ヒーローの空虚と仮面がようやく裏返る。『劇光仮面』1巻の感想について 2/3

sanjou.hatenablog.jp

 続き。

 

 前回は、ヒーローと呼ばれる存在の分類として、「継承」と「逆上」の二種類(もしくはその両方)があると書いた。

 ここには道徳的な善悪は関係ない。銃撃事件の犯人もカルト宗教の教祖も、見る人によってはヒーローだ。

 そして、継承か逆上か、どちらによってヒーローになったとしても、やっぱりヒーローはヒーローだ。イエス・キリストウルトラマンもエレン・イェーガーも、みんなヒーローである。

 

 こうなると、なんでもかんでも、他者から熱烈な敬意を寄せられていることだけがヒーローの条件、ということになってしまいそうだ。

 バラバラな像を持つヒーローたちについて、結局はそれが一つの正解だと思う。ただ、あと一つ、俺なりにヒーローたちの共通項を示しておきたい。

 

 空虚さ、だ。俺はヒーローはみんな、空虚だと思っている。

 

 イエス・キリストがヒーローなのは、特殊な力や知性のためでも、人でもあり神でもあるという出自のためでもなく、天にいる父から使命を受けたからだ。

 例えば、イエスに双子の兄弟がいて、イエスと同じ能力を持っていて、ただ彼の場合は、神から役目を与えられずに地上に来たとする。

 「彼」はヒーローになるだろうか? おそらく、ならないだろう。どれだけすごい力を持っていても、彼には使命がないからだ。

 言い換えると、イエスがクライスト(救世主)なのは神から継承した使命があるからであって、イエスそのものはこのミッションを入れるための器に過ぎない。

 また、例えば、『進撃の巨人』のエレンに強大な力があったとしても、エレンが巨人やこの世界に怒りを抱かなかったらどうだろう。

 これも、ヒーローと表現するのは難しいはずだ。怒りや激情、不条理な世界への抵抗こそエレンの本質であって、どれだけ特殊な力を持っていても、怒りがなければヒーローにはなり得ない。

 

 つまり、ヒーローというのは、誰かから役目を与えられたり、何かへの強い反動があってはじめてなれるのだ。言い換えれば、根本的に他者に依存していて、空っぽであり、純粋にそれ自身でヒーロー、という存在は成り立たないのだ。

 鋭い人は、こう考えると思う。

 「でもそれって、普通の人はみんな空っぽなんだから、ヒーローとそれ以外を区別する基準にならなくねえか?」

 それは正しい。

 なので、もう少し詳しく定義する。

 「与えられた使命や激しい感情が、自分自身の空虚と強いコントラストをつくっている一方、その空虚が隠されてもいる、不思議な二重状態にある者」。少しややこしいが、これがヒーローという存在だと思う。

 

 ヒーローの一部は変身する。もしくは仮面を身につける。

 それは真の力を解放するためだったり、逆に本当の姿を隠すためだったり、いずれにしてもそのマスクの内側には、実体というか、熱い血肉が詰まっていると思われているはずだ。

 でも、俺は逆なんだと思う。

 善でも悪でも、継承者でも逆上者でも、すべてのヒーローに共通する「がらんどう」を覆い、かたちを与えるために彼らは体を変形させ、マスクを身につけるのだ。

 そうしなければ、彼らは存在できないんじゃないだろうか? それは、器で覆うことでしか、この世界に「無」を表現できないのと同じように。

 

 空虚、というヒーローのこの本質に注目した作品は、あまり多くないと思う。

 あえて言うと、『トライガン』とか、『ナンバー吾』だと思うが、一番興味深いのはイエス・キリストの『新約聖書』だろうか。

 はりつけにされて処刑されるとき、イエスは天の神に向かって言う。「エリ、エリ、レマ サバクタニ(神よ、なぜ私を見捨てるのですか)」

 骨の髄、血の一滴まで救世主と思われたイエスが、最期の瞬間に、自分は神によって遣わされた副次的な存在に過ぎないことを自ら明らかにする。

 おそらく、他のヒーローたちなら堂々と死を受け入れるのではないだろうか。それこそ、イエスを熱烈に信仰するキリスト教徒たちだってそうするだろう。

 しかし、当のイエス・キリストはそうしなかった。逆説的に、これがイエスを無二のヒーローにしていて、『聖書』のすごさだと思う。

 

 それはともかく、ヒーローの空っぽさは、それこそが本質にもかかわらず、あまり描かれてこなかった。

 そんな中でようやく、「空洞であることが強さである」と断言する作品が現れる。『劇光仮面』の登場、ということだ(よし、ようやく話がつながった)。