ヘドの底にいる人について

 人間は自分より幸せな者が嫌いなので、上を見上げたときに自分より幸せな者がいることに気がつくとムカついてヘドを吐く。吐かれたヘドは重力にならって下に向かって流れ落ちていく。
 他人のどこに幸せを感じて憎悪を抱くかは人によって違っていて、俺の場合は、多くの愛するべき人に恵まれているにも関わらず自分の生きることの下手くそさ、不器用さを嘆いている人を見たときに強い憎しみがわく。
 なぜなら俺にはそれらが手に入らなかったから。
 何が生きるのが下手くそなんだ、と思う。あんたは、結婚して子供までいるじゃないか。
 子供はいなくても嫁さんがいるじゃないか。
 結婚はしてなくても恋人がいるじゃないか。
 要は…何がうまくいかないのか何をしくじってきたのか知らないけど、それなりにうまくやれてるじゃないか。
 俺は何にもうまく行かねえ。あんたよりはるかに不器用でろくなことがなくて誰ひとり手に入らなかったのに、そのことに不平を言わず歯を食いしばってて、その俺の立場はどうなるんだよ?

 

 狂った犬の八つ当たりもいいところで、別に誰に周りを囲まれていようと辛いことは起きるし、それを嘆くのは当たり前なのだが、俺の憎しみは反射的に燃え上がり、うっかり俺の前で自虐を披露したその誰かを心の中で血祭りに上げずにはおかない。理屈じゃない。

 

 その俺が、今度は自分が何かを嘆く側に回ったとき、どこかで誰かがそれを見て、きっとヘドを吐いているだろう。その誰かからすれば、俺はたぶん、十分に「うまくやっている」側だから。
 恋人はいないが家族はいる。生活に困るほど貧しいわけでもない。朝起きて呪いの言葉を呟きながらもなんとか毎日家を出て出社することができる。楽しいことはひとつもないが、誰に虐げられているわけでもない。
 そんな俺は十分マジョリティ側で、「うまく行かねえ」と吠えながらそれなりにうまくやっていて、たぶんもっと不幸なマイノリティをうっかり踏みつけながら、知らない間に彼らにゲロを吐かれている。

 

 人間が、みんなが、この世のすべての人々が上を見上げてから下に向かって吐いたヘドはどんどん流れて流れ落ちて、特に根拠はないがすべてのヘドが溜まったこの世界の底に、ひとりの人間がいる気がする。
 そこから見上げるとこの世のすべての人間がヘドを吐いている姿が見えるその場所に、ひとりの人間が立っている。
 想像したその人は、しかし、上を見上げはしないし、もちろん下を見てヘドを増やすこともしない。ただ前を向いているか、あるいは目を閉じている。
 その心の中が希望なのか絶望なのか、激情なのか静寂なのかわからないが、俺はそんな誰かがいることを想像してみる。そして、たぶん本当にそんな人がいる気がしているので、以上、よろしくお願いいたします。

できるわけがないこと、もしくはできるわけがないと思わされることについて

はじめに

www.bbc.com

 何年か前、ドナルド・トランプがまだ大統領候補でしかなかった頃。自分が大統領になったらメキシコとの間に壁を作るつもりであるとこの人が言っているのを聞いたときのこと。
 俺は、このおっさんは何を言ってるんだと思っていた。
 異国民が入ってこられないように防壁を築くなんて、移動を制限する手段にしたってどう考えてもナンセンスで、なんというかあまりに前近代的で、物理的に有り得ないし、道義的にも大儀が見えないことのように思えた。

 21世紀のこの時代に建てられた、国と国とを物体としてしきる長大な壁のイメージ。頭に思い浮かべるだけで強烈に滑稽だ。
 どんなくだらない奇跡が立て続けに起きればそんなものがこの現代に現れるのか。できるはずがないと思った。そもそも、ドナルド・トランプが大統領になること自体があり得ないことだと思っていた。

 その後、壁の建造はともかくとして、かの人は大統領の椅子を見事に手中にすることになる。

 

できるわけがないこと、もしくはできるわけがないと思わされること

 「できるわけがない」。何かばかげた夢想や壮大な野望を耳にしたとき、俺は、あるいは俺たちは、反射的に、そしてきわめて無防備に、そういう感想を抱きがちだ。はいはい、おつかれさん、と。あんまり面白くないショーを見せられた後に芸人に支払う小銭のような感覚で、気軽にそういう反応をとってしまう。
 でも、今回の壁建造のニュースを聞いたとき俺は、この「できるわけがない」という感想を抱くこと、あるいは抱かされることは、実は俺たち自身にとってかなりリスクのあることなのではないかと思った。

 気軽で使い捨てなリアクションのつもりでいて、ひそかに俺たちは、ある日唐突にバカでかい負債を払うことになる爆弾を背負わされているんじゃないか?

 

 うまくいくはずがない計画、大成するはずがない人物が人々の予想を裏切る成功を収める、という展開はフィクションでもよく描かれるパターンだ。
 だからなんであえてこの例なの?というのは自分でもわからない。しかし、「できるわけがない」で俺が思い浮かべるのは、『シグルイ』の屈木頑之助のエピソードである。
 屈木頑之助はガマガエルに似た醜怪な男で、自分が想いを寄せる道場の娘を手に入れるため、この武家で行われている兜投げというならわしに挑戦する。この兜投げは若かりし頃の家長が戦場で敵兵の頭を兜ごと刀で叩き割りそこから立身していったという逸話にちなんでおり、見事兜を割ったものが娘の婿となることが認められる予定になっていた。
 さて、家長は屈木頑之助の参加を認めたが、別に屈木が本当に兜投げに成功すると信じていたわけではない。また、娘をやるつもりなど毛頭なかった。
 家長は単に、かつて自分が裸一貫から成り上がったように、出世の機会は立場に関係なく開かれているべき、という主義を貫こうとしたに過ぎない。ある意味屈木のことなどどうでもいい。自己満足だ。
 その当主は、いざ兜を前に刀を構えた屈木頑之助を見て戦慄することになる。「こいつは割る」と直感したからだ。
 嘲っていたもの、無視していたものが、自分の想定を超えるとき、その敗北感が決定的に自らに刻みつけられること、そこで成立したマウンティングは生涯消え去ることがないことを、家長は感覚的に理解したのだと思う。
 すべては、「できるわけがない」と油断したばっかりに。この思いこみさえなければ、仮に屈木が兜を割るだけの技量があることに気づいてもそこまでの衝撃はなかったと思われる(というか、そもそも屈木の危険性に気づいて屈木を参加させなかっただろう)。

 

 屈木が実際に兜を割ったかはさておいて、アメリカ大統領の話に戻る。
 俺は、この壁の件について、大統領はかつての自分の発言が大衆から招いた嘲笑、そしてそれとともに彼らの中に密かに忍ばせた爆弾の存在を計算していると見た上で、解釈するべきだと思う。
 だから俺たちも、本当に壁ができたら自分たちは何を刻み込まれることになるか覚悟した上で、その動向を追うべきだと思う。

 困ったことに俺たちは意外とマジメなので、誰かを一度小馬鹿にしたという記憶を忘れたようで忘れていないのだ。覚悟がいると思う。この負債は実は取り返しがつかない。

 次からは簡単に「できるわけがない」と思うのはよした方がよさそうだと考える。どうでしょう?
 俺は政治のことは何も知らないし、壁が本当にできる可能性も知らない。ただ、壁の完成がかつてそれを妄想だとあざ笑った世界中に刻み込むものの意義を考えると、壁ができたらうれしい人は意外と多そうだ。

 思えばこの人が大統領になったときも、俺はこんな記事を書いていたのだった。

アメリカ大統領選でフツーにアホのように驚いただけのことについて - 惨状と説教

 人物評はさておいて、色々と勉強になる方だと思う。以上、よろしくお願いいたします。

 

嫌な情報について

はじめに

 自分にとって何が嫌な情報かというと、人を傷つけるものより無駄なものより、読み手のことを明らかにナメているものが嫌いである。
 ただ、読み手のことを明らかにナメている情報のたいていは人を傷つけるか無駄かのどちらか、もしくは両方なので、そういう情報も結局嫌いだったりする。
 以前、週刊SPA!をめぐる小田嶋隆の記事に我が意を得て以来、こういう性格はさらに強くなったようだ(加害者に「親密」な人たち (5ページ目):日経ビジネス電子版)。

 

嫌な情報について

早大スーパーフリー事件の「和田サン」独占手記 懲役14年を経て昨年出所 | デイリー新潮

 なんでこういう記事がでかでかとしたフォントで電車の中吊りに登場するのかわからない…というのは嘘で、実はよくわかる。
 要は読み手をナメているからだ。
 卑劣な重罪人がどんな謝罪を述べるのか、それがどれだけ空疎で耳を傾けるに値しないものか卑しい好奇心で確かめたい、そして、その懺悔を一笑に付して、「許されるわけがないだろう」と高みから言い捨てて足蹴にしたい。
 出版社は、この見出しが読み手に呼び起こす欲望をだいたいそんなところだと想像しながら、「どうだ、読みたいだろう?」と思いつつ実際にこのフレーズを世に送り出したのだ。はっきりとわかる。
 はっきりわかるよ。ゴミ野郎。

 

 話をややこしくして恐縮だが、俺は、情報というのはどこかでわずかに受け手をナメていないと発信できないものだとも思っている。自分の中に尊大な部分が皆無のまま、思っていることや知っていることをかたちにするなんて不遜なことができるわけがないからだ。
 また、情報というのはどこかの点で暴力的だとも思う。内容に関わらず。どんな方法で伝わろうとも。

 情報が伝わる過程にあるのは一種の支配関係と言っていい。なにしろ情報というのは持っている側から持っていない側へと、心の隙間に一方的に流れ込むものかたちで押し付けられるものであり、場合によってはその結果、受け手の世の中の見方さえ変質させるものだからだ(それこそ上記の小田嶋隆の文章が俺の人格の一部をブーストしたように)。
 だからこそ、発信する側の傲慢さはできる限り縮められるべきものでもある。そして何より礼節として、陰に隠されるべきものだと思うんだ。

 

 この記事が世に出ることで、出版社以外で誰が得をするんだろう。
 読み手は自分の知らないうちに欲望を利用されて、大げさに言えば知らないうちに自らを卑しめている。

 手記を書いた加害者本人について考えてみれば、罪の意識の表明とはこういうことじゃないはずだ。
 俺は、加害者が許しを乞うこと自体を批判しているのじゃない。こういう意見が誰かを傷つけうることを承知で言うと、許して欲しいと願う権利はどんな犯罪にもあると思っている。
 自分自身や親しい誰かの心や身体が酷く損なわれればとてもそんなことは言えなくなるだろう。しかし、逆に言えば近しい誰かが大きな傷を負うまで、俺は加害者が許しを乞う権利を認める。俺の信条だ。
 それでもこの方法が適切だとは思えない。何かしらの汚い打算などなしで記された手記という可能性だってあるから、この文章を記した背景を悪意を持って勘ぐらないけれど、これが謝罪の目的にかなうとは思えない。
 被害者、あるいはその周囲の人への影響についても、絶対に状況を好転させるものではないだろう。

 

 手記を記した加害者よりも、それを世に出した出版社の方に、上記の理由でムカついている。

 相手を思いのままにできると思いこんでいるクズが、「これからお前のことを好きなだけ殴るよ。でもお前はそういうのが好きなんだから別にいいよな」と臆面もなく言いながらにやにやしている。
 あるいは自分をイケてると勘違いしたバカが下半身を膨らませながら聞くに耐えない言葉を猫なで声でほざいている。
 俺はこの記事のことをそういうイメージでとらえているし、ふざけるな馬鹿野郎と思っているから、二度とこの雑誌を読むことはないので、以上、よろしくお願いします(文春も似たようなものだけど、こっちは『日々我人間』が載っているのだなあ…)。

外道とあなたは言うけれど。『外道クライマー』の感想について

はじめに

 ロックでもアートでもなんでもいいが、「反体制的」な成り立ち、あるいは要素を持つものにはものすごく重大な弱点がある。

 それはこれらが、自分たちが反発している体制なくしては存在することさえできないということだ。

 反体制芸術は、体制が間違っていると糾弾することではじめて意味が認められる。

 そういう意味で、これらがどれだけカッコよく、どれだけ意義があろうとも、反体制芸術とは自分たちを抑圧し、縛りつけるものによってはじめて価値を持つような仕組みに、絶対的に逃れようもなくできあがっている。それは、いつか体制が正しく修正されたときには必然的に解体される運命にあるということでもある。

 もちろん、間違ったかたちでまかり通ってしまっている常識や強い圧力に対して死に物狂いで発信されるメッセージでしか表せないもの、変えられないものがあることは知っている。その価値自体を否定することはできない。

 あるいは、社会を変えて役目を終えたら消えてなくなる、それならそれでいいんだ、という達観をもってやっている人たちもいるだろう。

 でも俺は、上で挙げた反体制的なものが根本的に抱えている弱点を、これらを称揚する人たちは忘れてはいけないんじゃないかな、と思う。

 というかね、ちょっと言い方を変えるよ。

 「圧力に屈しない」「時代の流れに異議を唱える」…もちろん大事なことだけど、なんかしゃらくせえな、と思うんだよな。

 それこそ、「みんなと仲良くしましょう」「悪いことをするのはやめましょう」、そういう反体制とは真逆のメッセージと同じように、真逆のはずなのにまったく同じように、なんかすげえしゃらくせえんだよな。同じように空疎なんだよ。

 批判する、暴き出すカッコよさじゃなくて、何よりも楽しいから、美しいからそうするんだ、って、芸術はまず何よりも最初にそういう点で評価されたっていいはずだろう?

 

モラリストの俺が『外道クライマー』に共感するということ

 モラリストというのか小心者というのか、基本的に俺は世の中のルールを守る。

 昨今話題の駅のエスカレーターは歩いて降りないようにしている。深夜の横断歩道で車がくる気配が全くなくても赤信号で待ったりする。

 そういう人間なので、ルールを守らない人間のことは白い目で見ることが多く、電車内の携帯通話、路上喫煙禁止の地区での歩きタバコ…、ルールなんてどうでもいいと思っているのか、ルールを破っていることをあえて声高に主張したいのか、なんにせよウットウシイな、と思いながら横目で見ている。

 

 で、『外道クライマー』である。

 筆者の宮城公博さんは法律違反上等の人である。

 例えば、景勝地として名高い法律的に侵入NGの滝。「登りたいから」つってどんどん登っちゃう。

 外国の未開地に現地の許可とかとらないでぐんぐん入っちゃう。

 本来俺の判断基準でいえば顔をしかめて無視したくなっておかしくない人であって、その法規違反の行動録なんて…となるはずが、これが面白かった。すごくよかった。

 本の題材への興味と、それを描き出す文章力に打たれたというのはある。

 渓谷、沢の中の淀みと流れ、藪を漕いでいくという、一般的には冬山の登山より格が劣るとされ、あまり認知もされていない3Kそのものの世界。葉っぱで切られて流血し虫に刺され雨にやられながら焚き火をたく様子の臨場感(文章、本当に上手いのだ)。

 素晴らしかった。ただ、そういう要素だけで俺の「常識人フィルター」をくぐり抜けて、この本いいな、とはならないと思うのだ。

 俺は、宮城公博さんが結局、やりたいからやってる感がストレートだと思ったから、美しいものをとにかく見たいと思っていたから、その探検を楽しんで追うことができたんだと思う。

 「体制? 正義? クソ喰らえだな」という思想を文中から感じることはある。本のタイトルにも外道とついてるし。

 ただ、違反しているからこそ燃えました、という感じかというと、そうでもないんだよな。

 ルール違反は、「後から来る」。それより何より、未知の領域に苦しいほど恋い焦がれる感情、水路の奥の怪物じみた滝や高さ1000mを超える断崖の狭間を流れる深い沢に寄せる真っ直ぐな気持ちがわかったから、読んでいてまったく不快感はなかった。

 違反があっても、この冒険は素晴らしいと思う。ルールを犯したことに対するペナルティはあって当然…というか、むしろ常識の側からの罰が適用されないといけないが、でも俺はこの物語が読めてよかったなあと感じる。

 

おわりに

 あなたのやってることの反体制性は認めない。でも、美しいものが見たくてそこに行きたい、というその動機には心を打たれた…。

 そういう評価は、社会のルールに違反してるからクソ、と単に切って捨てるより、宮城公博さんには気に入らないのかもしれないな、と思う。

 でも俺は、良識に反した行動をその側面から過剰に評価することも、同じくらいこの人の冒険を損なうものだと思うんだよ。仮にこの人自身がそう見られることを望んでいてさえ。

 そういう意味でこの本の解説は正直クソだと思う。冒険を良識の観点から良しとすることがつまらないのと同じくらい、反社会性という面からほめるのもくだらない見方だと感じる。

 それは一番最初に書いたようなことが理由であって、俺は、「ルールなんてクソ喰らえ」と「ルールを守ろう」とは反対だけど同じくらいクソで、退屈で、ある意味結局同じものだと思っているから。

 反社会的だろうとそうでなかろうと、『外道クライマー』は面白く、そこにルールという存在が絡もうがそうでなかろうが、この人が冒険の果てに見たこの人だけのものはきっと美しかっただろう。

 良い本です。そしてルールを守る・破るという行為についても整理するきっかけになったので、ここにまとめておく。以上、よろしくお願いいたします。

 

外道クライマー

外道クライマー

 

 

豚コレラと日記について

www.asahi.com

 きわめて極私的なうえに混乱した話。

 

 豚コレラの被害が広がっていて、感染した豚の殺処分が始まったらしい。

 一般的な反応はわからないが、俺の場合報道に触れながら胃が絞られるように苦しい。農家を営んでいるわけでも食品を仕事で扱っているわけでもなく、ただやるせない。

 いま見たNHKのニュースでは豚舎のケージで飼育されている豚の映像が出てきて、こういう生き物が殺されているんだ、口に入るわけでもないのに、とか思って、ぐううとかおかしな息が口から漏れる。

 

 どんな立場からこのたくさんの死を悲しみ、どうなって欲しいと思っているのか、自分でもわからない。言葉にならない。

 まったくベジタリアンではない。なんなら先週も一人で焼き肉食いに行って、豚レバーとハツ食べて美味いとか思っていたのだ。動物を糧にすることそのものを悼んでいるのではないのだ。

 じゃあ豚に対して、口にすることもせずいたずらに死なせたことを悲しんでいるのだろうか。

 しかし、豚からしてみれば、病気で命を落とそうと殺処分されようと人に食われて死のうと、望まない死には違いないのだ。

 俺のこの感情が食べられなくてごめんなさいなのだとしたら、殺される側からしたらトンチンカンな話だろう。食べられなくてごめんなさいも、美味しくいただきましたありがとうも、豚からしたらなにが違うのだろうか、と考えるとわからない。

 

 なにに悲しんでいるのか、それがまったく見当はずれで、一種の病気としていずれ治すべきナイーブさなのか、それとも何かしらの意味があるのかわからないまま、報道を見ながら唸っている(オチなし)。

明石市長の暴言をめぐる意見について思うことと「火をつけてこい」と口にした時点でアウトだということについて

はじめに

 また俺の中の逆張りクソ野郎が暴れ出してしまった。

 

 先日、明石市市長が道路の拡幅工事をめぐって担当者を叱責した際、「火をつけて捕まってこい」と口に出して発言していたことが報道された。

 この暴言に対し、はじめは批判の方が大きかった(と思う)。

 しかしその後、市長の発言の全文が広まるにつれて、立ち退きに応じない相手には自分も一緒に土下座に行ってもいいという本人の言葉や、現場周辺での事故を危惧していることなどが周知され、徐々に擁護する意見が出始めた。

 

 擁護する意見としては、あくまで俺が見聞した範囲で、次のようなものがある。

 

 ・「火をつけて捕まってこい」という暴言は許されないものだが、市政の長としてのそれまでの功績は、それとは区別して評価される必要がある

 ・「火をつけて捕まってこい」という言葉は悪いが、市民を思う市長の真意をくむ必要がある

 ・「火をつけて捕まってこい」という暴言は悪いが、言葉のかたちとは別に、叱責される担当者にも問題があるし、市長の熱意自体は評価する

 

 いずれの意見にしても、「火をつけて捕まってこい」とする市長の発言はまずい、と前置きはしつつ、そういう言葉が発された状況も含めて、この件は「総合的に」判断するべきである、としている。

 こうした意見がどの程度大勢なのかはわからない。なんにせよこの意見からうかがえるのは「火をつけて捕まってこい」と口に出した後でも、場合によっては市長に引き続き市政の舵取りをお願いしてもいい、という考えであると思う。

 

 「火をつけて捕まってこい」と口に出しても、その先を続けて良いらしい。

 

 そうなんですか。

 

 そうなんですか?

 

「火をつけて捕まってこい」と言葉にした時点ですべてアウトであると思うこと

 市長の発言の全文が周知されたことは良かったと思う。部分部分だけが切り取られるのはフェアでないからだ。

 逆に言えば、俺はそこには公平性がちゃんと実現された以外の意義はないと思っている。

 「火をつけて捕まってこい」と言った時点でアウトだ。その先はない。その後に市長が何を言おうが、それまでに市長が何を成し遂げていようが、関係ない。アウトだ。くどいようだが、市長職としてのその先が続いてはならないと思う。

 

 なぜ俺がここまで口に出されたこの言葉にこだわるかは後で書くとして、俺が不思議に思うのは、果たして市長を擁護している人たちは、彼の言葉が最初からこの全文のかたちで世間に広まっていたら、今のように市長の立場に理解を示しただろうか、ということだ。

 はじめから「火をつけてこい」「家を売れ」「辞表を書け」という言葉と「あそこでまた人が亡くなったら」「自分が土下座してもいい」という言葉がはじめから明確に併記されていたら、いまの実際の気持ちと同じくらい強く、市長を擁護していたのだろうか。

 あるいは反対に、最初は事故を危惧する言葉が口にされていたのが、実はその後に「火をつけて捕まってこい」という言葉が続いていることがわかった、という場合だったらどうだろうか。

 これは屁理屈?

 でも俺は、人間の意見や考えというのは、話を持って行く順番が違ったせいで同じことを言っているはずなのに有利になったり不利になったりするものだからこそ、むしろ入れ替わった場合を仮定することで冷静に評価されないとならないものだと思う。

 

 上で挙げた、市長を擁護する意見に対して。

 まず、今回の暴言とこれまでの功績は区別されなくてはならない、という意見には同意する。市長が「火をつけてこい」と言おうと、あるいはもっとひどいことを言おうと、それは市長がこれまでに成し遂げたことをみじんも損なわない。

 しかし、あるいはだからこそ、市長が市政に貢献した成果も、今回の暴言をかばうことはできない。暴言が成果を損なわないように、成果も暴言の結果を償えない。

 

 市長の言葉は悪かったが、その真意を汲む必要がある、あるいは言葉は許されないが熱意を認めるという意見には、もっと強く反論したい。

 それは、なぜ俺が口から出た言葉、暴言があったという事実にここまでこだわるかという理由にかかっている。

 俺たちが、目の前の人間がどんな人間で、何を考えているかを知ろうとするとき、彼/彼女が実際に口を動かして発した言葉それ自体を軽んじては絶対にいけない、なによりもそれに重きを置かなくてはならない、俺はそう信じている。

 もちろん、生活していく中で言葉が必要以上に過ぎることはある。しかし仮に、本来なら発されてはならない言葉が口に出されるたびに、功績のある人間、熱意のある人間というのは、その真意を汲んでもらえる資格があるものなのか? その本当の意図が検討されるべきなのか?

 じゃあ、なんの功績もない人間の本当の気持ちは? いや、というか、熱意・人情・思いやり、それらが言葉の裏に本当にあることを、誰が客観的に証明できる?

 気持ちとか真意とか、俺は二の次だと思うのだ。

 人が本当に何を考えているかなんて、まず言葉でしか伝えられないはずだ。そして言葉を発する側からしても、それが相手にどのように受け取られるかなんて究極的にはわからないはずだ。

 だからこそ俺たちは、自分の考えをどんなかたちで言葉にするか日々真剣に考えて、ポジティブな場合なら少しでも自分の真心と同じかたちにしようと努力するし、ネガティブなケースなら下手なことを言って揚げ足をとられないように慎重になるんじゃないのか。

 まず何よりもかたちになって発せられたもの、そこに注意しないで、相手の真意がどうとかと言葉以外のところに重きを置いて、言葉だけとれば犯罪教唆そのものの内容を口にした権力者にもその先が与えられるなら…

 なんというか、それこそ上手く言葉にならないが、俺もみんなも自分たちの子供に、それでいいと本当に言えるのか? 「火をつけてこい」という人間が市政の長として人の上に立っていていいと。功績と、真意さえあればその先が認められるのがこの社会だと。

 

おわりに。無能な社会人の一人として

 市長を擁護する意見の中に、暴言の事実を込みで考えてもこの人が適任だからよい、というものがある。

 確かに、市をもっと良くする人材が他にいないなら、そういう選択にならざるを得ないのかもしれない。

 でも、暴言をはかないし同じくらい市を良くできる人材を見つける、という選択肢だってあっていいはずだ。「しかたがない」という現実主義は、「もっといいものがいたっていい」という理想主義と併存してはじめて説得力を持つんじゃないか? 俺は明石市のことを良く知らないから、そこまで強く言えないけれど…

 

 俺に怒りは結局、目的を達するために他に言いようがいくらでもある中で、最悪の犯罪教唆そのものである暴言が、なぜか、その後に続いた言葉やこれまでの功績、真意といった要素で曖昧になっていくことへの戸惑いなのだと思う。

 俺は市政の内情も知らないし、世間そのものについて無知だ。これは別に、だからこれまでの大言を多めに見てね、というつもりで言っているのではなくて、無垢な目線で見ているという自負でもあるつもりだ。

 なんで、「火をつけてこい」なんて人を擁護してるんだよ? 本当にわからないのだ。本当に。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

 

 最後に。それでも、自分の発言をすべて事実だと認めた市長の態度を、掛け値なしに尊敬する。俺はこの人をごく個人的に絶対に許さないが、これだけは、ならわないといけないと思った。

 

 

 

 

そこの君、ヤンジャンをコンビニの棚に戻したら『バトゥーキ』を買おうぜ、ということについて

はじめに

 基本的に題名の通りなんですが、そのままだとあんまりなので俺がこのマンガについてものすごく手のひらをかえしたところから話を始めます。

 

 例えばですね、タイムマシンを使って昨日の俺を今日に連れてきて今日の俺と二人で並んで立ったとしますよね。

 同じ人間の昨日と今日なのでほとんど一緒であって、なんならそのまま生活を取り替えることもできるのですが、ある部分だけ大きく違うところがあります。

 昨日の俺は、あるマンガのことを、ものすごく面白い別の作品を以前描いていた人があるとき錯乱して描き始めた得体の知れない上に読みづらい…というか、ありていに言ってつまらないマンガだと思っています。

 一方今日の俺は、同じマンガのことを前作とは少し毛色が違うけど、人をものすごく集中させる力のある傑作だと思っています。ちなみにこの俺は手のひらを急激に返したせいで手首が折れ曲がっています。

 このマンガこそが『バトゥーキ』です。

 

『バトゥーキ』は腰を据えて、できれば単行本で読まないと良さがわかりにくい

 言い訳なんですが、俺が『バトゥーキ』を当初ものすごく低く評価してしまったのはたぶん理由があります。

 大変恥ずかしながら、俺が最初に『バトゥーキ』を読んだのはコンビニでの立ち読みでした。そして一読して、なんて読みづらい上に子供の頭身と肩幅がおかしいマンガなのかと思いました。

 その後もヤンジャンの誌上で見る『バトゥーキ』はいつも読みづらく、子供の頭身と肩幅がおかしかった。

 それがなんで単行本を一日のうちに既刊2冊買ってそろえることになったのか。それは、一昨日漫喫で気まぐれに1巻の冒頭を手にとって再読してみたからで、ちゃんと集中して読んでみると、作品の印象がまったく異なっていることに気がついたわけです。

 腰を据えて読んでみると、『バトゥーキ』が多くの要素から構成された複雑な作品であることがわかります。多彩な視覚表現からナレーション、複雑なコマ割など。

 突拍子もないビジュアルとか第三者の目線で挿入される印象的なフレーズはおかざき真理の『阿・吽』に似ている気がしますが、もっと混沌としている。 

 じっくり向き合うことで、ようやくそれらを読み手の方で再構成することができ、やがて大きなうねりに乗っかって翻弄されるような陶酔感、集中があるんですけど、走り読みだと大まかな筋書きしか追えないので、それが「読みづれえ」となった理由だと思います。そういうことにしたい。

 なお、子供の頭身と肩幅だけはいまだにおかしいと思っています。

 

どれだけ強く、

 そんなんをふまえて、『バトゥーキ』の感想をもう少しくわしく書きます。

 ものすごく単純に言うと、『バトゥーキ』は格闘技のカポエイラをテーマに三條一里という少女の試練と成長を描く物語です。

 このカポエイラですが、蹴り技を主体にダンスとみまごう派手な動きで魅せる、最強格闘技議論におけるロマン枠の一つじゃないかと個人的には思っています。

 実際のところ、スタミナの消耗も激しそうだし、寝かされたら終わりのイメージがあるし、何より世の中の「何でもあり」ルールに出身者がほとんどいないことで、結局あんまり強くない可能性が高いですけど、一笑にふすのも抵抗を感じる存在感があります。

 カポエイラ、才能のある人がマジでやったらどこまで強いのか。『バトゥーキ』に期待していることの一つにそれがあります。

 今のところまだ町のチンピラを蹴り飛ばすのが主な使い道…と思いきや、おそらくかなりの使い手である打撃系ともマッチアップしていて、今後、ちゃんと理論立てた説明込みで、いわゆる最強議論に一石を投じて欲しいな、と思います。

 

どれだけ楽しく、

 もうひとつ、『バトゥーキ』で描かれるカポエイラはとても楽しそうです。

 音楽や舞踏とわかちがたく結ばれているということで、格闘技であると同時に表現手段、さらにはコミュニケーションの方法としても描かれていて、それが他のマンガにおける格闘技描写とは少し違うところです。

 子供同士の遊びとして紹介される場面も楽しそうだし、2巻まで読んで実は俺が一番印象に残ったのも、迫力の格闘戦ではなく、カポエイラの達人による「田植え」で花が咲く描写や、目の前の相手を理解し自分を伝える手段としての部分を強調して描かれたところでした。

 

そして、どれだけ自由であるか。

 読み進めるとわかるとおり、主人公・一里は実はものすごくハードな生い立ちを背負っています。この少女の生き様をカポエイラを通じて追っていく中で大きなキーワードとなるのが、強さ・楽しさを包含した上で描かれる「自由さ」であると思います。

 カポエイラはアフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちが移住先のブラジルで権力に包囲されながら培った技術であるらしく、そのルーツ自体が自由という概念と深くつながっています。

 そのカポエイラが、一里をどのようにして解き放つか。

 物語の序盤、友達づきあいも娯楽も制限され、門限まで決められた不自由な一里は、2巻の終わりである意味自由を手に入れます。ただ、当然それは目指すものではないし、代わりに強大な呪縛も背負うことになります。

 頑張れいっち。ここまで面白いマンガに気づかなくってごめんな、と手の平返しで折れた手首をぶら下げながらエールを送るので、以上、よろしくお願いします(でも頭身と肩幅はマジで直した方がいいと思う)。

 

 

 

バトゥーキ 2 (ヤングジャンプコミックス)

バトゥーキ 2 (ヤングジャンプコミックス)