幸運を超えて従えて。『BLUE GIANT SUPREME』2巻の感想について

はじめに

 『ライフ・イズ・ビューティフル』の前半部分が好きで、なんでかというと人と幸運というものとの交錯が、好もしく描かれているからだと思う。

 観た方ならわかるとおり、この映画では主人公の恋に様々な偶然やラッキーが味方する。重要なのは、彼がこれらの幸運をただ享受するわけではなくて、彼がそれらを最大限生かすために知恵を絞って、はじめて活路が開かれていくということである。

 最後に、彼は高嶺の花であるヒロインを射止める。そして、そこには意外なくらい幸運の影響が感じられない。主人公が全力を尽くして(その中には自分の未来を信じぬくことも含まれる)自らの希望をかなえるとき、幸運は上手いこと俺たち観客の前から姿を消すのだ。ただ、努力した主人公に祝福だけを残して。

 

BLUE GIANT SUPREME』2巻の感想について

 はじめに書いてしまうと、ストーリーの中では幕間に近い巻である。

 日本を発ってドイツはミュンヘンにやって来た大は、この地でプレイングを続ける中で一人の女性ベーシストが演奏する姿を目にする。ハンナ・ペータースという名の彼女がハンブルクに住んでいることを知った大は、彼女と一緒に演奏することで得られるものの大きさを確信し、共にバンドを組むべく、自らもハンブルクへと向かうことにする。

 

 某巨大掲示板のスレッドでも言われていたけど、ドイツという異国の地で、大は次々に色んな人に親切にされる。宿を提供してもらい、観客を連れてきてもらい、ハンブルクでは自身が探すハンナとの出会いの場までセッティングしてもらっている。

 大は確かに魅力的なキャラクターだけど、彼が人たらしだから、というだけでこの厚遇は説明できない。まあラッキーと言っていいと思う。

 で、じゃあ大を助けるこれらの幸運は物語の熱気をさまたげるか、読者をしらけさせたかというと、少なくとも俺の場合はそうではなかった。

 結局はこれも大の魅力のひとつの紹介にいきついてしまうんだけど、大はとにかく自分の目指す地点への最短距離を、最速で、かつ(矛盾するようだけど)寄れる範囲の寄り道をしながら猛進していくようなキャラクターで、へこまないわけでも自信を失わないわけでもないんだが、ともかく自分の回転をまったく落とさない(「へでもねえや」)。それでいて、雪の中を独歩する一匹の猫とのちょっとした出会いを胸の中に留めていたりする。

 「俺だから大丈夫」。演奏をひかえた大がこの巻でそう言うとき、そうだ、お前はそう言えなきゃダメなやつだ、と思う。自分だから大丈夫。どんな人でも漠然と思っていることだけど、クズほど自分を甘やかして言ってしまう言葉だけど、そのセリフを口にするのは大こそがふさわしい。

 そして、そんな大には幸運が味方してもいいと思う。主人公だからラッキーが起こるというご都合主義の原因と結果ではなく、ラッキーを単に数ある要素の一つとして従えて前進し、その偶然性が読者の目に目立つ前にかき消してしまう説得力が、大にはあると思うんである。

 

おわりに

 以前、同じ漫画についてこんな記事を書いた後で、非常に節操のない話になってしまいましたすいません。でも、根源は一緒なんであって、要は不幸にするにしてもラッキーにめぐり合わせるにしても、うまいこと俺らをだましてください、ってことで。

 上で書いたとおり今巻はつなぎで、次回、大が共演を熱望していたハンナとのセッションが始まることを予感させて終わっている。大自ら一緒に組んだら凄いことになると公言した両者は、次巻ファーストコンタクトとなるんでしょうか? そして、その暁には果たして何が起こるんでしょうか? 期待。(おわり)

 

BLUE GIANT SUPREME 2 (ビッグコミックススペシャル)
 

 

収束へ。終息へ。『へうげもの』24巻の感想について

 もう織部と家康以外の武将の話はしないって約束したじゃないですか。したじゃないですか。してませんでしたっけ?
 
 
 
 
 してない。
 
 してないが、ともかく俺が『へうげもの』であまりピンときていない部分である多くのキャラクターの取り扱いが中心の巻になった。
 なったが、数寄の頂点たる織部と、権力の頂点にして究極の無粋である家康という対決に向けて、色々と整理され収束していった巻でもあった。
 
 まず大阪夏の陣が徳川方の勝利で決着。バーニング大阪城。徳川大正義の流れはもう止めようがないところ。
 大巨人・豊臣秀頼は徳川治世以降で登場したキャラクターの中では俺がぶっちぎりで好きな人物で、初登場の場面では変な笑いが出て止まらなかったし、その後もその体のみならず規格外の器の大きさを示して家康さえちょっとビビらすなど素晴らしく素敵だったが、今巻で退場。退場? あれ、巻きに入ってるはずなのに伏線が増えてるような…?
 
 そして織部。家康暗殺を企てた息子をかばって、自ら最後の舞台へと近づいていく。息子の件がなくても家康は理屈をつけて腹を切らせようとするだろうけど、とにかくこれで織部は退路がなくなったわけで、おそらく死の足音をこころのどこか聞き始めている気持ちなのだと思う。
 その他、いくつかのサイドストーリーがまとめられた。真田幸村、そして稀代のじゃじゃ馬の最期など。思えば幸村は若かりし織部が城に潜入するミッションのときにも接点があった、なかなか古い付き合いだった。今巻の真田の忍術には腹抱えて笑わさせてもらいました。
 
 
 巻末の煽りを見ると次巻大団円とあるから、次が最終巻となるのだろうか?
 前巻(23巻)の感想で「俺はいまの織部より昔の織部の方が好きだった」と書いたけど、ここにいたって軽薄にもそれは考え直す次第で、自分の死を予感しながらあくまでへらへらしつつ老獪な織部は、老いたいまの織部なりの魅力を持ちつつも、昔日からの続きを生きてきた織部だった。俺の中で、ようやく、茶杓ネコババしたり樹上の茶室から湯釜と一緒に崩落したりしていたおっさんと、いまのジイさんがつながった。そして、「ああ。こいつ死ぬんだな。こいつ自身もそのことがわかってるんだな」と思った。
 待つ、次巻。
 
 余談。爆笑したと前述した真田幸村の秘密兵器ですが、この絵を見てあらためて思ったのは山田芳裕はモノとモノに高低差がある構図を迫力たっぷりに描くのが図抜けて上手いということで、何が言いたいかというといつかまた度胸星の続きを描いてくれよ、ということで、これも待っているよ。いつまでも。いつまでも。おわり。

 

 

嗜好品2種。『紅茶スパイ―英国人プラントハンター中国をゆく』と『胡椒 暴虐の世界史』を読んで思ったことについて

 どちらも1600年~1900年ごろのヨーロッパとアジア間の貿易をテーマに扱った作品である。

 最初探していたのは前者だったのだが、図書館でおさめられていた棚をあらためて見ると後者も面白そうだな、ということで手にとった。こういう、本来ターゲットにしていた本と題材を共有する別の本を目で見て手に取って確認しやすい、というのは実物の本の強みであって、だから俺は生身の本が好きである。タブレットを持ってない、それもある。ネットで情報を調べるのがド下手、それもある。

 

 本題。前者の主人公はヒトで、ロバート・フォーチュンというイギリス人。イギリス人紅茶大好き、というのは容易にイメージできるところだが、1800年中ごろまでその栽培方法と製品としての精製手段は産地中国に秘められており、意外にもイギリスはその方法をよく知らなかった。

 そこで、植物学者であるフォーチュンがプラントハンターとして中国に潜入し、自国イギリスのために茶にかかる秘儀と植物それ自体を盗みだしてくる、というお話。活劇というか、冒険としての娯楽性を求めると肩すかしだけど、それは本書の良い面と裏表で、現地の中国人従者との人間関係に苦労しながら、きったねえ市街と山地の泥濘の中を大量の苗と種を抱えてよろよろ行くその地味さは、想像するとなかなかこころに訴えるものがある。

 個人的には作中で登場し植物の輸送に関する観念を根底から一変させた(作中では地球の生態系を変えた、とさえ表現されている)技術、テラリウムが面白かった。要は、植物を土と一緒にガラス容器に入れておくだけで日光と植物自体が呼吸する気体によって草木が必要とするエネルギーが循環し、生きていく環境として完成するという発見である。

 1800年代の時点ですでに見つかっていた技術に2000年に入ってから驚くのもとんまな話だが、個人的に植物すげえなっていうのに気づかされた時期でもあったので、面白かったです。

 

 後者の主人公はヒトではなくモノ、胡椒である。本書で引用されている、「胡椒とは、みんながその周りで踊る花嫁である」という言葉が示すとおり、欧米の商人と政府、宣教師、船に船員として乗せられた囚人、軍人、アジアの領主、アジアの住民、はてはアジア・ヨーロッパの航路間に生息する(していた)野生動物にいたるまで、胡椒という物品を中心に、その行き来に関わった人たち、その利害をめぐってよくぞこれだけの影響を世の中に及ぼした、という顛末を書いた作品。

 胡椒をかけると物が腐らなくなるしあと肉とかうまくなるんだぜ、という目的のもとヨーロッパ人がアジアに行って大儲け、というのが世界史を学ぶのを中学でやめた者の認識だったが、その辺あらためて整理し教えてもらうと、まあもちろんそんな話ではまったく済んでいなくて、行く側来られる側、画策と暴力、死屍累々の世界だった。

 アメリカ政府がベトナム戦争にさきがけて東南アジアへの軍事介入をおこなった初の事例は胡椒がらみだったこと、ドードーの絶滅もこの香辛料が関係していることも、本書をとおして知った話。

 

 この手の本を読んでいいなあと思うのは、自分の認識が色々と相対化される効果があるところである。おそらく一つの題材について総合的に、客観的に書こうとすると自然とそういう記述になる、ならざるを得ないのだと思うが、絶対的に汚いものも綺麗なものも、悪い者も良い者もあまりいないらしいことがわかる。

 たとえば自然。アヘンにまみれたきったねえ市街がある同じ国の中、静かな山中の茶畑が霧の降る中に雄大に広がっていたり、マラリア蚊の徘徊する地獄のような沼沢地と熱帯の美しい大自然が同じ島に存在したりして、それぞれヨーロッパ人をドン引きさせたり楽しませたりしている。

 たとえば人。来られるアジアの側も一方的に搾取されるばかりでなくて、そこにたくらみごとがあったりしてしたたかである。

 もっとも、元囚人の船員による悪行、望まない胡椒栽培に縛り付けられて実質的に奴隷化した現地農民の例など、それは悪だろ、というのももちろんあって、暴力を単なる歴史的要素の一つとしてその善悪を評価せず、というのは「暴虐の世界史」と題された本の目指すところではないと思うが、まあこういうしっかり書かれた本を読むとそんなことを思う。

 あとはですね、たとえばイギリス人というと紅茶、紅茶を語らせたらビンタはるまで語ってやめないというイメージがありますよね。でも、イギリスで紅茶が愛飲されるようになったのはせいぜいここ数百年の話であって、ましてやその栽培のエッセンスに到達してからは200年も経っていないし、それだって言うなれば知識財産の盗用によって現実化されたということがこの本を読むとわかる。

 だからってイギリスにおける紅茶文化がおとしめられるわけではなくて、むしろその国における文化と育まれた期間の長さ、経緯とは、ある程度切り離して考える必要があるんじゃなかろうか、ということも思いました。おわり。

 

紅茶スパイ―英国人プラントハンター中国をゆく

紅茶スパイ―英国人プラントハンター中国をゆく

 

 

胡椒 暴虐の世界史

胡椒 暴虐の世界史

 

 

悪夢について2

  知人から犬を預かった。むくむくしたぬいぐるみのような小型犬で、よく知りもしない俺のことを嬉しそうに嗅ぎまわって後をついてくる。俺も楽しくなって、よせばいいのに友達と路上でサッカーをするのにその犬を連れていった。
  犬は跳ね回るようにして俺と友達の間を行き来するボールにじゃれついていた。ふと、俺が蹴りそこなったボールがよその家の庭に転がっていった。犬がそれを追って中に飛び込んでいったとき、あ、まずいな、と思った。
  その庭にはとても凶暴な別の犬が飼われているのだ。慌てて追いかけると、果たして知人の犬はその家の犬に噛みつかれ、ぼろきれのように振り回されていた。
  俺は一瞬どうしたらいいかためらって、というのは噛み付いている方の犬だって誰かに大事に飼われている存在ではあるからで、それでも噛み付いている方の犬を思い切って蹴り飛ばした。犬は人が苦悶するときのような奇態な声を上げて相手を放した。解放された方の犬はうずくまってぶるぶる震えていた。その震えている動きが、体は小さいのに、やけに大きく感じられた。
  俺はサッカーをしていた友達と手分けして、噛まれた犬と俺が蹴った犬をそれぞれ別の病院に連れて行くことにした。俺は自分が蹴った犬を腕に抱えて、その犬はよく見ると犬というより丸はだかの内臓に歯を並べたような正体のわからない生き物で、すぐに俺の手に噛みつこうとするので連れて行くのに非常に苦労した。
  病院までの道は車がおそろしい勢いで行き来していた。まるで道路に空隙ができるのを憎悪しているかのように、ひっきりなしに車が行き交って、もうもうとほこりが上がっていた。
  携帯電話が鳴ったので出ると、相手はもう一匹の犬を連れて行った友達で、医者に見せたところ大事はないということだった。安心したそのとき、俺は腕の中の犬に噛み付かれてうっかり相手を放してしまった。犬はだっと道路に駆け出していった。犬はそのままやってきた車にはね飛ばされ、黒ずんだ溜まりを路上にひろげてまったく動かなかった。

植物すごいぜと思うことについて

 昨年末に植物の鉢を一つ買った。

 きっかけは、BRUTUSで植物の特集をやっていて、アホのようにそれに影響されたからである。ちなみに、この特集自体はしゃれおつな写真とわかりづらい専門用語ばかりの解説とあたりさわりのない紀行文とが寄せ集められた、いかにも編集者が手クセで仕立てましたというようなろくでもない出来だった。少なくとも俺にはそう感じられた。猛省されたい。

 にもかかわらず、ともかく俺は植物の鉢を買った。そして、ほどなくして植物は枯れた。というか、生えていた葉にどうも元気がないな、と思って観ているうちに一枚落ち二枚落ち、最後は幹だけ丸はだかになって、枯れているとしか見えなくなった。

 俺はあきらめ悪く、日があたって湿気が多いところに行けばもしかしてと思って、地獄の底のような俺の部屋から日があたる風呂場の窓辺へと植物を移した。植物はしばらくじっとしたまま黙っていた。

 これに再び葉が生えることがあったら、それは元気になるという次元の話ではない、文字どおりの復活という言葉がふさわしいと感じられた。

 植物が吸っているのか、単に蒸発しているだけなのか、土だけはちゃんと乾いて白くなるのでその度に水はやっていたが、それ以外は何もない日が続いた。あるとき、俺はこれで枯れているのがわかったら諦めて捨てようと思い、鼻毛を切るための小バサミで植物の幹の頭を薄く切って落とした。

 すると、固く乾いた表皮の内側に緑色の芯が広がっているのがわかった。死んではいないのである。やがてその芯は徐々に鮮やかさを失い、他の部分と同じく茶色に乾いてしまったが、ともかく死んではいない。

 ただ、一方で生きていると言えるかというと、それは動物や草木と言えば青々と茂ったものばかりイメージする俺にとって、「生」という言葉の意味を見直す必要があるというか、多少戸惑うところがあるというか、要は考えるのがめんどくさい部分だった。

 植物は俺の考えなど意にとめず、ある日幹の頂点に薄い緑色の点を二つ、唐突にぼやけたように浮かべた。俺はおっ、と思いつつ、まあ気のせいかも知らんし、とも思った。それでも無意識に植物を眺める頻度は増してしまい、そしてその目の前で、緑の点は徐々に濃さを増していった。そして唐突に(すべてが唐突なのである)、音を立てるくらい力強く、二つの若葉がにょきにょき生えてきた。

 

 死んだと思っていたものが芽を吹いたのだからこれは地方版タンホイザーと言ってはばかるつもりもないが、その驚きもさめてあらためて植物を見てみると、こいつらはどうも変である。

 というのは、芽が生えたということは植物自体の体積も当然増加したということだが、俺が植物に与えたものというと水と日光だけであって、たとえば俺ら人間が成長したり太ったりするときに関係するとイメージされるところの固形物など一切与えていないからである。

 要は、こいつはどうやってでかくなり、そもそも一体何でできているのだ?

 そう思って調べたところ、インターネッツというのは本当に便利で、植物も俺らと同じように細胞はたんぱく質、繊維質は炭水化物からできていて、それぞれ地中から吸い上げたり光合成により吸収した二酸化炭素を使っていることがわかった。

 光合成の方はまあなんとなくわかるが、地中の窒素?

 じゃあ土が俺も気づかんけどその分微妙に減ってんのか? それとも量自体はそんなに必要じゃないのか? とあんまり腑に落ちていないが、まあ事実として、人や動物でいうところのメシ、他の生き物の肉も他の植物も食わないで成長するメカニズムなのである。知識としては中学生の理科の範囲なのだろうが、この体験をとおしてはじめて実感として理解できた。

 

 そういうわけで植物はいま4~5cmほどの葉を二つ、勝手に生やかしている。

 勝手に、と感じられるのは、植物というのはどうもおかしなもので、育てられているとか俺の庇護下にあるという感じがまったくしないで、平然として俺から切り離されているように思えるからで、これは残酷な想像をして俺が世話を放棄したり鉢を叩き割って中身を土ごと踏みにじっても、そこに動物的な意味での感情の揺れ動きはまったくないように思える。

 ただ、俺が感知できない、言葉にできないところで何かが起きる気はする。それがなんなのかよくわからないが。

 また、例えば俺が植物を踏み潰して火をつけて徹底的に破壊してしまうとき、俺や動物や虫の命がぽっと消えるのとはまた違う意味で、何かしらの消失がこの世界で起きる気がするのだが、それがなんなのかも、なぜそう感じるのかもよくわからない。それは文中で書いた「生」の意味の見直しをするとわかる…かもしれない。おわり。

 

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カブトなし。クワガタほぼなし。それでよし。『きらめく甲虫』の感想について

 昆虫が好きなのだが子供の頃はもう今の比ではなくて、狂ったように山野を網を振って走り、即席のヒシャクのような道具をこしらえて水中をかき回したりしていた。

 昆虫にも色んな種類がいるわけだが、そんな当時、甲虫の特別さときたらすごかった。花の中に全身を突っ込んでむぐむぐやっているハナムグリだとか田んぼをすいすいやっているゲンゴロウだとか、その流線型の体、つややかな表皮など、「生き物は美しい」という感慨を俺に最初に与えたチャンネルは甲虫であった気がするし、日本のカブトムシのサイズを鼻で笑って圧倒的な海外カブト勢など、「どうも世の中ってのは俺の想像を超えて広いらしいぞ」と小学校低学年のクソガキに思わせた最初のきっかけも、これまた甲虫であった気がする。

 

 という前置きをふまえて『きらめく甲虫』の感想である。

 表題のとおり、甲虫と題しているがカブトムシは出てこないしクワガタムシもほぼ出てこないのだが、将棋で言う飛車角を落としてそれでも満ち足りた読後感があるのがすごい。タマムシだけどなんか毛みたいなん生えてるやつとか、ハムシの後ろ足の主張がえぐいやつとか、わりと甲虫について知っているつもりの俺でもなんじゃこいつっていうのがけっこう出てくる。

 表紙を見てもらうとわかるとおり、写真も美しくて見ていて飽きない…だけでなく、種別の拡大写真を載っけられて肉眼だと同じキラキラだけど顕微鏡レベルだと質感が全然違っていてその理由は一体、みたいな疑問もわいてきて楽しい。

 

 本書によると、甲虫は地上で最も繁栄している生き物であるという。これも本書で得た知識だが、あのきらめく硬い羽が外気の温度から内臓を守ったり空気を溜めるのにひと役買ったりするおかげで色んなところで生活できるようになった。

 昆虫全体が地上に約100万種いるそうだが、うち37万種は甲虫によって占められるそうだ。地球は昆虫の星、という言説はよく聞かれるが、そのうちの最大勢力ということになる。つまり音楽業界の頂点をスピッツだとするとその最高傑作は三日月ロックであるから、甲虫≒三日月ロックのファン、というようなことである。なお、この例えはわかりにくい上におそらく敵しか生まない。自覚はある。

 

 そういうわけで、もうヘラクレスとかネプチューンとかゴライアスとか横目で見て終わり、という中級者以降に、ぜひ読んでほしい本であった。もちろん昆虫ビギナーにもすすめます。おわり。

 

きらめく甲虫

きらめく甲虫

 

 

友人同士のお笑いコンビについて

 友人同士で結成されたお笑いコンビが好きで、コンビ仲など良いと大変ほほえましい。ダウンタウンとか。さまぁ~ずとか。

 

 実際のところはそうずっと仲良くもしていられないと思うのである(さまぁ~ずは本当に仲よさそうだけど)。

 ファンの人に具体的な仲良しエピソードを挙げられて、「だから二人はずっと友達の延長線上でお笑いやってるんですよ!」と力説されたらあ、そうっすか…と尻尾を巻くしかないんだけども、大人になってそれぞれ付き合いも複雑になってどんどん新しい遊びを覚えて、新しい恋人も家族もできて…ってそりゃ自分と隣に立ってる男だけ前と同じあり方のまんま、友達のまんまとはいかんだろう、と思う。

 ただ、友達由来のコンビがきっと強い特定の瞬間というのがあるだろうなあとも勝手に想像していて、そこはやっぱり相手との関係の起点が好きという感情から始まっているということ、こういうのがいざというとき強いんじゃないかと思う。

 例えばお互い忙しい時期が続いて殺伐とするとき、もしくは舞台の上でとっさの機転が要求されるとき、相手との関係性の根幹が損得勘定や理屈ではなく友情である(友情であった)というのはある意味お互いの弱みと命綱を握りあっているようなもので、こういうのが強いんじゃないかしらん。危機でかえってヒビが入ってしまうこともあろうが、そうじゃないかしらん、とダウンタウンが二人でへらへらしながら浜田が松本をどついているのを見ながら思うのであった。