ポジティブな虚無に立ち向かう大傑作。『トロフィーワイフ』の感想について

はじめに

 新年あけましておめでとうございます。
 本年一発目、まったく年明けと関係のない記事で恐縮なんですが、舞城王太郎の『トロフィーワイフ』の感想をまとめます。
 『トロフィーワイフ』、すげーよかったです。帰省中の列車の中で前のめりで読み込んでしまった。個人的には、舞城作品代表作の一つに挙げたいぐらいすごい作品だと思います。 

おおまかなあらすじ

 物語のフォーマットとしては、人間の関係性とか心のあやふやな部分とかをバチバチの会話と疾走感のある思弁で削りだしていく、舞城作品によくあるものです。

 

 主人公・矢吹扉子には棚子という姉がいます。棚子は美人で優しく裏表もない、まさに非の打ち所がない女性なんですが、妹の扉子はその完璧さをかえって不気味に思っており、棚子が周囲の人間まで「棚子化」していく、性格も趣味も優れた人間へと変えていくその奇妙な影響力も含めて、苦手にしています。

どうなってんの?って感じ。正直。《完璧》って天体のさらに惑星直列、みたいなのが、どうやら姉を中心に起こってる。p.15 

 その棚子がある日、自分の夫のところから家出してしまいます。
 それは、棚子が夫のある言葉にショックを受けたからなんですが、この言葉がなんなのかはおいておくとして(いわゆるひどい悪口や浮気の告白ではないところがミソ)、棚子は旧友の家に上がり込んでそこの家事手伝い兼旧友の義父母の介護福祉士みたいな立ち位置に納まってしまいます。扉子は母親から頼まれて、旧友のところまで棚子を連れ戻しにいきます。

 

ポジティブな虚無

 以下、ネタバレを含みます。未読の方はできればそちらを先にどうぞ。

 扉子はまず旧友に接触し、それまで義父母の介護と育児に忙殺されていた旧友が棚子が来たおかげで仕事を始めたことを知ります。
 扉子は、棚子がいつまでいるかもわからないのに、まるでずっとそちらにいることを前提にしたかのような友人の行動を非難し、棚子を連れ戻すことを通告しますが、友人はすべては棚子が棚子の好きでやったことだし、もうその存在を組み込んで物事を決めてしまったのだから、連れて行かれては困ると扉子をなじり返します。
 このあたりは『淵の王』にも似たようなやりとりが描かれていました。ただ、『トロフィーワイフ』がすごいのはここからで、いざ旧友宅に着いて棚子とひさしぶりに対峙した扉子は、棚子の介護を受けている友人の義父母が棚子への感謝とお詫びを口にするその様子から、老人たちが正しく、善良に、「棚子化」されてしまっていることに気がつきます。

 「何言ってるんですか。玲子さんと健吾さんのお世話は楽しいし、こうやって一緒にいられるだけで嬉しいんですから」

 「もうええんや。もうええんやで…」

 と涙を拭うおばあさんの後ろでおじいさんは黙ったままで、ただニコニコ泣いていて、……それを見て、私は何故かぞっとする。 p.68

  こうして棚子は周りの人間を自分と同じ善人に変えてしまうことで自分の心地よい環境をこの場所に作ってしまった。しかし実は、ここでは棚子のすごさと同時に、別のものも描かれています。
 それは、棚子の周囲の方がいかにいい加減で、影響されやすいかということ、棚子からの影響の受け取り手として、本来の自身の甲乙の基準を、どれだけ簡単にすり替えてしまうかということです。

 

 ここで、棚子が作中で夫から言われたある言葉が効いてきます。

 夫が棚子にしたのは、動画で観たというある心理実験の話でした。まず、被検者たちに複数枚の絵を見せ、その中で順位をつけさせる。その後、真ん中あたりに順位付けされた絵を被検者にプレゼントする。後日、あらためて同じ群の絵の中で順位をつけさせると、なんとプレゼントされた絵が順位を上げる、という結果が出た…そういう実験です。
 ここでも人間の価値判断の曖昧さがあらわれたかたちですが、棚子は夫からこの話を聞いて、もっと深刻な受け止め方をした。棚子は、仮に自分以外の人間を妻に迎えても夫は今と同じくらい幸せになった=自分が選ばれる必要は本当はどこにもなかった、という風に受け取ったわけです。

 

 肝心なことは、ある程度それは正しい、ということです(少なくとも作中ではそう扱われている)。
 ある程度の範囲で、人間は何を選んでも幸せになれる。これは一見きわめてポジティブな事実なようでいて、考えようによっては恐ろしくむなしいことでもあると思います。
 棚子が周囲の人間を変えて表面的には幸せにしたように、また、棚子自身夫から聞かされたように、もし人間が生きていく中で何を選んでも幸せになるのであれば、複数の選択肢の間で悩むことには、実は意味がなくなってしまう。悩み、ときには苦しんでまで何かを決断することには意味がなくなってしまう。俺たちの人生が苦悩と決断の連続だとしたら、実はそれらは丸ごと無意味だということになってしまう。
 では、その上で行動し、判断するとはどういうことか。『トロフィーワイフ』はそこを問う作品であり、ある意味では絶対悪(『ディスコ探偵水曜日』)より、お化け(『淵の王』)より恐ろしい、巨大な虚無に立ち向かう作品だと思います(おおげさかな? でもそういう読み方の方がスリリングなので)。

 

選ぶことのむなしさを知りながら、何かを選ぶということ

 とにかく扉子は棚子を連れ戻すべきだと思ったので、棚子に帰ってくるよう説得する。
 このとき扉子=その言葉を書く舞城王太郎は、ものすごく難しい綱渡りをしていると思います。
 まず、棚子は別に悪いことをしているわけではない。家庭内に外部の人間が闖入して環境を一変させてしまう事例は、フィクションなら『クリーピー』、現実なら北九州一家殺人事件などがありますが、棚子はこれらの犯人たちとは全く異なる。
 一応、自分の影響力をもって友人宅を変えてしまった自覚、少しの引け目は棚子にもあるようですが、表面的には棚子が来たことで好転したことばかりなので、棚子を倫理的に責めることは難しい。
 この倫理的な無欠さに、上で書いた「何を選択しても正解になってしまう」というポジティブな虚無が上乗せされます。
 扉子自身、このむなしさをある程度認めている。つまり、棚子を連れ帰ろうが連れ帰るまいが、ある意味どちらでもいい(というか、どちらでもよくなる)ことがわかっているわけです。

「そうだよ?人はどんな人生だろうと、同じくらい幸せになるよ」p.89

 もしどちらを選んでもみんなそれなりに幸せ(に自らを軌道修正してしまう)なら、棚子を連れ戻すという面倒な上に波風の立つ選択肢をあえてとる理由はなんなのか。そんな選択を貫き通すためにがんばること自体、選ぶことのむなしさを理解する者としては矛盾しているじゃないか。
 でも扉子は棚子を連れ戻そうと決意する。友達の家で周囲を感化し続ける棚子を止めようとする。
 舞城作品の主人公らしく、扉子は最後まで自分が正しいのか迷いを介在させながら、それでも、無意味なはずの決断を勇気をもって行う。それがすごくいいです。

 

おわりに。『トロフィーワイフ』はなぜ家庭内の話であったか

 俺は、この選ぶことのむなしさと選ぶことの勇気が同居した作品が、家族内のごたごたを通して描かれたのが、本当に最高だと思います。
 舞城王太郎は怪獣も書けるしお化けも書けるので、問題を扱う上でもっと規模がでかかったり生死のかかったような世界観もありえたはず。でも、家出した姉を言葉で説得して連れ戻すという、これ以上の枠組みはなかったと思います。

 だって家庭というのは、相手に言うべきかどうか微妙なことや、言う必要はあるんだろうけどそれを言う自分は意地悪じゃなく本当に相手のことをちゃんと思っているのかわからないことが、膨大に渦を巻いている空間だからです。

 

 これを言ったら傷つくだろうけど言った方がいいんだろうな、とか。
 こうアドバイスしたいけど実は理解が足りてなくて、かえって混乱させないかな、とか。
 注意したいけど、相手のことを思ってじゃなくて、いつか口論でやりこめられた仕返しになってないかな、とか。


 そんなことがひしめいていて、なおかつ重大なことに、言わなくてもまあ、なんとかそれなりになってしまう、そういう場所。だからこそ、この作品の世界観としてすばらしいと思うわけです。

 そういうわけで、すげえと思うので紹介しました。
 なお、この作品を収めているのは『されど私の可愛い檸檬』という短編集なんですが、これと同名の短編もものすごくいいので、こちらもおすすめします。『美味しいシャワーヘッド』と同じノリの、器用さと不器用さがタチの悪い感じで混在したクソ野郎にグサグサくる内容でグッドなんで、あわせて以上、よろしくお願いいたします。

 

されど私の可愛い檸檬

されど私の可愛い檸檬

 

 

腐ってるやつら、ライブで踊っててもどこか冷めてるやつら、『エバタのロック』を読もうぜということについて

はじめに

 学生の頃からものを腐らさせることが得意だった。


 惣菜とか弁当とか野菜とか、どこかに暗くて狭いところにしまい込んで忘れてしまう。
 腐らせるのがものだけかと思ったら、自分のことも腐らせてしまった。
 ものは動くための手足がないからなすすべなく腐っていくのだが、俺には手足があるのに、俺が腐らせたすべてのものと同じように自分自身を腐らせてどうにもならなくなった。

 

 夏フェスが好きなので毎年行く。暗いフロアで照明がビカビカ舞う中、ダンスミュージックやロックで踊る。観客みんなでダンス。一体。
 恍惚としながら、99%ぐらいそうなりながら、残りの1%のどこかで間違いなく冷めている。いま鳴ってる曲を共通項に他の人たちと盛り上がりながら、なんかバカみてえだな、と思っている。
 恥じらい? プライド?
 いずれにせよ間違いなくくだらない何かにはばまれて、バカになりながらバカになりきれない別種のバカが俺。

 

エバタのロック』の感想について

 『エバタのロック』は中年のロックスター・エバタの活躍を描くギャグ漫画。
 …ギャグ漫画? どうだろう。もしかすると違うかもしれない。
 ゲラゲラ笑ったからこう分類したけど、違うかも。だって端々でグサグサ心に刺さるものがあったし、最後はめちゃくちゃカッコよかったから。

 

 3巻にエバタのファンの中年のフリーターが出てくる。昨日使ったグラスは洗わずに使うけど、ペットボトルにションベンは溜めないフリーター。自尊心の防波堤がペットボトルにションベン溜めない、というところまでずり下がってる。
 エバタのファンなのに、エバタも自分も人間としてのアップデートがもう止まった人間としてまとめて俯瞰している。ヒットソングを会場で合唱することを俺らのぬるい共感装置と言い切ってしまう。

 すごくないですか? 傍から見たらそりゃそうだろうけど、自分込みで言えないだろう、普通。

 

 ソロ活動に入ったリアム・ギャラガーのファンが会場で熱狂しながら、「でも結局俺ら一番盛り上がるのはoasis時代の『rock'n'rollstar』じゃん」って。

 

 キャリアをバリバリ継続中のRadioheadのファンがサマソニの会場で「結局俺らが一番聴きたいのって『creep』じゃん」って。

 

 ファンじゃない人は平気で言えるだろうけど、ファン自身心の隅でぼそっと言うこともあるだろうけど、フィクションでそんなん言われると思わなかった。

 

 彼も物語の最後にはいい顔になる。それはまごうことなきロックの力によって。
 『エバタのロック』は物語の中でロックの力を証明した。そしてあわせて人生というものの正体を。
 それは、役に立たないけど役に立つというロックの矛盾を使って証明された。

 

 ロックは役に立たない。なぜなら、ロックとは目の前に水があるときまったくなんの意味なくそこに飛び込むことだから。
 着替えもなくケータイは駄目になり濡れネズミで家に帰ることになる、それでも目の前の水に飛び込むのがロック。つまりロックはマイナス。俺たちがこれまで積み上げたものとこの先に待つものにマイナスをかける行為。

 

 じゃあ、でも、マイナスをかけられる俺らの人生は、本当にプラスなのだろうか?

 

 それはロックとは関係なく単なる偶然であっさりマイナスに反転したり…、というか、そういう不条理に襲われる可能性を抱え、最後は誰もがすべてを失ってこの世から退場する宿命にある時点で、ある意味かなりの部分でそれは決定的に、常に、マイナスなんじゃないのか?
 俺たちは必死でそれをプラスだと思い込もうとしてるけど、その懸命なメッキがときに剥がれてマイナスの正体がむき出しになったりするんじゃないのか?

 

 物語の最後にロックにとって決定的な意味を持つあの場所でエバタがかけた「マイナス」は、間違いなく何かをプラスに変えたはずだと思う。そう思うのですすめるので、以上、よろしくお願いします(ちなみにこの漫画で一番笑ったのはエバタが田舎に泊まりに行って田舎のばあさんを持ち前のテンションで強襲したときばあさんが心象でエバタをB29とダブらせたシーンです。基本的にそういう漫画です)。

『デビルマン Crybaby』の感想、あるいは幼い飛鳥了はなぜ泣いていたのかについて

はじめに

 遅ればせながら『デビルマン Crybaby』を観まして。
 率直に言う。泣きました。
 素晴らしかった。
 というわけで感想を書きたいのですが、もちろんすでにたくさんの方が感想を書かれているので、あんまり言及されていないように見えるところにしぼって感想を書きます。

 

・第9話のエンディング
・ライバル燃えの中二病患者が観る『デビルマン Crybaby』
・泣き虫、飛鳥了の物語としてのCrybabyについて

 

 って感じです。ネタバレ上等。観た人向けです。よろしくお願いします。

 

第9話のエンディング

 まず、Crybabyは音楽がとにかくめちゃめちゃ仕事している作品です。
 オープニングの『man human』も、エンディングの『D.V.M.N』も、その他のbgmも最高にカッコよかった。


 で、その中でも異彩を放ってるのが、第9話の特別エンディングに使われた『今夜だけ』という曲です。
 俺はこの曲とそれ似合わせて流れる映像を観ながら、ぼろぼろ泣きました。

 

 以下、本当にネタバレ全開です。

 

 あれはたぶん、エンディングテーマというよりストーリーの一部として観ることが正しい映像なんじゃないでしょうか。
 どういうことかというと、死ぬ寸前に美樹が見た心象風景として、明と一緒にバイクに乗って夜明けの光の中を駆けていく光景があって、それに『今夜だけ』という曲をあてたものを、俺たちは見ていたのだと思います。


 明と美樹がああして一緒にバイクに乗ることは、現実には一度もなかった。明が到着して助ける前に美樹は死んでしまった。 
 しかし死ぬ前に、自分がいつか待ち望んでいた夢を美樹は見ることができた。それがあの映像なのではないか、と思うのですね。
 バイクに乗っている明と美樹の雰囲気が、完全に恋人同士のそれに見えることもこれが美樹の夢だと思う理由のひとつです。
 美樹と明の関係って、現実では恋人まで発展しきらなかった。お互いにかけがえのない存在であることは明らかだったけど、その奥におそらくあった恋愛感情までは表に出されなかった。
 起きることがなかった気持ちの告白を心の中でして、夢の中ではあるけど、二人は恋人同士になった。「今夜だけ踊らせて 今夜だけ打ち明けて」という『今夜だけ』の歌詞も、それを暗示しているんじゃないかと思う。

 そういう映像だと思います。そして、最後瞼が閉じられるようにしてフェイドアウトして、その夢は終わっています。

 

ライバル燃えの中二病患者が観る『デビルマン Crybaby』

 Crybabyは欠点が全くない作品なんでしょうか。

 全然そんなことないです。
 特にキャラクターの行動は支離滅裂に感じられる部分が多々ある。
 特に了は自分勝手な理由で一般人を殺しちゃうし、そのどさくさで明を悪魔にしちゃう。物語が進めばその理由はわかるけど、最初は意味が分からない。
 他にも人によって気になるところがあると思います。原作とCrybabyにおける明が悪魔化するきっかけの違いとか。

 でも、それらをふまえて俺は言いたい。

 了のせいで最後にすべてを失った明と、明のために最初からすべてを仕組んでいた了。
 宿命の二人が物語の最後に激突する。もうそれでいいじゃないか。

 

 Crybabyの音楽が素晴らしいのは上述しました。
 でもそれを脇に置いても俺は言いたい。最強のデビルマンである明と悪魔の祖・サタンである了が激突する。もうそれだけでもいいじゃないか。

 

 俺は中二病なので、物語の最初から深く因縁を絡ませてきた同士が最後の最後で戦う展開が大好きで、もうあっさりノックアウトされてしまうのです。

 例えばペコとスマイル(もしくはドラゴン)とか。
 あるいは藤木源之助と伊良子清玄とか。
 瀬能宗一郎と木久地真之介とか(松本大洋多いな)。
 ヴァッシュとナイヴズ(もしくはレガート)とか。
 アーカードアンデルセンとか。
 名無しと羅狼とか。
 雨宮夕日と東雲三日月とか(少年画報社も多いな)。
 椿三十郎と室戸半兵衛とか。

 物語の序盤から相手への重たい愛と因縁がすごいわけですよ。それが飽和しきったところと物語のクライマックスがシンクロするわけですよ(アンデルセンはクライマックス前だけど)。
 それが熱くないわけないじゃないですか。それでいいじゃないですか。それでいいですよ。こまけえことはいいんだよ!

 

泣き虫、飛鳥了の物語としてのCrybabyについて

 Crybaby(泣き虫)という言葉が指す人物は二人います。一人は明、もう一人は了です。
 明が泣き虫なのは作中で何度も描かれていますが、了が泣き虫なのも物語の冒頭で匂わされています(猫が死んだときに幼い明が言った「了ちゃんも泣いてる」)。
 他者への共感を欠いた一見冷徹な人格である了の本質を明は見抜いていたのだと思いますが、じゃあ了はなぜ泣いていたのか?

 

①猫が死んで悲しかったから
②大切な人である明が悲しんでいて自分も悲しくなったから
③泣きたいのに泣くことができないから

 

 ①②もあるでしょうが、最終的には③が一番大きいのではないかと俺は思います。

 まず、「了ちゃんも泣いてる」と明に言われたときの了は、実際に涙を流してはいないと思います。
 このときカメラは了の左横顔を映しているので、映っていない右側で実は泣いていた、という可能性はありだと思いますし、俺は最初そういう演出だと思いました。
 ただ、物語の最後にサタンとなった了が本当に流した涙の重みを考えると、このときはやはり涙は出ていなかったのだと思います。それもあって、了も自分が泣くはずがないと考えた。だから、このとき明が何を言っているのかわからなかった。
 ただ、了自身気づいていないところで、了はちゃんと物事を悲しむ心の動きを育んでいたんじゃないでしょうか。しかし、それを自覚することまではできなかったし、落涙するという肉体的な動作で表すこともできなかった。そして、そのことで強く苦しんでいた。

 涙を流すことができず心で泣いていた了の心を、明だけが見通すことができた。これが、「了ちゃんも泣いてる」の意味なのではないかと思います。


 その了も、物語の最後で明を失って(おそらく)はじめて涙を流し、悲しみという感情を自分がもっていたことをようやく認めます。
 考えてみると、サタンである了は人間よりも先に地上に存在していて、後発である人間が地上で繁栄し愛情らしきものを獲得しても、ずっと孤独だったわけです。孤独で、自分の感情の表し方を知らなかった。
 これをCrybabyのモチーフのひとつである陸上競技にたとえると、他者への理解と優しさの獲得という知的生物としてのゴール地点が設定されているにも関わらず、見当違いの方向に一人で延々と走り続けているようなものです。
 Crybabyという作品は、この迷える孤独なランナーたる了が、後発の別のランナー(明や美樹)に並ばれ、追い抜かれ、しかし最後にバトンを任され、ようやくゴールにたどりつく物語とも言えると思います。
 そういう意味では了はまさしくもう一人の主人公であって、第10話で明の方はわりとあっさり死んじゃうんですけど、そこで物語の焦点がはっきりと了の方に当たるようにされているのは、ストーリーの流れとして素晴らしかったんじゃないかと感じます。

 

おわりに

 物語の最後に地球が再生しているような描写がありますが、個人的にはおまけみたいなもんかな、と思ってます。
 現実には叶わず夢の中だけで見ることができた美樹の夢と、すべて失うことでしか了自身気づけなかった自らの感情の正体とは、それが救いようのない悲劇の中で起きたことだからこそ、圧倒的に美しいと思うので。
 まあ細かいことはどうでもいいじゃないですか。どうでもよい。俺たちは、また熱いライバル作品がひとつ増えたことがおおいに喜ぼうじゃないか…そんな風に思う次第なので、以上、よろしくお願いいたします(作品からのメッセージを大量に取りこぼした解釈)

 

DEVILMAN crybaby Original Soundtrack

DEVILMAN crybaby Original Soundtrack

 

 

歯を食いしばる90分間。『クワイエット・プレイス』の感想について

主演:釘

その他大勢(人とかモンスターとか)

 

はじめに

 『クワイエット・プレイス』を観てきました。90分間、観ている間ずっと歯を食いしばっていました。

 緊張がすごかった。最初から最後まで恐ろしく、そして、面白かった。

 突如襲来した怪物によって人類がほぼ全滅したところから物語が始まります。この、音を探知して襲ってくる怪物から、かろうじて生き残ったある一家がいました。

 聡明で頑健な父親。子供たち。そして、臨月を迎えた母親。

 一家が物音を殺しながら送る緊迫の生活が描かれます。劇中で時間はあまり進まず、困難を乗り切ったと思ったら数秒後にすぐ次が来ます。本当にすぐ来ます。

 この密度が良かったです。ずっと歯を食いしばっていたので、歯茎にはダメージが溜まりました。

 

 以下、感想を書きます。わりとネタバレありです。

 ある程度は伏せますが、まだ観ていない方は、ぜひ劇場で観てきてください。絶対劇場で観た方が面白い映画です。

 ただ一つの注意点は、静かだったところにいきなりドン! バン!があることです。

 これはけっこう人によって敬遠しがちなポイントだと思います。テクニックとしてそういうのは卑怯だろ」という理由で嫌いな人もいるだろうし、シンプルに体がビックリしてつらい、という人もいると思います。

 予告編でもそういうのがありの作品だよ、というのは匂わされてますが、それにしてもかなり多かったので、嫌いな人はやめた方がいいかもしれません。

 

感想

・一家について

 まず、役者の演技がすごくよかったです。

 沈黙というルールによって支配されたこの世界で、キャラクターたちは全員声を出さずに自分の感情を示すこと、そして、それを観客にも伝えることを求められます。

 で、そういう環境で愛情を伝えたり怒ったりすることになります。手話を使ったり、手をつないだり、ハグをしたりして。

 この設定、一歩間違うとすごくチープになると思います。それがそうならなかったのは、役者がみんな上手かったからだと思います。

 特に、出産を迎える母親役(エミリー・ブラント)。家族を励まし、子供を産み、怪物ともバトる八面六臂。強く、賢く、キュートでした。

 あと演技の話じゃないんですが、この映画、一番幼い子供が最初に犠牲になります。

 これ、物語に緊張感を与える上でも、すごく効果的だったと思います。つまり、「子供でも死ぬ」映画として。

 

助演男優賞:生き残ってたじいさん

 この人も物語においてすごく大切な役目を果たした、と個人的に思ったキャラクターに、一家以外に生き残っていたじいさんがいます。

 父親と息子が魚を採りに行った帰り、二人は自分たちと同じように生き残っていたらしい、ひとりの老人に出会います。

 しかし老人は見るからに正気を失っていて、彼の妻らしき女性の死体(怪物にやられた? もしくは老人が錯乱して自分で殺した?)の近くにいて、緊迫した空気の中、父親の制止もむなしく老人はヤケクソのように絶叫し、怪物の餌食になります。

 この場面が物語的に大切というのは、残酷な話だけど老人が死ぬことで緊張感が保たれるところ。

 それからもうひとつ、彼の死が自死に近いものであったことから、この世界の敵が怪物そのものだけでなく、精神的に「折れる」ことにもあるのが伝わるところです。

 たいていのパニック映画で死因となるのは体力や知恵比べで負けることですが、『クワイエット・プレイス』においては、常に休まらない生活の中ですり減っていく心が、自らを殺してしまう。

 こうして子供を持たない(たぶん)老人が、妻を失って壊れてしまうこと、守るものがないことで人がどうなってしまうかを自分の前で見せつけられて、父親は何を思うか。それをとおして観客は何を感じるか。

 そういう理由でここは大事な場面だと思います。あと単純に、父親とじいさんの対峙する緊張感がものすごかった。「やめろ! 声を出すな!」と観ながら思ってしまった…。

 

・声を出せるとき、全力で走っていいときのボーナスタイム感

 ここまで書いてきたとおり、基本的に声は出さない、動くときはゆっくり動く、がルールの世界観ですが、これを破ってもいい、というか破らざるを得ないときもあります。声よりでかい音が出てるとき、あるいはもうどうしようもなくクソやベーときです。

 このときはキャラクターも声を出しますし、全力で走ります。この緩急のつけ方がよかったです。

 もちろん、ヤバいけど声も出せない、というシチュエーションこそがベースにあって、それさえ超えた非常事態中の非常事態なんですが、この「どこでキャラクターに躍動性を取り戻させるか」というのが、とても上手かったと思います。

 最初は、キャラクターは本当に最後までしゃべんないのも演出的にありだったんじゃね、とも思ってました(あるいは、エンディング前のあの場面で母親が最初で最後、ひと言何か言うとか)。

 でも、クサすぎるかなと思い直した。音を立てたら即死、と言いつつ実はちょっと喋る。そういう、いまのかたちで良かったと思います。

 

・釘(主演)

 突然ですが、物語における主人公の条件とはなんでしょうか。

 それは、ストーリーで焦点が当たっているときはもちろんこと、姿を消しているときでも観客がそのゆくえを気にかけてしまう存在感であり、ひとたび画面に登場すればいやがおうにも視線を集めてしまう圧倒的な華(はな)を持っていることです。

 また、ミステリアスな部分などもあると魅力がより引き立つでしょう。

 『クワイエット・プレイス』においてその条件を満たすある存在がいます。釘です。

 釘は一家が住む家の階段から一本だけ突き出しており、物語の序盤、一家の母親が持つ洗濯袋のハシに引っかかるというかたちで鮮烈に登場します。

 絶対に音を立ててはいけないという条件の中現れた、階段から飛び出した釘。釘にズームするカメラ。

 この時点でもう観客は釘のトリコと言っていいでしょう。

 次に釘が出てくるのはいつなのか…。この映画は釘のことを考え続ける90分と言っても過言ではありません(ネタバレすると、釘の活躍は1回だけでした。俺は、最後は怪物が踏むと思ってた)。

 ミステリアスな部分はどこかというと、なぜかとんがった方を上にして階段に刺さってるところです。いったいどういう構造でああなってるのか。

 

 

 っていうか早く抜けや!

 

 

・わからなかった点

 序盤で、夜になったときに山の上に火が灯りますが、あれは一家以外の生き残りが燃やしてたんでしょうか(俺のカン違いか?)

 長女が怪物の弱点を認識したのは、どの時点?(補聴器をいじったとき? それとも、父親の作業室に入ってはじめて合点がいった?)

 

 これはマジでわかんないんで、わかる人がいたら教えてください。

 

おわりに

 そういうわけで、『クワイエット・プレイス』、とても面白かったです。

 ツッコミどころはないわけじゃないんですよ。というかけっこうある。

 怪物の強さが微妙だなー、とか(やや力押しすぎる。唯一、家の地下が水没する場面で水中に静かに潜る、あの動作は最高に気持ち悪くて最高だった)。 

 怪物の弱点があれで強さがあれぐらいなら、誰か気づくだろうし後は兵力でどうにかなるだろ、とか。

 メディアもある程度怪物の正体を把握するまで機能してたわけだし、なおさらそこから人類全滅せんだろ、とか。

 父親はああいう自己犠牲的な扱い方して欲しくなかったな、とか。

 っていうか釘はやく抜けや、とか。

 

 でも、それでも面白かった。まったく集中の切れない映画体験でした。興味のある方は、ぜひ観た方がいいと思ったので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 

 

『呪術廻戦』をジャンプのHUNTER×HUNTER・BLEACH枠と呼んだ私が全裸で土下座してから腹を切ることについて

 大変失礼いたしました、と謝罪から入るんですが。
 
 1巻のときまで、表題のようなことを不遜にも考えていた。で、2巻を読んだ。
 枠とか代わりとかそういう次元じゃない傑作であると、このときになってようやくわかった。まことに申し訳ありませんでした。
 
 いや、1巻のときからず抜けて面白かったよ。衝撃だった。
 でもお化け出てくるのは『BLEACH』もだし。能力の描き方は『HUNTER×HUNTER』ぽいし。
 モノの描き方が冨樫に似てるし。でも冨樫は描いてくれねえんだ。BLEACHは作品が終わってしまった。
 
 ジャンプ的に、次の「そういうの」が欲しいのかな、と思った。
 冨樫のファンって冨樫の穴は誰にも埋められないって思ってるけど(思ってないか?  でも俺はそう)、違いますよ、と。ちゃんとこういう作品がありますよ、と。
 そういう流れを受けて出てきた作品だと思っていた。
 
 違いました。
 
 HUNTER×HUNTERが毎週掲載されようがBLEACHがいまでも続いてようが『呪術廻戦』は載るよ。
 いや、そうすると雑誌内のジャンルの偏るとかあるかもしんないけど、でも載るよ。
 だって抜群に面白いもん。
 
 特にすげーな、と思うのは、作者の芥見さんは絶望感を出すのが本当に上手い。
 2巻まできて、主人公たちってものすごい格上と戦うことが多いんですね。え、作品始まったばっかりで、もうそういう相手とマッチアップするの?  という敵とやらされる。
 当然ボロ雑巾にされるんだけど、ただ肉体的に痛めつけられるだけじゃなくて、存在として圧倒される。精神的になぶられ、オモチャのようにもてあそばれる。
 で、作者のすごいところは、そういう絶望感を一コマにきゅっと圧縮してみせてしまう。
 よく戦闘マンガで、ページめくったら見開きで誰かいきなり死んでました、という演出がある。
 でも『呪術廻戦』では、普通に同じページ内の次のコマで状況が一変してたりする(ちなみに、他にこういうことができると個人的に俺が思ってるのが『ゴールデンカムイ』です)。
 敵と味方との圧倒的な差を描ける実力があると、「ページをめくらせることで読者の視界をいったん強制的に切る」という仕切りが必要ない。
 マンガのコマの流れを不利な側の目線に沿って組み立て、そのコマ運びの中に、強い側はひょっと乱入する。なんとなく腕とかももいでみる。それだけで、十分格の違いが伝わる。
 芥見さんはそういうのが本当に上手いと思います。
 
 もう一つすげーなと思うこと。この漫画、とにかく展開が異常に早い。ものすごいスピードで物語が進行していく。
 なぜ早い、と感じられるかというと、物語のフレーム自体が割とよくあるものなので、ストーリーの進み具合を肌で感じやすいから。
 まず、基本的に悪いエネルギーだけど使い方次第で役に立つパワーを秘めた主人公が登場する。
 その周りに、同年代の仲間とか先輩とか師匠が登場する。敵が出てきて敵の幹部が出てくる。
 敵味方で戦闘が発生し、激化して、使用される火力が上がり攻撃手段も複雑化する。
 これはいかにもよくあるフォーマットで、『呪術廻戦』もこの形式に見事にのっとっている。しかし、このよくある流れに沿いながら、なんか2巻の時点で普通の長編漫画が中盤戦でやるような、強キャラ同士が満を持して繰り広げるような戦闘をしている。
 
 主人公の師匠のバトルがこの巻ではじめて描かれる。
 敵がまず強い。作中の火力の上限がこいつのせいでいきなり跳ね上がる。
 火力がすごすぎて、もう地形とかちょっと変えちゃう。あとすごい悪い。一般人も平気で大量に殺す。
 対する師匠。もっと強い。
 
 師匠の能力ははっきり言ってわかりにくい。
 でも間違いなく強い。というか強すぎる。こいつに勝てるやつっているのか?  というレベルで強い。
 バトルの内容自体については、クソ熱いけど珍しいものだとは思わない。重要なのは、「これは普通もっと後半でやる感じの勝負でないか?」…そういうバトルを2巻の時点でやってるということ、それが、俺はなんかマジですげえと思う。
 
 『ゴールデンゴールド 』の感想でも書いたけど、とても少ない、本当にごく一部の作品が、ある錯覚を感じさせることがある。
 それは、作品をエンタメであったり何かのメッセージを伝える目的でつくると同時に、作品というひとつのフレームを使って、何か実験のようなことをしているという錯覚である。
 例えば『ゴールデンゴールド 』を読んだとき、俺は、「これは超一級のストーリーであるとともに、物語が面白さを損なう臨界まで作中に情報量を詰め込む試み」だと感じた。
 で、『呪術廻戦』である。
 俺はこれは、よくある戦闘マンガのフォーマットを序盤から最高速度でぶん回したら何が起きるかって試みとしても読んでいる。
 作ってる側にそんなつもりはないかもしれない。というかたぶんない。でも、なんかそういう楽しませ方をさせる求道的な気配を勝手に感じてしまう。
 物語を進めるとき、その速度を速めたらどうなるか、普通に考えれば、フォーマットが高速で消化されるだけだろう。
 でも、『呪術廻戦』がこの速度で進んでいったとき、なんかまったく未知の何かが起きるんじゃないか? その何かを、物語上の起承転結とはまた別に楽しみにして読んでる。
 
 最後に、文句を一つだけ。おまけページで作者が説明なさっている、作中の特殊能力である反転術式と術式反転の解説について。
 すみません、何回か読んだけど、マジでわかりませんでした。
 そういうわけなんで、もう一回読み直そうと思います。
 次巻は年末?  かな? 楽しみです。以上、よろしくお願いいたします。

 

呪術廻戦 2 (ジャンプコミックス)

呪術廻戦 2 (ジャンプコミックス)

 

 

The bizarre is still here. 『岸辺露伴は動かない』2巻の感想について

はじめに

 1年弱前のことなんですが、わたくし信者の方に刺される覚悟でジョジョシリーズの最新作『ジョジョリオン』をクソミソにけなす記事を書きまして。

 要は戦闘が全然面白くないのも含めて読者が置いてきぼりになってないか、って内容だったんですけども。

 で、先日のことです。ジョジョシリーズから今度は『岸辺露伴は動かない』という短編集の2巻目が出たんですね。私もあんな記事は書いたけれどもファンだから、買ったわけです。

 

 …いやー、面白かったですねえー。

 

 手のひら返しもいいとこなんですけど。でも、読んでてめちゃめちゃ楽しかった。なので、以下その感想を書きます。

 

「奇妙さ」はなお続く。

 「ジョジョ」の何が好きか。

 ファンの人に尋ねたとき、その答えは本当にたくさんあると思います。

 頭脳戦と肉弾戦が錯綜する緊迫のバトルを挙げる人もいるでしょうし、緻密に描き込まれた絵を挙げる人もいると思います。

 独特のセリフ回し、絵画のような魅力のある風景、豊富な雑学って人もいるでしょう。また、言葉にできない、独特の「空気感」としか言えないものが好き、という人もいると思います。

 俺は、率直に言うとこれらの魅力のうち、かつての戦闘描写と絵にあった良さは、『ジョジョリオン』になってだいぶ失われたんじゃないかと思っています。

 絵については好き好きかもしれませんけども、戦いの運び方だけは本当にまったく評価できません。

 いまの戦闘シーンは5部のポルポの指食いとか初期のGEのダメージを跳ね返す描写が延々繰り返されているようなものだと思います。読者としてどこを信用したり考察しながら読めばいいのかよくわからないわけです。

 ただ一方で、シリーズを重ねてもまったく輝きを失わない部分があります。

 俺たちも日常の中でふと感じる、違和感とか生理的な不快感というもの。周りの風景や他者の中に感じる、「…あれ?」という感覚。

 つまり「奇妙さ」と呼ぶべきもの。これは、いまもなお続いていると思います。『ジョジョリオン』においても、『岸辺露伴は動かない』においても。

 

短編だからこそできることがあると思う。

 その中で、『岸辺露伴は動かない』を特別こんなにも面白く感じたのにはやっぱり何か理由があるんだろうと思うわけです。たぶん、短編ならではの良さというものと「奇妙さ」との調和みたいなものが。

 漠然とした、かつ創作論みたいな話になりますが、この点をもう少しくわしく考えてみます。

 この短編集では色んなトラブルが主人公である露伴先生を襲ってくるわけですが、見直してみるとあることに気づきます。

 それは、露伴先生は必ずしもこれらのトラブルの全部を解決はしないということです。とりあえず大ピンチを脱したので急いで撤退した、というエピソードがけっこうあります。

 長編だとこういうただのその場しのぎはあんまりないですね。

 長編であれば敵対する者は基本的に打倒されないといけない。優劣がつけられないといけない。もし決着がつかないなら、それは伏線となって、やはりいつか白黒つける必要が出てきます。

 短編はその辺うやむやにしてもいいというか、謎は謎のまま、というのが許される気がします。敵わないものは敵わないまま、ということも。で、ジョジョの「奇妙さ」というのは、この曖昧さの中でなかなかいい感じに映えるようです。

 また、「ジョジョ」の主人公たちはスタンドという特殊能力を使うわけですが、彼らをどんな脅威が襲うかというと、同じスタンドを使う敵なわけです。

 一方の『岸辺露伴は動かない』を見ると、露伴先生を苦しめるのはスタンド以外のものであって、それは生物だったりスタンドは持たないけど常識を超えた超人だったり、もっと意味のわからない「現象」としか言えないものだったりします。

 短編はこのへんもいい加減でいいんだろうな、と思います。

 スタンドはあくまで、この世界の「奇妙さ」を説明するための一つの解釈に過ぎない。長編だと色んな不思議をスタンドという枠組みだけで説明していかないといけないけど、短編であれば世界の多様性をもっと自由に描きながら、次のエピソード、次のエピソードと身軽に飛んでいける。

 こうした短編ならではの特徴と「ジョジョの奇妙さ」との相性がもたらすものこそ、『岸辺露伴は動かない』の良さなんじゃないか、と思うわけです。

 

おわりに。他のキャラの短編集も見てみたい。

 そういうわけで『岸辺露伴は動かない』、すげえ面白かったのでファンの方もそうでない方も読んだらいいと思います。

 露伴先生ってジョジョシリーズでもかなりの強キャラなんですが、思い返すと読んでいるとき、「とっととヘブンズ・ドアー使って解決しちゃえばいいのに」って思わなかったんですよね。

 これはけっこう不思議なことで、スタンド使えばもっとスマートにトラブルを解決できただろうに、ともかく露伴先生のピンチにひたすらハラハラさせられていた。まさにこの短編集の凄みというべきでしょう。

 こんな感じのフォーマットで、個人的には露伴先生以外のキャラのお話も見てみたいと思います。

 ホル・ホースが主を亡くした後に世界を行脚する話とか。

 ミスタがジョルノの右腕として活躍する話とか。

 ああいうフットワーク軽くて有能でコメディもできるキャラクターたちの短編集、あったらぜってえ見たいぞ、と思ったので、以上、よろしくお願いいたします。

 

岸辺露伴は動かない 2 (ジャンプコミックス)
 

 

 

京極夏彦作品に感じる違和感とフィクションにおけるイカレポンチの扱いについて

はじめに

 2~3月にかけて狂ったように京極夏彦の『巷説百物語』シリーズを読んでいた。

 面白い。ファンといってよいかもしれない。

 しかしその一方で、実は、読みながら違和感を感じる瞬間があった。

 それもたまにではない。多々あった。

 俺はこの違和感について整理しておきたいと思った。なので、以下そのことを書く。

 

 注意。この記事は基本的に京極夏彦作品に対する批判であり、フォローも特に入りません。悪口ばっかです。

 なので、ファンの方、作家さんへの批判を許せない方はここで読むのをやめるか、アホがなんか妄言を吹いてるな、ぐらいにとらえていただければと思います。

 

フィクションにおけるイカレポンチの扱いについて

 『巷説百物語』シリーズについて、話の流れはおおまか次なようなものである。

 

 ①何か世間を騒がせるような問題、怪事が起きる。

 ②その裏には正気を失った狂人やら悪人やらがからんでいるようだが、もろもろのしがらみがあって、事実をそのまま明るみに出すことができない。

 ③そのため、妖怪という超常的な存在を持ちだしそのせいにすることによって、世間を煙に巻き、事態を丸く収める。

 

 俺は『巷説~』の何が気になったのか。それは、作中における狂人、つまりイカレポンチの扱いであった。

 

 このシリーズには、理由もなく人を斬りたくなったので実際に斬っちゃう人とか、理由もなくイライラするので権力をかさに着て暴力をふるっちゃう人とかが大勢出てくる。

 ポイントは「理由もなく」というところで、彼らがそういう狂気に陥ってしまった背景はほとんど語られない。彼らは、単にそういう人、という扱いでぽんと作中に登場する。

 彼らが、単に作中に波乱を起こしたり暴力による緊張感をもたらすだけの存在ならそれでもよい。好物である。

 また、彼らが大暴れした後、自分よりもっと大きなパワーによって打倒されるならそれもよい。これも好物である。

 俺が強烈に違和感を抱くのは、『巷説百物語』が彼らを破滅させるとき、自らの罪を自覚させ、それによって自滅させようとするところにある。

 物語に登場した彼らは、単にパワーで押しつぶされて敗れるのではない。

 彼らは、彼らがそれまでの生き方を続けていく限界に追い詰められて、それによって破滅する。

 自分より強大な者が出ようと出まいと、狂人たちはすでにどん詰まりにいたわけで、彼らはそのことを悟って滅びるのである。

 俺は『巷説~』がその過程を描くときのやり方に、腑に落ちないものを感じるのであった。

 

 俺は、悪人や狂人がもうそれ以上その生き方を続けていけなくなって破滅するとき、その狂気の根本に何があったのかわからないのは、よろしくないのではないか、と思う。

 これは、悪行への裁きは何をしたかだけではなく、その原因となった要素も含めて下されるべきだと考えるから、そう思うのかもしれない。

 ただ、別の理由もある。

 「こいつはイカレポンチなんですが、その原因や背景はよく知らないです」「でも悪いことしたから死んでもらいますね。それも、思いっきり自分自身に絶望して」

 なぜ自分が狂っているのか、なぜ自分は悪いことしかできないのか…。

 そのこともちゃんと描かれないまま、創作者によって自らの限界を悟らされ、死んでいく。

 そんなイカレポンチは、クリエイターにとって都合がよすぎないか?

 作り手として、楽をしてしまっていないか?

 というか、受け手である俺はそれをそのまま受け止めていいのか?

 そう感じるのだと思う。

 

 『ドラゴンボール』のフリーザとか『殺し屋1』の二郎・三郎なんかは、ああいうド外道になった理由なんかは特に語られない。

 こいつらは、単に力比べで負けて破滅していく。だから、主人公によって成敗されなければのうのうと生き続けただろうと思う。

 一方、町田康の『告白』で主人公の熊太郎が凶行に及ぶとき、そこには主人公の生い立ちと、自分として生きた結果どうしようもなく行き詰ってぶっ壊れる様子が、膨大なページ数を割かれて描かれている。

 熊太郎は自分として生きた結果破滅するしかなかった。ある意味はじめから詰んでいて、最後の最後に自分でそのことに気づいた。

 小説としてのこの流れに、俺はとんでもない衝撃を受けた。この小説のせいで文字通り人生がねじれたと思う。

 

 凶行に及んだ理由や背景さえしっかり描かれれば、下された裁きに納得いくのか。

 いわゆる精神病質とか過去のトラウマとか、そういう属性付けで狂気に説明をつければいいのか。

 

 そんな簡単じゃない気もするが、イカレポンチの扱い方、狂気の消費のしかたについて、俺はこう思った次第なので、以上、よろしくお願いします。

 

 (追記:『巷説~』における凶行の全部が全部理由不明なわけではないので付記します。「帷子辻」とか「野狐」とか。これらはシリーズ中でも特に俺の好きな章です)