惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

『池の水ぜんぶ抜く』第5弾の感想と、炎天の下、稲穂の海を行けるところまで行くことについて

はじめに
  高校生の夏休みに、帰省先の山梨で、突き抜けたような青空の下をひたすらチャリンコで行けるところまで行ったことがある。
  そういうイベントは小学生の頃か、せいぜい中学生までにすませておくべきだと思うけども、ともかくそういうことがあったのである。
  俺が走っているのは青々とした稲穂の揺れる田んぼの中をまっすぐに貫いている一本の道だった。道路のコンクリートは太陽に照らされて真っ白に灼けていて、ときおり田んぼに向かうための細い道を脇に左右に生やしつつ、ひたすらどこまでも遠く道が伸びているのは、まるで途方もなく巨大な獣が死んで残した背骨のようだった。
  俺がなんでそんなことをしようと思いついたのかというと、あまりはっきりと言葉にならない。ただ、そうしたらどうなるだろうと思ったから、としか言えない。


池の水ぜんぶ抜く』第5弾の感想について。「この水が全部抜けたらどうなるんだろうな」
  俺がこの番組に強い関心を持ったのは、番組が作られる前に、番組のプロデューサーが抱いた疑問にとても共感したのがきっかけだった。
  wikipediaによると、プロデューサーはあるとき警察が事件の捜査のために池の水を抜いて水位を下げているというニュースを見たときにこう思ったという。

 

  「この水がぜんぶ抜けたらどうなるんだろうな」


  確かに、と俺は強烈に思った。どうなるんだろう?
  そもそもなんのために抜くのか、とは考えなかった。警察が水を抜くのは捜査のためだが、バラエティ番組はなんのために水を抜くのか…。

  でも、俺にはそこまで意識が回らなかった。俺はただ漠然と、しかし強烈に、池の水がぜんぶ抜けたらどうなるんだろう、という疑問に共感し、興味がわいたのである。

  興味がわいたところ、26日に番組の第5弾をやるらしい。渡りに船である。観るしかねえ、ということで26日を待った。

 

感想① ぜんぶ抜くというならぜんぶ抜いて欲しい。

  以下は感想である。感想であり、基本的に悪口であり、勝手な妄言である。だから、番組のファンの方は読まないで欲しい。もしくは読んでも許して水に流して欲しい。水だけに。

 

  俺は過去の回を観ていないのでこの回に限って批判するのだけど、まず、「ぜんぶ抜く」と番組タイトルで言うのであれば、ちゃんとぜんぶ抜いて欲しい。

  今回は合計四つの池に挑んでいたが、ちゃんとぜんぶ抜いたのは俺の好きなココリコ田中が挑んだやつだけだったと思う。これでは俺が抱いた「ぜんぶ抜けたらどうなるんだろうな?」という気持ちは全然満足していない。

  ぜんぶ抜かなかった3回中、トラブルで抜けなかったのが2回あったけど、予想外とはいえ日程(+予算?)を追加したら最後まで抜けたんじゃなかろうか?  もちろん、簡単に延長やリテイクできるものでもないんだろうが。

  個人的にもっと罪深かったのは、トラブルではなく池の環境を急に変えないために段階的にやる、という理由でぜんぶ抜ききらなかった1回で、それは単に抜ききるまで追いかけて放送時間なんかは編集で詰めたらいいんじゃないの?と思う。

  自治体との調整、もしかしたら水道関係や道路交通関係なんかにも協力してもらってるのかもしれないから、長く徹底的にやってよ、つって気楽に言うなや、色々大変なんじゃという話かもしれないが、俺はぜんぶ抜けたところが観てえんだよ!と思った。勝手だけど。

 

感想② 外来種を駆除するのはいいが、別に外来種を駆除するのが観たかったわけではない。

  ここからはもっと勝手な願望の話をする。

  番組名自体、「駆除」とか「全滅」とかサブタイトルがついてるので、しょうがないんですけども、池の水を抜いていくと、まあこれでもかというぐらい、人為的に持ち込まれたり遺棄された生物、いわゆる外来種が出てきて、日本の本来の生態系を壊す、ということで番組はこれらを駆除していく。

  ただ、俺は駆除とかどうでもいいんだよな。池の水をぜんぶ抜いたらどうなるかが単に知りたいだけで、もっとなんか普段見られない池の底の泥とか水が干上がって魚が跳ねてるところとか、(水を抜いたら)もうこんなになってるじゃないか…というか、「おお、抜いたなあ…」感のあるものが見てえんだよな。駆除は抜いた結果外来種が出たからやりました、ぐらいのノリでいいんだよな。

  もちろん勝手な意見である。でも、その勝手を重ねて想像させてもらえば、番組のきっかけになったのも、別に駆除とかでなくて、もっとシンプルな単なる疑問だったんじゃなかろうか、というのも思うところなんであるな。

 

初期衝動を商品にするのは難しいという話と、結局正月も池の水をぜんぶ抜くのを観るだろうという話。

  冒頭で俺が夏休みにチャリンコで田野を走った話をして、このときの俺は別に田んぼの向こうに何があるんだろうとか何が建ってるんだろうとか特に考えていなくて、単に真夏の空の下で田んぼを行けるとこまで行ったらどうなるんかな、としか思ってなかったし、なんならそれよりもっと漠然と、「とりあえずやりてえ」としか思っていなかった。

  『池の水ぜんぶ抜く』にもそういう特に見通しのない欲求を前面に出したところを期待していて、実際、本来はそういうのが出発地点にあったんじゃないの?と思う。

  でもそんなものはきっと作品にはならないだろう。それは、そういう衝動を映像化する必要性を人に説明するのが難しいし、制作費もたぶん出ないから。

  例えば、もし会議で番組のコンセプトを説明したり上司を説得するとき、「いや、単に俺は水をぜんぶ抜きたいだけなんです」と言っても、きっと頭のおかしい奴扱いされるだけだと思う。

  「うん、抜いてどうするの?」「いや、その先は考えてません」「ふーん。…えっ!?  考えてないの?」となるだろう。

  そこはやっぱり、「抜いて外来種を駆除するんですよ!」なり、「埋まっていたけど除去できなかったゴミを見つけるんですよ!  もしかするとお宝が出るかもしれませんよ!」なり、そういう見通し、筋書きが必要になるのだと思う。

 

  さんざん悪口言ったけど、俺はたぶん正月の特番を観ると思う。なぜなら、やっぱり池の水をぜんぶ抜いたらどうなるかが観たいから。

  抜いて、「ふーん、こうなってたのか」つってそのまま何食わぬ顔で水を戻す。それが俺の理想。

  もちろん、ありえないだろう。ただ一方で、その単なる「やってみてえ」という衝動のところ、それを素材のまま出してきたって観るやつは観るぜ、と思う。

  衝動ってやつは個人的なものでありつつ、なんだかんだみんなに共通してあるもんだと信じていて、だから誰しも(もしくは少なくとも男子は)、夏のある日にどうしようもなくかつ意味もなく、チャリンコで炎天下を行けるところまで行こうとしたりするんじゃないのか?  そうだろう?  と思ったので、ここに記しておく。