『BLUE GIANT』10巻の感想と、破壊されるために生まれてくる者たちについて

※以下、作品の内容について激しくネタバレしています。注意。

 

追記:これはマンガの無印『BLUE GIANT』10巻の感想になります。

映画版『BLUE GIANT』の感想はこちら。

 

はじめに

 いきなり『BLUE GIANT』と関係ない話から入って恐縮なんですが、以前、鬼頭莫宏の作品の感想を読んでいてこんな意見を見かけたことがある。「鬼頭作品に登場するキャラクターは、作者にもてあそばれるために生み出された人形である」と。

 

 そういうことを言いたくなる気持ちはなんとなくわかって、ネットでもよくネタにされるとおり、鬼頭莫宏は自分の作った登場人物に対してまったく容赦というものがない。線の細い少年少女が世の中≒それを作っている作者の手によってことごとくひどい目に遭わされ、再起不能の重傷を負ったり死んだりする。

 そういうとき確かに、悲劇の発生に驚いたり傷ついたりするだけでなく、その悲劇の背景にすべてを司っている作者の存在が感じられて、醒めてしまうことがあったりする。

 

 ただですね。一方で、そういう感想を抱くこと自体不思議だよなあとも思う。そうでもないですか?

 だって、鬼頭莫宏マンガに限らずすべてのフィクションのすべてのキャラクターはいわば作者の生んだ人形だし、彼らの身に降りかかった無数の災難は、基本的に作者の手のひらの上で起こされてきたものなわけで。

 なぜその中で、造物主の意図が透けてしまうものとそうでないもの、登場人物たちが操り糸にぶら下がったがらんどうに感じられるものとそうでないものがあるんでしょうか? その違いはどこにあるんだろーか、とか思う。

 

 『BLUE GIANT』10巻の感想と、破壊されるために生まれてくる者たちについて

 本題。『BLUE GIANT』10巻を読み終えたので、その感想を書く。

 『BLUE GIANT』は、ジャズを題材に若きサックス吹き宮本 大の成長と躍進を描く漫画。

 俺は、このマンガを読んでいてこれまで幾度となく震えさせられた。主人公である大の活躍もそうだけど、天賦の才とそれゆえの傲慢さ、脆さを併せ持つピアノ弾き沢辺 雪祈、ドのつく素人だったにもかかわらず大と雪祈に触発されてゼロ地点から進化と覚醒を繰り返すドラマー玉田 俊二、19歳男子三人の織りなす青春が死ぬほどアツかった。

 

 この10巻は作品の一つの区切りとなることが匂わされていたから、その分何が起こるのか期待がものすごかったんだけど…あかんかった。完全にはストーリーに没入できなかった。

 もっとも、単にあかんかっただけでなくて、心が動かされるところももちろんあったし、上で愚駄愚駄書いたような「物語の裏手にいる作者の存在」についてあらためて考えさせられたという意味で、とても印象に残る巻でもあった。

 

 そういう感想を抱いたのはやはり作中で雪祈が事故に遭う展開のせい。

 日本におけるジャズステージの聖地「So Blue」でヘルプに入り成功に貢献した雪祈は、その対価として大、玉田と組むトリオが同じステージで演奏する権利を勝ち取る。しかし、本番を翌々日にひかえた日の夜、雪祈は道路整備のバイト中にトラックにはねられ、明後日のステージに出ることはおろかピアニストとして致命的な損傷を右腕に負う。

 雪祈を欠いた状態で大と玉田はSo Blueでライブを行い、それは彼らと顔見知りの人々を含め観客のこころに訴えるステージとなったが、トリオは後日解散、大は自分の夢を叶えるため単身ヨーロッパに発つことになる。

 

 俺がこれを読んで感じたのは、雪祈が事故に遭うのははじめから決められていたことだったのだろうか、ということだった。大という主人公を日本国内では安易に大成させないために、一介の無冠のチャレンジャーとして欧州に向かわせるために、雪祈はステージに参加できず、それは最初からそう「設計」されていたのだろうか、と。

 もしそうだとしたら、もう本当に傲慢な話だけど、ちょっと許せないな、と思った。そしてそれと同時に、上で書いたような「作者とその人形であるキャラクター」という問題について考えさせられた(大好きな作品に対してヒドいことを言ってる。すみません)。

 

 上で不思議だねーと書いたとおり、作中で誰かが悲劇に見舞われても、それを不幸に「なった」、と感じる場合と、作者によって不幸に「させられた」と感じる場合がある。

 おそらくポイントは、読者が自分の想定・期待していた展開と作者が描きたい展開のズレを自覚したとき、そしてそのズレをはっきりさせるきっかけとしてキャラクターが「利用された」と感じ取ったかどうか、にあると思う。

 『BLUE GIANT』の例でいうと、俺は大たちトリオの活躍はまだ描かれるものだと思っていたし、聖地「So Blue」で派手に暴れるものだと考えていた。

 しかし実際は、雪祈の欠場によりステージは不完全なものになり、これをきっかけに大の物語は次の段階に進むことになる。

 これは、『BLUE GIANT』は最初から、もしくはすくなくとも現在はもう「大の物語」でしかないということだ。

 作中で事故から目覚めた雪祈が大に、「自分はSo Blue でプレイしたときこれが最後かもと思って臨んだが、お前はこれから何度もあるステージの一回目だと思って演奏したろ」と言ったように、そして玉田が「俺はもう十分できたがお前は違う」と言ったように、はっきりと先にすすむことが許されるのは大だけであって、もうバンドとそのメンバーの描写を期待するべきではない、ということだと思う。

 このとき俺は、自分の認識がズレていた、要は作品が目指している地点を誤解していたことを知る…んだけど、その責任が自分の勝手な期待にあるとすぐには受け入れられない。作者の誘導が思わせぶりなんが悪い、となる(この辺恋愛にも似ている)。

 と同時に、ダマされてムカついた読み手の中であることが起きる。それは、自分がこれまで接してきたものがあくまでフィクションであって現実ではないというどうしようもない真実について目を覚める、こころが一瞬作品から離れるということである。

 このとき物語の背後に作者の影がちらつく。そして、こうして醒めてしまうきっかけがキャラクターの不幸や死であった場合、読者はキャラクターの上に彼らを吊るす糸を見つける。そしてこう思うわけだ。「ああ、こいつは物語のために壊された」と。

 俺の中で、雪祈の身に起こったこととそれをきっかけに展開されたいまのストーリーは、その一例だった。肝心なことは、これはあくまで不幸の内容ではなくその見せ方の問題であって、雪祈が事故に遭おうと死のうと、うまく俺を納得させてだましてくれたのなら、それはそれでよかったんだけども、ってことだ(めちゃくちゃ言ってんな)。

 

おわりに

 長々文句を書いたけど、もっと、もっと、とバンド全体と雪祈と玉田の活躍とを求めざるを得なかったのは、これまでも十分彼らの描写に時間が割かれたからこそだし、冒頭ヘルプで入った雪祈の演奏が炸裂するシーンや、雪祈を欠いたバンドが悲愴な登場から始まって自分たちのプレイングを徹すシーンはやっぱりすげかった。

 雪祈と玉田はここで退場、なんだろうな。次巻からは『BLUE GIANT SUPREME』と改題して、大の欧州武者修行編。続きも楽しみで目が離せない。結局ね。(おわり)

 

BLUE GIANT 10 (ビッグコミックススペシャル)

BLUE GIANT 10 (ビッグコミックススペシャル)

 

 

『極楽とんぼの吠え魂』復活に寄せることについて~放送当日編~

 目の前の相手を「こいつ人として終わってんな」といつ思うかというと、ギャンブルで借金があることを知ったときでも家族や恋人に暴力を振るってることを知ったときでもなくて、そいつが自分の笑いのルーツを語り始めたときに思う。

 「俺が面白さを感じるもののルーツは〜〜にあってさ…」。相手がそう口にした瞬間、それがどんなに尊敬している相手であろうと俺の中でなんかのゲージが基準を超えたところに到達し、今すぐお前の真下に深い穴が空いて、落ちて先で地獄の火で焼かれるといいぜ、と思う。

 

 話はがらっと変わるが、高校生から大学生のはじめにかけてtbsラジオの深夜枠をよく聴いていた。

 月曜日の伊集院光、火曜日の爆笑問題とまんべんなく聴いていたんだけど、特に金曜日の極楽とんぼがやっていた『極楽とんぼの吠え魂』という番組の記憶が強く残っている。

 『吠え魂』はおかしな番組で(まあ、どんなラジオ番組もその番組のリスナーからすればおかしいのだろうけど)、山本なんかリスナーが嫌いだと番組内で公言していたし、加藤が番組中になぜか突然マラカスのモノマネを始めたり、悪ふざけ一辺倒かと思いきや学究的な方向にも振れたり、かと思いきや講師として招いたつもりの医者が医者の皮をかぶったただのおっさんだったりなどした(挙げ句の果てにこのおっさんに歌を歌わせて番組のエンディングテーマにする)。

 いま俺が好きな笑いのタイプは、悪ノリとやけくそから生まれるものを面白いと感じるところに落ち着いている。

 その、追い詰められた者、人として拭い去れない薄汚れた部分を抱えた者の逆ギレに面白さを感じる感覚をはっきりと固定させたものは、放送番組としては『吠え魂』であると思ぅ。←これは足元に急に空いた穴に落ちた描写。

 

 その吠え魂が今夜復活する。

 もちろん楽しみは楽しみなのだが、なんか悲しい気持ちもある。それは、番組に一夜限りという前置きがついていて、これが、山本が淫行事件を起こして不完全に終わってしまった番組を介錯する宣告であるかもしれないからである。

 山本が淫行事件を起こしたのは2006年の夏のことで、俺はそれを知ったとき「おいおい、吠え魂どうなんだ?」と思いながらなぜか夕方に外に出て近所を歩きまわったことをまだ覚えている。アホな話だが事実だからしかたがない。

 その後山本自身から釈明する機会はなく、加藤が一人で最後の放送を行って極楽とんぼとしての吠え魂は終わった。

 そんな風に中途半端なところで打ち切られて宙ぶらりんになった吠え魂が、当時の美しい思い出として保存されていたのが、今夜いよいよ本当に終わりを告げるのかもしれない。時計は先に進んで、夢は覚めるのかもしれない、とも思う(おっさん二人のバカ話とお互いの醜い追い込み合いで構成されていた番組に対して俺は何を言っているのか)。

 

 最初に自分で口にした地獄の火にじりじり自分自身が焼かれていて、うるせえカンケーねえ、俺はまだこの番組について語りたいことがあるんだ。でも、それは今夜の放送を受けての後日の記事に回す。とりあえず10年分のタメがきいた喧嘩コント頼むぞ。以前学園祭で山本が下半身出したときの放送の比じゃないやつ。頼む。

  まあ翌日は仕事でもあるので、これから仮眠しつつ番組を待ちたいと思います。(おわり)

奈良の室生口大野駅から室生寺まで徒歩でいくと何分かかるかについて(別手段との比較あり)

はじめに~いいから歩きでいったらどんだけかかるのか教えろよ、という方に~

 まず前提として、室生口大野駅から室生寺まで行くのには、車道を行くルートと東海自然歩道という未舗装のルートがあります。
 以下を読んでいただくとわかるのですが、この記事を主にあてて書いているのは、室生口大野駅で本数の少ない室生寺行きバスを逃してしまい、時間を気にしている方です。よって、所要時間のかかる東海自然道については、はじめから選択肢から除いてしまっているので、そのことをふまえて読んでいただければと思います。
 
 本題。奈良の室生口大野から室生寺までは約6〜7km、道はほぼ平坦、ところどころ緩い坂道。徒歩で歩くと成人男性が寄り道なしで早足で歩いて約60〜70分かかります(確認済み)。
 室生口大野から室生寺までは、60分間隔でバスが出ています(11時20分のバスのみ、次のバスが13時00分となり100分間隔が空く。くわしくはお寺の公式サイト参照)。
 バスに乗ると約15分ほどで室生寺に着きます。
 
 東海自然歩道を行った場合ほどではないですが、車道を行っても豊かな自然を満喫できます。よって、あえて歩くことで途中の景色を楽しみたい、もしくはよほどお金が惜しい、などの事情があれば、室生寺まで歩くのは有りです。
 一方、バスを待つ時間が惜しい、という理由で歩くのは、上記した所要時間の関係で、やめた方が賢明です。バスを待たずに歩き始めてもそれほど時間は稼げず、最悪途中でバスに追い抜かれます(上記の100分間隔の時間帯を除く)。俺はまずこのことを伝えたかった。
 
 ちなみにバスは逃したが次のバスをどうしても待ちたくない、という場合は、駅前でタクシーを拾う選択肢もあります。タクシー代は2000円超と思われ(2017年2月現在。推計)、時間と出費との天秤になります。
 

つづいて~複数の選択肢を比較したい方に~

 いまこの記事を読んでいる方はこれから室生口大野に向かうところでしょうか。それとも、室生口大野で降りたはいいが、俺と同じように一時間に一本しか来ないバスを運悪く逃したところでしょうか。
 室生口大野で降りた方、そちらはいま春でしょうか。夏でしょうか。それとも、俺と同じように分厚い雪片舞い落ちる極寒の真冬でしょうか。
 「歩いて室生寺までいったら果たしてどのくらい?」そんな疑問をお持ちだとしたら、結論は上に書いたとおりですが、まだ時間はありますか。俺と同じように、携帯電話の電池が切れかかっていたりしませんか
 室生口大野から室生寺に向かうには、大まかに言って5つの手段があります。もしまだ時間があれば、読んでください。
 

1.バス

 片道430円支払うのに抵抗がなく、特に室生寺までの道中に興味がない場合、バスがおすすめです。所要時間は約15分です。
 欠点は上記したとおり一時間に一本しか来ないことですが、それを除けば、早く着きそれほどお金もそれほどかかりません。
 

2.タクシー

 片道2000円以上支払うことに抵抗がなく、またバスを待つ気がない場合の選択肢です。所要時間はバスと同じく約15分です。
 欠点はやはり高いこと、また、駅前にいるかどうか確証がないことです。
 

3.自転車(レンタサイクル)

 実は、室生口大野駅前から歩いて5分の室生地域事務所で、4時間以内1000円で自転車を借りることができます(2017年2月現在)。室生寺までは、片道30分程度と思われます。
 バスを待つ気がなく、タクシーも高いと感じる場合の選択肢です。
 欠点は、天候が荒れた場合は向かないこと、また、当然帰りも乗って帰って返さないといけないことです。
 ただ、室生寺までの道のりはそこまで厳しくないため、弱虫ペダルばりに激コギするつもりでなければきつくないと思います。
 道中の景色を楽しめるのもそれなりの利点です。道に沿うかたちで川が一本走って室生寺までついて来てくれて、チャリの速度で一緒に山を走るのはけっこう爽快で気持ちいいと思います。
 

4.徒歩

 上記したとおりです。室生寺に早く着くためバスを待たずに室生口大野から歩く」という判断はまず成立しません。
 バスに乗り損ねた者として、もう歩いた方が早く着くんじゃねえか?(金もかからないし)、と考えてしまうのがおそらく人情だと思いますが、本当に早く行きたいなら潔くタクシー、ムリならチャリ、もしくは次のバスを待つ、が、おそらく正解の選択肢です。
 強引に歩き始めても、途中で後ろから来たバスにつかまる可能性が高いです。ただ、早く着けるわけではないですが、あえてこの後から来るバスを利用するルートはあります(次の項)。
 

5.徒歩→バス

 室生寺までの道中には、いくつかバス停があります。また、途中からバスの自由乗降制区間に入るため、バス停でない路上でも手を挙げて運転手さんに知らせればバスに乗せてもらえます。
 これを利用し、道中の道のりを楽しみつつ、歩くのがダルくなったらバスに乗ることも可能です(もちろん室生寺に着く時間は室生口大野でバスに乗った場合と一緒)。
 欠点は、最低でもバス停や自由乗降区間までは徒歩で行かないといけないことです。
 タイミングの取り方を失敗するとバスをつかまえられず、全て歩くことになるため、現在時刻と現在地点に注意しましょう。個人的には、室生口大野駅に次のバスが来るまで30分を切っていたら、歩き始めるのは危険な気がします。
 

おわりに~美しき五重塔を目指して~

 この記事は、過日室生寺に行くときにバスを逃してうかうかと駅から歩き始めて後悔した経験を原動力に書かれました。

 室生寺までの道のりは自然が多くて美しく、それをゆっくりと堪能できたことはいい思い出ですが、この感想は93%ほどの負け惜しみを含んでおり、おそらく普通にバスを待って乗った方がよかったものと思われます。

 ここに書いたものが、室生寺への旅行をひかえてどこかでのんびり情報を集めている方の参考となれば、それはそれでとてもありがたいことですが、俺は誰よりも、室生寺大野の駅前でバスを逃し途方に暮れているあなた、そこのあなたにアドバイスをしたかった。

 室生寺への徒歩は覚悟の道、修羅の道です。いさぎよく何か乗り物を使うべきです。それでも一歩を踏み出すなら、それはそれで得るものがあることを、けして否定はしませんが。

 この記事があなたの判断の一助になればそれにまさる幸いはありません。

 

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 たどりついた室生寺五重塔は、想像よりも小さく、しかしおそろしく精緻な、緋色が美しい建物でした。

予告編に偽りなし(良くも悪くも)。映画『ドクター・ストレンジ』の感想について

■目次

        1. はじめに
        2. あらすじ
        3. 感想~映像がすげーというそれ以上でもそれ以下でもない話~
        4. その他雑多な感想~モルドdisとヒロインを褒めたりとか~
        5. おわりに

はじめに

 ビルや地面という本来動かないはずのものが、複雑に交差してうねり倒れかかる。鮮やかな炎が空中を走り、美しい紋章を描いて燃え盛る。「え、何これ、すげえ。なんて映画?」

 どこかで目にした予告編で少しでもこんな興味を持った方。観ましょう。

 

 アメリカのヒーロー映画に整合性とか期待しねえ、ヒーローがカッコよくてド派手で敵味方で全力でドつきあってて変に湿っぽくなければそれでいい、という方。ぜひ観ましょう。

 

 そういう映画です。

 

あらすじ

 優秀だが傲慢な性格の外科医であるベネディクト・カンバーバッチは、ある日不注意で起こした自動車事故により生命線である両手の機能を失う。

 躍起になって治療法を探すも功を奏さず、看病してくれた同僚の女性にも八つ当たりして愛想を尽かされたカンバーバッチは、失意の中で、カトマンズにある「カマー・タージ」という場所を訪れれば、とても治る見込みのない大ケガであっても治癒するという噂を耳にする。

 一縷の望みを託し雑踏うごめくカトマンズに飛んだカンバーバッチ。たどり着いた「カマー・タージ」でエンシェント・ワンと名乗る高僧から彼が見せられたのは、これまでの世界の見方を一変させるような強烈なビジョンを伴う神秘体験だった。

 これを機に、カンバーバッチは精神世界に生きる魔術師の道を歩むことになる。優秀な理解力と記憶力を武器に急速に魔術師として成長していく彼は、やがて闇の魔術をめぐる巨大な戦いへと巻き込まれていく。

 

感想

 上に書いたとおり、予告編を観て気になった方は観に行きましょう。すげえです。

 人間、予告編を観ると無意識のうちに何かしらの期待を抱くもんで、この作品の場合ハンパねえ超現実的なビジュアルと派手なアクションってとこだと思いますが、約束しましょう。その期待は完全に満たされる、と。(他のことは期待すべきでないとも言える)。

 できれば、なるべくでかいスクリーンで観たいところです。俺は日本橋のTOHOシネマズで見ていて、予告編でも使われていた天地がひっくり返ってビル群がぐわあーっとうねっている場面と、カンバーバッチが師匠にトリップさせられて曼荼羅のような幻想世界にぶっ込まれた場面で口をぽかんとあけて完全にバカと化しましたが、やっぱり巨大スクリーンの迫力がひと役買ってたところはあると思う。大きくなくても間違いなく楽しめるけど、なるべく大きい方がいいです。

 トリップの場面はマジですごくて、本当に薬物体験者に取材したのかも、とか思った。

 極彩色の映像が美しさと禍々しさをめまぐるしく反転させながら延々流れて、観ていて脳内がぐにゃぐにゃになりながら「うぉーっ」という感じ。これだけのためでも1,800円…はさすがに言い過ぎだけど、一見の価値ありなのは確かだと思う。

 

 ビジュアル以外に褒めるところというと、変なこと言うようだけど、ラブロマンスがあまりないのが俺はよかった。すごく。

 俺はヒーロー作品におけるロマンスの扱いには一家言あって、ヒーローってのは悪と戦って悪から人々を守るんだけども、この守るべき人々の中で順位付けができない、死ぬほど大切なあの娘も知らないその辺のおっさんも守るべきものとして等価、大切な誰かが守るべき無名の群衆の中に回収されてしまうというのがヒーローの苦しみ、悲哀であって、これで人は守る、ラブも成就させる、となるとこれは虫が良すぎる。二兎を追うなバカ、と思う。

 その点、『ドクター・ストレンジ』にはそういう甘ったるさがあんまりない。けっこうドライである。良いと思う。余計なことしないでひたすら魔術でドつきあってるだけとも言う。まあ、良いと思う。

 

その他、雑多な感想

 ・燃え要素を足しあわせたらなぜかパッとしないおっさんになった話

 モルド(キウェテル・イジョフォー)のことです。

 ①主人公の先輩弟子で高い実力を持つ 

 ②主人公とは性格的に足りないところをお互いに補完し合っている

 ③やがて師の教えに疑いを抱き、主人公とたもとを分かつ

 ④しかし悪に染まったわけではなく、客観的に見れば彼には彼の正義がある

 

 もうね、これは個人的には燃え要素のカタマリなわけです。うにいくら丼にぼたん海老乗っけたようなもんで(発想が貧困)、これでキャラクターが立たないわけがない。

 にもかかわらず、なんなんでしょうか。モルドのこの圧倒的な雑魚キャラ感、ぬぐい去れない三下臭は。

 特に批判しているわけではないんです。なんか、ここまでパッとしねえと逆にすげえな、という話。エンディングにも登場して次回作に含みを残してるけど、お前ごときがはしゃいだからなんなんだ、今のカンバーバッチだったらお前なんかワンパンだぞ、と思ってしまう…が、なんかパワーアップとかするんでしょうかね。

 

・ヒロイン(レイチェル・マクアダムス)超かわいい

 ロマンスあんまりないと書いたばっかりですが、あることはあって、カンバーバッチの医者時代の同僚がヒロイン。超かわいい。

 このかわいさはなんだ?と考えると、たぶん普通の人として描かれているからだと思う。話の中盤戦で自然にフェードアウトしてストーリーが超常化して以降は妙にからんでこなくて、それでいてかすかにカンバーバッチの中に存在感を残す。こういうのでいいんだよ、と思う。

 女優さんのことはウィキペディアではじめて知りました。38歳ですって。

 へえ。38歳。

 

 38歳?

 

 軽い衝撃でした(失礼)。

 

・意外と笑える

 標題どおりで、けっこうクスッとくる場面が多かったです。ラスボス戦に至っては「あれ、俺が観てんのはコメディだったのか?」と思ったぐらい。

 特に主役のカンバーバッチがよかった。俺はひねくれ者なので、海外映画でネアカなマッチョがところどころではさんでくる小粋なジョークに毎回眉根を寄せている。で、今作のカンバーバッチも、実際中身的にはそういうキャラクターと大差ないとは思う。

 ただ、この人の場合、見た目は神経質そうな細おもて、というのがたぶん大きくて、その彼がキメるべき場面でうまくはまらなかったり、理不尽な暴力でズタボロになるのはけっこう面白かった。

 一番笑ったのは、カンバーバッチが修行という名の嫌がらせでエベレストに置き去りにされ、氷まみれになって気合いで帰ってきた場面でした(ここは笑うところではなかったかもしれないが)。

 

おわりに

 細かいことを言うと、どうにも設定で詰め切れていないところがいくつかある気もする。

 「ミラー次元でのダメージは現実にフィードバックされるの?」とか(されなかったらあんなに頑張って走り回ってバカみたいだけど)。

 「アストラル体の現実への干渉の法則がよくわからん」とか。

 エンシェント・ワンの未来視能力、医者だったにも関わらず人を殺めたカンバーバッチの苦悩など、もうちょっと深掘りしてもよかったんじゃ?という部分も散見される。

 ただ、幸か不幸か結局その点の要素にあんまり注目する時間は割かれず、そのせいで集中をさまたげるノイズにもならなかったため、結果としてこの作品は徹底的に圧巻の大迫力光景の中で起こる魔術師肉弾戦映画として完成した。

 これが製作の意図であったかどうかはわからないけど…結果オーライ、な気もする。

 

 上で書いたとおり、次回作を匂わせる終わり方をしている。その中心となるであろうウニいくら丼ぼたん海老乗せことモルドが前述の体たらくなので、ストーリー自体にはあんまり関心が持てないんですが、あの薬物体験をジャンキー以外にも見せつけてくれるような強烈なビジュアルがまた見られるなら、俺アメコミ全然知らないけどまた観に行きたい、そう思う作品でした。…しかし、モルドはすげえよな ←まだ言ってる。(おわり)

 

 

あの道の続きに。『伊豆漫玉日記』の感想

■目次

      1. はじめに~桜玉吉と出会う今から11年前の話~
      2. 『伊豆漫玉日記』の感想
      3. おわりに~桜玉吉と出会ってから11年後の話~

はじめに~桜玉吉と出会う今から11年前の話~

 俺は現役での大学受験に失敗した。1年間の浪人生活を送ることになった。

 家と予備校を往復して、状況を共有できる友達はいなかった。気を晴らせる趣味ももともとない。ひたすら勉強をする生活の中で、あっけなく「気持ちの落ち込んだ変な人」になった。

 俺は、勉強の合間でよく死ぬことについて考えた。自殺するといったようなある意味エネルギーのあるものではなく、「死んだらどうなるのだろう」とか、「いま死ぬことを怖くないと感じているけど、もし今後生き続けてまた死ぬことが怖くなるんだったら、俺はいま死んでおいた方がいいんじゃないか」とか、意味も答えもないことを淡々と考えていた。

 そんなことを思っていると脳みそがガス状になって溶けていくようだった。それが頭蓋骨のすき間からじわじわしみだして、あたりに散っていくような奇妙な感覚があった。

 その後、無事志望校に合格する。それでも、目的を達したとか何かを勝ち取ったといったような喜びはなかった。ただ、勉強中の陰々とした気分をまだ引きずったまま、「ああ、終わったな」とだけなんとなく思った。

 「引き換え」だったと感じる。以降ずっと沈みっぱなしになる気分と、大学の合格と。この沈鬱はその後俺の人格の根にべっとりとこびりつくことになって、一方そうやって得た学歴のおかげか、何も築きあげなかった学生生活の割りになんとか正社員として雇用してもらうことができて、要は「引き換え」は入学するときだけで終わらず、その後もずるずると続いている感があった。

 

 桜玉吉の『幽玄漫玉日記』を読み始めたのは、大学入学をひかえた3月のことだ。

 古本屋で売られていた1巻と2巻を読むと、鬱になったおっさんの変な漫画家が周囲の別のおっさんとムチャをやりながら日々の生活にあっけなく振り回される様子が描いてあった。

 3巻以降を新品で買ってあっという間に読み切った。面白かった。しかし、読んでいて楽しいとか満喫しているとかいった気持ちより、なんとなく「体に合ったものを取り入れている」といった安心感のようなものを強く抱いた。

 

 ずっと昔の話だ。それから、11年の月日が流れた。

 

『伊豆漫玉日記』の感想

 『漫喫漫玉日記』や『日々我人間』を読んでいる方はご存じだろう、桜玉吉は一時期漫画喫茶を仕事場にしていて、その後伊豆で暮らして漫画を描いている。今作『伊豆漫玉日記』も漫喫、伊豆での生活が題材になっていて、『漫喫~』や『日々我人間』と同じ感覚で楽しめる。

 『伊豆~』の特徴をあえて言うとすれば、他の作品より作者が何かに怒る描写があまりないところかな、と思う(なくはないけど)。主に、亡くなった父親との思い出やO村編集者とのやりとりなど、ファンとしてどうしても感じ入ってしまうエピソードをまじえつつ、本当に淡々と、日々の生活を描いている。

 それで良いと思う。

 個人的に、桜玉吉が誰かに怒っているのを見るのがそんなに面白くないのもある。でも、一番には、本当に生意気な話、俺はもう桜玉吉がちゃんと生きて暮らしていることが確認できればそれで良いんだろうと思う。

 ちゃんと結婚して子供ももうけて世間で名のある漫画家になった50男に俺がこんなことを感じるのはおこがましい。でも、俺は11年前浪人生活の終わりに『幽玄漫玉日記』でこのおかしなおっさんと出会って以来、桜玉吉と自分を同調させてしまってしかたないのだ。

 

 変わり者であること、世の中とうまくやっていけずに苦しんでいることは、実際のところ、若いうちは一つの個性として成立する。

 そんな性格を、こいつ変わってるなあ、と面白がる人もいるし、かわいがってくれる人もいる。変わり者同士が出会えば、それは一種の符牒となってお互いをすぐに親密にさせてくれる。

 しかし、齢を重ねるにつれ、変人であることは次第にただの欠点になっていく。周囲から見て面白い、他者にとって何かしらポジティブな意味を持つキャラクターではなく、単なる極私的な重荷になる。30歳になって自分の身を見返してみて、俺はそう痛感する。

 だから変わり者は、他の変わり者の幸せを願う。それは優しいから願うのではなくて、自分以外の変わり者を明日の自分自身と感じてしまうから、不幸でないのがわかるとほっとする、ということである。

 

 桜玉吉は伊豆の住居で猿だの蟹だの虫だのと苦闘しながらどうにか生きているらしい。いいことばかりじゃないようだし、いまはただの「凪」なのかもしれないけど(何しろ波乱が放っておかない人物だから)、見た感じ穏やかに暮らしているようだ。

 俺はそれが嬉しい。自分のことのように。

 あるいは、いずれ自分もそうなれると信じられるから、嬉しいのかもしれない。

 

おわりに~桜玉吉と出会ってから11年後の話~

 「いま」を手がかりに未来のことをイメージするのは難しい。一方、過去のことを根拠に「いま」のことを考えると、まあそれなりに自然な道筋をたどってここにたどりついたな、という気がする。

 11年前の桜玉吉に「あんたは将来精神が弱って自分以外の人格が漫画描き始めたとか言い出して連載たたんだ後、漫喫にこもって仕事し始めるよ」と言っても信じないだろうし、過去の俺に「お前は30になっても子供はおろか嫁さんもいないし、あいかわらず自意識の中でもがいてボロボロになってるよ」と言っても「ほんとかなあ」という感じだと思う。

 でも、思い返せば「いま」と過去とはちゃんとつながっていて、過去の時点でもう「いま」の萌芽は何かしら見つかるものである。過去になった「いま」から、あの頃未来だった「いま」へと、どうしようもなくつながってここにいるのだと思う(夜空ノムコウ感)。

 桜玉吉と俺と、次の11年でどうなっていくのかわからない。わからないけど、俺は俺のことを頑張るしかない。あとは、玉吉が少し少しでいいからちゃんと作品を描き続けて、「ああ、俺らみたいな人間でも生きていかれるんだなあ、人生が続いてもそれなりに大丈夫なんだなあ」ということを、おこがましいけど、感じさせてくれることを祈っている。

 

 余談。今作でもO村編集ご活躍。作中で玉吉にネタにされつつ、一方で男を上げるようなこともしっかり描かれる両者のこの関係。戦友というのか、腐れ縁というのか、もう「知り合い」という言葉でしか表現できないんじゃねえか、というこの感じ、すげえな、とあらためて思いました。(おわり)

 

伊豆漫玉日記 (ビームコミックス)

伊豆漫玉日記 (ビームコミックス)

 

 

『双亡亭壊すべし』3巻の感想について(?)

■目次

      1. (太ももの)はじめに
      2. まとめ(太ももの)

 はじめに~3巻のあらすじ…?~

 お化け屋敷破壊漫画『双亡亭壊すべし』第3巻。

  建物に潜入した霊能力者に絵描き、役人の破壊者チームも館の魔の手によって順調に(?)無力化されていく。しかし、悪化し続ける事態の中で、絵描きの青年 凧葉がついに館の突破口をつかむ。

 一方、館の外では作中最強火力でありながらまだ現場に合流していない謎の少年 青一と、その友人であり館に父親を殺された少年 緑朗が、現職総理大臣に連れられて国会議事堂に。二人はそこで、あの「双亡亭」がただのお化け屋敷ではなく日本国が以前から恐れ続けた究極の事故物件であることを知る。

 館の中で、外で、状況が動き始める。攻略法の判明もあればさらに絶望感をあおる事実の判明もあるのだが…すみません、白状する。今巻はね、主に太ももしか見ていませんでした。

 

 さすがに太ももの話ばっかりするわけにいかないので、それ以外の話をもう少しくわしく。

 潜入者たちが館の中で目にしたもの、それは封鎖されたお化け屋敷にあるはずのない、彼ら自身を描いた人物画だった。そして、それを目にした者は画の中に引きずり込まれてしまうのだが、絵描きの凧葉だけがこの攻撃を攻略することに成功する。

 画の中は奇妙な空間になっていて、正体不明の男が一人、そこに座って抽象画のような妙な画を描いている。凧葉は同じ絵描きとしてこの男に興味を持ち、会話をすることで、今後重要になると思われるある能力を授けられる。

 館を破壊しに来た者の中で直接の攻撃力を持たないのは凧葉だけだったので、ここで彼に役割が与えらた感じ。

 凧葉はこの力を使い、仲間である戦闘巫女 紅のところへ。彼女を救出し、フラグをさらに太くするのだった。

 青一、緑朗組は、自らも双亡亭に因縁を持つ総理大臣と防衛大臣に連れられて国会議事堂へ。建物内の、部屋はあるが扉はない、いわゆる「開かずの間」を見せられ、「双亡亭」の瘴気は町内どころか国全体を覆うものであることを示唆される。そして、彼らを追って議事堂に参集するのは…。藤田和日郎女の子とオッサンとジジイがうめえよな。

 

 あと、お化けがあらためて怖い、という話。『双亡亭壊すべし』で出てくるお化けは前から怖かったけど、今巻もおっかないお化けがいっぱい出てくる。

 俺は漫画は絵が上手くなくても成立するものだと思ってるけど、当然絵が上手いことによって描けるようになるものはあるわけで…、藤田和日郎の描くオバケ、超コワい。

 人体を絶妙にゆがめて描かれる、知ってるものが既知と未知の混ぜ合わせになって現れる不快感。怖いとか気持ち悪いという感覚は、既知の部分の名残があって最高に高まるものだとわかる。少しネタばらしすると「双亡亭」による潜入者への攻撃は恐怖が重要なファクターになっており、この設定に対して作者の力量が示す説得力、すげえぞ、と思う。

 

 で、太ももの話なんですけど。戦闘巫女の紅さんが火で衣服を焼かれた。火、GJ。3巻のMVPは火。

 

まとめ

 館の潜入者たちは徐々に脱落。紅含め、他の霊能力者では館の中で生存するのが精いっぱい。直接ダメージを与えられるのは青一だけっぽいので、はよ現場へ。疾く。疾く。

  でもこのままだと紅さん含め霊能力者の方々がバカみたいなので、どこかでちゃんと戦力としてカウントできるような展開にして欲しい。好色山伏とか良いキャラしてるし。

 務が絵の中で会った謎の絵描きがやっぱり坂巻 泥土なのかしらん?

  空間転送という、ある意味青一よりすごい能力を持つキャラクターが出てきますが、紅のためにズボンなりなんなり持ってこれるだろうに…。さすが、わかってるな。

 まあ何が言いたいかというと戦闘巫女の太もも最高だぜ、ということでしょうか。私はもしかするといま『スプリンガルド』の変態のような顔をしているのではないでしょうか。(おわり)

 

双亡亭壊すべし 3 (少年サンデーコミックス)

双亡亭壊すべし 3 (少年サンデーコミックス)

 

 

死線に挑む、『LIMBO THE KING』の感想について

はじめに~俺が思う田中相について~

 田中相さんは「越境」を描く漫画家さんだと思っている。勝手に。
 自分と他人。
 人間と動物。
 人と神。
 自分の知らないどこか、自分とは違う何者かに向かって一歩踏み出すことを描く作家さんだと思う。
 新作、『LIMBO THE KING』も越境の物語である。ただし、今作で主人公が超えようとするのはそんじょそこらの境界ではない。死線である。ある意味神様のものになるよりも危険な(前前作『千年万年りんごの子』)、残酷でシンプルな死地に主人公は挑む。

■目次

    1. はじめに(上記)
    2. あらすじ
    3. 『LIMBO THE KING』のみどころ
    4. 謎と今後について
 
 

あらすじ

 ときは近未来、2086年。かつて世界は「眠り病」と呼ばれる奇病に襲われ多数の犠牲者を出したが、「ダイバー」と「コンパニオン」というスペシャリストによる治療法が確立され、病はすでに根絶されて8年が経過していた。
 海兵 アダム・ガーフィールドは、任務中に事故に巻き込まれ、片足を失った状態で病院で目を覚ます。退役を考える彼だったが、上官によってある提案を聞かされる。それは、彼が眠り病治療の専門家「コンパニオン」としてきわめて高い素質を示したこと、コンパニオンになれば高い給与が得られること、そして、一般に撲滅されたと言われている眠り病の被害者が、再び発生しているということだった。それも、かつては一度罹患すれば再発しないと思われていたはずが、回復後も発病する「新型」となって。
 はじめは渋っていたアダムだったが、家族の生活費を稼ぐためにコンパニオンとなることを決意する。相棒となる「ダイバー」は、なんと眠り病を根絶した英雄として『キング』の異名を持つ男 ルネ・ウィンター。過去にいわくありげな変わり者であるルネとともに、アダムは新型眠り病へと戦いを挑む。
 

LIMBO THE KING』のみどころ

「…何人死ぬんだ 今回は」
「さあ… まだ始まったばかりだ」

  前前作『千年万年りんごの子』のときもそうだったけど、事態をぎりぎりと絶望的にしぼる描写が上手い。ただし今回は、神様にとられるという抽象的な話でなく、主人公たちは病による現実的な死と戦うことになる。

 この死の描写の強烈さが印象的だった。「ダイバー」や「コンパニオン」は眠り病の患者の精神と同調することで治療を行うのだが、失敗すると自分たちの肉体がクラッシュしてしまう。この描写がすごくて、顔の穴という穴から血を噴き出して歯を食いしばり、文字どおり「ぶっ壊れて」しまうのだが、田中さんこういうのも上手く描けるんだ…という感じだった。
 
 一方、相変わらずの良さがあるなあと思わされたのはセリフ回し。田中さんの漫画は、以前から人と人とが交わす会話という行為への慈しみみたいなものが感じられて、とても良い。
 そういう作風と、『LIMBO THE KING』に出てくる軍人や眠り病と戦うサイエンティストたちの描写は、歯車ががっちりかみ合ってる感じがする。生死の最前線で奮闘しつつ、なかばプロの義務として常に余裕を見せるため軽口を叩き事態を的確にまとめることが求められる彼らの存在が、セリフの使い方によって生き生きと伝わってくる。
 
 あとは、作品世界を支える設定も細かいとこで凝ってていいですね。
「君は毎回明晰夢を見るのだろう?」
「今じゃサプリで明晰夢なんて見られるし珍しかないでしょ」
「ダイブの技術が生まれてから51年 今のところ我々にわかっているのは天然は何にも勝るということ なぜなのかは不明だがニセの明晰夢は4.2%の確率でダイバーをキックアウトできない」

  俺はアホなので、その作品でしか通用しないこういう細かい話が出てくると簡単に萌えます。キャーッとなります。ちょろいもんです。

 

謎と今後について

 作中に大小いくつかの伏線が張られていて、そこがどう明かされていくかも楽しみのひとつ。具体的には、
 
・アダムと眠り病患者であったらしい彼の父との確執
・ルネの妻の身に起こったこと
・そもそも眠り病とはなんなのかということ
・ルネがアダムの上官に言った「自らの作った地獄で助けを乞うて果てろ」という言葉は、眠り病の発生原因がアメリカ軍にあるということか、という疑問
 
 など。すごい細かいところだと、作中で一度だけ出てきた「ゾエ」という名詞も。人名? ルネとは違う凄腕のダイバー? こういうの、中二心くすぐられる…。
 
 行動派の楽天家と頭脳派の変わり者とのバディが挑む謎解き活劇、という現時点の構造だけで十分期待して楽しめてるところだけど、個人的には「人間はなぜ眠る必要があるのか」「夢を見るのはなんのためなのか」というでかいテーマまで描いてもらえると、うれしいなあ、とか思います。
 アダムが夢の中で会う謎の女の子がいて、たぶん眠り病と強い関係があるこの女の子が、なぜか患者でないアダムに見えるということが、作品が今後全人類的な話に展開していくことを示唆しているような。そうでもないような。
 ともかく、田中相ファンはもちろん、SFサスペンスとしても質が高い作品だと思う。次巻も楽しみです(次は2017年7月だって。遠い!)。