あわいについて

※ 虫をわかせた話が出てくるので、苦手な方(得意な人がいるのか?)はお止めください。

 

 蝉の声と鈴虫の声が両方とも聴こえる。

 8月末から9月のはじめ、朝起きると夏と秋の二つの虫の音が混じっていて、季節が変わっていくのだな、と思う。二つのものが重なっていて、いま、その「あわい」にいるのだな、と感じる。

 この前までは蝉だけが鳴いていた。やがて、鈴虫だけが鳴くようになるだろう、というこれまでの記憶と見通しがあるので、いまは中間にいるのだな、と感じる。

 ただ、夏や秋という言葉というか、頭の中のある種の「箱」が持つ力も影響している気がする。夏という箱と秋という箱があって、そういうイメージがあるから、その二つの中間にいるのだ、というのがわかりやすくなる。

 そう考えると、あわいとか侘び寂び(わびさび)、詩情とか、うまく言葉にならない概念だと思われがちだけど、その出どころにはやっぱり言葉があるんだろう。言葉の箱を並べたときの隙間にまで名前を付けた結果、生まれたものなんだろうな、最初は言葉ありきだな、と思う。

 

 飲用のプロテインをひっくり返して冷蔵庫の下をびしゃびしゃにし、拭き掃除を嫌々やったのが三週間ほど前。それから日が経って、「どうも最近、家に蠅が多いな?」と感じるようになった。

 不在にしている間はもちろん、夜に帰ってきてからも窓は基本的に閉じているので、外から入っているとは考えにくい。なんだか嫌な予感はしたが、原因がいまいちわからない日々が続く。

 考えてみれば、日中に窓を閉め切っているために部屋は連日高温多湿となっているのだった。全てのものが容赦なく、まっしぐらに腐っていく。いわんや、こぼした乳製品をや。

 

 プロテインをこぼした冷蔵庫の下を、先日になって目に留めたのはたまたま。本当に偶然。

 うぐう。意識が固まる。

 参ったぜ。

 

 俺は割りと虫が好きだ。蝉も好きだし、鈴虫も好き。しかし、蠅は嫌っている。

 厳密に言うと、ブログのタイトルに『蠅と鬼と人』とつけたぐらいなので、蠅という生き物に対して、相反する複雑な感情を持っている。ただ、好きと嫌いの箱が二つあったら、迷いなく嫌いの箱に入れるだろう。

 問題はここからで、蝉や鈴虫に対する感情に「好き」という名前をつけて、「好き」の箱に入れた。蠅は反対に、「嫌い」の箱に入れた。そうすると、箱が二つ並んで、そこにあわいが生まれてしまうのだ。

 好きの箱と嫌いの箱の隙間ができてしまって、さて、この隙間には何があるのかしらん、と思う。

 

 普通はみんな、こんなことを考えずに暮らしているだろう。俺だって、普段は考えない。「ああ、いまは夏と秋のあわいなんだな」とふと思ったことがきっかけで、それが伝播して、今度は蝉と蠅のあわいを考えている。

 言葉というのは物事を整理するためにあるはずなのに、使い方を誤ると、かえって世の中の垣根を乱してしまう。

 いや、ときには乱した方がいいのか?

 蝉の箱と蠅の箱は、好きの箱と嫌いの箱であり、清潔(でもないか)の箱と不潔の箱でもあるが、はて、その隙間にあるものは、と考えたときの不確かさが、俺は嫌いではないのだな。

 

 俺たちは言葉をたくさんつくって、それはこの世界を整理するためにたくさんつくったのだ。

 ただ、箱が二つ並ぶとあわいが一つ生まれるように、この世にどれだけの言葉があるのか知らないが、「すべての言葉の数引く1」の数のあわいも同時に生まれた…というようなものかどうかは別として、言葉が増えればそれだけ、あわいも増えてしまった。

 俺たちはそういうことを考えないようにして生きているけれども、言葉を増やした分だけの、ツケというか爆弾というか遊びというか、そういうものが世の中に潜んでいるのかもしれない。

 そして、それは何かのきっかけで俺たちのつくった区分された世の中をガタガタ揺すり、乱すのかもしれない。例えば、俺がぶち撒けたプロテインが招いてしまった災いのように。

 最後にうまいオチが付いたと思ったけど、どうですか? そうでもないか。わはは。