■目次
はじめに~桜玉吉と出会う今から11年前の話~
俺は現役での大学受験に失敗した。1年間の浪人生活を送ることになった。
家と予備校を往復して、状況を共有できる友達はいなかった。気を晴らせる趣味ももともとない。ひたすら勉強をする生活の中で、あっけなく「気持ちの落ち込んだ変な人」になった。
俺は、勉強の合間でよく死ぬことについて考えた。自殺するといったようなある意味エネルギーのあるものではなく、「死んだらどうなるのだろう」とか、「いま死ぬことを怖くないと感じているけど、もし今後生き続けてまた死ぬことが怖くなるんだったら、俺はいま死んでおいた方がいいんじゃないか」とか、意味も答えもないことを淡々と考えていた。
そんなことを思っていると脳みそがガス状になって溶けていくようだった。それが頭蓋骨のすき間からじわじわしみだして、あたりに散っていくような奇妙な感覚があった。
その後、無事志望校に合格する。それでも、目的を達したとか何かを勝ち取ったといったような喜びはなかった。ただ、勉強中の陰々とした気分をまだ引きずったまま、「ああ、終わったな」とだけなんとなく思った。
「引き換え」だったと感じる。以降ずっと沈みっぱなしになる気分と、大学の合格と。この沈鬱はその後俺の人格の根にべっとりとこびりつくことになって、一方そうやって得た学歴のおかげか、何も築きあげなかった学生生活の割りになんとか正社員として雇用してもらうことができて、要は「引き換え」は入学するときだけで終わらず、その後もずるずると続いている感があった。
桜玉吉の『幽玄漫玉日記』を読み始めたのは、大学入学をひかえた3月のことだ。
古本屋で売られていた1巻と2巻を読むと、鬱になったおっさんの変な漫画家が周囲の別のおっさんとムチャをやりながら日々の生活にあっけなく振り回される様子が描いてあった。
3巻以降を新品で買ってあっという間に読み切った。面白かった。しかし、読んでいて楽しいとか満喫しているとかいった気持ちより、なんとなく「体に合ったものを取り入れている」といった安心感のようなものを強く抱いた。
ずっと昔の話だ。それから、11年の月日が流れた。
『伊豆漫玉日記』の感想
『漫喫漫玉日記』や『日々我人間』を読んでいる方はご存じだろう、桜玉吉は一時期漫画喫茶を仕事場にしていて、その後伊豆で暮らして漫画を描いている。今作『伊豆漫玉日記』も漫喫、伊豆での生活が題材になっていて、『漫喫~』や『日々我人間』と同じ感覚で楽しめる。
『伊豆~』の特徴をあえて言うとすれば、他の作品より作者が何かに怒る描写があまりないところかな、と思う(なくはないけど)。主に、亡くなった父親との思い出やO村編集者とのやりとりなど、ファンとしてどうしても感じ入ってしまうエピソードをまじえつつ、本当に淡々と、日々の生活を描いている。
それで良いと思う。
個人的に、桜玉吉が誰かに怒っているのを見るのがそんなに面白くないのもある。でも、一番には、本当に生意気な話、俺はもう桜玉吉がちゃんと生きて暮らしていることが確認できればそれで良いんだろうと思う。
ちゃんと結婚して子供ももうけて世間で名のある漫画家になった50男に俺がこんなことを感じるのはおこがましい。でも、俺は11年前浪人生活の終わりに『幽玄漫玉日記』でこのおかしなおっさんと出会って以来、桜玉吉と自分を同調させてしまってしかたないのだ。
変わり者であること、世の中とうまくやっていけずに苦しんでいることは、実際のところ、若いうちは一つの個性として成立する。
そんな性格を、こいつ変わってるなあ、と面白がる人もいるし、かわいがってくれる人もいる。変わり者同士が出会えば、それは一種の符牒となってお互いをすぐに親密にさせてくれる。
しかし、齢を重ねるにつれ、変人であることは次第にただの欠点になっていく。周囲から見て面白い、他者にとって何かしらポジティブな意味を持つキャラクターではなく、単なる極私的な重荷になる。30歳になって自分の身を見返してみて、俺はそう痛感する。
だから変わり者は、他の変わり者の幸せを願う。それは優しいから願うのではなくて、自分以外の変わり者を明日の自分自身と感じてしまうから、不幸でないのがわかるとほっとする、ということである。
桜玉吉は伊豆の住居で猿だの蟹だの虫だのと苦闘しながらどうにか生きているらしい。いいことばかりじゃないようだし、いまはただの「凪」なのかもしれないけど(何しろ波乱が放っておかない人物だから)、見た感じ穏やかに暮らしているようだ。
俺はそれが嬉しい。自分のことのように。
あるいは、いずれ自分もそうなれると信じられるから、嬉しいのかもしれない。
おわりに~桜玉吉と出会ってから11年後の話~
「いま」を手がかりに未来のことをイメージするのは難しい。一方、過去のことを根拠に「いま」のことを考えると、まあそれなりに自然な道筋をたどってここにたどりついたな、という気がする。
11年前の桜玉吉に「あんたは将来精神が弱って自分以外の人格が漫画描き始めたとか言い出して連載たたんだ後、漫喫にこもって仕事し始めるよ」と言っても信じないだろうし、過去の俺に「お前は30になっても子供はおろか嫁さんもいないし、あいかわらず自意識の中でもがいてボロボロになってるよ」と言っても「ほんとかなあ」という感じだと思う。
でも、思い返せば「いま」と過去とはちゃんとつながっていて、過去の時点でもう「いま」の萌芽は何かしら見つかるものである。過去になった「いま」から、あの頃未来だった「いま」へと、どうしようもなくつながってここにいるのだと思う(夜空ノムコウ感)。
桜玉吉と俺と、次の11年でどうなっていくのかわからない。わからないけど、俺は俺のことを頑張るしかない。あとは、玉吉が少し少しでいいからちゃんと作品を描き続けて、「ああ、俺らみたいな人間でも生きていかれるんだなあ、人生が続いてもそれなりに大丈夫なんだなあ」ということを、おこがましいけど、感じさせてくれることを祈っている。
余談。今作でもO村編集ご活躍。作中で玉吉にネタにされつつ、一方で男を上げるようなこともしっかり描かれる両者のこの関係。戦友というのか、腐れ縁というのか、もう「知り合い」という言葉でしか表現できないんじゃねえか、というこの感じ、すげえな、とあらためて思いました。(おわり)