歯を食いしばる90分間。『クワイエット・プレイス』の感想について

主演:釘

その他大勢(人とかモンスターとか)

 

はじめに

 『クワイエット・プレイス』を観てきました。90分間、観ている間ずっと歯を食いしばっていました。

 緊張がすごかった。最初から最後まで恐ろしく、そして、面白かった。

 突如襲来した怪物によって人類がほぼ全滅したところから物語が始まります。この、音を探知して襲ってくる怪物から、かろうじて生き残ったある一家がいました。

 聡明で頑健な父親。子供たち。そして、臨月を迎えた母親。

 一家が物音を殺しながら送る緊迫の生活が描かれます。劇中で時間はあまり進まず、困難を乗り切ったと思ったら数秒後にすぐ次が来ます。本当にすぐ来ます。

 この密度が良かったです。ずっと歯を食いしばっていたので、歯茎にはダメージが溜まりました。

 

 以下、感想を書きます。わりとネタバレありです。

 ある程度は伏せますが、まだ観ていない方は、ぜひ劇場で観てきてください。絶対劇場で観た方が面白い映画です。

 ただ一つの注意点は、静かだったところにいきなりドン! バン!があることです。

 これはけっこう人によって敬遠しがちなポイントだと思います。テクニックとしてそういうのは卑怯だろ」という理由で嫌いな人もいるだろうし、シンプルに体がビックリしてつらい、という人もいると思います。

 予告編でもそういうのがありの作品だよ、というのは匂わされてますが、それにしてもかなり多かったので、嫌いな人はやめた方がいいかもしれません。

 

感想

・一家について

 まず、役者の演技がすごくよかったです。

 沈黙というルールによって支配されたこの世界で、キャラクターたちは全員声を出さずに自分の感情を示すこと、そして、それを観客にも伝えることを求められます。

 で、そういう環境で愛情を伝えたり怒ったりすることになります。手話を使ったり、手をつないだり、ハグをしたりして。

 この設定、一歩間違うとすごくチープになると思います。それがそうならなかったのは、役者がみんな上手かったからだと思います。

 特に、出産を迎える母親役(エミリー・ブラント)。家族を励まし、子供を産み、怪物ともバトる八面六臂。強く、賢く、キュートでした。

 あと演技の話じゃないんですが、この映画、一番幼い子供が最初に犠牲になります。

 これ、物語に緊張感を与える上でも、すごく効果的だったと思います。つまり、「子供でも死ぬ」映画として。

 

助演男優賞:生き残ってたじいさん

 この人も物語においてすごく大切な役目を果たした、と個人的に思ったキャラクターに、一家以外に生き残っていたじいさんがいます。

 父親と息子が魚を採りに行った帰り、二人は自分たちと同じように生き残っていたらしい、ひとりの老人に出会います。

 しかし老人は見るからに正気を失っていて、彼の妻らしき女性の死体(怪物にやられた? もしくは老人が錯乱して自分で殺した?)の近くにいて、緊迫した空気の中、父親の制止もむなしく老人はヤケクソのように絶叫し、怪物の餌食になります。

 この場面が物語的に大切というのは、残酷な話だけど老人が死ぬことで緊張感が保たれるところ。

 それからもうひとつ、彼の死が自死に近いものであったことから、この世界の敵が怪物そのものだけでなく、精神的に「折れる」ことにもあるのが伝わるところです。

 たいていのパニック映画で死因となるのは体力や知恵比べで負けることですが、『クワイエット・プレイス』においては、常に休まらない生活の中ですり減っていく心が、自らを殺してしまう。

 こうして子供を持たない(たぶん)老人が、妻を失って壊れてしまうこと、守るものがないことで人がどうなってしまうかを自分の前で見せつけられて、父親は何を思うか。それをとおして観客は何を感じるか。

 そういう理由でここは大事な場面だと思います。あと単純に、父親とじいさんの対峙する緊張感がものすごかった。「やめろ! 声を出すな!」と観ながら思ってしまった…。

 

・声を出せるとき、全力で走っていいときのボーナスタイム感

 ここまで書いてきたとおり、基本的に声は出さない、動くときはゆっくり動く、がルールの世界観ですが、これを破ってもいい、というか破らざるを得ないときもあります。声よりでかい音が出てるとき、あるいはもうどうしようもなくクソやベーときです。

 このときはキャラクターも声を出しますし、全力で走ります。この緩急のつけ方がよかったです。

 もちろん、ヤバいけど声も出せない、というシチュエーションこそがベースにあって、それさえ超えた非常事態中の非常事態なんですが、この「どこでキャラクターに躍動性を取り戻させるか」というのが、とても上手かったと思います。

 最初は、キャラクターは本当に最後までしゃべんないのも演出的にありだったんじゃね、とも思ってました(あるいは、エンディング前のあの場面で母親が最初で最後、ひと言何か言うとか)。

 でも、クサすぎるかなと思い直した。音を立てたら即死、と言いつつ実はちょっと喋る。そういう、いまのかたちで良かったと思います。

 

・釘(主演)

 突然ですが、物語における主人公の条件とはなんでしょうか。

 それは、ストーリーで焦点が当たっているときはもちろんこと、姿を消しているときでも観客がそのゆくえを気にかけてしまう存在感であり、ひとたび画面に登場すればいやがおうにも視線を集めてしまう圧倒的な華(はな)を持っていることです。

 また、ミステリアスな部分などもあると魅力がより引き立つでしょう。

 『クワイエット・プレイス』においてその条件を満たすある存在がいます。釘です。

 釘は一家が住む家の階段から一本だけ突き出しており、物語の序盤、一家の母親が持つ洗濯袋のハシに引っかかるというかたちで鮮烈に登場します。

 絶対に音を立ててはいけないという条件の中現れた、階段から飛び出した釘。釘にズームするカメラ。

 この時点でもう観客は釘のトリコと言っていいでしょう。

 次に釘が出てくるのはいつなのか…。この映画は釘のことを考え続ける90分と言っても過言ではありません(ネタバレすると、釘の活躍は1回だけでした。俺は、最後は怪物が踏むと思ってた)。

 ミステリアスな部分はどこかというと、なぜかとんがった方を上にして階段に刺さってるところです。いったいどういう構造でああなってるのか。

 

 

 っていうか早く抜けや!

 

 

・わからなかった点

 序盤で、夜になったときに山の上に火が灯りますが、あれは一家以外の生き残りが燃やしてたんでしょうか(俺のカン違いか?)

 長女が怪物の弱点を認識したのは、どの時点?(補聴器をいじったとき? それとも、父親の作業室に入ってはじめて合点がいった?)

 

 これはマジでわかんないんで、わかる人がいたら教えてください。

 

おわりに

 そういうわけで、『クワイエット・プレイス』、とても面白かったです。

 ツッコミどころはないわけじゃないんですよ。というかけっこうある。

 怪物の強さが微妙だなー、とか(やや力押しすぎる。唯一、家の地下が水没する場面で水中に静かに潜る、あの動作は最高に気持ち悪くて最高だった)。 

 怪物の弱点があれで強さがあれぐらいなら、誰か気づくだろうし後は兵力でどうにかなるだろ、とか。

 メディアもある程度怪物の正体を把握するまで機能してたわけだし、なおさらそこから人類全滅せんだろ、とか。

 父親はああいう自己犠牲的な扱い方して欲しくなかったな、とか。

 っていうか釘はやく抜けや、とか。

 

 でも、それでも面白かった。まったく集中の切れない映画体験でした。興味のある方は、ぜひ観た方がいいと思ったので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 

 

『呪術廻戦』をジャンプのHUNTER×HUNTER・BLEACH枠と呼んだ私が全裸で土下座してから腹を切ることについて

 大変失礼いたしました、と謝罪から入るんですが。
 
 1巻のときまで、表題のようなことを不遜にも考えていた。で、2巻を読んだ。
 枠とか代わりとかそういう次元じゃない傑作であると、このときになってようやくわかった。まことに申し訳ありませんでした。
 
 いや、1巻のときからず抜けて面白かったよ。衝撃だった。
 でもお化け出てくるのは『BLEACH』もだし。能力の描き方は『HUNTER×HUNTER』ぽいし。
 モノの描き方が冨樫に似てるし。でも冨樫は描いてくれねえんだ。BLEACHは作品が終わってしまった。
 
 ジャンプ的に、次の「そういうの」が欲しいのかな、と思った。
 冨樫のファンって冨樫の穴は誰にも埋められないって思ってるけど(思ってないか?  でも俺はそう)、違いますよ、と。ちゃんとこういう作品がありますよ、と。
 そういう流れを受けて出てきた作品だと思っていた。
 
 違いました。
 
 HUNTER×HUNTERが毎週掲載されようがBLEACHがいまでも続いてようが『呪術廻戦』は載るよ。
 いや、そうすると雑誌内のジャンルの偏るとかあるかもしんないけど、でも載るよ。
 だって抜群に面白いもん。
 
 特にすげーな、と思うのは、作者の芥見さんは絶望感を出すのが本当に上手い。
 2巻まできて、主人公たちってものすごい格上と戦うことが多いんですね。え、作品始まったばっかりで、もうそういう相手とマッチアップするの?  という敵とやらされる。
 当然ボロ雑巾にされるんだけど、ただ肉体的に痛めつけられるだけじゃなくて、存在として圧倒される。精神的になぶられ、オモチャのようにもてあそばれる。
 で、作者のすごいところは、そういう絶望感を一コマにきゅっと圧縮してみせてしまう。
 よく戦闘マンガで、ページめくったら見開きで誰かいきなり死んでました、という演出がある。
 でも『呪術廻戦』では、普通に同じページ内の次のコマで状況が一変してたりする(ちなみに、他にこういうことができると個人的に俺が思ってるのが『ゴールデンカムイ』です)。
 敵と味方との圧倒的な差を描ける実力があると、「ページをめくらせることで読者の視界をいったん強制的に切る」という仕切りが必要ない。
 マンガのコマの流れを不利な側の目線に沿って組み立て、そのコマ運びの中に、強い側はひょっと乱入する。なんとなく腕とかももいでみる。それだけで、十分格の違いが伝わる。
 芥見さんはそういうのが本当に上手いと思います。
 
 もう一つすげーなと思うこと。この漫画、とにかく展開が異常に早い。ものすごいスピードで物語が進行していく。
 なぜ早い、と感じられるかというと、物語のフレーム自体が割とよくあるものなので、ストーリーの進み具合を肌で感じやすいから。
 まず、基本的に悪いエネルギーだけど使い方次第で役に立つパワーを秘めた主人公が登場する。
 その周りに、同年代の仲間とか先輩とか師匠が登場する。敵が出てきて敵の幹部が出てくる。
 敵味方で戦闘が発生し、激化して、使用される火力が上がり攻撃手段も複雑化する。
 これはいかにもよくあるフォーマットで、『呪術廻戦』もこの形式に見事にのっとっている。しかし、このよくある流れに沿いながら、なんか2巻の時点で普通の長編漫画が中盤戦でやるような、強キャラ同士が満を持して繰り広げるような戦闘をしている。
 
 主人公の師匠のバトルがこの巻ではじめて描かれる。
 敵がまず強い。作中の火力の上限がこいつのせいでいきなり跳ね上がる。
 火力がすごすぎて、もう地形とかちょっと変えちゃう。あとすごい悪い。一般人も平気で大量に殺す。
 対する師匠。もっと強い。
 
 師匠の能力ははっきり言ってわかりにくい。
 でも間違いなく強い。というか強すぎる。こいつに勝てるやつっているのか?  というレベルで強い。
 バトルの内容自体については、クソ熱いけど珍しいものだとは思わない。重要なのは、「これは普通もっと後半でやる感じの勝負でないか?」…そういうバトルを2巻の時点でやってるということ、それが、俺はなんかマジですげえと思う。
 
 『ゴールデンゴールド 』の感想でも書いたけど、とても少ない、本当にごく一部の作品が、ある錯覚を感じさせることがある。
 それは、作品をエンタメであったり何かのメッセージを伝える目的でつくると同時に、作品というひとつのフレームを使って、何か実験のようなことをしているという錯覚である。
 例えば『ゴールデンゴールド 』を読んだとき、俺は、「これは超一級のストーリーであるとともに、物語が面白さを損なう臨界まで作中に情報量を詰め込む試み」だと感じた。
 で、『呪術廻戦』である。
 俺はこれは、よくある戦闘マンガのフォーマットを序盤から最高速度でぶん回したら何が起きるかって試みとしても読んでいる。
 作ってる側にそんなつもりはないかもしれない。というかたぶんない。でも、なんかそういう楽しませ方をさせる求道的な気配を勝手に感じてしまう。
 物語を進めるとき、その速度を速めたらどうなるか、普通に考えれば、フォーマットが高速で消化されるだけだろう。
 でも、『呪術廻戦』がこの速度で進んでいったとき、なんかまったく未知の何かが起きるんじゃないか? その何かを、物語上の起承転結とはまた別に楽しみにして読んでる。
 
 最後に、文句を一つだけ。おまけページで作者が説明なさっている、作中の特殊能力である反転術式と術式反転の解説について。
 すみません、何回か読んだけど、マジでわかりませんでした。
 そういうわけなんで、もう一回読み直そうと思います。
 次巻は年末?  かな? 楽しみです。以上、よろしくお願いいたします。

 

呪術廻戦 2 (ジャンプコミックス)

呪術廻戦 2 (ジャンプコミックス)

 

 

The bizarre is still here. 『岸辺露伴は動かない』2巻の感想について

はじめに

 1年弱前のことなんですが、わたくし信者の方に刺される覚悟でジョジョシリーズの最新作『ジョジョリオン』をクソミソにけなす記事を書きまして。

 要は戦闘が全然面白くないのも含めて読者が置いてきぼりになってないか、って内容だったんですけども。

 で、先日のことです。ジョジョシリーズから今度は『岸辺露伴は動かない』という短編集の2巻目が出たんですね。私もあんな記事は書いたけれどもファンだから、買ったわけです。

 

 …いやー、面白かったですねえー。

 

 手のひら返しもいいとこなんですけど。でも、読んでてめちゃめちゃ楽しかった。なので、以下その感想を書きます。

 

「奇妙さ」はなお続く。

 「ジョジョ」の何が好きか。

 ファンの人に尋ねたとき、その答えは本当にたくさんあると思います。

 頭脳戦と肉弾戦が錯綜する緊迫のバトルを挙げる人もいるでしょうし、緻密に描き込まれた絵を挙げる人もいると思います。

 独特のセリフ回し、絵画のような魅力のある風景、豊富な雑学って人もいるでしょう。また、言葉にできない、独特の「空気感」としか言えないものが好き、という人もいると思います。

 俺は、率直に言うとこれらの魅力のうち、かつての戦闘描写と絵にあった良さは、『ジョジョリオン』になってだいぶ失われたんじゃないかと思っています。

 絵については好き好きかもしれませんけども、戦いの運び方だけは本当にまったく評価できません。

 いまの戦闘シーンは5部のポルポの指食いとか初期のGEのダメージを跳ね返す描写が延々繰り返されているようなものだと思います。読者としてどこを信用したり考察しながら読めばいいのかよくわからないわけです。

 ただ一方で、シリーズを重ねてもまったく輝きを失わない部分があります。

 俺たちも日常の中でふと感じる、違和感とか生理的な不快感というもの。周りの風景や他者の中に感じる、「…あれ?」という感覚。

 つまり「奇妙さ」と呼ぶべきもの。これは、いまもなお続いていると思います。『ジョジョリオン』においても、『岸辺露伴は動かない』においても。

 

短編だからこそできることがあると思う。

 その中で、『岸辺露伴は動かない』を特別こんなにも面白く感じたのにはやっぱり何か理由があるんだろうと思うわけです。たぶん、短編ならではの良さというものと「奇妙さ」との調和みたいなものが。

 漠然とした、かつ創作論みたいな話になりますが、この点をもう少しくわしく考えてみます。

 この短編集では色んなトラブルが主人公である露伴先生を襲ってくるわけですが、見直してみるとあることに気づきます。

 それは、露伴先生は必ずしもこれらのトラブルの全部を解決はしないということです。とりあえず大ピンチを脱したので急いで撤退した、というエピソードがけっこうあります。

 長編だとこういうただのその場しのぎはあんまりないですね。

 長編であれば敵対する者は基本的に打倒されないといけない。優劣がつけられないといけない。もし決着がつかないなら、それは伏線となって、やはりいつか白黒つける必要が出てきます。

 短編はその辺うやむやにしてもいいというか、謎は謎のまま、というのが許される気がします。敵わないものは敵わないまま、ということも。で、ジョジョの「奇妙さ」というのは、この曖昧さの中でなかなかいい感じに映えるようです。

 また、「ジョジョ」の主人公たちはスタンドという特殊能力を使うわけですが、彼らをどんな脅威が襲うかというと、同じスタンドを使う敵なわけです。

 一方の『岸辺露伴は動かない』を見ると、露伴先生を苦しめるのはスタンド以外のものであって、それは生物だったりスタンドは持たないけど常識を超えた超人だったり、もっと意味のわからない「現象」としか言えないものだったりします。

 短編はこのへんもいい加減でいいんだろうな、と思います。

 スタンドはあくまで、この世界の「奇妙さ」を説明するための一つの解釈に過ぎない。長編だと色んな不思議をスタンドという枠組みだけで説明していかないといけないけど、短編であれば世界の多様性をもっと自由に描きながら、次のエピソード、次のエピソードと身軽に飛んでいける。

 こうした短編ならではの特徴と「ジョジョの奇妙さ」との相性がもたらすものこそ、『岸辺露伴は動かない』の良さなんじゃないか、と思うわけです。

 

おわりに。他のキャラの短編集も見てみたい。

 そういうわけで『岸辺露伴は動かない』、すげえ面白かったのでファンの方もそうでない方も読んだらいいと思います。

 露伴先生ってジョジョシリーズでもかなりの強キャラなんですが、思い返すと読んでいるとき、「とっととヘブンズ・ドアー使って解決しちゃえばいいのに」って思わなかったんですよね。

 これはけっこう不思議なことで、スタンド使えばもっとスマートにトラブルを解決できただろうに、ともかく露伴先生のピンチにひたすらハラハラさせられていた。まさにこの短編集の凄みというべきでしょう。

 こんな感じのフォーマットで、個人的には露伴先生以外のキャラのお話も見てみたいと思います。

 ホル・ホースが主を亡くした後に世界を行脚する話とか。

 ミスタがジョルノの右腕として活躍する話とか。

 ああいうフットワーク軽くて有能でコメディもできるキャラクターたちの短編集、あったらぜってえ見たいぞ、と思ったので、以上、よろしくお願いいたします。

 

岸辺露伴は動かない 2 (ジャンプコミックス)
 

 

 

京極夏彦作品に感じる違和感とフィクションにおけるイカレポンチの扱いについて

はじめに

 2~3月にかけて狂ったように京極夏彦の『巷説百物語』シリーズを読んでいた。

 面白い。ファンといってよいかもしれない。

 しかしその一方で、実は、読みながら違和感を感じる瞬間があった。

 それもたまにではない。多々あった。

 俺はこの違和感について整理しておきたいと思った。なので、以下そのことを書く。

 

 注意。この記事は基本的に京極夏彦作品に対する批判であり、フォローも特に入りません。悪口ばっかです。

 なので、ファンの方、作家さんへの批判を許せない方はここで読むのをやめるか、アホがなんか妄言を吹いてるな、ぐらいにとらえていただければと思います。

 

フィクションにおけるイカレポンチの扱いについて

 『巷説百物語』シリーズについて、話の流れはおおまか次なようなものである。

 

 ①何か世間を騒がせるような問題、怪事が起きる。

 ②その裏には正気を失った狂人やら悪人やらがからんでいるようだが、もろもろのしがらみがあって、事実をそのまま明るみに出すことができない。

 ③そのため、妖怪という超常的な存在を持ちだしそのせいにすることによって、世間を煙に巻き、事態を丸く収める。

 

 俺は『巷説~』の何が気になったのか。それは、作中における狂人、つまりイカレポンチの扱いであった。

 

 このシリーズには、理由もなく人を斬りたくなったので実際に斬っちゃう人とか、理由もなくイライラするので権力をかさに着て暴力をふるっちゃう人とかが大勢出てくる。

 ポイントは「理由もなく」というところで、彼らがそういう狂気に陥ってしまった背景はほとんど語られない。彼らは、単にそういう人、という扱いでぽんと作中に登場する。

 彼らが、単に作中に波乱を起こしたり暴力による緊張感をもたらすだけの存在ならそれでもよい。好物である。

 また、彼らが大暴れした後、自分よりもっと大きなパワーによって打倒されるならそれもよい。これも好物である。

 俺が強烈に違和感を抱くのは、『巷説百物語』が彼らを破滅させるとき、自らの罪を自覚させ、それによって自滅させようとするところにある。

 物語に登場した彼らは、単にパワーで押しつぶされて敗れるのではない。

 彼らは、彼らがそれまでの生き方を続けていく限界に追い詰められて、それによって破滅する。

 自分より強大な者が出ようと出まいと、狂人たちはすでにどん詰まりにいたわけで、彼らはそのことを悟って滅びるのである。

 俺は『巷説~』がその過程を描くときのやり方に、腑に落ちないものを感じるのであった。

 

 俺は、悪人や狂人がもうそれ以上その生き方を続けていけなくなって破滅するとき、その狂気の根本に何があったのかわからないのは、よろしくないのではないか、と思う。

 これは、悪行への裁きは何をしたかだけではなく、その原因となった要素も含めて下されるべきだと考えるから、そう思うのかもしれない。

 ただ、別の理由もある。

 「こいつはイカレポンチなんですが、その原因や背景はよく知らないです」「でも悪いことしたから死んでもらいますね。それも、思いっきり自分自身に絶望して」

 なぜ自分が狂っているのか、なぜ自分は悪いことしかできないのか…。

 そのこともちゃんと描かれないまま、創作者によって自らの限界を悟らされ、死んでいく。

 そんなイカレポンチは、クリエイターにとって都合がよすぎないか?

 作り手として、楽をしてしまっていないか?

 というか、受け手である俺はそれをそのまま受け止めていいのか?

 そう感じるのだと思う。

 

 『ドラゴンボール』のフリーザとか『殺し屋1』の二郎・三郎なんかは、ああいうド外道になった理由なんかは特に語られない。

 こいつらは、単に力比べで負けて破滅していく。だから、主人公によって成敗されなければのうのうと生き続けただろうと思う。

 一方、町田康の『告白』で主人公の熊太郎が凶行に及ぶとき、そこには主人公の生い立ちと、自分として生きた結果どうしようもなく行き詰ってぶっ壊れる様子が、膨大なページ数を割かれて描かれている。

 熊太郎は自分として生きた結果破滅するしかなかった。ある意味はじめから詰んでいて、最後の最後に自分でそのことに気づいた。

 小説としてのこの流れに、俺はとんでもない衝撃を受けた。この小説のせいで文字通り人生がねじれたと思う。

 

 凶行に及んだ理由や背景さえしっかり描かれれば、下された裁きに納得いくのか。

 いわゆる精神病質とか過去のトラウマとか、そういう属性付けで狂気に説明をつければいいのか。

 

 そんな簡単じゃない気もするが、イカレポンチの扱い方、狂気の消費のしかたについて、俺はこう思った次第なので、以上、よろしくお願いします。

 

 (追記:『巷説~』における凶行の全部が全部理由不明なわけではないので付記します。「帷子辻」とか「野狐」とか。これらはシリーズ中でも特に俺の好きな章です)

 

 

 

 

 

『ゴールデンゴールド』4巻の感想と、「物語」の臨界を探ることについて

はじめに

 『ゴールデンゴールド 』という異次元のように面白い漫画があって、3巻が出たときにこういう記事を書いた。
 で、これを書いたとき、この3巻で作品としてのタメの時期は終わりかな、と思っていた。ここまでに十分に伏線が蓄積された感があったので、ここからはそれらを矢継ぎ早に消化していく展開になるんじゃないかな、と。
 
 溜めこまれた伏線について少し話をする。
 まずこの作品には、人と富をひたすら集める力を持ったフクノカミという超常的な存在が出てくる。
 このフクノカミを中心として、登場人物同士の中でたくさんの因縁が生まれた。金銭的な利害関係もあれば、暴力的な関係性もある。主人公の女の子が同級生に抱く恋心、みたいな青春ものの要素もある。
 で、フクノカミは江戸時代にも出現しており、そのときは島に多大な被害をもたらしたらしい。過去に何があったのかは今後明かされるんだろう。
 主人公サイドは異能バトルもののライトノベルさながら、フクノカミのこの「能力」の性質を探り、その無力化を図る。
 物語はこうして、無数の思惑、謎、埋もれた歴史をはらみながら、離島、本州、さらに東京まで、舞台をまたいで展開する。し続ける。
 ここまでに揃ったものを消化していくだけで、言い方は悪いけど間違いなくこの先も面白いだろうと思ったんである。だから、これ以上新たな要素が持ち込まれることはなく、シンプルな展開になるだろうと思っていた。
 
 でも、実際はそうならないのであった。
 4巻で物語の混沌はさらに深まった。先が見えない。
 肝心なことは、ひたすら複雑になりながら、それでもただ面白くなり続けていること。
 

面白い「物語」って何かを考えてみること

 いきなりだけども、面白い物語とはなんだろうか。というか、最高に面白い物語である『ゴールデンゴールド 』の何がそんなに面白いんだろう?
 
 どんなフィクションを面白いと感じるかは当然人それぞれである。
 でも俺は、『ゴールデンゴールド 』の面白さには、万人にかなり共通した、何か絶対的な面白さの一つがあると思う。
 それで、その面白さの正体なのだが、それはつまり、作品における情報の「量」なのではないだろうか、と思う。
 
 漫画を含むあらゆる創作物は、有限の空間に詰め込まれた情報のカタマリと考えることができる。
 それで言うと漫画は、ページや本という有限の空間に閉じ込められた画と文字の集合体である。
 クリエイターとは、これらの情報を受け手に与えて、いかに相手の心を動かすかという「競技」に参加している人たちであると言える。
 さて、この「競技」にはいくつか種目があると思うのだが、その中の一つに、限られた空間にどれだけ多くの情報を詰め込めるかという「量」を競う種目があると思う。で、この競技のチャンピオンこそが、すなわち絶対的に面白い作品と呼べるのではないかと思う。
 
 「量」が多いってそんなにすごいこと?
 すごいことなんである。
 別に、手っ取り早くキャラ増やして人間関係を錯綜させ、時間軸を往復し、伏線いっぱい張ればいいんじゃね?
 実際はたぶんそんなに簡単ではないんである。
 
 なぜかというと、新しい要素が作中に投下されても、俺たちがそこに関心を惹かれなければそれはただのノイズであり、情報とは言えないからである。
 また、新しく持ちこまれた情報の印象が強すぎて古くからあった要素がかすんでしまっても、情報量の総体は増えない。プラスマイナスゼロである。
 作中にどんどん新しい要素が加わり、それに比例して情報「量」が増えていく実感がちゃんとあること、それは、作品を支えるクリエイターの構成力が図抜けているからにほかならない。
 ここで行われているのは、情報を詰め込み過ぎて作品が破綻するギリギリの臨界を探る試みであり、『ゴールデンゴールド』はその極致だと思う(同率首位はHUNTER×HUNTER)。
 
 別に、情報量が多いものは少ないものより作品として上等というつもりはないんである。
 テーブルがあって、その上に一個だけリンゴを置く。それを眺める楽しさもあると思う。
 リンゴとバナナを一緒に置いて、その色やかたちの違いを楽しむのだってありである。
 ただ、リンゴを置いてバナナを置いて蜜柑もブドウも洋梨もスイカアケビも置いて…とやっていったら、どこかの時点で普通、それは「ただのフルーツ盛り」になり、それでもまだ続くようなら興味を持ちようのない色のカタマリになる。
 それが、その後マンゴスチンもドリアンも追加されて、さらにリンゴはどこ産でどこの農場の誰が作ってこの後レモンと一緒にすりおろされてジュースになります、みたいな細かい話まで出てきながら、その意味がすべて「わかる」。
 これは受け手の理解力がすごいのではなくてフルーツを置く方がすごいのだが、このテーブルの上の果物がすべておんなじ存在感を放つ感覚は受け手自身でも驚くほどで、この感動こそ「面白さ」の一つの答えだと思うが、どうだろうかと思う。
 
 
 まったく本編に触れないのもなんなんで、4巻のハイライト。フクノカミとフクノカミを追う刑事・酒巻がついに一対一になる場面が最高でした。
 機先を制したつもりが、どす黒い底なし沼に一瞬で引きずりこまれたような感覚。すごい緊張感。そして、そこからの展開…。
 
 次巻はこの漫画のアイドルであるばあちゃんの過去編らしいので、楽しみです。以上、よろしくお願いします。
 
 
 
 
 
 

夢について2

  俺はいま小学生で、友人が携帯電話を買うというのでそれについてきていた。

  店は郊外のショッピングモールの一画にあった。俺は待合スペースの椅子に座りながら彼が契約を終えるのを待っていて、彼がこっちにやってくるのを見て立ち上がり一緒にモールを出た。

  俺とその友人・Aとは実は高校生の頃に本当に些細なことで喧嘩をして、それ以降一度も会っていないのだ。

  俺はそのことを知っているのだが、いまの俺たちが二人とも小学生であることは受け入れていて、もちろんいまの俺たちは友達だった。

  ショッピングモールの外は、田舎というよりも荒野といった方が近い、荒涼とした景色だった。丈の低い草がぼうぼうと生える中を、灰色の道がガードレールのないまま走っている。雪が降り始めていた。

  道を歩いていると後ろから声をかけられた。俺たちの友達のBだった。

  Bは中学校に入ってから俺やAではないいわゆる不良と付き合うようになり、疎遠になってしまう。Aのときと同じように、俺はそのことを知っていながら、いまはBも俺たちと同じように小学生の姿で、いまはまだ俺たちの友達なのだった。

  一緒に遊ぼうぜ、とBが言った。しかし、俺とAは少し顔を見合わせてから、今日はいいよ、とにやにやしながら言った。

  Bはからかうとムキになるところがあって、それが面白くて俺やAは彼のことをよくこうやっておちょくっていた。

 なんでだよ遊ぼうぜ、と案の定真剣になり始めたBを、また今度また今度、と俺たちはのらりくらりかわしながらからかった。

  しかし、今回は度を越しすぎてしまったらしい。じゃあもういいよ、とBは怒ってどこかに行ってしまった。

  俺とAの間に気まずい沈黙が生まれた。俺たちは来た道を黙ったまままた歩き始めた。

  俺とAは、なんとなくお互い近くにいることが嫌で、二人の距離がだんだん離れ始めた。Aは俺から遠く離れた先を行って、とうとう見えなくなってしまった。

  降り続けていた雪が深く積もって、あたりは一面の雪景色になった。ふと遠くを見るとそこに二つの人影があって、AとBが二人でそこで遊んでいた。

  俺はぼんやりした気持ちのまま、雪を踏んで二人の方に近づいていった。二人が俺に気がついて、俺は二人に、遊びにいれてくれよと言いたかったが、Bをあんな風にからかった後でそう口にするのがすごく恥ずかしくて、何も言えずにもじもじしていた。そうしたら二人が笑って、何してんだよ、早く一緒に遊ぼうぜ、と言った。うん、遊ぼう、と俺も笑って言った。

  Aがどこからかボールが山になって積まれたカゴとバットを見つけてきて、それはなぜか手品で使うための握ると分裂するボールだったが、俺たちはそれで遊ぶことにした。

  俺やAが投げたボールをBが打つだけの簡単な遊びだった。Bがバットでボールを打つとボールが色とりどりに増えながら雪景色を飾って、俺たちはそれがめちゃくちゃ楽しくて、みんなでげらげら笑いながら遊び続けた。

  俺はBが打ったボールを雪を踏みながら追いかけて、ふざけて雪の上に飛び込んだ。雪はまったく冷たくなくて、ただひたすらやわらかかった。俺は雪に顔をうずめながら、うくくうくくと笑い続けた。

  俺の頭に唐突に、ひどく暗い顔をした大人の男の顔が浮かんだ。俺はそれが未来の自分の顔だと知っていた。

  でもそんなものただの夢だ、と俺は思った。俺が見ている雪の中で友達と遊ぶ夢の中に、大人になった俺の姿という夢が混じっただけなのだ。

  目が覚めたら俺は小学生だと俺は思っていた。そして、夢で見たのと同じように、また友達と一緒に遊ぶんだ、と信じていた。

悪夢について4

  俺は政府の要職で、他の高官たちと一緒にある国との会議に参加していた。

  その国の会議室で、俺たちは相手から敵意のないことを示せと求められた。何があっても抵抗できない姿勢で地べたに体を預け、こちらを完全に信頼していることを表せ、という。

  不思議にも馬鹿げているとか屈辱だとか思わなかったし、俺以外の人間もそうであるらしかった。

  ためらいなく相手に無抵抗な姿を晒せるというのは、服従ではなくむしろ精神的に上に立つ行為だと思ったのかもしれない。それは俺たちのマッチョイズムと矛盾するものではなかった。

  そもそも、国同士の会合というのは映像に残されたり文字に書き起こされたりすることばかりだけではない。むしろそのやり取りの多くは闇の中で交わされるこうした馬鹿げた虚勢の張り合いによって占められている。

  俺たちはスーツ姿のままぞろぞろと身を床にかがめた。

指示された姿勢は奇妙なものだった。仰向けになり、両方の手のひらを空中で開いて何も握っていないことを示せ、という。それが敵意がないことを示すためのこの国における作法であるらしかった。 

  四つ足で立っている動物の人形、ちょうどあれをひっくり返したようなかたちで、俺は地面に寝転んだ。そのとき、ばすばすばす、という衝撃を腹に感じた。

  俺の横に女性が一人立っていて、手に小銃をさげている。撃たれたのだ。

  痛みはあまりなく、ただ自分の体がもう取り返しがつかないほど破壊されてしまったこと、もうすぐやってくる死に急いで備えないといけないことがはっきりと理解されて、悲しいような呆然とするような気持ちだった。

  俺はなんだこれは、と思いながら、これまで世界中で同じように死んできた人たちがいることを、ようやく身をもって知った。

  あまりに無意味だ。なにかを後悔する時間さえない。あまりに急すぎる。女性が俺の背中に銃を向けて、またばすばすばすと撃った。