ヒーローの空虚と仮面がようやく裏返る。『劇光仮面』1巻の感想について 1/3

 暴力や差別を肯定するつもりはなく、「良さ」ってあやふやだよな、という話。

 

ヒーローって

 『劇光仮面』、ヒーローがテーマの作品なので、ヒーローという存在について最近考えることから書いておく。

 ヒーローというのは基本的に善の存在で、この世界に希望をもたらす者だと思われているが、広く世の中を見わたすと、必ずしもそうではないのかもな、と感じる。

 1994年、イスラエルヘブロンという町で、バールーフ・ゴールドシュタインという人物が銃を乱射し、礼拝中のイスラム教徒を二十名以上射殺、百二十人以上を負傷させる事件があった(マクペラの洞窟虐殺事件と呼ばれている)。

 ゴールドシュタインはその場で、生き残った者たちによって殴り殺されている。

 一般的な(かつ、絶対的であるべき)基準で言えば、ゴールドシュタインは重大な犯罪者であり、悪人だ。しかし、ゴールドシュタインの墓碑には「ユダヤ人、トーラー、そして、イスラエルの民のために命を捧げた」と彫られ、墓は一部の(しかし、多くの)ユダヤ人によって敬意をもって訪問されたという。

 このユダヤ教徒たちに「ゴールドシュタインは何者か?」と尋ねれば、おそらく、ヒーローだ、と彼らは答えるだろう。

 それが合っているか間違ってるかは、あえてここでは考えない。肝心なことは、そう答える人たちがいる、ということだと思う。その他にも、悪徳と「ヒーロー」を併せ持つ者として、カルトの教祖であるチャールズ・マンソン、フィクションなら映画『JOKER』のジョーカーなどが挙げられる。

 

 というわけで、ヒーローであるかどうかは善悪に左右されない(というより、「ヒーロー」を信じる者にとって英雄の行いはすべて「善」になる)。

 次に少し視点を変えて、道徳的な善し悪しではなく、その背景に注目してみる。

 「なぜ『彼』はヒーローになったのか」、経緯というか、その成り立ちからは何が見えるだろうか(そもそも、なぜ「ヒーローの多くは『彼』なのか、これも大切なテーマだけど、ここでは触れない」)。

 

 ヒーローと呼ばれる存在のバックグラウンドは二つに大別できると思う。「(誰かから)継承した者」と「(みんなのために)逆上する者」だ。

 例えば、天上の父から使命を帯びて地上に遣われたイエス・キリストは「継承した者」だし、善の宇宙人と地球人が衝突した結果、一体化してミッションを引き継ぐウルトラマンも「継承した者」になる。

 自分たちを捕食し、不遇な環境に追いやった巨人という存在に怒りを放つ『進撃の巨人』のエレンは「逆上する者」で、社会からの冷遇に対抗する怪物として社会的弱者の喝采を浴びるジョーカーも「逆上する者」だろう。

 イエス・キリストの場合はユダヤ教へのアンチとしての面を持つので、そういう意味では「逆上する者」でもある。キリストのように、「継承し逆上する」というパターンもあるが、とりあえず継承と逆上のいずれか、もしくは両方で、ヒーローという存在は説明できると思う。

 これ以外のパターン、純粋にこの世に生まれついたまま、誰にも何も負わず、何への反動でもなく善である、というヒーローは、あまり思いつかない。

 あえて言うと『ドラゴンボール』の悟空とか『寄生獣』の泉新一とかが近いかもしれないが、やっぱり、継承か逆上と完全に切り離されてはいないよな、と思う。あとは、『チェンソーマン』のデンジとかか。

 というか、ヒーローとして何かと戦う時点で、本人の自覚は別として、いくらかは逆上なんだろうな、と思う。続く(『劇光仮面』の話はまだ出てこない)。