偉そうなのに間違っている奴の言うことはすべて無視していいかということについて

はじめに

 あまりオチのない話。

 

 『スプラトゥーン2』が好きで、一昨年の秋に買って以降いまだにこればっかりやっている。

 で、今日こんな記事を読んだ。

 「スプラトゥーン」の中毒性が極端に高い理由 | ゲーム・エンタメ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 不思議な記事だな、というのが俺の感想だった。それは、この記事がスプラトゥーン2を批判しようとしているのに(おそらくそうだろう)、その悪いところの指摘がかなりふわふわしているからだ。

 この記事では、「スプラトゥーン2はゲームとしてものすごくよくできている →よくできているが、できすぎているがゆえに時間は吸われるわ熱中しすぎるわで危ない」というかたちで、優れた面を危険な面に反転させることで批判を加えようとしている。

 ただ、「よくできてるからこそ危ないんだぜ」とひっくり返してからの掘り下げが、実は全然足りていない。だから、たぶん読む側としてはそりゃ完成度の高いハマれるゲームはみんなそうだろう、なんでスプラトゥーンだけ批判される? という気持ちになる。

 

 ここからが本題。

 実際、この記事に対する反応は冷笑的なものが多い。スプラトゥーン2を批判したら批判を返されている状況だ。

 ただ俺はというと、上で書いたようなことを思いつつ、けっこう的を射ているな、とも感じていた。確かに俺もものすごく時間をつっこんでるゲームだし、記事で紹介されているようにプレイしていて罵詈雑言を吐くことが実体験としてあるからである。

 思うのだが、今回のケースは「専門家を名乗る何者か」×「大上段から発信されたにもかかわらずあまり練られていない浅薄な内容」×「それでもおそらくここには原稿料が発生している」からこそ、読者からかなり強い反発を招いたんじゃないだろうか。

 そうではなくて、一般ユーザーの目線から見て、基本的に素晴らしいゲームだけどこういう怖い面もあるなと漠然と思いました、というテイであれば、みんなもっと冷静に聞いたのではないか、なんなら自分の身を振り返ったのではないか、と思う。

 

 だから、自分の意見を表すとき、目的が炎上や売名にあるならともかく(今回のケースがどうかは知らない)、真摯に相手の心を動かそうと思ったら、インパクトよりもパッケージのし方を優先して考えた方が目的にかないやすいのだろう。

 ただこれは、発信する側の心構えの問題。俺はこの件でもう一つ思ったことがあって、じゃあ記事を読む側は「こいつ偉そうな割に全然たいしたこと考えてないな」と判断した瞬間、即自分のモードを拒絶・批判に切り替えていいのか? けっこうそれは損だったりしないのか? と考えた。

 

 伝えたいメッセージがあるならそれを包むパッケージもちゃんと考えようぜ、というのが今回の発信する側の教訓。

 でもメッセージとパッケージは一応別のモノのはずで、いや、イカやってて思わずトサカ来ちゃうことがあるやつけっこういるでしょ、プレイヤーやその家族としてちょっと考えた方がいいのはそのとおりじゃねえ? とは思ったんですね。

 じゃあ、パッケージの例で言ったら、あんた、あまりに礼儀を欠く相手からあるときクソまみれの箱が送られてきて、中身に一片の値打ちを期待していちいちその包装をひもときますか?

 そんな時間、忍耐ありますか? 暇なんですか? ということなんですが、まあ時間・忍耐ないですけど、一概にこいつアホだから石投げていいわ、ってのも一方で違うかも、という、まとまらないですがそう思ったので、以上、よろしくお願いいたします(苦しい)。

 

 

海は深くて暗い。『サカナとヤクザ』の感想について

はじめに

 いま話題の、海産物がアンダーグラウンド暴力団の資金源となっている実態を追ったルポルタージュ

 とても面白く読んだのだが、一方で物足りない部分もあった。

 俺が興味があったのは、要するに俺たちはこのまま魚を食い続けていていいのか、ということだった。

 例えば出張先で、地元で評判の魚の美味い居酒屋に行って旬の魚を食う。

 例えば家族の夕飯で、みんなで仲良く海鮮を使った鍋を囲む。

 それらサカナの出所がヤクザであり、サカナを食うことが暴力団の資金源になっているなら、果たして今後も引き続き海の幸に舌鼓を打つことは許されるんだろうか?

 俺が知りたかったのはそこだったのだが、結論から言うとそのあたりのことははっきりとしないのだった。

 その理由は、この本で匂わされているサカナに関する闇が、ヤクザという具体的な勢力よりももっと漠然とした、ずっと大きな何かだからだと思う。

 題名にある「ヤクザ」は、漁業界全体の底を流れる暗くて巨大なうねりにおいては、あくまでひとつの要素でしかない。海を舞台にして、ヤクザを含む無数の黒々としたものが複雑にからまりあっている。

 よってこの本で示されているものは、俺たちが平凡にサカナを食い続けることが具体的にどう暴力団を潤し、どれぐらいヤバいことなのか、という情報ではない。もっと漠然とした、つかみどころのないものを暗示する内容という方が近いと思う。

 

アワビ、ナマコ、カニ、鰻、みんな違ってみんな黒い。

 この本は、漁業という大きなカテゴリーからズームインして、アワビやナマコなど個々の海産物に着目して章を割り振っている。

 各章を順番に読んでいくと、あることに気がつく。

 例えば第1章の三陸アワビでは、この海産品の密漁を防ぐのが難しい理由として、犯罪者側の周到な準備もさることながら、2011年の震災によって防犯体制が機能しなくなってしまい、そこを狙われていることが挙げられていた。

 また、第3章の北海道ナマコ。密漁と聞くと誰かが漁業をする海域を侵犯する犯罪というイメージがあるが、必ずしもそういうケースばかりではない。

 なぜか。それは、ナマコの一部は北海道にある発電所付近の一部で「密漁」されているのだが、周辺の漁師は電力会社によってこの沿海における漁業権を法律的に放棄させられているため、厳密に言うとこのエリアにおける漁は他の誰がナマコを獲る権利をも侵害していないからである。

 また、第5章の北海のカニをめぐる北方領土問題、第6章の鰻に関する漁獲制限・輸出制限偽装など、読むとわかるのは、各海産物ごとに、抱えている問題がまったく違うということだ。

 ひとつの海産品に関する問題が、他の魚介にも通用する部分として、いわば横串として刺さっていかない。だから読み手は、各分野ごとにまったく違う病巣を抱えているものを、漁業界としてひとつにくくって理解しようとすることになる。

 上で挙げた、ものすごくとらえどころのない大きなものを相手にしているという印象は、ここから来るのだと思う。

 

 なんだか批判めいたことばかり書いてしまっている。ただ、こういう色々な分野、様々な問題の集積のような本で良かったとも思うのだ。

 各海産品における問題はどれも大きい。詰めていけばそれぞれが一冊の本になりそうだ。でも、

 「三陸アワビにおけるヤクザの漁法」とか、

 「北方領土問題に翻弄されたカニ漁の繁栄とこれからの課題」とか、

 なんというか、それが一冊の本として店頭に並んでいたとして、それ読みたい!って気持ちになるかどうかは別だよな、と思う(キャッチを作る俺のセンスのなさのせいって気もするけど)。

 『サカナとヤクザ』。この題名、あまりにでかくて複雑なものを思いっきり無理してひとくくりにしたものだと、読んでみれば感じるだろう。

 でも一方で、商品としては抜群の訴求力だと思う。ということは、表社会に問題提起をする上でも、結局それが一般効果的な方法だったということなのだろう。

 

おわりに

 あらためて、筆者の行動力と胆力は賞賛に値する。

 密漁された「汚い」アワビは養殖物の綺麗なアワビと混交され、区別がつかなくされて市場に流れるという。筆者はそのルートを探るするために自分で市場でバイトまでする。

 また、密漁者にもガッツリ取材する。すごい。

 そして、海上保安庁など取り締まる側の努力にも敬意を表する。

 密漁でアワビやナマコががんがん獲られていると知って、じゃあ警備はどうなってるの?と思うけど、張り込み、流通ネットワークへの潜入など、ちゃんとなさっているのだ。

 実際のところ、取り締まり側に内通者がいて情報がもれることもあるそうだが、それは、問題の一筋縄のいかなさの一部に過ぎない。やはり、文中で保安庁の人が取材に答えた言葉から伝わる、海産物が暴力団の手に渡る悔しさ、それを防ごうという執念をこの本で知れたのはよかった。

 

 上でも書いたとおり、漁業界は全体としてわけがわからない。国内外で誰かがひっそりと美味い汁を吸っている部分、そのままで放置されすぎてなあなあになっている部分が多すぎるようで、水産業全体をいっぺんに改善するのはまずできないと感じさせられる。

 ただ一方で、そういう結論で終わらせていいのかな? という気はする。

 全体を変えるのが無理なら、まず個々の問題からあたっていくしかない。

 やっぱり、漁業からダークな部分は減らされるべきだと思うのだ。だから、「水産ってのはわけがわかんねえな」と全体からつかんだ印象の中で完結するのではなく、まず一つ一つの問題を整理し、見つめていく必要があるように思う。

 

 本書を読むと次のような文言にときどきぶつかる。

 「漁業におけるダークな要素は必要悪」

 「消費者も共犯」

 俺たちはワルモノから彼らと同罪だと思われていて、実際そうなのかもしれない。

 それはやっぱまずいだろう。カニやウニを今後も食っていく上で(食っていいんですよね? どうだろう?)、食卓にのぼったものを見る意識を変える努力をしていこうと思うので、以上、よろしくお願いいたします。

 

*以下、本書から学んだ各海産物の問題点をまとめてみました。参考まで。

 

 ・アワビ…市場流通量の約半数が密漁モノという異常な状況。

 正規品に比べ密漁品だと仲介業者も買いたたける上、市場もそれを承知で受け入れて小売店、消費者に流しているので、流通経路全体が腐敗していると言える。

 ・ナマコ…日本国内よりも中国での消費の方が多いことから専門に獲る漁があまりいないため、密漁が横行しやすい。

 アワビ同様、正規品に対する表の値段よりも安い地下経路が形成されている。日本のナマコは絶滅危惧種(!)

 ・カニ北方領土問題により日本船は拿捕される危険があるところ、かつてはリスクを冒して密漁が行われていた。

 現行、ロシアから正規に輸入するルートが整備され管理が厳格になったが、中国に流れる裏道がつくられた。その過程で生まれたカネやカニそのものが、正規ルートを迂回したかたちで日本に流れ込んでいる。日本の資本もこれを承知で流通に絡んでいる。

 ・鰻…一番闇が深く、グローバル。卵からの完全養殖が実用化されていない点を含め、種として不明なことが多く、食っていいのか悪いのかもよくわからない。

 絶滅危惧種でありながら現在のように外食チェーンやスーパーでも消費される現状はさすがにヤバそうだが、減ってない説もある模様。

 国内・国外の流通にそれぞれ暗い部分を抱えている。

 例えば国内では、各県で漁獲に関する基準が共有されておらず、国内の流動も正確に管理されていないため、ひとつの県で許容量を超えて穫られたシラスを、他県産と偽って「輸入」する手口が横行している。

 一方国外。例えば一大養殖地である台湾ではルール上完全輸出禁止になっているはずが、香港に流れ、養殖などやっていないはずの香港産として日本に出荷されるという、「ウナギロンダリング」ルートが形成されている。なんとなく愉快な響きだが、深入りしたら東京湾に浮かぶことになる、と筆者は取材対象から注意されていた…。

 

 

 

NHKスペシャル「“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」を観た感想について

はじめに

 先日、引退を表明した吉田沙保里の昔のエピソードで小さい頃から父親にレスリングの教育をされていたと知って、「うわーっ」と思った。

 今日、市川海老蔵(現 團十郎)の息子が父親のかつての跡を襲名したと聞いて、やっぱり「うわーっ」と思っている。

 ファンの方からはものすごく怒られるかもしれないが、あまりポジティブではない意味の「うわーっ」である。

 要は自由じゃなくて大変だなあ、とか、もっと言えば、小さくてまだ何も知らない見たこともないときから、そんなに強く大人の影響下においていいのかな、とかそういう「うわーっ」である。

 怒らないで欲しいのは、俺はこの手の「うわーっ」が多いんです。

 SMAPの解散騒動のときも思っていた。もう本人たちが辞めたいんだから周囲があれこれ言わずに好きにさせてやれよ、と思ったし、解散後の今までありがとうありがとう、ってのも、彼らはお互い嫌でしかたなくてバラけたのに、その嫌な過去にそこまでお礼言われるってのはつらくねえか? とか思ってたんです。なんかかえって怒りに火を注いだ気もします。

 

 もちろん子供への教育を含めて、誰かに周囲の人間が与える影響について、そんなに簡単に良いの悪い言えるはずがない。

 サラリーマンの家庭で気ままに育った俺に家業という概念や親の悲願について気楽に批判する資格はない。それに、重圧を伴うそうした期待や、英才教育があったからこそ、偉業を達成することができるというのも事実だろうと思う。

 さらに言えば、今回のケースでは親子で同じ競技を選んでいたり、歌舞伎という世界であったからこそ「周囲からの重圧」というものが見えやすくなっただけで、実は他の誰もが、多かれ少なかれ、他者からのそうした束縛の中で生きているとも言える。

 誰もがみんな、他の誰かに縛られ、支えられ、生かされている。

 

NHKスペシャル「“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」を観て思ったことについて

 これを観たのである。

 俺はあまりこの人のことをよく知らなくて、彼が自撮りによって届けた高所の世界の映像も、目にしたのは今日がはじめてだった。

 率直に言って感動した。もしこれをリアルタイムで共有したら、すごい衝撃を受けただろうと思った。

 番組でも取り上げられていたが、彼の実績には競技としての登山のルールでは評価できない、いわばプロとしての得点に値しないところはあったようだ。番組に登場していた、生前彼と接点があった登山家の方も、栗城さんのことを「演出家」という表現に寄せることもありうるような言い方をしていた。

 それでも俺は、登山家としての「採点」とは別のところで、彼が伝えた映像をすげえ「画」だと思ったし、それに感銘を受けた人がいたということもよくわかる気がした。

 また、栗城さん自身にとっても、この「画」を伝えた体験は、生涯忘れがたいものとして、精神に強く焼き付けられたのではないかと思う。

 何かを成し遂げたい、周りに評価されたいという渇望と、それに突き動かされて自らをアピールしたところ、周りは彼の存在を認めただけでなく、その行為に救われさえした。

 求めていたものとそれに対するレスポンスが完璧に噛み合ったとき、その体験はもはや絶対に消し去りがたく、どうしようもなくこの人の心に焼き付けられたのだと思う。

 

 その後栗城さんは、登山活動の中で両手の指9本を失ったらしい。そして、最後は専門家の目から見れば絶対に無理だろうという登山ルートに挑戦して、亡くなってしまった。

 栗城さんの経歴を、かつての成功から、事故の連続へ、評価を挽回するべく無茶をして、最後の事故死へとたどる、幸福から不幸への下降線として描くことは簡単だと思う。また、彼への評価と期待を、それと並行して下降していくもう一本の線として描くことも簡単だろう。

 彼が亡くなった背景について、周囲の俺たちはなぜ彼を止めることができなかったのかと問うことも、問題としては簡単だと思う。

 でも、俺は栗城さんのことも知らないし周囲のことも知らないので勝手なことを言うが、なんと言うか、実はもっと全然簡単じゃないんじゃないか、本当は。

 

 栗城さんの登山に失敗が続くようになって、どれだけ彼への期待が薄れて罵詈雑言が増えても、最後まで純粋に彼を応援していた人はいたはずだ。

 それであれば彼の最後の挑戦は、誰かの祈りと、それに応えようとする勇戦でもあったはずだ。彼が最後はどれだけ追い詰められ、自己本位になったように見えても。また周りが軽率に煽って、彼の逃げ場をなくしていた事実があったとしても。

 次に同じようなことが誰かの身に起きたとき、それを防がなくていいかどうかは、別の問題だ。崇高な部分があったとしても、止めなくてはいけないケースはあると思う。思うのだが。

 一方で、初期の成功によって心に刻まれたものが、同じ体験をもう一度と彼に強く望ませていたのであれば、周りが何を言おうと、彼を止めることは難しかったかもしれない。

 少なくとも、死ぬ前の彼の制止できなさや焦りの原因を、同じ時期の周囲の批判や期待だけに求めるのは、俺は不完全なんじゃないかと思う。この人の一生を、未来の果てまで方向づけてしまうものがあったんじゃないかと思う。

 だから、まあ、簡単じゃないのだと思う。

 

 なんにせよ、ファンというのはどこかグロテスクだな、と番組を観ていて思った。

 批判を超えて口汚く罵るような人間は俺には気味が悪い。

 でも支持する方についても、山に登る前には頑張れと言い、結果として事故死を迎える直前、吐き気がするので撤退すると言えば失望したと言い、亡くなればショックだと言う、それらが同一人物とは思わないが、言葉を受け止める側からすればそれらはひとカタマリの何者かに見えるはずで、正体不明の怪物に違いないと思う。

 自分を棚にあげることはできない。

 俺も好きなアーティストに「まだ新しいアルバム出ねーのかよ」と言い、好きな漫画家に「お、隔月で描いてるんだ。偉いじゃん」と言い(これは最近新作が出た桜玉吉)、あるいは「おい、いつの間にか10週描いたら休むのがそういうスタイルみたいになってんじゃねーか」とか言っている(これは、えーと…)。

 やはりファンというのはどれだけ小さく見積もっても絶対にゼロにならない部分で、グロテスクなのだと思う。

 

 この文章に結論はない。とにかく簡単じゃないなあと思っただけなので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 最後に余談ですが、生前栗城さんにアドバイスを授けたことがあるとして番組に出演されていた登山家の方の淡々とした話しぶりもすごく印象に残っています。

 批判したいわけではまったくなくて、この方の性格というより、たぶんそこで生きていればそういう口調で語る以外になくなる、そういう世界なのかもしれないな、と思いました。

週刊SPA!の『ヤレる女子大学生ランキング』の抗議運動に関して、汚い大人の男の立場から思うことについて

はじめに

 週刊SPA!で「ヤレる女子大学生ランキング」という記事が掲載され、批判を浴びている。

 批判の原動力になったのはNGOの代表も務める学生の方が発起人となった抗議署名活動で、俺はこの抗議運動とセットにして、記事の存在についても知ったかたちである。

 学生の意見に全面的に同意している。日経ビジネスオンラインの記事で小田嶋隆も書いていたが、ゴミ記事だと思う。

 この抗議運動に対して、記事を擁護する意図なのか、「火のないところに煙は立たない」という反論をする人がいる。

 実態としてそういう事実があったのが明るみに出ただけだろう、ということを言いたいのだと思う(どうもその「事実」というのも怪しいもののようだが)。ならば、この「火のないところに云々」という例えをそのまま借りて、考え直してみて欲しい。

 仮に、本当にどこかの大学の女性と記事にあるような手段を通じて「ヤレた」とする。

 それを文章にする。つまり、火をつける。火は勝手につかない。記事が火を起こす。煙が立つ。

 そのとき、燃えている火はたまたま火の元の近くにいただけの、所属を除けば本来なんの関係もない誰かまで巻き込んで燃えることになると、俺たちは考えるべきだと思う。

 そもそも、燃やせば煙が立つからといって燃やしていいかどうかもわからないが、少なくとも火の近くにいただけの無関係のものまで起こした火が巻き込めば、それは明確に悪である。

 そして、女性を大学名でくくってひとまとめにつけられた火は、同じ大学にいたというだけの誰かを必ず巻き込んで燃えるだろう。

 その誰かがどこかの家庭の大切な娘であると、大切な友人であると、恋人であると、あるいは他人との関係性以前に尊重し保護されるべきひとつの人格であると、「火のないところに云々」というとき、俺たちは考えてみるべきではないのか。

 

 批判を受けてSPA!が出した謝罪に対し、学生は謝罪よりも対話を求めるそうだ。おそらくずっと年下の若者に、醜いというだけでなく、「理解しがたい」と思われているのだろう。もの悲しいと思う。

 

本題。俺はたぶんSPA!を読む側の人間であるということ

 ここからが本題である。

 前記したとおり、俺はSPA!の件の記事を若者による批判とセットで知った。セットで知ったからこそ、その怒りや不快感に同調した。

 じゃあ仮に、批判の存在を知らず、たとえばコンビニの店頭とかでその見出しをはじめて見たのだったらどう思ったか? 

 断言する。恥ずかしい話だし、上で記事の擁護者を批判しておきながらおかしな話だが、そうしないと自分の立ち位置がはっきりしないからはっきり言う。

 

 俺はたぶん、不快だともなんとも思わなかっただろう。

 

 コンビニの棚で「ヤレる女子大学生ランキング」という文字を目にしたとき、俺は絶対なんの違和感も持たないだろう。あるいは、ラーメン屋で読むものがなくてたまたまテーブルの上のSPA!があったら、手にとって読んでみることさえするだろう。

 そのとき俺は、「へえ、○○の学生ってこうすればヤレるんだ」とは思わない。

 別にこの期に及んで良識ぶっているわけではなくて、無感覚に、本当に何も思わないだろう。

 この無感覚さはうまく言葉にできなくて、もちろん記事を実践してヤろうとも思わず、それどころか内容が正しいかどうかも考えず、とにかく空気のように、単に一時的に目を刺激する文字の列として、ラーメンと餃子が来るまで、なんの感情の変化もなくそれを消費するだろう。

 それでも、俺はたぶんこの記事を読んだ後○○出身の人にあったら、「あ、あの記事の学校と同じ人だ」と思う。必ず思う。そしてそれは、間違いなく、その人を大なり小なり卑しめているに違いない。

 

 俺は学生の運動を通してSPA!の記事を知ったことで、「記事の批判に同調し、擁護する立場には反論する回路」につながった。

 しかし、偶然そのルートを通らなければ、俺はこの記事が誰かを傷つける可能性を想像せず、記事を消費する側でもありえた。

 単に風見鶏なだけと言われればそれまでだが、俺はこういう風に分裂していて、おそらく本質的には、SPA!を読む側の人間であって、そして本当は、この学生の方の敵なのだと思う。

 

おわりに

 「ヤレる女子大学生ランキング」的なものと戦う人は、不潔でねじまがった、性的な欲求を満たすことを優先し人を支配しようとする、欲望としてある意味明確で、なんというか、ある種の熱気をもったものや人だけを相手にするのではないと思う。

 もっと目に見えない、それはそれで汚く歪んでいるのかもしれないが、ヤりたいとも思わずヤるための記事を読み、そういうものが存在する空気にもなんとなく慣れきって、醜悪なものをあえて許すという積極性もないまま、その手の文言と自由気ままに近づいたり離れたりしている者。俺のような者。

 そういうものたちと、戦うことになるのだと思う。

 

 最近、そういうもののおかしさがようやく可視化されてきたのかもしれない。

 本当は単なるクソなのに、表現の自由とか価値観の多様性とかの言説に守られたり、あるいは、あって当然のものとして議論の俎上にさえ乗らなかったもの。

 そういうものが、取り除かれるべき単に不快なゴミとして、若い人たちによって示されつつある気がする。

 30前半の俺は自分を若者の箱に入れるかどうか迷うことがあって、本当は一緒になってくだらないものをなくしたいが、上に書いたとおり俺自身がくだらないものでもあり、精神的にはたぶん汚いおっさんの方で、やっぱり迷っているが、若者のことは応援している。

 どの立場で? わからない。処分される害毒が薬や消毒液を本当に受け入れられるだろうか。

 でも俺も、昔はそういう若者だったのだ。そのまま成長はできなかったが。

 とりとめもなくなったがそういうわけなので、以上、よろしくお願いいたします。

ポジティブな虚無に立ち向かう大傑作。『トロフィーワイフ』の感想について

はじめに

 新年あけましておめでとうございます。
 本年一発目、まったく年明けと関係のない記事で恐縮なんですが、舞城王太郎の『トロフィーワイフ』の感想をまとめます。
 『トロフィーワイフ』、すげーよかったです。帰省中の列車の中で前のめりで読み込んでしまった。個人的には、舞城作品代表作の一つに挙げたいぐらいすごい作品だと思います。 

おおまかなあらすじ

 物語のフォーマットとしては、人間の関係性とか心のあやふやな部分とかをバチバチの会話と疾走感のある思弁で削りだしていく、舞城作品によくあるものです。

 

 主人公・矢吹扉子には棚子という姉がいます。棚子は美人で優しく裏表もない、まさに非の打ち所がない女性なんですが、妹の扉子はその完璧さをかえって不気味に思っており、棚子が周囲の人間まで「棚子化」していく、性格も趣味も優れた人間へと変えていくその奇妙な影響力も含めて、苦手にしています。

どうなってんの?って感じ。正直。《完璧》って天体のさらに惑星直列、みたいなのが、どうやら姉を中心に起こってる。p.15 

 その棚子がある日、自分の夫のところから家出してしまいます。
 それは、棚子が夫のある言葉にショックを受けたからなんですが、この言葉がなんなのかはおいておくとして(いわゆるひどい悪口や浮気の告白ではないところがミソ)、棚子は旧友の家に上がり込んでそこの家事手伝い兼旧友の義父母の介護福祉士みたいな立ち位置に納まってしまいます。扉子は母親から頼まれて、旧友のところまで棚子を連れ戻しにいきます。

 

ポジティブな虚無

 以下、ネタバレを含みます。未読の方はできればそちらを先にどうぞ。

 扉子はまず旧友に接触し、それまで義父母の介護と育児に忙殺されていた旧友が棚子が来たおかげで仕事を始めたことを知ります。
 扉子は、棚子がいつまでいるかもわからないのに、まるでずっとそちらにいることを前提にしたかのような友人の行動を非難し、棚子を連れ戻すことを通告しますが、友人はすべては棚子が棚子の好きでやったことだし、もうその存在を組み込んで物事を決めてしまったのだから、連れて行かれては困ると扉子をなじり返します。
 このあたりは『淵の王』にも似たようなやりとりが描かれていました。ただ、『トロフィーワイフ』がすごいのはここからで、いざ旧友宅に着いて棚子とひさしぶりに対峙した扉子は、棚子の介護を受けている友人の義父母が棚子への感謝とお詫びを口にするその様子から、老人たちが正しく、善良に、「棚子化」されてしまっていることに気がつきます。

 「何言ってるんですか。玲子さんと健吾さんのお世話は楽しいし、こうやって一緒にいられるだけで嬉しいんですから」

 「もうええんや。もうええんやで…」

 と涙を拭うおばあさんの後ろでおじいさんは黙ったままで、ただニコニコ泣いていて、……それを見て、私は何故かぞっとする。 p.68

  こうして棚子は周りの人間を自分と同じ善人に変えてしまうことで自分の心地よい環境をこの場所に作ってしまった。しかし実は、ここでは棚子のすごさと同時に、別のものも描かれています。
 それは、棚子の周囲の方がいかにいい加減で、影響されやすいかということ、棚子からの影響の受け取り手として、本来の自身の甲乙の基準を、どれだけ簡単にすり替えてしまうかということです。

 

 ここで、棚子が作中で夫から言われたある言葉が効いてきます。

 夫が棚子にしたのは、動画で観たというある心理実験の話でした。まず、被検者たちに複数枚の絵を見せ、その中で順位をつけさせる。その後、真ん中あたりに順位付けされた絵を被検者にプレゼントする。後日、あらためて同じ群の絵の中で順位をつけさせると、なんとプレゼントされた絵が順位を上げる、という結果が出た…そういう実験です。
 ここでも人間の価値判断の曖昧さがあらわれたかたちですが、棚子は夫からこの話を聞いて、もっと深刻な受け止め方をした。棚子は、仮に自分以外の人間を妻に迎えても夫は今と同じくらい幸せになった=自分が選ばれる必要は本当はどこにもなかった、という風に受け取ったわけです。

 

 肝心なことは、ある程度それは正しい、ということです(少なくとも作中ではそう扱われている)。
 ある程度の範囲で、人間は何を選んでも幸せになれる。これは一見きわめてポジティブな事実なようでいて、考えようによっては恐ろしくむなしいことでもあると思います。
 棚子が周囲の人間を変えて表面的には幸せにしたように、また、棚子自身夫から聞かされたように、もし人間が生きていく中で何を選んでも幸せになるのであれば、複数の選択肢の間で悩むことには、実は意味がなくなってしまう。悩み、ときには苦しんでまで何かを決断することには意味がなくなってしまう。俺たちの人生が苦悩と決断の連続だとしたら、実はそれらは丸ごと無意味だということになってしまう。
 では、その上で行動し、判断するとはどういうことか。『トロフィーワイフ』はそこを問う作品であり、ある意味では絶対悪(『ディスコ探偵水曜日』)より、お化け(『淵の王』)より恐ろしい、巨大な虚無に立ち向かう作品だと思います(おおげさかな? でもそういう読み方の方がスリリングなので)。

 

選ぶことのむなしさを知りながら、何かを選ぶということ

 とにかく扉子は棚子を連れ戻すべきだと思ったので、棚子に帰ってくるよう説得する。
 このとき扉子=その言葉を書く舞城王太郎は、ものすごく難しい綱渡りをしていると思います。
 まず、棚子は別に悪いことをしているわけではない。家庭内に外部の人間が闖入して環境を一変させてしまう事例は、フィクションなら『クリーピー』、現実なら北九州一家殺人事件などがありますが、棚子はこれらの犯人たちとは全く異なる。
 一応、自分の影響力をもって友人宅を変えてしまった自覚、少しの引け目は棚子にもあるようですが、表面的には棚子が来たことで好転したことばかりなので、棚子を倫理的に責めることは難しい。
 この倫理的な無欠さに、上で書いた「何を選択しても正解になってしまう」というポジティブな虚無が上乗せされます。
 扉子自身、このむなしさをある程度認めている。つまり、棚子を連れ帰ろうが連れ帰るまいが、ある意味どちらでもいい(というか、どちらでもよくなる)ことがわかっているわけです。

「そうだよ?人はどんな人生だろうと、同じくらい幸せになるよ」p.89

 もしどちらを選んでもみんなそれなりに幸せ(に自らを軌道修正してしまう)なら、棚子を連れ戻すという面倒な上に波風の立つ選択肢をあえてとる理由はなんなのか。そんな選択を貫き通すためにがんばること自体、選ぶことのむなしさを理解する者としては矛盾しているじゃないか。
 でも扉子は棚子を連れ戻そうと決意する。友達の家で周囲を感化し続ける棚子を止めようとする。
 舞城作品の主人公らしく、扉子は最後まで自分が正しいのか迷いを介在させながら、それでも、無意味なはずの決断を勇気をもって行う。それがすごくいいです。

 

おわりに。『トロフィーワイフ』はなぜ家庭内の話であったか

 俺は、この選ぶことのむなしさと選ぶことの勇気が同居した作品が、家族内のごたごたを通して描かれたのが、本当に最高だと思います。
 舞城王太郎は怪獣も書けるしお化けも書けるので、問題を扱う上でもっと規模がでかかったり生死のかかったような世界観もありえたはず。でも、家出した姉を言葉で説得して連れ戻すという、これ以上の枠組みはなかったと思います。

 だって家庭というのは、相手に言うべきかどうか微妙なことや、言う必要はあるんだろうけどそれを言う自分は意地悪じゃなく本当に相手のことをちゃんと思っているのかわからないことが、膨大に渦を巻いている空間だからです。

 

 これを言ったら傷つくだろうけど言った方がいいんだろうな、とか。
 こうアドバイスしたいけど実は理解が足りてなくて、かえって混乱させないかな、とか。
 注意したいけど、相手のことを思ってじゃなくて、いつか口論でやりこめられた仕返しになってないかな、とか。


 そんなことがひしめいていて、なおかつ重大なことに、言わなくてもまあ、なんとかそれなりになってしまう、そういう場所。だからこそ、この作品の世界観としてすばらしいと思うわけです。

 そういうわけで、すげえと思うので紹介しました。
 なお、この作品を収めているのは『されど私の可愛い檸檬』という短編集なんですが、これと同名の短編もものすごくいいので、こちらもおすすめします。『美味しいシャワーヘッド』と同じノリの、器用さと不器用さがタチの悪い感じで混在したクソ野郎にグサグサくる内容でグッドなんで、あわせて以上、よろしくお願いいたします。

 

されど私の可愛い檸檬

されど私の可愛い檸檬

 

 

腐ってるやつら、ライブで踊っててもどこか冷めてるやつら、『エバタのロック』を読もうぜということについて

はじめに

 学生の頃からものを腐らさせることが得意だった。


 惣菜とか弁当とか野菜とか、どこかに暗くて狭いところにしまい込んで忘れてしまう。
 腐らせるのがものだけかと思ったら、自分のことも腐らせてしまった。
 ものは動くための手足がないからなすすべなく腐っていくのだが、俺には手足があるのに、俺が腐らせたすべてのものと同じように自分自身を腐らせてどうにもならなくなった。

 

 夏フェスが好きなので毎年行く。暗いフロアで照明がビカビカ舞う中、ダンスミュージックやロックで踊る。観客みんなでダンス。一体。
 恍惚としながら、99%ぐらいそうなりながら、残りの1%のどこかで間違いなく冷めている。いま鳴ってる曲を共通項に他の人たちと盛り上がりながら、なんかバカみてえだな、と思っている。
 恥じらい? プライド?
 いずれにせよ間違いなくくだらない何かにはばまれて、バカになりながらバカになりきれない別種のバカが俺。

 

エバタのロック』の感想について

 『エバタのロック』は中年のロックスター・エバタの活躍を描くギャグ漫画。
 …ギャグ漫画? どうだろう。もしかすると違うかもしれない。
 ゲラゲラ笑ったからこう分類したけど、違うかも。だって端々でグサグサ心に刺さるものがあったし、最後はめちゃくちゃカッコよかったから。

 

 3巻にエバタのファンの中年のフリーターが出てくる。昨日使ったグラスは洗わずに使うけど、ペットボトルにションベンは溜めないフリーター。自尊心の防波堤がペットボトルにションベン溜めない、というところまでずり下がってる。
 エバタのファンなのに、エバタも自分も人間としてのアップデートがもう止まった人間としてまとめて俯瞰している。ヒットソングを会場で合唱することを俺らのぬるい共感装置と言い切ってしまう。

 すごくないですか? 傍から見たらそりゃそうだろうけど、自分込みで言えないだろう、普通。

 

 ソロ活動に入ったリアム・ギャラガーのファンが会場で熱狂しながら、「でも結局俺ら一番盛り上がるのはoasis時代の『rock'n'rollstar』じゃん」って。

 

 キャリアをバリバリ継続中のRadioheadのファンがサマソニの会場で「結局俺らが一番聴きたいのって『creep』じゃん」って。

 

 ファンじゃない人は平気で言えるだろうけど、ファン自身心の隅でぼそっと言うこともあるだろうけど、フィクションでそんなん言われると思わなかった。

 

 彼も物語の最後にはいい顔になる。それはまごうことなきロックの力によって。
 『エバタのロック』は物語の中でロックの力を証明した。そしてあわせて人生というものの正体を。
 それは、役に立たないけど役に立つというロックの矛盾を使って証明された。

 

 ロックは役に立たない。なぜなら、ロックとは目の前に水があるときまったくなんの意味なくそこに飛び込むことだから。
 着替えもなくケータイは駄目になり濡れネズミで家に帰ることになる、それでも目の前の水に飛び込むのがロック。つまりロックはマイナス。俺たちがこれまで積み上げたものとこの先に待つものにマイナスをかける行為。

 

 じゃあ、でも、マイナスをかけられる俺らの人生は、本当にプラスなのだろうか?

 

 それはロックとは関係なく単なる偶然であっさりマイナスに反転したり…、というか、そういう不条理に襲われる可能性を抱え、最後は誰もがすべてを失ってこの世から退場する宿命にある時点で、ある意味かなりの部分でそれは決定的に、常に、マイナスなんじゃないのか?
 俺たちは必死でそれをプラスだと思い込もうとしてるけど、その懸命なメッキがときに剥がれてマイナスの正体がむき出しになったりするんじゃないのか?

 

 物語の最後にロックにとって決定的な意味を持つあの場所でエバタがかけた「マイナス」は、間違いなく何かをプラスに変えたはずだと思う。そう思うのですすめるので、以上、よろしくお願いします(ちなみにこの漫画で一番笑ったのはエバタが田舎に泊まりに行って田舎のばあさんを持ち前のテンションで強襲したときばあさんが心象でエバタをB29とダブらせたシーンです。基本的にそういう漫画です)。

『デビルマン Crybaby』の感想、あるいは幼い飛鳥了はなぜ泣いていたのかについて

はじめに

 遅ればせながら『デビルマン Crybaby』を観まして。
 率直に言う。泣きました。
 素晴らしかった。
 というわけで感想を書きたいのですが、もちろんすでにたくさんの方が感想を書かれているので、あんまり言及されていないように見えるところにしぼって感想を書きます。

 

・第9話のエンディング
・ライバル燃えの中二病患者が観る『デビルマン Crybaby』
・泣き虫、飛鳥了の物語としてのCrybabyについて

 

 って感じです。ネタバレ上等。観た人向けです。よろしくお願いします。

 

第9話のエンディング

 まず、Crybabyは音楽がとにかくめちゃめちゃ仕事している作品です。
 オープニングの『man human』も、エンディングの『D.V.M.N』も、その他のbgmも最高にカッコよかった。


 で、その中でも異彩を放ってるのが、第9話の特別エンディングに使われた『今夜だけ』という曲です。
 俺はこの曲とそれ似合わせて流れる映像を観ながら、ぼろぼろ泣きました。

 

 以下、本当にネタバレ全開です。

 

 あれはたぶん、エンディングテーマというよりストーリーの一部として観ることが正しい映像なんじゃないでしょうか。
 どういうことかというと、死ぬ寸前に美樹が見た心象風景として、明と一緒にバイクに乗って夜明けの光の中を駆けていく光景があって、それに『今夜だけ』という曲をあてたものを、俺たちは見ていたのだと思います。


 明と美樹がああして一緒にバイクに乗ることは、現実には一度もなかった。明が到着して助ける前に美樹は死んでしまった。 
 しかし死ぬ前に、自分がいつか待ち望んでいた夢を美樹は見ることができた。それがあの映像なのではないか、と思うのですね。
 バイクに乗っている明と美樹の雰囲気が、完全に恋人同士のそれに見えることもこれが美樹の夢だと思う理由のひとつです。
 美樹と明の関係って、現実では恋人まで発展しきらなかった。お互いにかけがえのない存在であることは明らかだったけど、その奥におそらくあった恋愛感情までは表に出されなかった。
 起きることがなかった気持ちの告白を心の中でして、夢の中ではあるけど、二人は恋人同士になった。「今夜だけ踊らせて 今夜だけ打ち明けて」という『今夜だけ』の歌詞も、それを暗示しているんじゃないかと思う。

 そういう映像だと思います。そして、最後瞼が閉じられるようにしてフェイドアウトして、その夢は終わっています。

 

ライバル燃えの中二病患者が観る『デビルマン Crybaby』

 Crybabyは欠点が全くない作品なんでしょうか。

 全然そんなことないです。
 特にキャラクターの行動は支離滅裂に感じられる部分が多々ある。
 特に了は自分勝手な理由で一般人を殺しちゃうし、そのどさくさで明を悪魔にしちゃう。物語が進めばその理由はわかるけど、最初は意味が分からない。
 他にも人によって気になるところがあると思います。原作とCrybabyにおける明が悪魔化するきっかけの違いとか。

 でも、それらをふまえて俺は言いたい。

 了のせいで最後にすべてを失った明と、明のために最初からすべてを仕組んでいた了。
 宿命の二人が物語の最後に激突する。もうそれでいいじゃないか。

 

 Crybabyの音楽が素晴らしいのは上述しました。
 でもそれを脇に置いても俺は言いたい。最強のデビルマンである明と悪魔の祖・サタンである了が激突する。もうそれだけでもいいじゃないか。

 

 俺は中二病なので、物語の最初から深く因縁を絡ませてきた同士が最後の最後で戦う展開が大好きで、もうあっさりノックアウトされてしまうのです。

 例えばペコとスマイル(もしくはドラゴン)とか。
 あるいは藤木源之助と伊良子清玄とか。
 瀬能宗一郎と木久地真之介とか(松本大洋多いな)。
 ヴァッシュとナイヴズ(もしくはレガート)とか。
 アーカードアンデルセンとか。
 名無しと羅狼とか。
 雨宮夕日と東雲三日月とか(少年画報社も多いな)。
 椿三十郎と室戸半兵衛とか。

 物語の序盤から相手への重たい愛と因縁がすごいわけですよ。それが飽和しきったところと物語のクライマックスがシンクロするわけですよ(アンデルセンはクライマックス前だけど)。
 それが熱くないわけないじゃないですか。それでいいじゃないですか。それでいいですよ。こまけえことはいいんだよ!

 

泣き虫、飛鳥了の物語としてのCrybabyについて

 Crybaby(泣き虫)という言葉が指す人物は二人います。一人は明、もう一人は了です。
 明が泣き虫なのは作中で何度も描かれていますが、了が泣き虫なのも物語の冒頭で匂わされています(猫が死んだときに幼い明が言った「了ちゃんも泣いてる」)。
 他者への共感を欠いた一見冷徹な人格である了の本質を明は見抜いていたのだと思いますが、じゃあ了はなぜ泣いていたのか?

 

①猫が死んで悲しかったから
②大切な人である明が悲しんでいて自分も悲しくなったから
③泣きたいのに泣くことができないから

 

 ①②もあるでしょうが、最終的には③が一番大きいのではないかと俺は思います。

 まず、「了ちゃんも泣いてる」と明に言われたときの了は、実際に涙を流してはいないと思います。
 このときカメラは了の左横顔を映しているので、映っていない右側で実は泣いていた、という可能性はありだと思いますし、俺は最初そういう演出だと思いました。
 ただ、物語の最後にサタンとなった了が本当に流した涙の重みを考えると、このときはやはり涙は出ていなかったのだと思います。それもあって、了も自分が泣くはずがないと考えた。だから、このとき明が何を言っているのかわからなかった。
 ただ、了自身気づいていないところで、了はちゃんと物事を悲しむ心の動きを育んでいたんじゃないでしょうか。しかし、それを自覚することまではできなかったし、落涙するという肉体的な動作で表すこともできなかった。そして、そのことで強く苦しんでいた。

 涙を流すことができず心で泣いていた了の心を、明だけが見通すことができた。これが、「了ちゃんも泣いてる」の意味なのではないかと思います。


 その了も、物語の最後で明を失って(おそらく)はじめて涙を流し、悲しみという感情を自分がもっていたことをようやく認めます。
 考えてみると、サタンである了は人間よりも先に地上に存在していて、後発である人間が地上で繁栄し愛情らしきものを獲得しても、ずっと孤独だったわけです。孤独で、自分の感情の表し方を知らなかった。
 これをCrybabyのモチーフのひとつである陸上競技にたとえると、他者への理解と優しさの獲得という知的生物としてのゴール地点が設定されているにも関わらず、見当違いの方向に一人で延々と走り続けているようなものです。
 Crybabyという作品は、この迷える孤独なランナーたる了が、後発の別のランナー(明や美樹)に並ばれ、追い抜かれ、しかし最後にバトンを任され、ようやくゴールにたどりつく物語とも言えると思います。
 そういう意味では了はまさしくもう一人の主人公であって、第10話で明の方はわりとあっさり死んじゃうんですけど、そこで物語の焦点がはっきりと了の方に当たるようにされているのは、ストーリーの流れとして素晴らしかったんじゃないかと感じます。

 

おわりに

 物語の最後に地球が再生しているような描写がありますが、個人的にはおまけみたいなもんかな、と思ってます。
 現実には叶わず夢の中だけで見ることができた美樹の夢と、すべて失うことでしか了自身気づけなかった自らの感情の正体とは、それが救いようのない悲劇の中で起きたことだからこそ、圧倒的に美しいと思うので。
 まあ細かいことはどうでもいいじゃないですか。どうでもよい。俺たちは、また熱いライバル作品がひとつ増えたことがおおいに喜ぼうじゃないか…そんな風に思う次第なので、以上、よろしくお願いいたします(作品からのメッセージを大量に取りこぼした解釈)

 

DEVILMAN crybaby Original Soundtrack

DEVILMAN crybaby Original Soundtrack