『クリーピー 偽りの隣人』の感想について(あらすじ、ウンコポイント編)
そんな『クリーピー』がウンコな理由だけども、次のようなところである。
もー別にいらなくないっすか?ということについて
もー別にいらなくないっすか?この手の報道。
心配だなあ、と思ってて、でも自分がそういう感情を抱かされること自体がわずらわしくて。
もうさ、意味なくねえですか?知ってどうできるわけじゃねえんだから。知らされた側から何が起こるわけじゃねえんだから。せいぜい何パターンかリアクションがあるぐらいっすよ。調べてないけどだいたいわかりますよ。
「アホ乙」か
「いや、やる側の気持ちもわかる」か
「後悔でいっぱいだろうな。無事を祈る」かのどれかでしょ?
そういう反応を国中で生んで集積させてなんかの役に立つんすか?俺が30手前でハンパない世間知らずなせいでわかんないだけなのかもしらんけどたぶん立たないと思う。
いや、そりゃ今後同じことをしない人を生む、って効果はあるでしょうよ。俺もきっと今後、もし同じことをやりたい感情にとらわれることがあっても、今回のことを思い出して自分を止めるでしょうよ。
でも、「こういうこと」をしたから「そういう」大変なことになった、の「こういうこと」って、きっと世の中無数にあるじゃないすか。俺が今回の報道についてあらかじめすげえマイナスから入ってるんでともかくあげつらいたいだけかもしんないけど、ともかく無数にあるじゃないすか。
そしたら、一つ「そういうこと」をしうる人間っていうのは別の「そういうこと」をしうるんじゃねえ?もしくは人間自体が「そういうこと」のリスクから逃れられないんじゃねえ?で、個々の問題だろうと人間全体の問題だろうと、回避しようがないのは一緒なんだから、反面教師みたいな意味は実際ねーんじゃねーかなー。なんか自分で勝手に報道の意図を解釈してそれにカッカ反論してるみたいだし実際そうなんだろうけど頭来てるからしょーがねーわ。
尺埋めるとか?わかんねーけど、その他、報道する側の事情は知んないですよ?でもあくまで受け取る側の視点で言ったら意味ないっす。ひっそり起こってひっそり取り組んでひっそり決着して欲しいっす。
もしかして役に立つ情報しか発信されちゃいけないと思ってる人?
そうですね。きっとそうなんでしょう。別に高尚な話を求めてるわけじゃないですよ?まとめサイト読んでて「性欲の強い女性の特徴」みたいな記事見つけて「お、開こうかな」とかちょっと考える程度の人間性ですよ?
でもそれだって意味はあるじゃん。俺の役には立つもの。たぶんだけど。
書いてるうちにだんだん冷静になってきたけど、俺の「役に立つ」のハードルが高すぎたり変に個人的だったりするだけ?
なんだそーなのか…。
でも許さねえ。ともかく俺にはそんな情報いらねえ。今後俺の五感にこの出来事について続報を入れやがったら想像のつく範囲でその報道に携わった奴全員を呪う。呪い尽くす。
っつーわけで、もー別にいらなくないっすか?と思ったんで書きます。誰かこの報道で助かってる人がいたらすんません。
桜の木の下には何も埋まっていないことについて
天気がいいので野川公園に『スティール・ボール・ラン』を持っていってそこで読んでいた。公園近くのコンビニで買ったポッキーと缶コーヒーを手に、どんどん読み進める。
「ジャイロォォォ!」
「ジョニィィィィ!」
アメリカ大陸横断レースと聖人の遺体を巡る物語は佳境に入っていて、主人公二人はお互いの名を叫びながら、雪原におけるウェカピポ、マジェント・マジェントコンビの襲撃を退け、シビル・ウォー戦を切り抜け、すべての陰謀のおおもとである合衆国大統領との戦いに突入していく。長い旅を続けてきた彼らの冒険だが、もうすぐ終わりが近づいていた。
野川公園にはたくさんの色んな種類の人がやって来ていた。特に子どもがいっぱいいた。子どもと呼べる年齢の、どんな時期に所属する人たちも、ここには見つけることができた。
乗れるようになったばかりの自転車に乗って、一緒に来ている親に向かって憎まれ口を叩いている人。
長い網を手に川に向かってとことこ坂を降りていく人。
まだ自分の足だけでは立ち続けられないけど、手を引かれながらなら歩くことができて、足元の地面に何かを確かめるようにして一歩一歩進んでいく人。
不審者にならない程度に俺はその様子を見ていた。
川沿いに植わっている大きな桜の木から、風が吹くとゆるゆる溶けるように花びらが散って流れた。一枚一枚が精緻で美しい花びらというものが、惜しげもなく一度に吹き散らされる。大きな美しさの中で、個々の美は隠れて見つからなくなる。しかし、風の音とともに、本当に風景がかすむくらいのたくさんの白い花びらが宙を舞う光景は、もちろんそれ自体は見事なものだ。自分は何かを失っているような、手にいれたような、妙な気持ちになりながらずっと見ている。
哲学者の中島義道に言わせると時間とはけして流れないものであるらしい。
しかし、たくさんの花びらが目の前の川に沿うようにして宙を泳ぎ、一枚一枚と力を失って奔流から離れながらもほとんどはそのまま流れていく様子を見ていると、俺たちを運んでどこかに連れていく時間の流れというものを、そこに実感しないではいられなかった。
芝生に寝転んでジョニィとジャイロのスタンドバトルを追いつつ、色んな年齢の子どもが近くに来るたび俺はその姿に目をやる。目を奪われてしまう。
俺は自分が彼らだったときのことを思い出す。俺をそこから押し流してここまで連れて来て、またどこかに連れて行こうとする時間の流れの中で突っ立ちながら思い出す光景は、ほとんどかすんでいて不明瞭だが、過去の自分の満ち足りた幸せさだけはよみがえらせることができる。
そのときの俺は不思議な気持ちだ。その感情にあえてタグをつけるなら「悲しさ」なのだが、無理に分類しようとするのは間違っている気もするし、とりあえずその気持ち自体は嫌いではないのだった。
独我論は嘘であるとわかったことについて
「自分以外の人間はすべて心を持たないロボットである」。
そんなことを考えてみたことはあるだろうか。
人間の心は目で見たり手で触れたりすることができない。
なので、自分以外の誰かが泣いていても笑っていても、そこに心があるかどうかは、実は本当にはわからない。
誰かがケガをする。血が流れる。痛みを訴える。あるいは、彼の/彼女の胸に耳を当ててみれば、その心臓が脈を打つのが聴こえる。
それでも、本当は自分以外の人々には、なんの意識もないのかもしれない。何かの目的で、いかにも自分と同じで心を持っているかのように見せられているだけ…実際はなんにもないがらんどうの肉の塊…なのかもしれない。
そんな考え方を独我論という(たぶん。違っていたらすみません)。
俺がこの考え方を知ったのは、永井均の『〈子ども〉のための哲学』という本が最初だったと思うのだが、そのときは「なるほどなあ」と感じた程度だった。
しかし、この考えは実はひそかに心の奥底に息をひそめていたらしい。それはひっそりと生き続けていた。そして今日、実はあることによって死んだ。俺はそれが生きていたことを死んだことによって知ったのである。
それは「きゅう」と言ってものの見事に死んだ。独我論は嘘である。以下はその話をする。
今日俺が仕事中、お湯を汲みに給湯室に行くことがあった。途中、特に親しくない別の部署のおっさんと行き違った。
おっさんが、ちらり、と俺に視線をよこした。「?」とこちらに違和感の残る妙な視線だった。そこには理由のわからない不安が込められているように感じられた。
「なんだ?」と思いながら俺は給湯室に着いたのである。
サーバーからお湯を注いでいるとき、俺はふと、くさいな、と思った。オナラの匂いなのだ。誰かがここでオナラをしていったらしいのである。
そのとき俺の脳裏を二つの思考が同時に駆け抜け、それぞれの結論に同時にたどり着いた。まさにユリイカと呼んでいい体験だった。
一つ。おっさんが先ほどあんな不安そうな顔で俺を見やったのは、オナラをしたからである。自分が放屁した場所に俺がやって来ることで己の屁がばれることに対する恐れによるものだったのだ。
そしてもう一つ。
これこそが肝要なのだけど、さて、この件について独我論的に解釈しようとするとどうなるだろうか。
独我論には一つの特徴がある。それは、みんながロボットであることをなんらかの理由により隠すために、彼らが人間であると世界が「俺」に信じ込ませようとしている、という点である。
つまり、自分のオナラが人にバレることに対する不安を示す、などという高度な演技を示して俺の「あれ?俺以外みんなロボットなんじゃね?」という疑いを薄めつつ、本当はおっさんはハイスペックな放屁ロボット…というのが独我論的世界観なのである。なるほどね。
いったいどんなバカバカしい理由があればおっさんに屁の機能を仕込んでまで俺をハメようとしなくてはならないのだろうか?
これは理屈ではない。感覚の話である。にもかかわらず独我論を貫こうとすると現れる世界のバカバカしさに俺は付き合いきれない…というか信じることができない。
こうして、俺の中で独我論は「きゅう」と言って死んだのであった。
思うに、独我論の巣食う土壌には世の中や周囲の人間がくだらなく見える、という性格が寄与している部分があるんじゃないか、と思う。
世の中が薄っぺらく単調に感じられるから、人もロボットに見える、ってこともある気がする。
つまり、おっさんは屁によって俺に世界の奥行きを示し、論理ではなく心情的に俺を救いだしたのであった。ありがとう。以上。
もしこのブログを読んでいる人の中で独我論にとり憑かれている人がいたら(笑いごとではなく、本当にそうなったらこれはかなりしんどいはずである)、この記事についてあらためて考えてみてほしい。
大丈夫だ。あなたの知らないところであなたの知らないおっさんがおっさんの意志でちゃんと屁をこいているし、それについて貴重な在宅時間を使って己の意志でブログを書いている愚かな男もいるからである。
そんな連中がロボットであるはずがない。そんなことまでして世界があなたをだます意味はどこにもないはずだ。
そんなグロテスクな世界はないはずだ。
ないはずだ。
ないはずだ。
ないはず…だよな?
といったようなことを気の利いたことを言ったつもりでぬかしてくるやつがいたら、凍ったきりたんぽで発話が不明瞭になるまでぶん殴ってやったらよいと思います。本当に以上。
どうしようもないこと、もしくは『そこのみにて光輝く』の感想について
生き物として逃れようがないこと、どうしようもないことが好きだ。
好きというか、目が離せなくなる。
絵本の『はらぺこあおむし』が好きで、生まれたばかりのあおむしがとにかくお腹がすいてしかたがないので一週間手当たり次第色んなものを食いまくる。食べ過ぎてお腹が痛くなって泣いたりする。
古谷実の『ヒミズ』という漫画にホームレスのおっさんが出てくる。人当たりはいいし常識もあるのに、性的な意味で下半身の制御ができない。たぶんそのせいもあって人生まったく上手くいかない。最後は暴走してヒロインに暴行未遂を起こして物語から姿を消す。
食欲は生き物を生かすためのもので、性欲は生き物としてのある意味最大の目的を果たすために与えられていて、どちらも命と分かつことができないものなのに、過剰に与えられているせいで、命そのものを損なってしまう。
だからといって、切り離すこともできない。ちょうどいいところに調節もできない。
どうしようもないなあ、と思う。物悲しい、と感じつつ、そういうことが、それこそどうしようもなく心に残る。
余談だけど、過日、某お笑いコンビの片っ方が女子高生の制服を大量に盗んだというニュースを聞いたときもそうだったな。
アホだなあ、と思いつつ、本人的にはもうそういう理性とか善悪とかで判断ができる次元じゃなかったのかな、とも考える。「このままじゃヤバい」というのはきっとあったはずなのだ。
俺らがなんとなく腹が減ったからラーメン屋に行って塩ラーメンを頼んで食う。あるいはなんとなくネットでエロ動画を漁る。
彼の行為にはそれとはわけが違う呻吟があったと思う。でも止められなかったんだろう。
別に擁護するわけではなく、対岸から他人ごとに眺めつつ、でもなんとなく心をそこから放してくれないものを感じる。
本題。年の瀬に『そこのみにて光輝く』という映画を観たので、その感想を書く。
【あらすじ】
舞台は函館。主演の綾野剛は山での発破作業を生業にしていたが、事情があって仕事を辞め、いまはパチンコを打って酒を飲んで暮らしている。
ひょろひょろ、というのとはちょっと違う、骨格はしっかりしているのに肉が少ないごつごつした体を引きずって街を歩く綾野剛のあてのなさ感が良い。その日もパチを打っていると、近くに座っていたチンピラ(菅田将暉)からタバコの火を貸して欲しいと頼まれ、それが縁で仲良くなって菅田将暉の家に飯を食いに行く。
海沿いの掘っ立て小屋のようなその家で、綾野剛は菅田将暉の姉である池脇千鶴と出会う。二人は惹かれあうが、池脇千鶴には寝たきりになった父親を含め家族を支えるために、売春をしたり地元の有力者の愛人を務めていたりするという背景があった。そんな二人の行く末を追う作品である。
綾野剛はスピードワゴンの小沢が俳優をやるときの芸名、と断言する程度には特に彼に思い入れのない俺だけど、この作品の綾野剛はいい。
前述した骨っぽい体をパチ屋の席や安アパートの一角に窮屈そうに押し込んでじっと腐っていくダメっぷり、人にぶん殴られたりチャリンコを漕いでるときの姿が発散するリアルな身体性には、観る者を惹きつける魅力があると思う。
池脇千鶴も良い。可愛いしエロい。マジメで弱くて優しい。
『ジョゼと虎と魚たち』でも思ったけど、好きな人ができたことへの喜びと、そのことゆえの苦しさを演じる姿が本当にいい。綾野剛は幸せもんだ。妻夫木くんもな。
二人のラブシーンは二回描かれる。
まだ出会って間もないある日。綾野剛がただの知り合いでしかないはずの池脇千鶴の家を訪ねていく。二人で近くの海に行って、なぜか沖に向かって泳ぎ始めた綾野剛を池脇千鶴が追いかけて、それを見て少し戻った綾野剛と池脇千鶴と、海中で口づけを交わす。
次はある程度仲が深まったところで。綾野剛のアパートで彼が池脇千鶴に仕事を辞める原因となった悲劇を告白して、池脇千鶴にもたれて体を預ける。そこで交わる。
前述したどうしようもなさにつながるのだけど、俺は最初のラブシーンの方が好きだ。
この時点の二人はお互いのことなんてよく知らない。後に相手の良さを理解し、抱えている弱さをさらしあうことになるけど、いまはそんなことわからない。
それでも求めあう。
そこには、飢えた生き物が本能的に糧になるものそうでないものを見分けるような、あるいは逆に、飢えすぎていて毒であろうとかまわず口に入れてしまうような、いずれにせよ非常に動物的で、理性とは遠くへだたった部分が現れている。それが悲しくて美しいと思う。
【脇役について】
主役二人も魅力的だけど、この映画、脇役に非常に恵まれた作品とも言える。
まず菅田将暉。池脇千鶴の弟役。パチ屋で綾野剛にライターの火を借りた彼が実家に綾野剛を誘うことから物語は始まる。
菅田将暉のチンピラの演技は衝撃の上手さだった。菅田将暉のことをよく知らなかったため、本当にその辺のチンピラをつかまえてきて普段通りにさせているのだと思ったほどだ。
でも、本当にただのチンピラを連れてきてカメラの前で普段通りにしてくれ、と言ってもできないに決まっている。つまり、映画に出て完全に素人のチンピラとして完成されている人、という存在には矛盾があるのであって、その矛盾を解消してみせたのが菅田将暉なのであった。
そして高橋和也。池脇千鶴を愛人として囲う、地元の有力者。すでに観た人ならわかると思うけど、ある意味この映画のMVP。
「年下の女に別れを切り出されたら恥も外聞もなく追いすがり、女の不幸の原因の50%ぐらいを占める存在と化し、あとはカメラの前でケツを出したり下世話なことを不用意に相手に口にして激昂されてひどい目に遭ったりしてください」。
この注文に完全に答えてみせる役者がいたからこそ、この映画は成立した。高橋和也の好演と比べれば、綾野剛なんてうじついてカッコつけてればいいのだから楽なもんであった(暴論)。
家族がいながら池脇千鶴を諦められない。完全に心が離れているのに金と暴力に頼ってまでも相手を抱きたい。
たぶん観る者みんなの憎悪の対象を引き受けつつ、そんな風にして表現される男の想いのどうしようもなさは、主演二人のものとは違った意味で印象に残った。
【まとめ】
時間と気持ちに余裕があるときに観た方がよい映画。沈鬱だしけっこう暴力的だし。
だから、ちょっと時間が空いたから、明日から仕事/学校だけど暇つぶしに観るべ、とかってノリだとダメージが抜けない可能性がある。
一方、実はけっこうフックになる部分が多く、気持ちがどんどん沈みつつも何かしら楽しみにして観とおしてしまえる映画でもある。
綾野剛はカッコいーし。
池脇千鶴は可愛いし。
菅田将暉はマジでチンピラだし。
どこまでも追い詰められていく果てに彼らがどうなるのか。
観終わればきっと、「なるほどね」と思うだろう。そしてそれは、けっして嫌な後味じゃないはずだ。以上、『そこのみにて光輝く』の感想でした。
こま切れになったわたしたち、あるいは申し訳程度の『暗闇の中で子供』の感想
希望がない。
というとなんだか沈鬱な感じがするけど、それほど深刻な話じゃない。
自分はこうなりたいな。
周囲がこうだったらいいのにな。
そういう望みがあまりないという話だ。
人間の希望。俺が希望に対して抱くイメージは、希望を持つその人たち自身の姿をした、淡くて白い光のカタマリだ。
例えば、これを自分の10cmくらい目の前、もしくは1分後の想像の世界に思い描く。「いま」の自分はこの白い光に向かって進み、自身をそこに重ねようとして努力する。光の方でも「いま」がこちらにやってこれるように手招きする。そうやって二つが結びあっている。
世間の人たちは、どうやらこんな生き方をしているらしい。だからこそ、うまくいくとか失敗するとか、そういうことが「起こりえる」。
俺、何かが上手くいった記憶もドジった記憶もあんまりないけど、そうか、希望がないからなんだ。29歳を迎えて、ようやくそのことがわかってきた。
優秀な人。頭の良い人。大きな夢を持っている人。
そういう人ほど、この希望の姿を遠い地点へ、未来へ、描きだすことができる。それをびっくりするぐらい遠いところにやってみせて、はたから見ていてほとんど眩しく感じられるような人さえいる。
光に向かって歩む。光の方にたぐりよせられる。
そうやって結びつけられた長短の線でつむがれたものを人生と呼ぶんだろうな、と最近思う。
俺にはできなかった。俺は闇ですらないただぼんやりしただけの自分の周囲に、何も思い描くことができなかった。
みんなが「いま」をどこかとつなげて何かを積み上げて生きているのに、俺の人生は29年分ただいたずらに過ぎ去って、何の厚みもなくこま切れになっている。
もし、俺が諦観の中にいるある意味落ち着いた人間、という印象をこの文章が与えているとしたらそれは正確でないというか、なんとなくフェアでない気がするので、話は脱線するが、そうじゃないことは付記しておく。
俺は希望はないけどプライドは高い。自分が本来そうである以上の何者かに見られたい。本当の身の丈が周囲に明らかにされないことを願ってびびりまくっている。
それが願望といえば願望。そんな願いを抱えていつも恐々としているのが俺。
でもその願望は、どこの未来とも展望ともつながっていないので、あくまで俺の定義として、そんなもの希望とは呼べないのだ。
そんな俺が自分の中にある数少ない希望の存在を自覚する瞬間は、その希望が潰れたときとセットになっている。
たとえば最初の大学受験に落ちたとき。前日、緊張してよく眠れないまま発表の朝を迎えて、受験票を握りしめて合格掲示の前に立って、何度も自分の数字を探して確認したとき。
そして先日。内容は書かないが、このときも、俺は自分の中にちゃんと希望というものがあったことに、それをなくすことで気がついた。
もっと上手くやるべきだったし、上手くやれると思っていた。
実際はそうはいかなかった。珍しく俺が描いていたかすかな自らの希望の像は、俺の目の前であっけなく「ぺしゃっ」と潰れた。
希望がちゃんと(?)消えたときに読む本がある。舞城王太郎の『暗闇の中で子供』という小説を手に取る。
本作は、舞城のデビュー作である『煙か土か食い物』の続編だ。前作の主人公で四人兄弟の末弟だった奈津川四郎の兄、兄弟の三番目である三郎が主役を務める。
頭脳明晰でエネルギッシュな四郎と違って、三郎はけっこうなボンクラだ。自堕落で、生業である作家業も真面目にしないで、友だちや知り合いの彼女や奥さんを寝取って暮らしている。
それでも個人のパラメータ(知性・ルックス・社会的名声…)は高いので、俺が彼にシンパシーを抱いて作品を読み進めるのはある意味身の程をわきまえていないのだが、特に俺が強く共感してしまうのは、三郎が自分の将来やこれまでの歩みというものの扱い方をまったく理解できていないという点だ。
「俺の人生なんてまったくの無意味だ」。そう心の底から絶望しているわけでもない。
「俺の生きている意味はなんなんだ。これからどうやって生きていけばいいんだ」。そう悩んで呻いているわけでもない。
いい歳をして自分のこれまでとこれからのいちいちが致命的につながらないのだ。それで、どうにかしなければと感じながら、どこか茫然としていて、焦りの感情もどこか人ごとなのだ。
そのむなしさ。突発的に頑張ろうと思い立つこともあるが方法がわからず、周囲の人間の感情を巻き込んで彼らを不用意に疲労させながら、結局自分自身はなにも変わらないところ。
三郎のこの自分に何も期待できず、誰も幸せにできない薄っぺらさは強烈に訴えるものがあって、個人のステータスの差を忘れて感情移入させる力があるのだ。
ネタバレをすると、三郎は最後に一応自分自身に価値を認めてハッピーになる。
きわめて風変わりでちょっとパンチが強すぎる幸福の手に入れ方だけど、三郎自身これでよいということはとにかく伝わる。
実は本作、「作品の途中から三郎の創作であり、中盤以降はすべて嘘」という説があって、書かれていることが作品世界における事実の描写ではない可能性が高い。
ただ、これが「本当」ではなく、三郎の手に入れたものを伝えるための手段としての「嘘」であったとしても(フィクション自体がそもそも嘘なわけだから、言うなれば二重の嘘であったとしても)、読者である俺はそれでもOKだ。
「ある種の真実は嘘でしか伝えられない」。この作品自体そのことには言及しているが、クズ人間がどうやって自己を肯定するにいたりうるか、という一つの「真実」を題材に、本作は自分でそれを実践してみせたんだろう。
その試みは成功している。だからこそ、俺の人生の特定の時期は他の何よりもこの本を求めることがあるんだろうと思う。
この本を読むたびに、俺は少しだけ気持ちが軽くなる。
抱えているものの重量自体が変わるのではなく、ちゃんとした持ち方がなんとなくわかる。そんな感じだ。
本当は、俺が上で書いた人間の希望のイメージなんて、全然本当には近くないのかもな、と思うことはある。
俺には周りの人たちが本当に立派に、頭のよい人たちに見えるけど、実は誰も、「自分の姿をした光のカタマリ」を遠いどこかに描くことなんてできていないのかもしれない。
それでも彼らが上手くやっているように見えるのは、頭をフル回転させて、必死で歯を食いしばって、一寸先、一瞬向こうを生きようとして努力しているからなのかもしれない。
その努力によって、彼らはかろうじて上手くいっているに過ぎない。だから、本当は誰の人生もほとんど全部こま切れで、みんな途方に暮れていて、そこに一貫した意味を見出している人なんてほとんどいないのかもしれない。
それでも頑張れる人、へこたれる奴が生じるなら、それは能力の差ではない。ガッツの差によるところが大きい気がする。
ふざけるなよ、甘えるなよ。お前がクソなのはお前が馬鹿だからじゃない。お前は馬鹿かもしれないがそれ自体は直接の原因じゃない。単に怠けているからだよ。それを棚にあげて人をうらやむなよ。汗をかけよ。それが無理なら黙って消えろよ。ぐちぐちブログとかに記事書かないでくれよ。目に入るとそれだけでうざったいよ。
そういうことなのかもしれない。
ま、それが世の中の本当の姿なら、この『暗闇の中で子供』の訴えうる範囲が広がるってことでもある。
クズと深くシンクロしがちってだけで、本質的には、一寸先がわからなくて自分のこれまでの価値がわからなくなっちゃった一瞬に、そんな時期にあるすべての人に、きっと響く物語のはずだからだ。すっげえエログロだからそこは人を選ぶけどね(先に言うべきか)。では、以上。