『ゴールデンカムイ』1巻の感想について

 一時期、山に関する小説を好んで読んでいた。

 熊谷達也の『邂逅の森』、坂東眞砂子の『山妣』など。山という場所がいかに人にとって恵みに満ちた場所かを知る中で、特に興味深かったのが熊に関する記述だった。

 肉や毛皮はもちろん、熊はその胆嚢にものすごい価値があったらしい。干すと薬のもとになるということで、金と同じだけの価値を持っていたとのことだ(事実かは不明。でも高価だったのは確かだろう)。

 熊を捕りに山に入るマタギという人たちのことも少し学んだ。

 彼らはチームを組んだり、あるいは独力でも熊を撃つ。小説で描かれた熊との頭脳戦は、バトル漫画と比べてそん色ない緊張感だった。

 ただ、彼らは「踏み込む」「攻め入る」という意識で山に入っていくわけではない。

 山に入るとき冷水で身を清め、山のルールに従う証として山だけで使う言葉=山言葉を使うなど、あくまで部外者としての礼儀をわきまえ、山の方に自分たちを合わせる。熊を倒せば、山の神に感謝を捧げるための作法によって解体する。

  山に関するこれらの作品は、山を単に動植物の豊かな「自然」としてだけ描くのではなく、人里とは別の秩序によって治められる「異界」として表現している。それが面白かった。

 

 本題。今回紹介する『ゴールデンカムイ』も、そんな「攻略」ではなく「畏怖」の対象である自然への向き合い方を要素としてたっぷり含む。

 ただ、メインのストーリーは明治時代の北海道を舞台とした埋蔵金の奪い合いだ。日露戦争から帰還した軍人、現地のアイヌ、そして網走からの脱獄囚など、北海道ならでは(?)の登場人物たちが一攫千金目指して血で血を洗う。で、それにぶち込まれるようにしてマタギアイヌの文化が紹介される。

 主人公は戦争激戦地・203高地で獅子奮迅の働きをし「不死身の杉元」の異名をとった軍人・杉元佐一。とある事情で大金が必要になり、北海道の山林で砂金を採っていたところ、総額8億円にのぼるというアイヌ埋蔵金の噂を耳にする。

 黄金の奪取に動き出す杉元。

 それを手助けする、金塊を奪われたアイヌの娘であるアシリパ。

 対するは、日本陸軍最強といわれた第七師団の軍人たち、網走刑務所の凶悪な脱獄囚、さらには戊辰戦争で戦死したはずのあの新撰組の鬼の副長こと土方歳三(おんとし70歳)も参戦。ここに、この漫画のキャッチコピーである「一攫千金サバイバル」が開戦するのだった。

 

 こう書くとけっこうシリアステイストっぽい。実際、埋蔵金をめぐって敵同士殴り合い撃ち合いしているときはものすごい緊張感がある。 

  そしてその緊迫感をうまく中和しているのが、「じゃあ脳みそ食べろ。」などのフレーズに代表される、前述の異文化テイスト。

 腹が減ってはなんとやらでヒロイン・アシリパに獲物の脳を食わされる主人公の杉元。

 今後も色んな生き物の色んな部位を食わされることになる杉元。おして、杉元以外にも増えていく脳食わせの被害者…。

 本作が単なる血なまぐさいどつき合い(登場する生き物に軍人率・野生アニマル率が高いので、お互いまるで容赦がない)に終始しないように挿入されるこのアイヌ時空は、笑えて、勉強になって、そしてときどきとても静かに心に響くこともある。その辺の緩急の付け方が凄いと思う。

 

 1巻後半では脱獄囚の一人である白石由竹というキャラクターが登場。色々あって杉元と一緒に山中で河に落下し、後にアイヌ時空と並んでこの漫画の緊張感を(きわめて良い意味で)たびたびそぐ白石時空の片鱗を見せる。

 

 北海道の河に落ちた杉元と白石が凍死を防ごうと展開する掛け合いはあまりに笑えたので「あれ、これギャグ漫画か?」と思いつつそういうわけじゃないよなあ、と思ったんだけどその真相は今後の感想で。

 

 殴り合い好き、自然文化好き、あといい歳こいた大人がくだらないことできゃっきゃしてるの好きにお薦めします(個人的に最後がけっこう大きい)。今なら第1話が試し読みできるようなので、興味を持たれた方は是非。

 

 

邂逅の森 (文春文庫)

邂逅の森 (文春文庫)

 

 

 

山妣(やまはは)

山妣(やまはは)

 

 山と隣り合って生きる人々について紡がれる二つの物語。人間の性(さが・せい)に関する描写を主な要素に取り込んだ点まで共通しながら、こうも違う読後感。

 『邂逅の森』は活劇好きに。血気はやる若者から壮年へと成長していく主人公の半生を背中からつき従いながら見守るような感覚。

 『山妣』はすべての場面がじっとりと暗く湿って閉じられているような世界感。鬱屈。嫉妬。劣情。ネガティブな感情が何層にも重なってかたまっている一番底に薄く悲哀が広がっていて、それが美しい。伝奇好きに。

『皇国の守護者』3巻の感想、あるいは軍人とJKの共通点について

 尊大と卑屈の調節ができない。

 他の人に対してやたら上からになったり、逆にへつらうようになったり。後から自分のそういう態度を悔やんで、うーん、とか言ったりする。仕事帰りの電車の中や自室の隅とかで。

 なので、素直にの人を認める、ということができる人の、そういう健康な心のあり方にとてもあこがれているし、フィクションでもそういう描写があると「いいなあ」と思う。

 『皇国の守護者』を読みなおしてあらためて「おもしれーなー」と思いつつ、この「人を認める」という場面の描き方もこの漫画の良さだと気づいた。

 彼らは様々な間柄で実にあっさりと相手をたたえ評価する。上官と部下との間で。あるいは、敵と敵との関係でさえ。

 

 「何しろこれから戦争ですので」。自分や仲間の命がかかっている状況で、優れている者を純粋にそう認められることはそれが味方だろうと敵だろうと生死につながる。

 それで自分のエゴが相対的に主張をひそめるのはわかるけど、そういう状況だからこそ鎌首をもたげるのも自尊心というやつなわけで。なので、単に「すごい」という言葉を喋らせるだけじゃない、伊藤悠の描くキャラクターの行動にこもる説得力と、それに向けて語られる称賛の言葉は、俺をしみじみと「いいなあ」と思わせる。

 

 で。

 そういえば最近別の漫画でも人が人を認めてていいなあと感じた体験をしたなあと思ったら、おしえて!ギャル子ちゃんだった。

 スク水に鼻息を荒くしながらいちおうそんなことも考えていたのだ。

 『おしえて!ギャル子ちゃん』の世界には一応スクールカーストの概念があるので、人気者がいれば日蔭者がいて、秀才もいればそうでない者もいる。

 人間、先入観があるので特定のクラスメイト(というかギャル子)はナチュラルにマイナスの評価から入られたりする。

 でも評価する側(オタク、優等生等)の偉いところは、ギャル子が真面目で、いい子で、そういうギャル子のふるまいを見てちゃんと自分の認識を修正するところだ。

 自分の価値観に固執しがちで、ヤンキーが人の見てないところでゴミを拾おうが雨の日に捨て犬を拾うことがあろうが、普段オタクを廊下ですれ違いざま蹴り飛ばしてたらダメやんけと思う俺は、彼女たちのこういうところが偉いと思う。

 

 『皇国の守護者』の軍人たちも『おしえて!ギャル子ちゃん』のJKたちも、別に人を認めることがいいことだから意識的にそうしようと思ってやっているわけじゃない。

 戦場で生き延びる。

 日々を楽しく過ごす。

 自分が望ましいと思う生き方をする中で自然にそうしているだけだ。彼らの素直さの根底には、自分にとっての大切なことに対する感覚的な理解があって、それがなおさら良い感じだ。

 俺が血煙に酔い、あるいはスク水を拝んだ両作品は、そんなところで通底していたわけなのだった。

 

 なるほどね。と言ってとりあえず俺も誠実に生きることを決意。その後テレビをつけて世間の大小の悪、芸能人などを見て「クズどもが!」と言いながら舌打ちなどした。うーん。

 

 『皇国の守護者』3巻の概要。

 侵略、進軍を続ける敵軍〈帝国〉。撤退する友軍を逃がすため時間稼ぎをする主人公、〈皇国〉の軍人・新城直衛。

 前巻で新城がとったのは、祖国の井戸を汚染し自国の食糧庫を自ら攻撃、破壊しようという狂気の作戦。敵軍は食糧を現地から奪って調達しているため、それを不可能にしてしまえば侵攻はにぶらざるを得ない、ということ。策は一定の効果を示したかに見えたが…。

 侵攻する側と防衛する側。巨大な河を挟んで両軍が向かい合う。小勢ながら奮闘する新城たちを裏から挟みうちにするため〈帝国〉軍から分離したのは、眉目秀麗にして武勇にも優れるカミンスキィ大佐と、馬術において並ぶ者なしの武人バルクホルン大尉。

 その接近を感知した新城たちは、それを迎撃しなくてはならない。河を防衛する人員は残す…つまり、ただでさえ少ない自軍をさらに分割することで。

 押し潰すか、守り抜くか。両軍の役者が直接激突する。

 

皇国の守護者 (3) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)

皇国の守護者 (3) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)

 

 

1巻の感想はこちら(『皇国の守護者』1巻の感想、もしくは6巻発売を待つ日々について - 惨状と説教)。

おしえて!ギャル子ちゃん』1巻の感想はこちら(『おしえて! ギャル子ちゃん』の感想、もしくは彼女たちの15年間について - 惨状と説教)。

『黒博物館 ゴーストアンドレディ』の感想、もしくは単にフローレンスかわいいぜ、の話

 看護婦。女性看護師。

 なんのとは言わないが、一大ジャンルであると思う。
 
 俺は特に好きではないけども、「ああ、なるほどね」と思わせられる体験があった。
 入社当初、総務課長に健康診断の提出を求められて正直に「ないですねと答えたところ大型犬の横ツラを不意打ちではたいたような顔をされて、事態の深刻さがなんとなくわかったので、早急に近所のクリニックに予約をとった。
 健康診断では女性の看護師が一人付き添いでついてくれて、身長、体重、計測のための機械を二人で巡っていった。
 そのとき、心電図をとるための機械だったかよく覚えていないが、体を横にする場面があった。
 計測が終わって体を起こそうとしたときだ。目をつぶっていたのかもしれない、頭上にあった何かの機材に気がつかず頭を痛打した。何か呻いたかもしれないが、それよりも早く「あっ」という看護師さんの声が聞こえた。「ゴツンしたね…。痛かったね…」
 
 ゴツンしたね。その言葉と、続けて尋ねられた「大丈夫?」という言葉と、なにか二重に響きながらしばらくぽわんとしていた。
 
 どれだけボンクラだろうが世間をナメていようが、20歳を超えて求められるふるまいがあるのはわかっていて、でも精神的には小4ぐらいで進歩が止まっている。
 当然心に無理が生じて摩擦が出てくる。そこに「ゴツンしたね」…。なんか楽になる実感があったのだった。
 後日友人と話した結果、だいたい病院にいる人は自分のすべてを相手に委ねることになるので、非日常的なその解放感が、源である看護師に好意として注がれるんじゃねえ、という話になった。
 それが、さらに解放感を求めようと思って行き着く果てがエロ。それゆえの一大ジャンル。なるほどね。あの看護師さんはいま元気にしているだろうか。
 
 なんの話かというと、藤田和日郎の黒博物館シリーズ、『ゴーストアンドレディ』の感想なんだけども。
 ヒロインが看護婦で可愛いんだけども。
 マジメだけどピンポイントでぶっ飛んでていいんだけども。
 ボンキュッボンなんだけども。
 あと前作に引き続いて学芸員さんも登場しているんだけども。
 だけども。
 
 イギリスはロンドン警視庁の中にある犯罪遺留品を展示する博物館、通称“黒博物館”と呼ばれるこの場所に訪問者がやって来て、館の学芸員相手に展示品にまつわるエピソードが展開される…というあらすじは前作の『スプリンガルド』と同様。

 ただし今作の特徴は、この語り手がなんと幽霊だということだ。

 主な登場人物はこの幽霊と、彼がとり憑いていた一人の女性。自分の非力を嘆きそのために自死を願う女性が幽霊と交わした、「彼女がこの世に絶望しきったときにその命を幽霊が奪う」という奇妙な約束を主軸として、物語が展開する。
  

 看護婦を目指しているその女性は、後のフローレンス・ナイチンゲールその人(作中ではフローと呼ばれることが多い)。良いキャラ。高潔で行動力があって、ボンキュッボンで(wikepediaの肖像写真は見なかったことにしておく)

 人を救うためならむちゃくちゃやるけど、ちゃんと世間的な常識は持っていて、それゆえに悩みもしていて、でも要所でネジが飛んで大立ち回りをやる。
 良識と理想との間のフラストレーションを昇華させてブチ切れてタンカを切るフローはすごく魅力的だ。俺は素でイカれているキャラクターよりこういうのが好き。
 幽霊(男)とは最初は前述の契約をふまえた主従関係みたいな感だったけど、まあなんじゃかんじゃそういう感じになる。幽霊を見つめる視線に段々特別な感情がこもっていく過程はキュンと来る(初対面ではのど輪されてたけど)
 
  幽霊の名はグレイマン。通称グレイ。
 かつては腕利きの決闘代理人だったけど、ある日その決闘で敗れて死亡。以降、自分と因縁のある劇場にとり憑き、決まった席で演劇を観続ける日々を送っていたところ、フローに出会う。
 フローのことは最初は面白い女ぐらいにしか思ってなかったようだけど、先に惚れたのはグレイの方。同じ作者の『うしおととら』のとらよろしく、害なす存在からなくてはならない右腕へと変わっていく。
 グレイがフローに抱いていたのが恋愛感情かどうかは見方が変わるだろうけど、俺は恋愛のそれだったと思う。
 個人的には「フローが絶望しきったときに殺す」なんて奇妙で相手次第の契約をしたのが失策だったな。自分が飽きたら殺す、ぐらいにしておけばよかったのに、この約束のせいでフローの一挙手一投足に注目せざるを得なくなった。
何でもじっと見てると好きになる。
くそう、と一応思う。(『イキルキス』by舞城王太郎

  ということだ。

 

  相手が絶望しきったときに殺してやるつもりだったのに、なかなかそうならない…どころか生気を増していくフローを見て、色々ぼやくグレイ。そう言われても、と困るフロー。
 クリミア戦争が開戦し、現地の傷病兵を救うために危険地帯へ向かおうとするフローに、「俺が殺す前に死んじまうからそんなとこに行くな」と憤るグレイ。「そんなに殺したければ今ここで殺せばいい」と応酬するフロー。
 
 このリアルにいたら勝手にしろ感
 軽口と駆け引き。本音のぶつかり合い。二人だけの世界でパワーバランスが絶えず揺れ動き、しかしお互いにかけがえがなくなっていく。だから俺はこの漫画について、アクションであり歴史ものでもあるけれど、半分くらいはラブコメだと思うんだった。
 
 あと前作に続いて学芸員さんも登場。出てくる割合的に少しフローに喰われ気味のところもあるけど、やっぱり可愛いですね。次回(何年後になるのか)は聞き役以上の活躍を期待したいところ。
 
 最後に結末について(以下少しネタバレ)。
 いいオチだったと思う。納得いかないところもあり、それゆえに訴えるところがあった。
 あのエンディングについては色々解釈があるようだけど、しっくり来たのは「結局地獄に行く側だったから」という考え方だろうか。
 でも、あまり突き詰めて読み解こうとしなくてもいい気もする。理由とか意味とか。なんとなく「そうか」と思った。すごく良い情感込めての「そうか」だ。それでいい気もする。
 実はこの作品、フローレンス・ナイチンゲールの伝記としての要素が強い。物語の見せ方は楽しめても「次に何が起きるか」にそこまで興味が持てない時間帯は冗長さを感じた。
 でも結末で完全に評価が定まった感じ。上下巻で長いし値段も張るけど、チャンバラとあとイチャイチャがあんまり全面に出てこない恋愛ものが好きな人にはおすすめです。以上。
 

 ボンキュッボン(今のうちにたくさん言っておかないと一生言わない言葉のような気がするので)。

 
  ※前作の記事はこちらから。

 

 

ソニックマニア2015の感想について Prodigy、電気グルーヴ編

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  音楽イベント観に行くのを「参戦」とか言いだしたら人間もう終わりだな、と思っている。

 なんかわざわざ人に言って聞かせてる感じがするじゃないか。うるっせーつぅんだよ。どうせ俺には一緒に行く相手はおろかそういうこと言う知り合いもいねえよ、ってんで面白くない気分になる。

 

 というわけでソニックマニア(幕張メッセで開催されているサマーソニックの前夜祭的なやつ)2015に参戦してきた。一昨年、昨年に続いて3年目の参戦となる。

 以下、Prodigyと電気グル―ヴの感想です(PerfumeMarilyn Manson編はこちら→ソニックマニア2015の感想について Perfume、Marilyn Manson編 - 惨状と説教)。

 

 Prodigy…圧巻。それ以外の感想は蛇足

 やべぇ。

 Prodigyやべぇ。

 

 なんとなく行ったんすよ。ちょいちょい名前聞くから。俺くらいの洋楽ツウでもちょいちょい聞く程度だから、ま、そんな有名じゃないんだろうけど、ま、行ってやっか、みたいな。

 すんませんでした。すごかったっす。

 

 1時ごろ開演。

 シンプルで電子的、金属的なメロディがループするところにバカみたいに体に響くドラムの音、ホストのコールみたいな、でも300年くらい修行した果ての極地みたいな、めちゃくちゃオーディエンスを煽るボーカル。

 最初後ろの方で観ていたのだが、なんか前の方の盛り上がりがヤバかったんですよ。で、あれ、なんかスゲーぞ、となって。できるだけ前に移動した。

 

 純粋な盛り上がりではこの日一番だったんじゃないだろうか。ボーカルの人(二人いる)の煽り方がほんとものすごい。

 もともと曲自体が、なんにも知らない俺でもどこではしゃげばいいのかわかりやすくできてると思うのだけど、この歌う二人が観客を誘導して爆発力を最大限高めている。演奏する側と聴く側と、一緒にこの空間を作ってる感じが尋常じゃない。

 帰ってすぐに近くのTSUTAYAでアルバム借りてきました。もし同じように探していって見つからなかった西東京の人、すみません。俺です。一週間後には返します。すみません。 

 

電気グルーヴ…おっさんの中のおっさん、瀧のおっさんを浴びて明日からも生きていこうと思う

 おっさんの一つの完成形であり、俺の目指すところのおっさんである瀧のおっさん。 おっさんオブおっさんズ、瀧のおっさん。

 その瀧のおっさんが音楽をやっているというので観に行った。一昨年に次いで2回目となる。

 

 2時30分ごろ開演。瀧のおっさんは一昨年同様、シルクハット?みたいな帽子をかぶって登場。コミカルな動きでステージを動き、聴衆を煽る。

 最高だ。

 

  実は電気グルーヴの音楽自体は特別ファンではない。でも瀧のおっさんのパフォーマンスは好きだし、電気グル―ヴが作る会場の雰囲気も好きだ。

 今回の曲の中でわかったのは『Baby's on fire』だけだったけど、でも楽しかった。みんなも楽しそうだったな。

 

 あと、瀧のおっさんは最後の曲のMCで「絶対に放しませんよぉ」というフレーズを連呼していた。おっさん何言ってんだよ。 

 

 電気グル―ヴ終演後、空いているスペースで仮眠。ソニックマニアの会場ではけっこう寝ている人を見かける。目当てのアーティストも終わり、電車が動く時間をこうして待っているんだろう。

 ソニックマニア後すぐに電車で帰ろうとするのはマジで地獄だ。会場にいた人間の何割くらいかわからないが、ともかく大勢の人間がそのままJR海浜幕張駅になだれ込んでくるからだ。

 一昨年、昨年とそれでつらい思いをしたので、今年はできるだけ現地で電車が空く時間を待とうと思っていた。寝ながらそれでができたら楽だなあってんでこうして寝ていたのだが、何時ごろまでこのまま寝てられるんだろう?という疑問はあった。

 

 5時ごろにスタッフの人に揺り起こされる。「サマソニの準備が始まるので」。なるほど、そりゃそうだ(ご迷惑かけました)。

 会場の外へ。なんとなく左手に歩いていくと、建物の陰で人が何人も寝ていた。「?」と思うが、まだ眠いし先駆者もいる安心感で俺も少し二度寝。たぶんいま思うとサマーソニックの参加者が開場を待ってたんだろう。

 

 7時前に目を覚ました。周りにはまだ人が眠っていた。

 駅に向かって歩き出す。静かで、動くものはほとんどなくて、あの人がぎゅうぎゅうに詰まったうす暗くて、でもまばゆい、轟音と歓声の空間にいたことが嘘のようだった。

 でも、路上のところどころにやっぱり誰かが眠っていた。三人の学生みたいな男の子たちが話をしている脇を通り抜けると、コンビニで買ったらしい朝飯を片手に、今日の作戦を立てていた。

 終わったものの余韻の中に、確かに始まるものへの予感があった。俺の分は終わったので、海浜幕張駅の改札を抜けると、そのままやってきた電車の座席に汗臭い体をおろして目を閉じた。

 

 なお、いわゆるEDMと呼ばれるくくりのアーティストのステージは今年観ませんでした。

 運営側のタイムテーブルの作り方もそういう人の観たい演者が潰しあったり、逆に観るものがなくて暇になったりしないように組んであるっぽい。twitterで調べても同じルート(PerfumeMarilyn MansonProdigy電気グルーヴ)で動いた人が多かったような。

 観たい演者の裏だったら無理だけど、例えば開演を早めて、そういうジャンルだけの時間帯を先に作ったら観に行ったかもなあ、とか思います。

 でも観ないかな。なぜなら俺のEDMのイメージは、黒ギャルがライムの刺さったコロナビール片手に片乳ほっぽりだしてブーメランパンツのサーファーと一緒に踊るための音楽なので(間違った認識ということを承知で書いている。なぜなら会場にそんな人はいなかったから)。

 

 来年も行きます。では。

 

 

ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション

ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション

 

  何作か聴いてみたところ本作の『voodoo people』がむちゃくちゃハマったのでこれを紹介。

 リリースは1994。20年前にこんな曲を作っていた人がいたことに驚く。もしLimp Bizkitより先に出会っていたら、高校生時代の重低音需要を満たしてくれたのはprodigyだったかもしれない…。

ソニックマニア2015の感想について Perfume、Marilyn Manson編

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 音楽イベント観に行くのを「参戦」とか言いだしたら人間もう終わりだな、と思っている。

 なんかわざわざ人に言って聞かせてる感じがするじゃないか。うるっせーつぅんだよ。どうせ俺には一緒に行く相手はおろかそういうこと言う知り合いもいねえよ、ってんで面白くない気分になる。

 

 というわけでソニックマニア(幕張メッセで開催されているサマーソニックの前夜祭的なやつ)2015に参戦してきた。一昨年、昨年に続いて3年目の参戦となる。

 目当てはPerfumeMarilyn MansonThe Prodigy電気グルーヴ。以下、各アクト(これも鼻持ちなんねえ言い方だな)の感想を書きます。
 
Perfume天使降臨。ただ、途中参加なんであんま没入できず
 22時開演…だったけど、現地の海浜幕張駅まで乗り換えにかかる時間を甘くみて間に合わず。京葉線があんなに間隔空いてて来ねえとは思わなかった。
 結局22時20分ごろ、駅から他の参加者の流れに乗って会場、幕張メッセに到着。場内で同時進行している複数のステージのうちPerfumeの場所を確認し、舞台の向かって右後方にもぐり込んだ。
 
 そっから『Party Maker』、『だいじょばない』などを演りつつ、最後は『チョコレイト・ディスコ』で〆だった。
 Perfumeをはじめて観たのが一昨年同じソニックマニアのステージだったのだが、正直に言うとそのとき観たときほどには「ライブすごい!」という感じはしなかった(まあ途中参加だし、これは俺が悪い)。
 位置取りがよくなかったかな?と思う。中央前方は盛り上がってたし。
 ステージを観ている観客の温度は別に一定ではないのだ。圧死上等で両手振り上げながら飛び跳ねたい人もいるし、少しスペースのあるところでゆったり踊っていたい人もいる。棲み分けがあって、自分の楽しみ方に合わせて観る場所を決める部分もある。
 俺は前者だったので、そしたらそれなりのところにいなきゃいけなかったかな、とも思う。でも、個人的には一昨年のが楽しかったです。基本照明明るすぎない?とか低音効きすぎじゃない?とかも感じた。
 
 Perfumeの三人は素敵でしたよ。かわいい。一生懸命。あと脚キレイな。
 照明が落ちたステージで闇を裂くようなスポットライトだけを浴びて歌う三人は神々しかった。なんかこういうの邪教の装置で使えそうだな、というか昔は絶対そうだったよな。女子と照明と音楽…。
 なんかそういうことを考えたりした。
 今後も応援してます。
 
Marilyn Manson…狂乱。あと、聖書の着火を無事確認
 23時20分ごろ開演。
 続くのは、アメリカのロックバンドMarilyn MansonPerfumeと同じステージ、客席を引き継いでのプレイだけど、客層が変わり、周囲が明確に殺気を帯び始める。周囲はほぼ男子。少し女子。
 アルバムは何枚か持ってるけど、ライブは初だ。音楽雑誌のライブレビューにあったパフォーマンスで聖書を燃すとかそのせいで会場周辺にキリスト教関係者が出張って入場を考え直すように呼びかけているとか、そういう物騒な話で想像と恐怖をただ膨らませていた時期を経ての初マンソンだ。
 
 そのうち、ステージの調整が終わったらしく照明が落ちる。客席から歓声…というか怒声のようなものがいくつか飛ぶ。この瞬間はけっこうマジでゾクゾクする。
  そしてマンソン降臨。わかった曲は『Disposable Teens』『mOBSCENE』『Personal Jesus』『Angel With The Scabbed Wings』『The Dope Show』『Rock Is Dead』『Antichrist Superstar』最後は『The Beautiful People』で〆。
 
 『Disposable Teens』で周りが沸騰するのがわかった。頭ガンガン振ってるやつとかわけわかんねえくらい暴れてるやつとかいる。俺もむちゃくちゃ声張った。
 以降はほぼサウナ状態。ときどき空調の風ががーっとくるのが気持ちよかった。
 
 あ、上記した聖書着火ですが、『Antichrist Superstar』で普通に燃してましたね。なんか感動した。有名な芸人の有名な一発ギャグ生で見たみたいな(失礼か。…でもどっちに?)。
 でもライブのたびに聖書燃してたらそこらのパンピーよりかマンソンは聖書に金出して買ってるよな…とか思った。やっぱ火のつき方にもこだわりがあるんだろうか。どこの出版社のは派手に燃えるわりにすぐ燃え尽きないから手が熱くなくていいゼ…(マリファナを片手に)みたいな。
 ひょっとしたらアメリカのどっかの山奥に伝説の聖書職人みたいな人がいて、ライブのたびにマンソンがそこをドル札詰めたトランクケースを下げて自ら赴いてたりするんだろうか。そして職人の前で土下座しながら依頼してたりするんだろうかマリファナを片手に)
 職人は依頼を受けた後もちろんその金を暖炉にくべて「こうするのがわしの楽しみなんだ」的なことを言うんだよな…。燃え上がる聖書を見ながらそんなことを考えた。
 ハイライトはその『Antichrist Superstar』かな。手拍子+雄叫び×16。楽しかったです(↓知らない人のために。こういう人、こういう曲)。
 
  
 

 

JPN(初回限定盤)(DVD付)

JPN(初回限定盤)(DVD付)

 

 最新作より俺はこっち。『MY COLOR』みたいな踊れる曲から『575』『スパイス』みたいなせつなくて可愛い曲まで、聴いててはしゃげるアイドルとしてのPerfumeがものすごく高いレベルで表れてる作品だと思います。

 

レスト・ウィ・フォーゲット

レスト・ウィ・フォーゲット

 

 アンチクライスト三部作から『the golden age of grotesque』まで、俺の欲しかったマンソンはとりあえずほぼこの中に。剥きだし、直球の憎悪あり、変化球ありとバリエーション豊かだけど、全篇とおして落ちることのない異様な攻撃力を誇る。

『黒博物館 スプリンガルド』の感想、もしくは単に学芸員さんかわいいぜ、の話

 雪の降る中を、一人で箱根の彫刻の森美術館に行ったことがある。

 美術館と言っても、室内ばかりに作品を展示しているわけではない。広い敷地の中、建物から建物へと移動する間にもオブジェが設置されている。広い芝生などもあるため、美術館というよりは公園という言葉でイメージする方が実際の姿には近い。

 時刻は夕暮れで、閉館時間を待つばかりの館内に人はほとんどいなかった。灰色の空の下、オブジェの設置された道を白い息を吐きながら歩いた。身をよじらせたようなかっこうで静止しているもの、電力を受けてぐるぐる回転しているもの。それらは見る人が誰もいない中で、実に静かに超然としていた。珍しいものを見物するつもりで入館した俺は、かえって自分の方が異物になったような気分で、美術品の並ぶ道を歩いて回った。

 いくつかある建物が、薄闇の中に柔らかい光を落としていた。モディリアーニの彫刻が見たくて、そのうちの一つに入った。階段を上がった2階に訪問者は一人もおらず、職員の女性が一人だけ、展示されたオブジェに囲まれて椅子に腰掛けていた。

 空調の音と自分の呼吸と、そんなものしか聴こえないぐらい静かだった。ほとんど直方体をしたモディリアーニの彫刻は、人の頭部をかたどったブロンズ像で、ごつごつとして冷やっこそうなそれを含めて他の作品を見て回った。職員の女性に「なんでケースに入れられた作品とそうでないものがあるのか」と尋ねると、材質の違い、とのことだった。空気に触れると劣化するものもあるんだそうだ。

 あの女性は監視員だったのか、学芸員だったのか。わからないが、誰も観賞するものがいなくても、ただひとりそこに見守る存在がいるだけで人と物との間に完全な調和が満ちていたあの空間のことを、俺はいまでも思い出す。

 

 

 以下、先日続編となる『黒博物館 ゴーストアンドレディ』が発売されたところなので、「黒博物館」シリーズの第一作について紹介してみる記事。

 最初にきわめて高尚な方向に話の天秤を傾けてみたので(別に傾いてねーか)、あとはひたすら『黒博物館 スプリンガルド』の学芸員さんのかわいさをほめたたえてもなんの問題もない理屈なわけだが。

 まあ、ずっと1000文字ぐらい金髪お団子ヘアの黒ドレス最高だぜって連呼するのもなんなので、申し訳程度のあらすじ紹介を。

 

 ロンドン警視庁の中にあるとされる、犯罪品を展示する博物館。「黒博物館」と呼ばれるこのミュージアムに、ある日一人の刑事が展示品の閲覧にやってきた。

 彼が見ることを望んだのは、かつてロンドンを震撼させた怪人「バネ足ジャック」事件に関する遺留品だ。それは、バネ製の足を持ち口から火を吹くというこの怪人の一部、バネの足そのものだった。そこで、刑事を案内した学芸員は聞かされることになる。かつて刑事が捜査したというこのバネ足ジャック事件の真相を。バネ足ジャックの正体とされる、放蕩貴族・ウォルター卿の物語を…。

 

 謎解きの要素もあるけど、メインは演出の効いたセリフと迫力ある活劇。

 

 言葉の使い方がものすごく健全(特に深い意味はないです)な作家さんだと思う。難しい単語や変わったレトリックはほとんどない。切り取って別のシーンで使ったらそのまま流されてしまいそうななんてことない言葉を、タイミングと見せ方を選んでそこに落とす、ただそのことに注力して輝かせる。

 

 あとアクション。以前、2chまとめサイトを読んでいて、「『遊☆戯☆王』の高橋和希と『NARUTO』の岸本斉史の絵がすげーのは、現実に存在しない怪物を紙に放り込んでデッサンや遠近感を狂わせずに絵として成立させていること」みたいなレスがあった(うろ覚え)。

 そのときは「ふーん」とか思っていたのだが、そういう目線で『黒博物館 スプリンガルド』を読むと、バネの足をびょーんと伸び縮みさせて空中を歩いたりバネの手を伸ばしてモブの雑魚をなぎ払うバネ足男の動きのリアルで説得力のあること。

 現実にこんな姿かたちのやつは当然いない。それがハチャメチャやってるのを違和感なく描くって、よく考えたらすごいよな、って話だった。

 

 あ、書いてたら意外とフツーの感想っぽくなったな。

  でも学芸員さんだけに注目して、話が進むとともにヒートアップしていく彼女を見てニヤニヤするためにだけ本編を追うという人間の腐ったような楽しみ方も可能ですよ。

 

 最初はクールだったのにエキサイトしすぎて最後は涙目になるとかすげーかわいい。立ち読みで読んでたっきりだけど、『からくりサーカス』のしろがねもそんなだったかな?どーだったか。

 

 ちなみに、記事の頭の画像は本作の番外編にあたる『スプリンガルド異聞 マザア・グウス』からです。

 これは、バネ足ジャックの中の人とされるウォルター卿の姪にあたる女の子を主人公とする後日談。藤田和日郎の描く女の子って可愛いね…というのを、学芸員さん以外のとこでも感じられる作品です。あわせておススメロリコンのオッサンを成敗するって話のあらすじ的に、こういう感想もどうかと思うが)。以上。

 

 シリーズ第2弾『ゴーストアンドレディ』についてはこちら(『黒博物館 ゴーストアンドレディ』の感想、もしくは単にフローレンスかわいいぜ、の話 - 惨状と説教)。

 

 

黒博物館 スプリンガルド (モーニング KC)

黒博物館 スプリンガルド (モーニング KC)

 

 

27時間テレビで思ったこと、もしくは笑うことに関する整理について

  ※27時間テレビ全体の感想を期待されている方、フジテレビはクソテレビ局でお台場にあるあのでっかい玉の中いっぱいにたぶんゴミが詰まってる、みたいな内容を期待されている方、いらっしゃったらたぶん肩透かしです。すみません。

 

 『牡丹灯籠』という落語が好きで、噺家が演っているのを(「やっている」と書いたつもり。一度言ってみたかった)録音したやつをPCの中に放り込んでいる。

 取り込んだのには古今亭志ん生が演ったやつと三遊亭生が演ったやつの2種類があって、俺は志ん生のバージョンの方が好きである。それぞれ個性が違っていて志ん生の愛嬌のあるじいさんの語り口が好きだから、というのもあるけども、もうひとつ大きな理由だと思う要素がある。

 圓生のバージョンは、もしかするとスタジオで録音されたものかもしれない本人の声しか聴こえない内容だ。一方、志ん生のバージョンは寄席を録音したものであるらしく、観客の笑い声やひいてはその場の愉快な空気みたいなものがなんとなく音声にこもっている。

 

 志ん生が面白いことを言って、俺自身は声が出るほどおかしくはないけれども、他の人がけらけら笑っているのを聴くとなんとなく気持ち的にはゆるまる。それで、そのうちに俺も「へっへ」とかってキモく笑いを洩らす。

 単に演者の言動の面白さだけで生まれるのではない、その場の空気が許す笑いもあると思うのだ。もちろん周りがどうとか関係なく反射的に噴き出す笑いもあるんだけど、他の人(それは現実的にその場にいるという意味合いだけじゃなく、上に書いたように記録された音声の中だけの存在だったり、「常識」「良識」といった「概念」としての存在も含む)と同じという安心感ありきというか、「笑ってOK?OK?よしOKね」っていうのが無意識のところでベースにある、そういうおかしさみたいなものがあると思う。

 

 今日の昼間、27時間テレビ出川哲郎がドッキリで水中に落ちていた。

 『世界の果てまでイッテQ!』で出川がペットボトルロケットで空を飛ぼうとしたとき噴射直後に前転してものすごい勢いで砂浜に突き刺さったのをみて死ぬほど笑った俺なので、その後もVTRでこの映像が紹介されるたびに笑っている俺なので、リアクション芸の笑いとしての是非とか問うつもりはゼロである。笑いとしての質が、とかいじめにつながるとか、どうでも…よくはないのかもしんなけど、ここでは触れない。

 ただ、さっきの出川は笑えなかった。自分が話をしている最中に水に落とされて本気で怒っているように見えたし、スタジオの雰囲気も「あれ、出川マジでキレてねーか?これは笑ってていい状況なのか?」というのが出ていた気がする。

 

 出川が本気で怒っていたのかはわからない。でも、他の演者がそれに対する反応を選びかねているのが視聴者(俺)に伝わった時点で、笑えない。

 あるいは他の演者も別にたじろいでおらず俺が早とちりしただけなのかもしれないが、俺に「他のやつひいてんじゃん」と見えた時点で、とりあえず俺は笑えない。

 どうすればよかったかというと出川も実はこんなん知っててキレてるのはフェイクだぜ、ってのをわかりやすくしつつ他の演者みんなでやいのやいの騒がしく言うっていう、それはそれでグロテスクなのかもしんないが、まあ要はそういう安心感というか空気を作る努力と見せ方が必要だったんじゃないか、と思う。

 

 俺は27時間テレビが嫌いだけども、27時間テレビ、ひいてはフジテレビを嫌いという人はもっと嫌いだ。おかしいことを言っているようだけど俺は俺のことも嫌いなので(同じくらい好きだけど)、論理的には間違ってないのだ。たぶん。

 なので、27時間テレビの構成≒フジテレビの凋落の象徴みたいな語り方で「27時間テレビつまんねーよ。やっぱフジは常識の欠落したクソだな」みたいなのを目にすると反射的かつ感情的に意地悪を言いたくなる。

 「言うほどどこも変わんねーしどれもそんな面白くねーだろ」と。

 「お前らのその意見はフジテレビって入り口を通さないでも表に出てきたもんか?俺らみんなにその“良識”?みたいなもんが本当にあったら、世の中もっとよくなってんだろ?」と。(それはお前が世に倦んでるだけだろ、とかてめーのこと棚にあげてほざいてんなよって反論は…えーと、的を射ている。すんません)。

 

 ただ、フジテレビが斜陽になっているならそれは上に書いたような「他の人と感覚を共有することで生まれる、笑ってもOKな空気を全力で死守する」「悪ふざけするのは最低限その範囲で」ってルールをナメてるところがあったりするかもね、みたいなことは今日思った。

 だまされて水中に落ちたやつをみんなで笑うわけだから、そこに「あれ?これありなのかな?」ってのいうのが一瞬でも入る余地があったらダメなんだろう。だってそもそも普通はありじゃねえんだから。そこから後ろめたさを薄める細工は必要だし、それを怠ったり失敗したうえで計画を強行するのは、製作者の「分」を出ているんだと思う。

 

 もしかするとそこにインターネッツの台頭があって、視聴者から後ろめたさはなかなかぼやかしにくくなってるのかもしれない。後ろめたさを嗅ぎあてること自体がゲームになっていたらなおさら難しいわな、とは思う。でも今日はこれ以上は書かないでやめとく。

 前述したように27時間テレビが嫌いなら27時間テレビとフジテレビが嫌いという人はもっと嫌いなので、フジテレビがんばれ、がんばって面白い番組作れとか思う。

 でも俺自身最近あんまりテレビ観ねえしフジは特に観ねえし、作っても気づくチャンスがあんまりねえから、しょうがねえよなあ、もう滅んでもしょうがねえかなあ、みたいな、結局誰の味方にもならないで敵ばっかり認定する自分勝手なことを言って終わりにするんだった。以上。

 あ、でも『全力!脱力タイムズ』は観てみようと思ってます。では。