はじめに
学生の頃からものを腐らさせることが得意だった。
惣菜とか弁当とか野菜とか、どこかに暗くて狭いところにしまい込んで忘れてしまう。
腐らせるのがものだけかと思ったら、自分のことも腐らせてしまった。
ものは動くための手足がないからなすすべなく腐っていくのだが、俺には手足があるのに、俺が腐らせたすべてのものと同じように自分自身を腐らせてどうにもならなくなった。
夏フェスが好きなので毎年行く。暗いフロアで照明がビカビカ舞う中、ダンスミュージックやロックで踊る。観客みんなでダンス。一体。
恍惚としながら、99%ぐらいそうなりながら、残りの1%のどこかで間違いなく冷めている。いま鳴ってる曲を共通項に他の人たちと盛り上がりながら、なんかバカみてえだな、と思っている。
恥じらい? プライド?
いずれにせよ間違いなくくだらない何かにはばまれて、バカになりながらバカになりきれない別種のバカが俺。
『エバタのロック』の感想について
『エバタのロック』は中年のロックスター・エバタの活躍を描くギャグ漫画。
…ギャグ漫画? どうだろう。もしかすると違うかもしれない。
ゲラゲラ笑ったからこう分類したけど、違うかも。だって端々でグサグサ心に刺さるものがあったし、最後はめちゃくちゃカッコよかったから。
3巻にエバタのファンの中年のフリーターが出てくる。昨日使ったグラスは洗わずに使うけど、ペットボトルにションベンは溜めないフリーター。自尊心の防波堤がペットボトルにションベン溜めない、というところまでずり下がってる。
エバタのファンなのに、エバタも自分も人間としてのアップデートがもう止まった人間としてまとめて俯瞰している。ヒットソングを会場で合唱することを俺らのぬるい共感装置と言い切ってしまう。
すごくないですか? 傍から見たらそりゃそうだろうけど、自分込みで言えないだろう、普通。
ソロ活動に入ったリアム・ギャラガーのファンが会場で熱狂しながら、「でも結局俺ら一番盛り上がるのはoasis時代の『rock'n'rollstar』じゃん」って。
キャリアをバリバリ継続中のRadioheadのファンがサマソニの会場で「結局俺らが一番聴きたいのって『creep』じゃん」って。
ファンじゃない人は平気で言えるだろうけど、ファン自身心の隅でぼそっと言うこともあるだろうけど、フィクションでそんなん言われると思わなかった。
彼も物語の最後にはいい顔になる。それはまごうことなきロックの力によって。
『エバタのロック』は物語の中でロックの力を証明した。そしてあわせて人生というものの正体を。
それは、役に立たないけど役に立つというロックの矛盾を使って証明された。
ロックは役に立たない。なぜなら、ロックとは目の前に水があるときまったくなんの意味なくそこに飛び込むことだから。
着替えもなくケータイは駄目になり濡れネズミで家に帰ることになる、それでも目の前の水に飛び込むのがロック。つまりロックはマイナス。俺たちがこれまで積み上げたものとこの先に待つものにマイナスをかける行為。
じゃあ、でも、マイナスをかけられる俺らの人生は、本当にプラスなのだろうか?
それはロックとは関係なく単なる偶然であっさりマイナスに反転したり…、というか、そういう不条理に襲われる可能性を抱え、最後は誰もがすべてを失ってこの世から退場する宿命にある時点で、ある意味かなりの部分でそれは決定的に、常に、マイナスなんじゃないのか?
俺たちは必死でそれをプラスだと思い込もうとしてるけど、その懸命なメッキがときに剥がれてマイナスの正体がむき出しになったりするんじゃないのか?
物語の最後にロックにとって決定的な意味を持つあの場所でエバタがかけた「マイナス」は、間違いなく何かをプラスに変えたはずだと思う。そう思うのですすめるので、以上、よろしくお願いします(ちなみにこの漫画で一番笑ったのはエバタが田舎に泊まりに行って田舎のばあさんを持ち前のテンションで強襲したときばあさんが心象でエバタをB29とダブらせたシーンです。基本的にそういう漫画です)。