「その日」は来た。剣と爆発はどうなるか? 『ヴィンランド・サガ』26巻の感想について

 十年以上大好きで読んでいる漫画。一つの決着と新しい緊張を含む重要な巻だと思うので感想を書いておく。

 

 奴隷と争いのない理想の地を求めた航路の末、主人公トルフィンたちは、ついに目的地であるヴィンランドに到達する(作中では現在のカナダ、プリンス・エドワード島として描かれている模様)。

 ただし、そこは「誰のものでもない土地」ではなく、先住民がすでに暮らしていた。最新刊ではトルフィンたちによる開拓と耕作、先住者たちとの交流の様子が描かれる。

 

 今回の重要な要素に「言葉」がある。

 先住民族とのコミュニケーションはお互いの言語をやり取りしながら進められる。

 考えてみると、言葉は不思議なツールで、「相手の言語を受け入れて使ってみる」「自分の言語を相手に教える」というだけで、物質的には何も行き来していないのに、双方に精神的な豊かさをもたらすところがある。この巻でもその様子が描かれている。

 作中でギョロが、相手側の言語を3,4個覚えておくと商売が上手くいきやすい、というノウハウを紹介している。

 俺自身もアフリカに行ったときに、「こんにちは」「ありがとう」「すみません」「おいしい」の4つだけは現地の言葉で覚えた(何年か前の話だが、今でも言える)。

 俺も正直、ギョロ的な打算ありきで身につけていったわけだけど、宿泊先とかマーケットでお礼をいったときや、飛び込みで入った飯屋でウェイターや厨房に声をかけたときの「おっ、このアジア人は…」という表情はなんだか嬉しそうだったし、俺自身も嬉しかった記憶がある。

 もちろん、言語が物理的なやり取りを伴わないことは、単純に善であることを意味しない。相手の言語を封殺しこちらの言語を強要することがあれば、それは最大級の侵略でもある。

 26巻で言葉はもう一つ大きな役割を果たすが、それはこの次に言う。

 

 ここからネタバレを含む。

 

 商人になる前、奴隷になる前、戦争屋として多くの人を殺して傷つけてきた、そしてそのために贖罪の意識に苦しめられ続けたトルフィンは、彼によって家族を喪ったヒルダに監視され、常に生殺与奪の権利を預けている状態だった。

 今回のエピソードで、そのヒルダがトルフィンを赦(ゆる)す。

 赦しは言葉によって発された。これを態度で示すことも不可能ではなかったと思うが、やはり、言葉で表すことが大事だったのだと思う。

 というのは、かつて殺人者だったトルフィンがヒルダに犯した罪には、身体的な暴力だけでなく、「俺たちヴァイキングはお前たちのような無辜の人間を破壊し、そこから奪っても何も感じない。弱者は強者から略奪されるために存在する」と思わせるような言葉の暴力があったからだ。それに対する赦しは、やはり言葉で示されるべきだったのかもしれない。

 ヒルダに関してはこの巻に一つ大事なエピソードがあって、集落を襲う可能性があった一匹の熊を処理するために山中で追跡し、相手が冬眠に入って危険でなくなったことを確かめたため、これを見逃す、という挿話がトルフィンを赦す前に紹介されている。

 熊の側からすれば、いきなりこの島にやってきたヒルダたちの方が侵略者となる。それを人間の都合で殺めることは、俯瞰してみれば、かつてトルフィンが彼の都合でヒルダの家族を殺したことと変わりがない。

 ヒルダは、おそらくそのことを悟ったのだと思う。それが、のちにトルフィンに赦しを与えることにつながっている。

 

 トルフィンとヒルダの関係には一つの決着が訪れたが、新たな緊張の種も生まれている。

 一つは剣の存在だ。

 トルフィンたち移住者の一人であるイーヴァルによって、ヴィンランドにはひそかに、所持を禁じられていたはずの剣が一本持ち込まれている。先住民たちとの間で友好が育まれていくほど、剣の存在が不穏さを増すのを感じる。

 個人的に、読んでいて意外だったのは、イーヴァルの存在をあまりうとましく思わなかったことだ。

 明らかに不穏分子であり、「いない方がいい存在」なのだが、未知の土地で武器を持たずに生きていけるはずがない、という思想にとらわれてそこから脱却できない、抜け出せなくて苦労するのではなく、そもそもそういう発想自体を持ちえない大人、という存在に、少し感情移入してしまう。俺も歳を取ったのでしょう…。

 

 もう一つは、先住民の賢人ミスグェゲブージュが予知した未来のヴィジョンである。

 超常的な術を使って見せられたその予言は、作中の現在を軽々超えて、遠い未来にやがて来る銃による戦争、資本主義による大規模な開発、そして核実験による大爆発までを予期するものだった。

 一つ批判をしておくと、『ヴィンランド・サガ』という作品にスーパーナチュラルな要素を持ち込んだことには、少し残念な気持ちがある。「王という絶対権力者であろうと所詮は人間であり、未知の力を持つわけではない」「死後に待つのは完全な無であり、ヴァイキングたちが信仰する来世のヴァルハラなど存在しない」という具合に、徹底的に即物的な世界観を築いていたからだ。

 それはともかく、作中現在においては農耕や工芸を希望の技術として描く一方で、それを突き詰めていくと抑制のきかない開発と究極の破壊にいきついてしまうという未来を物語に織り込んでしまうのが『ヴィンランド・サガ』のすごいところで、さて、この強烈な対立関係をこれからどうするのか、期待がものすごくふくらんでいる。

 

 成長、戦い、喪失という普遍的なテーマを何にも負けずに真摯に描くところ、暴力の放棄、贖罪、知性が持つ善悪の両面性という題材についてエンターテインメントと両立させる本当に稀有なところ。

 この作品が大好きだ。あらためてそう思う巻だったので、書いておく。