生命、街、組織と個人について 2/2

はじめに

 瞑想はたぶん、ちゃんとやり方を学んでやった方がよい。

 

sanjou.hatenablog.jp

 続き。 

 

 職場のベテランが数ヶ月前に退職した。

 二十年以上も現場に勤めていた人で、社内からも顧客からも信用が篤かった。仕事ができるだけでなく優しい人でもあった。

 その一方で、業務の取り組み方にすごく保守的なところがあった。

 もっと辛辣な表現に言い換える。その人が自分らしく働き、顧客に評価されていることが、本人の中では、組織全体としての利益がそれ以外にない、というかたちで完全に直結していて、他のやりかたを模索したり、何かを改良することを受け付けない、そういう人だった。

 「優秀なベテラン」に対して、部下はもちろん、上の人間も敬意を払う。

 ただ、そこに当人の保守性が加わり、部下の「臆病さ」、役員の「現場への無関心」がかけ合わさると、業務はその人物の機嫌に左右されがちだし、そのセクションは完全に硬直してしてしまう。

 臆病な部下の一人だった俺がその部署に入る前から、そしてその人が職場を去るまで、身の程を知らずに申し上げれば、その人物がいたセクションはずっとよどみ、動きを停止していた(付記しておくと、この停滞の原因をその人だけに寄せるのはフェアではない。組織である以上、その人の我を、主張の合理性や腹芸で曲げさせることができなかった俺の力不足でもある)。

 

 その人が先日、退職した。

 そこから、部署の様子が少しずつ変わり始めた。自分への激励も込めて、その変化を「良い方に」と認識しておきたい。

 情報共有の方法が見直されて合理化され、議論が活性化した。

 メンバー同士の抱えている作業への認識が高まったので、お互いの仕事を主観的に評価することが減り、誰かが負荷を背負いすぎている部分(残酷なことを言うと、それで結果として周囲の作業を増やしていた部分)が見えてきて、分担が進んだ。

 全体的に余力ができたので、新しい企画が出るようになったし、何より楽しいのは、その新しい企画が実現化する可能性があると、俺自身が信じられることだ。

 

 辞めたその人が職場に悪いことをなしていたかというと、そうではない。

 そもそも、この人が組織にもたらしてくれた利益は大きかった。また、悪いよどみは確かに現場にあったのだが、それはその人ではなくて、やっぱり俺も含めた周囲の別の者たちとがあわさった結果、招いたものだったのだと思う。

 ただ、同時に、どうしても考えてしまう。

 その人以外のメンバーは俺も含めて、おそらくは無意識のうちに、「その人がいなくなったら始めたい事業やプラン」を常に抱えて、様子をうかがっていた。

 いなくなって欲しかった、とそれを表現すれば過剰だし、正確さを欠く。同じ職場の仲間として尊敬していたし、やっぱりその人が去っていくのはさびしい。

 それでも、どこかでタイミングを計っていた。狙う、とか待つとかよりも、もっと曖昧な心理で、どこかで考えていた。

 いま、そういう背景を持つ動きによって、組織が書き換えられている。それが楽しい。良い方に進んでいくことを願っている。俺は「よこしま」だろうか?

 

 二週間ぐらい前から毎日瞑想(?)を始めている。だいたい30分ぐらい。

 『マインドフルネス最前線 瞑想する哲学者、仏教僧、宗教人類学者、医師を訪ねて探る、マインドフルネスとは何か?』という本を読んで、永井均やその他の指導者が言っているのを適当にミックスした方法でやっている。これを瞑想と呼んでいいのかもわからないから、「?」をつけた。

 

 瞑想していると実感できることがあって、普段「自分」という言葉で表しているものが、実際は複数の階層に分かれて構成されているのがわかる(これまでに見聞きした宗教学や心理学の知識に引っ張られている可能性はあるけど)。

 一番上の層にはさまざまな色というか、要素の「もや」のようなものがいくつか混じり合っていて、一方を押しのけたり、溶け合ったりしているのを感じる。これは言葉で言えば、「感覚」とか「気分」にあたる。

 これらが生まれては消えていくのをずっと観察していると、思考が「ぽっ」という感じでズレる。

 あえて言葉にすると、「何が見えるとか感じるとか、あんまりたいした意味がないんだな」という層に移る。

 この層が多分、個人の人格とか性向とか呼ばれているもので、気分のもやを払うと、次はそこに立っている。

 人格を別のもので例えると土地というか言語というか、そこから花が咲いたり単語が湧いたりしていて、おそらく、基本的に決まったものしかここからは出てこない。

 そこに植わってない種(感情)は咲かないし、その言語体系に存在しない単語(概念)はここから出てこない。気分や感覚とは違う、しっかりした自己ということだ。

 

 …なのだが、ずっとこの層にいると、どうやらこれも、そこまでしっかりしたものじゃないんだな、と感じるようになる。

 池とか湖の水のように、ある程度は留まっているが、一方で常に移り変わっている。

 これは止めようがなく、また、その「水の移り変わり」を認識すると速度がさらに上がる感じがする。

 どんどん、どんどん流れ出ていく。新しく別のものが浸入してくる。

 変性意識(トランス)や憑依というのは、もしかするとこういうものかもしれないなあ、とか、これを第三者に意図的に操作されると洗脳につながるのかもなあ、とか思いながら、ただ見ている。

 見ている、ということはさらに別の層の「自我」があるということだが、それはそれとして、「いまの気分」より根本的なところにある自分も、全然確かなものじゃないらしい。

 なんだか悲しい。

 悲しいが、どうせ変わるなら、もうちょっとまともで人に優しいモノが入ってきたらいい、と思っている。

 生命はすべて次の命のために死ぬんですよ、と言われても困るがどうしようもないように、自分が変わっていくのも、どうせ抱えておけない水の流れに似ているなら、意識して見守っていた方がまだ良い可能性が高いような気がするので、なるべく良いモノが入ってくることを願っている。