はそういう作品を手に取れない。

 

 

スローターハウス5

 高校生の頃に読んだ。先に読んだのは『猫のゆりかご』で、ブギーポップシリーズの『ペパーミントの魔術師』で言及されていたのをきっかけに読み、そこからヴォネガットにもハマった。

 特定の場面というより、時系列をめちゃくちゃに入れ替えるという特異な作品の構成がすごく印象に残っている。

 俺が思うのは、時間が普通に流れていく普通の小説と比べて、『スローターハウス5』はどの程度、俺たちの人生の本当の姿から乖離しているかということだ。

 回りくどくて申し訳ないが、そりゃ「普通の小説」の方が人生のかたちに近いだろうが、実際のところ、そこまで違いはないんじゃねーか? と思うのだ。

 俺たちが生きていくことは過去に囚われることと未来を恐れること、思い出に支えられることと将来に希望を抱くことでないまぜの混沌になっていて、『スローターハウス5』と、それがどこまで違うもんだい? と思うのだ。

 こういう構成の作品が『スローターハウス5』以前にあったかどうか知らないが、なんというか、生きていくことを表現するために、いつか誰かがたどりついた形式、という必然性を感じる。

 

 

なるたる

 浪人生のときにハマった。基本的に鬱々とした日々だったが、この漫画を読んで余計に気が滅入ったような気がする。

 ろくなことが起こらない作品で、ただ、読んでいて絶望したり傷つくということはなく、といって「やりすぎで、冷めちゃったな」ということもなく、「まあ、実際のところ世の中こんなものかもな」と思いながら読んでいた。

 あと、世界って別に滅ぼしてもいいんだな、っていう。いや、よくはねーけど、フィクションではいいんだな、っていう。

 いま考えたけど、オチからその作品がどのジャンルか導けるところあるな。純文学で人類は全滅しねえしな。

 

 

BLAME!

 大学生のときにハマった。異常という言葉でさえ生ぬるいぐらい規格外の威力の銃を持った主人公が、べらぼうに巨大な建築物の内部を探索し、得体の知れないやたら攻撃的な敵性生物と戦ったり、よくわかんない単位で作中の時間が経過したりする漫画。

 このあらすじからわかるとおり(わかるか?)、人間の感情にはあまりフォーカスしない乾燥した世界観なのだが、一方で、ものすごい振れ幅を持って人の情動みたいなものを描いているところもあって、そこが印象に残っている。

 作中では、主人公たちが暮らしている「基底現実」と呼ばれている現実世界に対して、ネットスフィアという仮想空間が対置されていて、多くの人物がこのネットスフィアにアクセスしたがっている。

 人類は、昔はネットスフィアに接続できたのだが、いまはできなくなってしまったのだ。一種の失楽園なのだ。

 作中に登場するシボという科学者があって、あるきっかけでネットスフィアとつながれそうになるのだが、作業を継続すると存在が消滅する、と警告を受ける。

 シボはそれでもかまわない、という。その場面をよく覚えている。物語全体を通して極端にセリフが少なく、敵と味方の目的はおろか、いま何が起きてるのかもよくわからない漫画なのだが、ここで描かれた熱い感情はそれだけ印象に残っている。

 

 

『アド・アストラ』

 個別に記事を書いたぐらいいい映画だったのだが、社会人になってから印象に残っている作品を思い返すとこれしか出てこなかったので(実際は、絶対もっとあるはず)、書いておく。

 『アド・アストラ』のいいところは、2020年代の現代において次のフロンティアが宇宙だから宇宙を描いているだけで、100年前なら外国でいいし、300年前なら他藩でいいし、1000年前なら村の裏山でいい、ということろだと思う。

 地理的な意味でどこまで遠くに行こうが、俺たちは俺たち自身の心とその問題から逃れられない、ということだ。もし、SFというジャンルが空間的に読者をできるだけ遠くに連れていこうとするのなら、SFであると同時にその限界を示しているのが『アド・アストラ』なのだ。

 俺にとっての名作というのは、どこかにそういう、自らが扱っている手法への諦めが内在している。そして、それをふまえた希望も同時にある。

 限界を抱いたうえでどうするか、みたいな開き直りとか、から元気とかが好きなのだと思う。

 別にSFでなくてもそうなのだが、もしも空想の世界を描くときに科学技術を用いるものをSFと呼ぶなら、むしろ、そのテクノロジーの限界を描いたうえで、「でも、そんなことで人間は負けませんけどね」というのが好きなんだろうと思う。