惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

今週のお題「運動不足」について

 運動というと、最初にスポーツのイメージが浮かぶ。
 週に2回くらい、30分程度のランニングをこころがけている。
 走る前はこれがまあやりたくないこと、こんなに億劫なことがこの世にあるのか、という感じだが、なんとか自分を無心にして(「気合い」や「克己」ではない。「無心」がコツです)走り出すと、大層気分がいい。
 そういうわけで、最後に運動=スポーツをしたのはいつか、となると、これは今朝になります。
 
 ところで運動と言えば、社会に対して何かしらの訴えかけを起こすことも運動の一つである。
 不買とか、デモとか。この運動となると、おこなった憶えがまったくない。
 無意識のうちに、何か大きな流れに加わっている、ということはあるだろう。選挙とか。
 そういう意味では「運動」に参加していた可能性もあるけど、意識してそうした経験があったかというと、ゼロである。
 
 率直に言うと、俺はこういう運動のことがあまり好きではない。そこには、我ながら情けないと思わざるを得ない理由と、たぶん俺は間違ってないだろう? という理由が混在している。
 
 情けない理由から述べると、単純に平穏が乱されて嫌だからだ(あ、本当にしょーもないですね)。
 「運動」と聞いて俺がイメージするものがアクティブすぎるのかもしれず、実際は穏やかなものも多いのかもしれないが、例えば人物の写真にデカデカした真っ赤なフォントや赤いバッテンとかを貼って、プラカードの列が大声を上げながら市街を練り歩く感じ。これが苦手。
 ただ、この場合乱されている平穏とは、あくまで「俺の」平穏に過ぎない。
 デモを行う彼女ら/彼らは、何かの理由によって、すでに平穏を破壊された側。俺の知らないところで平穏は保たれる一方でどこかで崩れており、ズレが生まれる。
「運動」とは、こうしたズレを調整しようとする活動かもしれない。
 
 一方、俺が「運動」を嫌うのは間違ってないと言える理由はなんだろう。
 それは、「運動」には勢いが必要なゆえに、宿命的に、冷静さの欠落と不寛容さを抱えるように見えるところだ。
 その主張が、科学的に、法学的にどこまで正しいのか。勢いと結束を維持するために、外部の意見を耳に入れる柔軟性が失われていないか。
 「運動」の多くは、俺にはそう見える。
 だから俺は「運動」に対して一歩退いてしまうし、軽蔑することもある。批判を受け付けない状態で何かの正しさを主張するのは、ルーレットの赤と黒のどちらかに金を賭けるのとたいして違いがなく、場合によっては社会全体を巻き込んだ悲劇になるからだ。
 極論、かつて西洋で、魔女と疑われた女性を水に沈めて、浮かんでくるかどうかで正体を暴こうとしたように。
 あるいは、20世紀のアフリカ、ルワンダで、鼻の大きさが違うという冗談みたいな目印などを頼りに、仕立てられた民族対立の中、すさまじい加虐が吹き荒れたように。
 
 もちろんこれには反論があると思う。
 中には、客観的な証拠をそろえて起こされる正しい「運動」もあるだろう。そして、俺がいま平穏に暮らしていられるのはなんのおかげかと言ったら、そうした正しい「運動」によって勝ち取られた自由や豊かさのおかげに違いない。
 それらを成し遂げた人たちは、必死さと冷静さを兼ね備えた、「明確なデータがそろうまで云々」なんて言って結局行動しないような悠長なやつじゃなかったはずだ。
 あれ、「運動」について書いていたら、なんだか逃げ場がなくなってきたぞ。
 
 じゃあ、俺の最後の(最初の)「運動」はいつやってくるんだろう?
 
 俺の知り合いに、こうした「運動」に参画することを一切辞さない人がいる。
 俺はこの人の言動のすべてが正しいとは思わないし、活動を支持しないこともあるけど、一方で、社会的な弱者を助けるために、自分の理念のためにためらいなく問題の中に飛び込んでいくその人は、なかなか魅力的な人物だ。
 
 いつか自分がそうなるのもいいかな、という気もする(知性、体力が伴うかは別として)。
 でも、やっぱりできなさそうだな、という気もする。
 かったるいから、というのもあるけれど、俺は自分が何かの集団に、数字の一つとしてカウントされることが、根本的に好きじゃないのだ。
 自分が、無感覚でつかみどころのない、何かいやらしいマジョリティに属している自覚もあるので、何を言う、という気もするけど、今のところ、これが俺の偽らざる感想。運動不足という言葉について、そんなことを思った次第です。
 
 以上、よろしくお願いいたします。