はじめに
超話題作、8巻で完結。
あらすじと結末について細かくは触れないが、59~62話(最終話)までの俺なりの解釈と、「あの言葉」について考えたことを書いておく。
59~62話(最終話)
色々と勘違いしている可能性もあるが(だったら恥ずかしいな)、58話までとは、文字通り別の世界なのだと思う。
これまで劇中で「P国」と表記されていたのがポーランドと明記されているし、物語で死んだはずのラファウが成長した姿で登場しているからだ。59話以降はパラレルワールドなのだろう。
ある意味、『チ。』のストーリーは、58話のエンディングで完結しているとも言える。あれはあれで、物語を締めくくるにあたって鮮烈な幕引きだった。
一方で、最終話で描かれ、ある気づきの契機となる「手紙」は、二つの世界をまたいでいると言えなくもない。
一つ重要だと思うのは、ラファウが少年のまま命を落とした世界でも、青年になった世界でも、人間は地動説にたどり着いた、ということだろう。
実際のところ、歴史をやり直したり、繰り返しシミュレートすることができたとして、必ずしも文明や発見が同じルートをたどるとは言えないと思うが、ここには作者の人間への信頼や希望を感じる気がする。別の世界でも、経緯は異なっても、人間は必ず真理にたどりつく、という。
あの言葉の解釈について
8巻、そして『チ。』という作品そのものが、もしかするとこの言葉に集約されるかもしれない、あのセリフについて最後に書いておく。
以下、ネタバレする。
今、たまたまここに生きた全員は、
たとえ殺し合う程憎んでも、同じ時代を作った仲間な気がする。
この言葉は、いくつかの次元で別の解釈ができると思う。それを整理しておきたい。
一つは、経済的というか、合理的な面からの理解だ。
殺傷を伴う暴力(作中だと異端審問官・ノヴァクに代表される)は極端にしても、敵対構造や非難が、必ずしも無駄な対立と疲労を意味するわけではない。
相手に反論するため、もしくは自論を守るために情報を集める、考え方を明確にする、というのは知性の一つのかたちと言える。
敵対する陣営が双方とも、こうした同じ行動基準を持つことで、議論の質が高まり、無駄な部分や誤りがそぎ落とされて真理や公益が近づく。
これは各人が最善に努めた結果、社会全体としてあるべき姿が達成されるという、合理的で経済的な考え方であり、文明の理想の姿でもある。
その次に見えるのは、共同体についての理念というか、歴史を語る上で求められる思想のようなものだ。
ここで提案されているのは、自分たちが生きている時代を「今」としてだけではなく、やがて「かつて」として語られる運命にあるものとして考えてみよう、という視点だと思う。
俺たちが古い「かつて」のことを語るとき、そこにいた誰かが何を考え、どうやって生活していたか、当人だけに注目してイメージすることは不可能に近い。例えば、21世紀にいる俺たちが、15世紀の人たちを想像しようとするとき、「当時は~~という時代で…」といったフィルターを通さなければ、なんの姿も見えてこないはずだ。
歴史に登場する、それこそイエスやコペルニクス、ガリレオといった逸話を持つ偉人についてイメージするときでさえ、当時の政治や文化といった、当人以外の大多数の人々、圧倒的数量からなる無名の、善悪も性質もごったまぜの「彼ら」、それらが織りなす時代という概念を通じてしか理解できないのだ。
そう考えたときに、あらゆる「今」はいつの日か「かつて」になり、すべての個人はみんな、時代という一体のものとして理解される定めにある、という視点が現れる。
もちろん、だからといって、個々人の活動が無意味なわけではないし、現代の悪徳を批判したり、世の中を良くしようとすることが価値を失うわけではない。
ただ、時代性という視点が一つ加わることで、他者(特に言動が徹頭徹尾気に入らない誰か)でさえ、容易に切り離すことができない、というか未来から見れば俺も俺の敵たちも必然的に一緒なのだ、同体だと言えてしまうという、そういう思想だと思う。
この集合には、理由がない。
俺と俺の敵が同じ時代に生きていることには、何の必然性もない。
そして、それを「奇跡」とポジティブに認識することで、この世界を根本的に肯定するような、経済性とも思想とも別の、宗教的な信仰に近い世界観が現れる(はずだ)。
「今、たまたまここに生きた全員は…」というセリフには、こういう解釈を多層的に積むことができる。
実際のところ、作者の感覚…というか、信念に近いのは、経済性、思想、信仰の中で言うとどれだろうか(どれでもない可能性も当然ある)。
なんとなく、思想と信仰の中間の、基本的に思想寄りだけど信仰の方も意識してにらんでいるという、なんかその辺に希望を置いているんじゃないかな、という気がする。
そして、ここからは完全に推測なのだが、作者自身でさえ、「今、たまたまここに生きた全員は…」という言葉の持つ希望を、まだ心底信じられてはいないんじゃないかな? という気がする。
この言葉は、そのぐらいぶっ飛んでいる。あまりにも曙光のようにポジティブで、勇敢で、これを創作関係なく心の底から発していたとしたら、素晴らしいが、それはそれでヤバい気がする。
肝心なことは、自分の心身が100%その言葉の中になくても、あるいは、生み出した瞬間はともにあり、その後「手に負えなくなっても」、言葉は放たれてしまったということだ。
言葉は、生み出した本人の才能と、その最も美しい可能性と危険性を両方抱えて、その人からしか放たれ得ないにもかかわらず、その人の元を離れ、誰かのところに広がっていく。
これこそ、一種の地動説であり、「手紙」であり、人を滅ぼしうる呪いだと思う。ほめている。
以上。完結した。エキサイトした。
お疲れさまでした。
ちなみに、俺はノヴァクが一番好きでした。8巻の、自分が手にかけた人たちの名前を憶えていたところはあざと素晴らしいなあと思う。