ロックについて

はじめに

サマソニで複数の日本人バンドのMCが問題に?音楽に対する姿勢やメッセージ性についてのいろいろな意見のまとめ

前の演者の印象的な場面にふわっと乗っかろ、ぐらいの意図で片言マネたんだろ、と軽く思ってたが、海外のイベントで日本人の次のアクトが下手な英語マネしてたら意図がなんだろうがムカつくからやっぱダメだな。

2022/08/22 08:11

b.hatena.ne.jp

 俺の中でロックなバンドを挙げろというと四つあって、スピッツSlipknotoasisエレファントカシマシということになる。

 ただ、この四つのバンドがロックという概念を同じ意味で共有しているかというと、それはまったく違っている。言い換えると、俺にとってロックとは複数の側面を持つ言葉で、ただ一つの意味に集約できない。

 

 スピッツは、歌詞と世界観がロックだと思う。草野マサムネの作詞には全霊で生きている虫とか花とか動物とか、路上とか泥の上でうごめいているものと人間と星と月とファミレスとラブホテルをつないでしまうことが可能で、この「力」をロックと呼びたい。

 出てくる人間が誰かに示す愛情も、セックスのことしか考えていないやつと、もっと原始的なリビドーのやつと、なぜかハンティングナイフを相手に送りつけようとするやつが出てくるので、振れ幅がすごいとかいうレベルを超えており、これをロックと呼びたい。

 

 Slipknotは覆面を被ってそろいのツナギを着た9人組で、見るからに明らかにイロモノであり、デスボイスのボーカルに打楽器隊が3人もいるというよくわからない構成をしていて、とにかく音が重く、それでいて曲が最高にポップだ。

 アイオワの農家しかない田舎から出てきて、退屈と憎悪が異様な濃度のまま膨張しており、ロックスターになったのにそれほど幸せな感じがしない。一方で、聴いていて楽しい曲をつくるセンスがあるものだから、激烈に暴力的で歌詞も陰鬱なのに文字通り「音楽」として成立してしまっていて、無茶苦茶に暴れているのに、その怒りに同調しながらみんな笑顔になってしまうという、そのマジックをロックと呼びたい。

 

 Oasisは多くの人間がこうなりたいと思う生き方をずーっと続けてきたからロックだ。

 良い声と傲慢さと愛嬌を兼ね備えたボーカルと、天才的なソングライティングと傲慢さと愛嬌を兼ね備えたその兄貴がバンドを組んで、良い声を持っている弟が兄の作る良い曲を歌って歌って、ずっと歌っていたら世界で一番になってしまった、という話だ。

 ステージにリアム・ギャラガーが出てきて、彼が両手を後ろ手に組んで歌うと、世界の中心がズレる。この世界には世界の中心がいくつかあり、それは基本的に人間の数だけあるので70億個ぐらいあるのだが、リアムが歌い出すとその数が減る。

 多くの人間がそうなりたかった。ほとんどの人間はそうなれなかったが、その代わりにリアムを見ているだけで幸せだった。少なくとも、この世界で、自分たちの一人だけは夢を叶えることに成功したと、見ていればわかるからだ。その希望をロックと呼びたい。

 

 エレファントカシマシ宮本浩次は最初からずっと戦っていて、それは世間との戦いのように見えて実は余技で、本当は自分自身と戦っている。ずっと、ずっと自分と戦っている。

 宮本浩次にとっての彼自身は、たぶん彼の理想と比べるとあまりに怠惰でいい加減だという点で戦うべき敵なんだろうけど、同時に、戦って倒せば倒すほど「悪い部分がなくなっていく」というところが、むしろ悲劇なのかもしれない。

 当たり前だが、「俺、いい加減にやってんじゃねえ」と思いながら自分と戦って倒すわけだから、次に出てくる敵としての自分は、もっとマジメになっているわけで、これを戦って倒すのは前よりもさらに苦しく、宮本はこんなことをずっとやっている。

 こういう宮本浩次に対し、宮本すげえ、と思って声援を送ると、「ふざけんなこの野郎、俺にエールなんか送ってる場合かお前は。お前自身はどうなってんだ、バカ野郎」と言い返してくるのが宮本で、でもそれが相手に対する何よりのエールになっているので、この狂気じみた誠実さと屈折をロックと呼びたい。

 

 ロックの意味は、ロックによって違う。

 誰それの行いを、ロックだとか、ロックじゃないとか言っても、あんまり意味がなくて、一つの「ロック」をずっとやってきた誰かが、別のロックじゃないことをしても、それで全部がおじゃんになるかというと、そんなに厳しくなくてもいいんじゃないの、と俺は思う。

  「理屈はともかく、単にダセぇよな」。それはある。俺もダセぇと思うし、不快だと思う(事前に、ネタにするってマキシマムザホルモンとリンダ・リンダズで取り決めてたならわからないが)。

 

 おそろしいのは、(ある一つの意味での)ロックじゃない言葉や行いというのが、割とするっと何気なく出てくるもんなんじゃないか、ということだ。

 この、するっと出てくる、というのは、その人の品性や倫理とはあまり関係がないのかもしれない。なんというか、ある種の技術や心構えとして警戒を絶やさず、意識的に遠ざけないと、どれだけ良い人からもこぼれ出てくるのかもしれない(「いやいや、だから、みんな注意して生きようぜ、って話だろ」と言われれば、そのとおりです)。

 そういう意味でも、俺はこれを批判するべきだと思うけど、一方で、これが致命的な汚点であるように言っても、誰もあまり、得るものがないんじゃないかなあ、という気がする。

 面白いと思ってやってしまいました、と言って謝れば終わる話だと俺は思っていて、それとマキシマムザホルモンの「ロック」とは関係がない気がする。

 なんとなく、その場の勢いでやったような気がするので、それを言語化するのは相当嫌な行為だと思うが、逆に言えば、謝ればそれで済む話じゃないだろうか(違ったらすいません。第三者が勝手に結論出すのも変かもしれないし)。

 なんか、ロックかどうかとか、日本の国民性がどうとか、ズレてんだよな、と考えている。