独我論は嘘であるとわかったことについて

 「自分以外の人間はすべて心を持たないロボットである」。

 そんなことを考えてみたことはあるだろうか。

 

 人間の心は目で見たり手で触れたりすることができない。

 なので、自分以外の誰かが泣いていても笑っていても、そこに心があるかどうかは、実は本当にはわからない。

 誰かがケガをする。血が流れる。痛みを訴える。あるいは、彼の/彼女の胸に耳を当ててみれば、その心臓が脈を打つのが聴こえる。

 それでも、本当は自分以外の人々には、なんの意識もないのかもしれない。何かの目的で、いかにも自分と同じで心を持っているかのように見せられているだけ…実際はなんにもないがらんどうの肉の塊…なのかもしれない。

 

 そんな考え方を独我論という(たぶん。違っていたらすみません)。

 俺がこの考え方を知ったのは、永井均の『〈子ども〉のための哲学』という本が最初だったと思うのだが、そのときは「なるほどなあ」と感じた程度だった。

 しかし、この考えは実はひそかに心の奥底に息をひそめていたらしい。それはひっそりと生き続けていた。そして今日、実はあることによって死んだ。俺はそれが生きていたことを死んだことによって知ったのである。

 それは「きゅう」と言ってものの見事に死んだ。独我論は嘘である。以下はその話をする。

 

 今日俺が仕事中、お湯を汲みに給湯室に行くことがあった。途中、特に親しくない別の部署のおっさんと行き違った。

 おっさんが、ちらり、と俺に視線をよこした。「?」とこちらに違和感の残る妙な視線だった。そこには理由のわからない不安が込められているように感じられた。

 「なんだ?」と思いながら俺は給湯室に着いたのである。

 サーバーからお湯を注いでいるとき、俺はふと、くさいな、と思った。オナラの匂いなのだ。誰かがここでオナラをしていったらしいのである。

 

 そのとき俺の脳裏を二つの思考が同時に駆け抜け、それぞれの結論に同時にたどり着いた。まさにユリイカと呼んでいい体験だった。

 

 一つ。おっさんが先ほどあんな不安そうな顔で俺を見やったのは、オナラをしたからである。自分が放屁した場所に俺がやって来ることで己の屁がばれることに対する恐れによるものだったのだ。

 そしてもう一つ。

 これこそが肝要なのだけど、さて、この件について独我論的に解釈しようとするとどうなるだろうか。

 独我論には一つの特徴がある。それは、みんながロボットであることをなんらかの理由により隠すために、彼らが人間であると世界が「俺」に信じ込ませようとしている、という点である。

 つまり、自分のオナラが人にバレることに対する不安を示す、などという高度な演技を示して俺の「あれ?俺以外みんなロボットなんじゃね?」という疑いを薄めつつ、本当はおっさんはハイスペックな放屁ロボット…というのが独我論的世界観なのである。なるほどね。

 

 いったいどんなバカバカしい理由があればおっさんに屁の機能を仕込んでまで俺をハメようとしなくてはならないのだろうか?

 

 これは理屈ではない。感覚の話である。にもかかわらず独我論を貫こうとすると現れる世界のバカバカしさに俺は付き合いきれない…というか信じることができない。

 こうして、俺の中で独我論は「きゅう」と言って死んだのであった。

 

 思うに、独我論の巣食う土壌には世の中や周囲の人間がくだらなく見える、という性格が寄与している部分があるんじゃないか、と思う。

 世の中が薄っぺらく単調に感じられるから、人もロボットに見える、ってこともある気がする。

 つまり、おっさんは屁によって俺に世界の奥行きを示し、論理ではなく心情的に俺を救いだしたのであった。ありがとう。以上。

 

 もしこのブログを読んでいる人の中で独我論にとり憑かれている人がいたら(笑いごとではなく、本当にそうなったらこれはかなりしんどいはずである)、この記事についてあらためて考えてみてほしい。

 大丈夫だ。あなたの知らないところであなたの知らないおっさんがおっさんの意志でちゃんと屁をこいているし、それについて貴重な在宅時間を使って己の意志でブログを書いている愚かな男もいるからである。

 そんな連中がロボットであるはずがない。そんなことまでして世界があなたをだます意味はどこにもないはずだ。

 そんなグロテスクな世界はないはずだ。

 

 ないはずだ。

 

 ないはずだ。

 

 ないはず…だよな?

 

 といったようなことを気の利いたことを言ったつもりでぬかしてくるやつがいたら、凍ったきりたんぽで発話が不明瞭になるまでぶん殴ってやったらよいと思います。本当に以上。

 

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

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どうしようもないこと、もしくは『そこのみにて光輝く』の感想について

 生き物として逃れようがないこと、どうしようもないことが好きだ。

 好きというか、目が離せなくなる。

 

 絵本の『はらぺこあおむし』が好きで、生まれたばかりのあおむしがとにかくお腹がすいてしかたがないので一週間手当たり次第色んなものを食いまくる。食べ過ぎてお腹が痛くなって泣いたりする。

 

 古谷実の『ヒミズ』という漫画にホームレスのおっさんが出てくる。人当たりはいいし常識もあるのに、性的な意味で下半身の制御ができない。たぶんそのせいもあって人生まったく上手くいかない。最後は暴走してヒロインに暴行未遂を起こして物語から姿を消す。

 

 食欲は生き物を生かすためのもので、性欲は生き物としてのある意味最大の目的を果たすために与えられていて、どちらも命と分かつことができないものなのに、過剰に与えられているせいで、命そのものを損なってしまう。

 だからといって、切り離すこともできない。ちょうどいいところに調節もできない。

 どうしようもないなあ、と思う。物悲しい、と感じつつ、そういうことが、それこそどうしようもなく心に残る。

 余談だけど、過日、某お笑いコンビの片っ方が女子高生の制服を大量に盗んだというニュースを聞いたときもそうだったな。

 アホだなあ、と思いつつ、本人的にはもうそういう理性とか善悪とかで判断ができる次元じゃなかったのかな、とも考える。「このままじゃヤバい」というのはきっとあったはずなのだ。

 俺らがなんとなく腹が減ったからラーメン屋に行って塩ラーメンを頼んで食う。あるいはなんとなくネットでエロ動画を漁る。

 彼の行為にはそれとはわけが違う呻吟があったと思う。でも止められなかったんだろう。

 別に擁護するわけではなく、対岸から他人ごとに眺めつつ、でもなんとなく心をそこから放してくれないものを感じる。

 

 本題。年の瀬に『そこのみにて光輝く』という映画を観たので、その感想を書く。

 

【あらすじ】

 舞台は函館。主演の綾野剛は山での発破作業を生業にしていたが、事情があって仕事を辞め、いまはパチンコを打って酒を飲んで暮らしている。

 ひょろひょろ、というのとはちょっと違う、骨格はしっかりしているのに肉が少ないごつごつした体を引きずって街を歩く綾野剛のあてのなさ感が良い。その日もパチを打っていると、近くに座っていたチンピラ(菅田将暉)からタバコの火を貸して欲しいと頼まれ、それが縁で仲良くなって菅田将暉の家に飯を食いに行く。

 海沿いの掘っ立て小屋のようなその家で、綾野剛菅田将暉の姉である池脇千鶴と出会う。二人は惹かれあうが、池脇千鶴には寝たきりになった父親を含め家族を支えるために、売春をしたり地元の有力者の愛人を務めていたりするという背景があった。そんな二人の行く末を追う作品である。

 

綾野剛池脇千鶴。二人のラブシーン】

 綾野剛スピードワゴンの小沢が俳優をやるときの芸名、と断言する程度には特に彼に思い入れのない俺だけど、この作品の綾野剛はいい。

 前述した骨っぽい体をパチ屋の席や安アパートの一角に窮屈そうに押し込んでじっと腐っていくダメっぷり、人にぶん殴られたりチャリンコを漕いでるときの姿が発散するリアルな身体性には、観る者を惹きつける魅力があると思う。

 

 池脇千鶴も良い。可愛いしエロい。マジメで弱くて優しい。

 『ジョゼと虎と魚たち』でも思ったけど、好きな人ができたことへの喜びと、そのことゆえの苦しさを演じる姿が本当にいい。綾野剛は幸せもんだ。妻夫木くんもな。

 

 二人のラブシーンは二回描かれる。

 まだ出会って間もないある日。綾野剛がただの知り合いでしかないはずの池脇千鶴の家を訪ねていく。二人で近くの海に行って、なぜか沖に向かって泳ぎ始めた綾野剛池脇千鶴が追いかけて、それを見て少し戻った綾野剛池脇千鶴と、海中で口づけを交わす。

 次はある程度仲が深まったところで。綾野剛のアパートで彼が池脇千鶴に仕事を辞める原因となった悲劇を告白して、池脇千鶴にもたれて体を預ける。そこで交わる。

 

 前述したどうしようもなさにつながるのだけど、俺は最初のラブシーンの方が好きだ。

 この時点の二人はお互いのことなんてよく知らない。後に相手の良さを理解し、抱えている弱さをさらしあうことになるけど、いまはそんなことわからない。

 それでも求めあう。

 そこには、飢えた生き物が本能的に糧になるものそうでないものを見分けるような、あるいは逆に、飢えすぎていて毒であろうとかまわず口に入れてしまうような、いずれにせよ非常に動物的で、理性とは遠くへだたった部分が現れている。それが悲しくて美しいと思う。

 

【脇役について】

 主役二人も魅力的だけど、この映画、脇役に非常に恵まれた作品とも言える。

 まず菅田将暉池脇千鶴の弟役。パチ屋綾野剛にライターの火を借りた彼が実家に綾野剛を誘うことから物語は始まる。

 菅田将暉のチンピラの演技は衝撃の上手さだった。菅田将暉のことをよく知らなかったため、本当にその辺のチンピラをつかまえてきて普段通りにさせているのだと思ったほどだ。

 でも、本当にただのチンピラを連れてきてカメラの前で普段通りにしてくれ、と言ってもできないに決まっている。つまり、映画に出て完全に素人のチンピラとして完成されている人、という存在には矛盾があるのであって、その矛盾を解消してみせたのが菅田将暉なのであった。

 

 そして高橋和也池脇千鶴を愛人として囲う、地元の有力者。すでに観た人ならわかると思うけど、ある意味この映画のMVP。

 「年下の女に別れを切り出されたら恥も外聞もなく追いすがり、女の不幸の原因の50%ぐらいを占める存在と化し、あとはカメラの前でケツを出したり下世話なことを不用意に相手に口にして激昂されてひどい目に遭ったりしてください」。

 この注文に完全に答えてみせる役者がいたからこそ、この映画は成立した。高橋和也の好演と比べれば、綾野剛なんてうじついてカッコつけてればいいのだから楽なもんであった(暴論)。

 家族がいながら池脇千鶴を諦められない。完全に心が離れているのに金と暴力に頼ってまでも相手を抱きたい。

 たぶん観る者みんなの憎悪の対象を引き受けつつ、そんな風にして表現される男の想いのどうしようもなさは、主演二人のものとは違った意味で印象に残った。

 

【まとめ】

 時間と気持ちに余裕があるときに観た方がよい映画。沈鬱だしけっこう暴力的だし。

 だから、ちょっと時間が空いたから、明日から仕事/学校だけど暇つぶしに観るべ、とかってノリだとダメージが抜けない可能性がある。

 一方、実はけっこうフックになる部分が多く、気持ちがどんどん沈みつつも何かしら楽しみにして観とおしてしまえる映画でもある。

 綾野剛はカッコいーし。

 池脇千鶴は可愛いし。

 菅田将暉はマジでチンピラだし。

 どこまでも追い詰められていく果てに彼らがどうなるのか。

 観終わればきっと、「なるほどね」と思うだろう。そしてそれは、けっして嫌な後味じゃないはずだ。以上、『そこのみにて光輝く』の感想でした。

 

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こま切れになったわたしたち、あるいは申し訳程度の『暗闇の中で子供』の感想

 希望がない。

 

 というとなんだか沈鬱な感じがするけど、それほど深刻な話じゃない。

 自分はこうなりたいな。

 周囲がこうだったらいいのにな。

 そういう望みがあまりないという話だ。

 

 人間の希望。俺が希望に対して抱くイメージは、希望を持つその人たち自身の姿をした、淡くて白い光のカタマリだ。

 例えば、これを自分の10cmくらい目の前、もしくは1分後の想像の世界に思い描く。「いま」の自分はこの白い光に向かって進み、自身をそこに重ねようとして努力する。光の方でも「いま」がこちらにやってこれるように手招きする。そうやって二つが結びあっている。

 世間の人たちは、どうやらこんな生き方をしているらしい。だからこそ、うまくいくとか失敗するとか、そういうことが「起こりえる」。

 俺、何かが上手くいった記憶もドジった記憶もあんまりないけど、そうか、希望がないからなんだ。29歳を迎えて、ようやくそのことがわかってきた。

 

 優秀な人。頭の良い人。大きな夢を持っている人。

 そういう人ほど、この希望の姿を遠い地点へ、未来へ、描きだすことができる。それをびっくりするぐらい遠いところにやってみせて、はたから見ていてほとんど眩しく感じられるような人さえいる。

 光に向かって歩む。光の方にたぐりよせられる。

 そうやって結びつけられた長短の線でつむがれたものを人生と呼ぶんだろうな、と最近思う。

 俺にはできなかった。俺は闇ですらないただぼんやりしただけの自分の周囲に、何も思い描くことができなかった。

 みんなが「いま」をどこかとつなげて何かを積み上げて生きているのに、俺の人生は29年分ただいたずらに過ぎ去って、何の厚みもなくこま切れになっている。

 

 もし、俺が諦観の中にいるある意味落ち着いた人間、という印象をこの文章が与えているとしたらそれは正確でないというか、なんとなくフェアでない気がするので、話は脱線するが、そうじゃないことは付記しておく。

 俺は希望はないけどプライドは高い。自分が本来そうである以上の何者かに見られたい。本当の身の丈が周囲に明らかにされないことを願ってびびりまくっている。

 それが願望といえば願望。そんな願いを抱えていつも恐々としているのが俺。

 でもその願望は、どこの未来とも展望ともつながっていないので、あくまで俺の定義として、そんなもの希望とは呼べないのだ。

 

 そんな俺が自分の中にある数少ない希望の存在を自覚する瞬間は、その希望が潰れたときとセットになっている。

 たとえば最初の大学受験に落ちたとき。前日、緊張してよく眠れないまま発表の朝を迎えて、受験票を握りしめて合格掲示の前に立って、何度も自分の数字を探して確認したとき。

 そして先日。内容は書かないが、このときも、俺は自分の中にちゃんと希望というものがあったことに、それをなくすことで気がついた。

 もっと上手くやるべきだったし、上手くやれると思っていた。

 実際はそうはいかなかった。珍しく俺が描いていたかすかな自らの希望の像は、俺の目の前であっけなく「ぺしゃっ」と潰れた。

 

 希望がちゃんと(?)消えたときに読む本がある。舞城王太郎の『暗闇の中で子供』という小説を手に取る。

 本作は、舞城のデビュー作である『煙か土か食い物』の続編だ。前作の主人公で四人兄弟の末弟だった奈津川四郎の兄、兄弟の三番目である三郎が主役を務める。

 頭脳明晰でエネルギッシュな四郎と違って、三郎はけっこうなボンクラだ。自堕落で、生業である作家業も真面目にしないで、友だちや知り合いの彼女や奥さんを寝取って暮らしている。

 それでも個人のパラメータ(知性・ルックス・社会的名声…)は高いので、俺が彼にシンパシーを抱いて作品を読み進めるのはある意味身の程をわきまえていないのだが、特に俺が強く共感してしまうのは、三郎が自分の将来やこれまでの歩みというものの扱い方をまったく理解できていないという点だ。

 「俺の人生なんてまったくの無意味だ」。そう心の底から絶望しているわけでもない。

 「俺の生きている意味はなんなんだ。これからどうやって生きていけばいいんだ」。そう悩んで呻いているわけでもない。

 いい歳をして自分のこれまでとこれからのいちいちが致命的につながらないのだ。それで、どうにかしなければと感じながら、どこか茫然としていて、焦りの感情もどこか人ごとなのだ。

 そのむなしさ。突発的に頑張ろうと思い立つこともあるが方法がわからず、周囲の人間の感情を巻き込んで彼らを不用意に疲労させながら、結局自分自身はなにも変わらないところ。

 三郎のこの自分に何も期待できず、誰も幸せにできない薄っぺらさは強烈に訴えるものがあって、個人のステータスの差を忘れて感情移入させる力があるのだ。

 

 ネタバレをすると、三郎は最後に一応自分自身に価値を認めてハッピーになる。

 きわめて風変わりでちょっとパンチが強すぎる幸福の手に入れ方だけど、三郎自身これでよいということはとにかく伝わる。

 実は本作、「作品の途中から三郎の創作であり、中盤以降はすべて嘘」という説があって、書かれていることが作品世界における事実の描写ではない可能性が高い。

 ただ、これが「本当」ではなく、三郎の手に入れたものを伝えるための手段としての「嘘」であったとしても(フィクション自体がそもそも嘘なわけだから、言うなれば二重の嘘であったとしても)、読者である俺はそれでもOKだ。

 「ある種の真実は嘘でしか伝えられない」。この作品自体そのことには言及しているが、クズ人間がどうやって自己を肯定するにいたりうるか、という一つの「真実」を題材に、本作は自分でそれを実践してみせたんだろう。

 その試みは成功している。だからこそ、俺の人生の特定の時期は他の何よりもこの本を求めることがあるんだろうと思う。

 この本を読むたびに、俺は少しだけ気持ちが軽くなる。

 抱えているものの重量自体が変わるのではなく、ちゃんとした持ち方がなんとなくわかる。そんな感じだ。

 

 本当は、俺が上で書いた人間の希望のイメージなんて、全然本当には近くないのかもな、と思うことはある。

 俺には周りの人たちが本当に立派に、頭のよい人たちに見えるけど、実は誰も、「自分の姿をした光のカタマリ」を遠いどこかに描くことなんてできていないのかもしれない。

 それでも彼らが上手くやっているように見えるのは、頭をフル回転させて、必死で歯を食いしばって、一寸先、一瞬向こうを生きようとして努力しているからなのかもしれない。

 その努力によって、彼らはかろうじて上手くいっているに過ぎない。だから、本当は誰の人生もほとんど全部こま切れで、みんな途方に暮れていて、そこに一貫した意味を見出している人なんてほとんどいないのかもしれない。

 それでも頑張れる人、へこたれる奴が生じるなら、それは能力の差ではない。ガッツの差によるところが大きい気がする。

 ふざけるなよ、甘えるなよ。お前がクソなのはお前が馬鹿だからじゃない。お前は馬鹿かもしれないがそれ自体は直接の原因じゃない。単に怠けているからだよ。それを棚にあげて人をうらやむなよ。汗をかけよ。それが無理なら黙って消えろよ。ぐちぐちブログとかに記事書かないでくれよ。目に入るとそれだけでうざったいよ。

 そういうことなのかもしれない。

 ま、それが世の中の本当の姿なら、この『暗闇の中で子供』の訴えうる範囲が広がるってことでもある。

 クズと深くシンクロしがちってだけで、本質的には、一寸先がわからなくて自分のこれまでの価値がわからなくなっちゃった一瞬に、そんな時期にあるすべての人に、きっと響く物語のはずだからだ。すっげえエログロだからそこは人を選ぶけどね(先に言うべきか)。では、以上。

 

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

 

 

 

『ゴールデンカムイ』1巻の感想について

 一時期、山に関する小説を好んで読んでいた。

 熊谷達也の『邂逅の森』、坂東眞砂子の『山妣』など。山という場所がいかに人にとって恵みに満ちた場所かを知る中で、特に興味深かったのが熊に関する記述だった。

 肉や毛皮はもちろん、熊はその胆嚢にものすごい価値があったらしい。干すと薬のもとになるということで、金と同じだけの価値を持っていたとのことだ(事実かは不明。でも高価だったのは確かだろう)。

 熊を捕りに山に入るマタギという人たちのことも少し学んだ。

 彼らはチームを組んだり、あるいは独力でも熊を撃つ。小説で描かれた熊との頭脳戦は、バトル漫画と比べてそん色ない緊張感だった。

 ただ、彼らは「踏み込む」「攻め入る」という意識で山に入っていくわけではない。

 山に入るとき冷水で身を清め、山のルールに従う証として山だけで使う言葉=山言葉を使うなど、あくまで部外者としての礼儀をわきまえ、山の方に自分たちを合わせる。熊を倒せば、山の神に感謝を捧げるための作法によって解体する。

  山に関するこれらの作品は、山を単に動植物の豊かな「自然」としてだけ描くのではなく、人里とは別の秩序によって治められる「異界」として表現している。それが面白かった。

 

 本題。今回紹介する『ゴールデンカムイ』も、そんな「攻略」ではなく「畏怖」の対象である自然への向き合い方を要素としてたっぷり含む。

 ただ、メインのストーリーは明治時代の北海道を舞台とした埋蔵金の奪い合いだ。日露戦争から帰還した軍人、現地のアイヌ、そして網走からの脱獄囚など、北海道ならでは(?)の登場人物たちが一攫千金目指して血で血を洗う。で、それにぶち込まれるようにしてマタギアイヌの文化が紹介される。

 主人公は戦争激戦地・203高地で獅子奮迅の働きをし「不死身の杉元」の異名をとった軍人・杉元佐一。とある事情で大金が必要になり、北海道の山林で砂金を採っていたところ、総額8億円にのぼるというアイヌ埋蔵金の噂を耳にする。

 黄金の奪取に動き出す杉元。

 それを手助けする、金塊を奪われたアイヌの娘であるアシリパ。

 対するは、日本陸軍最強といわれた第七師団の軍人たち、網走刑務所の凶悪な脱獄囚、さらには戊辰戦争で戦死したはずのあの新撰組の鬼の副長こと土方歳三(おんとし70歳)も参戦。ここに、この漫画のキャッチコピーである「一攫千金サバイバル」が開戦するのだった。

 

 こう書くとけっこうシリアステイストっぽい。実際、埋蔵金をめぐって敵同士殴り合い撃ち合いしているときはものすごい緊張感がある。 

  そしてその緊迫感をうまく中和しているのが、「じゃあ脳みそ食べろ。」などのフレーズに代表される、前述の異文化テイスト。

 腹が減ってはなんとやらでヒロイン・アシリパに獲物の脳を食わされる主人公の杉元。

 今後も色んな生き物の色んな部位を食わされることになる杉元。おして、杉元以外にも増えていく脳食わせの被害者…。

 本作が単なる血なまぐさいどつき合い(登場する生き物に軍人率・野生アニマル率が高いので、お互いまるで容赦がない)に終始しないように挿入されるこのアイヌ時空は、笑えて、勉強になって、そしてときどきとても静かに心に響くこともある。その辺の緩急の付け方が凄いと思う。

 

 1巻後半では脱獄囚の一人である白石由竹というキャラクターが登場。色々あって杉元と一緒に山中で河に落下し、後にアイヌ時空と並んでこの漫画の緊張感を(きわめて良い意味で)たびたびそぐ白石時空の片鱗を見せる。

 

 北海道の河に落ちた杉元と白石が凍死を防ごうと展開する掛け合いはあまりに笑えたので「あれ、これギャグ漫画か?」と思いつつそういうわけじゃないよなあ、と思ったんだけどその真相は今後の感想で。

 

 殴り合い好き、自然文化好き、あといい歳こいた大人がくだらないことできゃっきゃしてるの好きにお薦めします(個人的に最後がけっこう大きい)。今なら第1話が試し読みできるようなので、興味を持たれた方は是非。

 

 

邂逅の森 (文春文庫)

邂逅の森 (文春文庫)

 

 

 

山妣(やまはは)

山妣(やまはは)

 

 山と隣り合って生きる人々について紡がれる二つの物語。人間の性(さが・せい)に関する描写を主な要素に取り込んだ点まで共通しながら、こうも違う読後感。

 『邂逅の森』は活劇好きに。血気はやる若者から壮年へと成長していく主人公の半生を背中からつき従いながら見守るような感覚。

 『山妣』はすべての場面がじっとりと暗く湿って閉じられているような世界感。鬱屈。嫉妬。劣情。ネガティブな感情が何層にも重なってかたまっている一番底に薄く悲哀が広がっていて、それが美しい。伝奇好きに。

『皇国の守護者』3巻の感想、あるいは軍人とJKの共通点について

 尊大と卑屈の調節ができない。

 他の人に対してやたら上からになったり、逆にへつらうようになったり。後から自分のそういう態度を悔やんで、うーん、とか言ったりする。仕事帰りの電車の中や自室の隅とかで。

 なので、素直にの人を認める、ということができる人の、そういう健康な心のあり方にとてもあこがれているし、フィクションでもそういう描写があると「いいなあ」と思う。

 『皇国の守護者』を読みなおしてあらためて「おもしれーなー」と思いつつ、この「人を認める」という場面の描き方もこの漫画の良さだと気づいた。

 彼らは様々な間柄で実にあっさりと相手をたたえ評価する。上官と部下との間で。あるいは、敵と敵との関係でさえ。

 

 「何しろこれから戦争ですので」。自分や仲間の命がかかっている状況で、優れている者を純粋にそう認められることはそれが味方だろうと敵だろうと生死につながる。

 それで自分のエゴが相対的に主張をひそめるのはわかるけど、そういう状況だからこそ鎌首をもたげるのも自尊心というやつなわけで。なので、単に「すごい」という言葉を喋らせるだけじゃない、伊藤悠の描くキャラクターの行動にこもる説得力と、それに向けて語られる称賛の言葉は、俺をしみじみと「いいなあ」と思わせる。

 

 で。

 そういえば最近別の漫画でも人が人を認めてていいなあと感じた体験をしたなあと思ったら、おしえて!ギャル子ちゃんだった。

 スク水に鼻息を荒くしながらいちおうそんなことも考えていたのだ。

 『おしえて!ギャル子ちゃん』の世界には一応スクールカーストの概念があるので、人気者がいれば日蔭者がいて、秀才もいればそうでない者もいる。

 人間、先入観があるので特定のクラスメイト(というかギャル子)はナチュラルにマイナスの評価から入られたりする。

 でも評価する側(オタク、優等生等)の偉いところは、ギャル子が真面目で、いい子で、そういうギャル子のふるまいを見てちゃんと自分の認識を修正するところだ。

 自分の価値観に固執しがちで、ヤンキーが人の見てないところでゴミを拾おうが雨の日に捨て犬を拾うことがあろうが、普段オタクを廊下ですれ違いざま蹴り飛ばしてたらダメやんけと思う俺は、彼女たちのこういうところが偉いと思う。

 

 『皇国の守護者』の軍人たちも『おしえて!ギャル子ちゃん』のJKたちも、別に人を認めることがいいことだから意識的にそうしようと思ってやっているわけじゃない。

 戦場で生き延びる。

 日々を楽しく過ごす。

 自分が望ましいと思う生き方をする中で自然にそうしているだけだ。彼らの素直さの根底には、自分にとっての大切なことに対する感覚的な理解があって、それがなおさら良い感じだ。

 俺が血煙に酔い、あるいはスク水を拝んだ両作品は、そんなところで通底していたわけなのだった。

 

 なるほどね。と言ってとりあえず俺も誠実に生きることを決意。その後テレビをつけて世間の大小の悪、芸能人などを見て「クズどもが!」と言いながら舌打ちなどした。うーん。

 

 『皇国の守護者』3巻の概要。

 侵略、進軍を続ける敵軍〈帝国〉。撤退する友軍を逃がすため時間稼ぎをする主人公、〈皇国〉の軍人・新城直衛。

 前巻で新城がとったのは、祖国の井戸を汚染し自国の食糧庫を自ら攻撃、破壊しようという狂気の作戦。敵軍は食糧を現地から奪って調達しているため、それを不可能にしてしまえば侵攻はにぶらざるを得ない、ということ。策は一定の効果を示したかに見えたが…。

 侵攻する側と防衛する側。巨大な河を挟んで両軍が向かい合う。小勢ながら奮闘する新城たちを裏から挟みうちにするため〈帝国〉軍から分離したのは、眉目秀麗にして武勇にも優れるカミンスキィ大佐と、馬術において並ぶ者なしの武人バルクホルン大尉。

 その接近を感知した新城たちは、それを迎撃しなくてはならない。河を防衛する人員は残す…つまり、ただでさえ少ない自軍をさらに分割することで。

 押し潰すか、守り抜くか。両軍の役者が直接激突する。

 

皇国の守護者 (3) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)

皇国の守護者 (3) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)

 

 

1巻の感想はこちら(『皇国の守護者』1巻の感想、もしくは6巻発売を待つ日々について - 惨状と説教)。

おしえて!ギャル子ちゃん』1巻の感想はこちら(『おしえて! ギャル子ちゃん』の感想、もしくは彼女たちの15年間について - 惨状と説教)。

『黒博物館 ゴーストアンドレディ』の感想、もしくは単にフローレンスかわいいぜ、の話

 看護婦。女性看護師。

 なんのとは言わないが、一大ジャンルであると思う。
 
 俺は特に好きではないけども、「ああ、なるほどね」と思わせられる体験があった。
 入社当初、総務課長に健康診断の提出を求められて正直に「ないですねと答えたところ大型犬の横ツラを不意打ちではたいたような顔をされて、事態の深刻さがなんとなくわかったので、早急に近所のクリニックに予約をとった。
 健康診断では女性の看護師が一人付き添いでついてくれて、身長、体重、計測のための機械を二人で巡っていった。
 そのとき、心電図をとるための機械だったかよく覚えていないが、体を横にする場面があった。
 計測が終わって体を起こそうとしたときだ。目をつぶっていたのかもしれない、頭上にあった何かの機材に気がつかず頭を痛打した。何か呻いたかもしれないが、それよりも早く「あっ」という看護師さんの声が聞こえた。「ゴツンしたね…。痛かったね…」
 
 ゴツンしたね。その言葉と、続けて尋ねられた「大丈夫?」という言葉と、なにか二重に響きながらしばらくぽわんとしていた。
 
 どれだけボンクラだろうが世間をナメていようが、20歳を超えて求められるふるまいがあるのはわかっていて、でも精神的には小4ぐらいで進歩が止まっている。
 当然心に無理が生じて摩擦が出てくる。そこに「ゴツンしたね」…。なんか楽になる実感があったのだった。
 後日友人と話した結果、だいたい病院にいる人は自分のすべてを相手に委ねることになるので、非日常的なその解放感が、源である看護師に好意として注がれるんじゃねえ、という話になった。
 それが、さらに解放感を求めようと思って行き着く果てがエロ。それゆえの一大ジャンル。なるほどね。あの看護師さんはいま元気にしているだろうか。
 
 なんの話かというと、藤田和日郎の黒博物館シリーズ、『ゴーストアンドレディ』の感想なんだけども。
 ヒロインが看護婦で可愛いんだけども。
 マジメだけどピンポイントでぶっ飛んでていいんだけども。
 ボンキュッボンなんだけども。
 あと前作に引き続いて学芸員さんも登場しているんだけども。
 だけども。
 
 イギリスはロンドン警視庁の中にある犯罪遺留品を展示する博物館、通称“黒博物館”と呼ばれるこの場所に訪問者がやって来て、館の学芸員相手に展示品にまつわるエピソードが展開される…というあらすじは前作の『スプリンガルド』と同様。

 ただし今作の特徴は、この語り手がなんと幽霊だということだ。

 主な登場人物はこの幽霊と、彼がとり憑いていた一人の女性。自分の非力を嘆きそのために自死を願う女性が幽霊と交わした、「彼女がこの世に絶望しきったときにその命を幽霊が奪う」という奇妙な約束を主軸として、物語が展開する。
  

 看護婦を目指しているその女性は、後のフローレンス・ナイチンゲールその人(作中ではフローと呼ばれることが多い)。良いキャラ。高潔で行動力があって、ボンキュッボンで(wikepediaの肖像写真は見なかったことにしておく)

 人を救うためならむちゃくちゃやるけど、ちゃんと世間的な常識は持っていて、それゆえに悩みもしていて、でも要所でネジが飛んで大立ち回りをやる。
 良識と理想との間のフラストレーションを昇華させてブチ切れてタンカを切るフローはすごく魅力的だ。俺は素でイカれているキャラクターよりこういうのが好き。
 幽霊(男)とは最初は前述の契約をふまえた主従関係みたいな感だったけど、まあなんじゃかんじゃそういう感じになる。幽霊を見つめる視線に段々特別な感情がこもっていく過程はキュンと来る(初対面ではのど輪されてたけど)
 
  幽霊の名はグレイマン。通称グレイ。
 かつては腕利きの決闘代理人だったけど、ある日その決闘で敗れて死亡。以降、自分と因縁のある劇場にとり憑き、決まった席で演劇を観続ける日々を送っていたところ、フローに出会う。
 フローのことは最初は面白い女ぐらいにしか思ってなかったようだけど、先に惚れたのはグレイの方。同じ作者の『うしおととら』のとらよろしく、害なす存在からなくてはならない右腕へと変わっていく。
 グレイがフローに抱いていたのが恋愛感情かどうかは見方が変わるだろうけど、俺は恋愛のそれだったと思う。
 個人的には「フローが絶望しきったときに殺す」なんて奇妙で相手次第の契約をしたのが失策だったな。自分が飽きたら殺す、ぐらいにしておけばよかったのに、この約束のせいでフローの一挙手一投足に注目せざるを得なくなった。
何でもじっと見てると好きになる。
くそう、と一応思う。(『イキルキス』by舞城王太郎

  ということだ。

 

  相手が絶望しきったときに殺してやるつもりだったのに、なかなかそうならない…どころか生気を増していくフローを見て、色々ぼやくグレイ。そう言われても、と困るフロー。
 クリミア戦争が開戦し、現地の傷病兵を救うために危険地帯へ向かおうとするフローに、「俺が殺す前に死んじまうからそんなとこに行くな」と憤るグレイ。「そんなに殺したければ今ここで殺せばいい」と応酬するフロー。
 
 このリアルにいたら勝手にしろ感
 軽口と駆け引き。本音のぶつかり合い。二人だけの世界でパワーバランスが絶えず揺れ動き、しかしお互いにかけがえがなくなっていく。だから俺はこの漫画について、アクションであり歴史ものでもあるけれど、半分くらいはラブコメだと思うんだった。
 
 あと前作に続いて学芸員さんも登場。出てくる割合的に少しフローに喰われ気味のところもあるけど、やっぱり可愛いですね。次回(何年後になるのか)は聞き役以上の活躍を期待したいところ。
 
 最後に結末について(以下少しネタバレ)。
 いいオチだったと思う。納得いかないところもあり、それゆえに訴えるところがあった。
 あのエンディングについては色々解釈があるようだけど、しっくり来たのは「結局地獄に行く側だったから」という考え方だろうか。
 でも、あまり突き詰めて読み解こうとしなくてもいい気もする。理由とか意味とか。なんとなく「そうか」と思った。すごく良い情感込めての「そうか」だ。それでいい気もする。
 実はこの作品、フローレンス・ナイチンゲールの伝記としての要素が強い。物語の見せ方は楽しめても「次に何が起きるか」にそこまで興味が持てない時間帯は冗長さを感じた。
 でも結末で完全に評価が定まった感じ。上下巻で長いし値段も張るけど、チャンバラとあとイチャイチャがあんまり全面に出てこない恋愛ものが好きな人にはおすすめです。以上。
 

 ボンキュッボン(今のうちにたくさん言っておかないと一生言わない言葉のような気がするので)。

 
  ※前作の記事はこちらから。

 

 

ソニックマニア2015の感想について Prodigy、電気グルーヴ編

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  音楽イベント観に行くのを「参戦」とか言いだしたら人間もう終わりだな、と思っている。

 なんかわざわざ人に言って聞かせてる感じがするじゃないか。うるっせーつぅんだよ。どうせ俺には一緒に行く相手はおろかそういうこと言う知り合いもいねえよ、ってんで面白くない気分になる。

 

 というわけでソニックマニア(幕張メッセで開催されているサマーソニックの前夜祭的なやつ)2015に参戦してきた。一昨年、昨年に続いて3年目の参戦となる。

 以下、Prodigyと電気グル―ヴの感想です(PerfumeMarilyn Manson編はこちら→ソニックマニア2015の感想について Perfume、Marilyn Manson編 - 惨状と説教)。

 

 Prodigy…圧巻。それ以外の感想は蛇足

 やべぇ。

 Prodigyやべぇ。

 

 なんとなく行ったんすよ。ちょいちょい名前聞くから。俺くらいの洋楽ツウでもちょいちょい聞く程度だから、ま、そんな有名じゃないんだろうけど、ま、行ってやっか、みたいな。

 すんませんでした。すごかったっす。

 

 1時ごろ開演。

 シンプルで電子的、金属的なメロディがループするところにバカみたいに体に響くドラムの音、ホストのコールみたいな、でも300年くらい修行した果ての極地みたいな、めちゃくちゃオーディエンスを煽るボーカル。

 最初後ろの方で観ていたのだが、なんか前の方の盛り上がりがヤバかったんですよ。で、あれ、なんかスゲーぞ、となって。できるだけ前に移動した。

 

 純粋な盛り上がりではこの日一番だったんじゃないだろうか。ボーカルの人(二人いる)の煽り方がほんとものすごい。

 もともと曲自体が、なんにも知らない俺でもどこではしゃげばいいのかわかりやすくできてると思うのだけど、この歌う二人が観客を誘導して爆発力を最大限高めている。演奏する側と聴く側と、一緒にこの空間を作ってる感じが尋常じゃない。

 帰ってすぐに近くのTSUTAYAでアルバム借りてきました。もし同じように探していって見つからなかった西東京の人、すみません。俺です。一週間後には返します。すみません。 

 

電気グルーヴ…おっさんの中のおっさん、瀧のおっさんを浴びて明日からも生きていこうと思う

 おっさんの一つの完成形であり、俺の目指すところのおっさんである瀧のおっさん。 おっさんオブおっさんズ、瀧のおっさん。

 その瀧のおっさんが音楽をやっているというので観に行った。一昨年に次いで2回目となる。

 

 2時30分ごろ開演。瀧のおっさんは一昨年同様、シルクハット?みたいな帽子をかぶって登場。コミカルな動きでステージを動き、聴衆を煽る。

 最高だ。

 

  実は電気グルーヴの音楽自体は特別ファンではない。でも瀧のおっさんのパフォーマンスは好きだし、電気グル―ヴが作る会場の雰囲気も好きだ。

 今回の曲の中でわかったのは『Baby's on fire』だけだったけど、でも楽しかった。みんなも楽しそうだったな。

 

 あと、瀧のおっさんは最後の曲のMCで「絶対に放しませんよぉ」というフレーズを連呼していた。おっさん何言ってんだよ。 

 

 電気グル―ヴ終演後、空いているスペースで仮眠。ソニックマニアの会場ではけっこう寝ている人を見かける。目当てのアーティストも終わり、電車が動く時間をこうして待っているんだろう。

 ソニックマニア後すぐに電車で帰ろうとするのはマジで地獄だ。会場にいた人間の何割くらいかわからないが、ともかく大勢の人間がそのままJR海浜幕張駅になだれ込んでくるからだ。

 一昨年、昨年とそれでつらい思いをしたので、今年はできるだけ現地で電車が空く時間を待とうと思っていた。寝ながらそれでができたら楽だなあってんでこうして寝ていたのだが、何時ごろまでこのまま寝てられるんだろう?という疑問はあった。

 

 5時ごろにスタッフの人に揺り起こされる。「サマソニの準備が始まるので」。なるほど、そりゃそうだ(ご迷惑かけました)。

 会場の外へ。なんとなく左手に歩いていくと、建物の陰で人が何人も寝ていた。「?」と思うが、まだ眠いし先駆者もいる安心感で俺も少し二度寝。たぶんいま思うとサマーソニックの参加者が開場を待ってたんだろう。

 

 7時前に目を覚ました。周りにはまだ人が眠っていた。

 駅に向かって歩き出す。静かで、動くものはほとんどなくて、あの人がぎゅうぎゅうに詰まったうす暗くて、でもまばゆい、轟音と歓声の空間にいたことが嘘のようだった。

 でも、路上のところどころにやっぱり誰かが眠っていた。三人の学生みたいな男の子たちが話をしている脇を通り抜けると、コンビニで買ったらしい朝飯を片手に、今日の作戦を立てていた。

 終わったものの余韻の中に、確かに始まるものへの予感があった。俺の分は終わったので、海浜幕張駅の改札を抜けると、そのままやってきた電車の座席に汗臭い体をおろして目を閉じた。

 

 なお、いわゆるEDMと呼ばれるくくりのアーティストのステージは今年観ませんでした。

 運営側のタイムテーブルの作り方もそういう人の観たい演者が潰しあったり、逆に観るものがなくて暇になったりしないように組んであるっぽい。twitterで調べても同じルート(PerfumeMarilyn MansonProdigy電気グルーヴ)で動いた人が多かったような。

 観たい演者の裏だったら無理だけど、例えば開演を早めて、そういうジャンルだけの時間帯を先に作ったら観に行ったかもなあ、とか思います。

 でも観ないかな。なぜなら俺のEDMのイメージは、黒ギャルがライムの刺さったコロナビール片手に片乳ほっぽりだしてブーメランパンツのサーファーと一緒に踊るための音楽なので(間違った認識ということを承知で書いている。なぜなら会場にそんな人はいなかったから)。

 

 来年も行きます。では。

 

 

ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション

ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション

 

  何作か聴いてみたところ本作の『voodoo people』がむちゃくちゃハマったのでこれを紹介。

 リリースは1994。20年前にこんな曲を作っていた人がいたことに驚く。もしLimp Bizkitより先に出会っていたら、高校生時代の重低音需要を満たしてくれたのはprodigyだったかもしれない…。