バカですみません、『へうげもの』23巻の感想について

 (はじめに。非常に不遜な記事です。『へうげもの』ファンの方は、どうかご勘弁願います…)

 

 「最近の『へうげもの』、まあ面白いんだけどさ…」

 「登場人物が前より増えすぎたというか…」

 「誰に注目していいかわからないというか…」

 「なんつーか、昔はもっと単純だったよね?」

 

 そうお思いのそこの貴方、というか俺。

 お待たせしました。織田信長千利休、そして豊臣秀吉時代の寵児の生き様と死に様を描き続けた後、しばらく群雄割拠の感のあった『へうげもの』、23巻で再び話の焦点がごついほど明確になり、そしていよいよ最終章に向かって動き始めた気配があります。

 

 日本史の素養にきわめて乏しい俺の理解だけど、大阪冬の陣を終えて、現在の登場人物たちの思惑はこんな感じ。

 

 古田織部…主人公。数寄の世を存続させるため、徳川と豊臣に仲良くして欲しい。そのために公家とか薩摩の鬼島津とかとなんかごにょごにょ工作をしている。

 徳川家康…豊臣とか鬱陶しいんでとっととまつりごとの表舞台から消えて欲しい。そのためには戦も辞さない。あと侘び数寄とか言ってる他の連中もなんか頭良いぶっててうぜーから全員いなくなりゃいいのに、と思っている。

 他の人…織部と同じで、なんとか徳川と豊臣仲良くさせらんねーかなー、とか、徳川調子こきすぎ、ムカつくからぶっ飛ばしてえ、とか、なんか色々。

 

 なんて浅い認識なんだ、と思われる方もいるだろう。確かに俺のバカなオツムではこのぐらいのフレームでお話を理解するのが限界だった。

 ただ言い訳させてもらうと、俺のこの足りない頭でも余裕でめちゃくちゃ興奮できた昔の『へうげもの』の方が、俺は好きだった。

 以前は、お話の中でどこに注目すればいいのか、バカでもわかりやすかった。要は、千利休が大輪の朝顔の首を全て落として、ただ一輪だけを茶室に飾ったという逸話のように、見るべき「華」がはっきりしていたのだ。つまり、信長や利休、秀吉といった、人という華が。

 で、『へうげもの』はいま再び、前の単純な構造に戻ってきていると思う。別に山田芳裕さんが頭悪い人用に方向を変えてくれたわけではなくて、準備が終わった、ということなんじゃないかと考える。

 

 きっかけは、徳川ムカつくからやっちゃおうぜ、という反幕府側の狙いが家康にバレて豊臣との融和の道が決定的にポシャり、いざ戦を実行に移さんとする家康が、たまたま死んだ明智光秀の遺物をあらためたときに起こる。

 この作品で家康と光秀とは精神的に深い交流を持っており、家康が政治を行うモチベーションは、光秀のような偉人が目指し果たせなかった太平の世の実現を、自身が代わりに達成する、ということにあって、家康が故・光秀の遺物に触れることになったのもそういう理由による。

 しかし、自らのこころの中で特大の精神的支柱として据えていた光秀の遺品の中に家康が見つけたのは、侘び数寄とかわけのわかんないことをほざいているあの古田織部を光秀が深く評価していたことを示す、「あるもの」だった。

 家康からすれば織部は、いずれは消えてもらいたいものの茶道の頂点として各武将に大きな影響力を持つためおいそれとはイケズにできない相手、という感じだったと思うが…ここで明確に、家康は織部を敵と認識して、織部を滅ぼそうとする。

 

 これで、織部と家康との間にくっきりと対立構造が生まれた。

 主人公の相手が家康であり、その家康の方から織部を宿敵と認識したということが、ジャンプ漫画のようにアツい。

 身分の貴賎ではなく生き方が美しいかどうか、価値を維持するのではなく新たに塗り替えられるかどうかを重んじるという点で、美術が反権力的な要素と切り離せないとすれば、ときの最高権力者である家康から「敵」と断ぜられるほど、ある意味数寄者として名誉なことはないと思う。

 正直、茶道の頂点まで登りつめて以降政治のフィクサーとして暗躍する織部には俺はそんなに魅力を感じなくて、やっぱり縄文時代を模した穴ぐらの中で茶たててたら利休に一刀両断されて白目になったりして試行錯誤七転八倒してる頃の織部が一番好きだった。

 ついに見えてきた、「死」という誰もが初心者として向き合わざるを得ない舞台を前に、織部はどうするんだろう。あの愉快な昔の織部に戻るのか。老練ないまの自分としての味を見せるのか。本当に残酷だけど、あらためて強く「見たい」と思わさせられている。以上。

 

 24巻の感想はこちら。 

sanjou.hatenablog.jp