正しくやり直すこと、『マンソンファミリー』の感想について

はじめに

 村上春樹の『羊男のクリスマス』はおおざっぱに言うと呪いを解く話だった。

 そこで描かれているのは、間違ったことをしてかかった呪いは、同じようなことを正しい方法でやり直さないと解けない、ということだ。

 これはあらためて考えてみると、かなり怖いことのような気がする。

 というのは、かけられた呪いは、正しい手順でやり直すことでしか、つまり、まったく別の価値観ではなく、同じ価値観に継続して縛られ、正しく=より深くそれに身を捧げることでしか解けないということなので、怖いような気がする。

 それは呪いが本当に解けていると言えるのか?

 

『マンソンファミリー』の感想について

 チャールズ・マンソンという、新興宗教の教祖であるとともに殺人犯でもある、アメリカ犯罪史におけるある種のカリスマがいる。

 『マンソンファミリー』は、このチャールズ・マンソンが結成した疑似的な「家族」に参加していた一人の女性に取材し、その体験と半生を書き起こしたものだ。

 

 読んでいくとわかることは、彼女が犯罪者の「家族」となった原因が、どう考えても、本来の血のつながった肉親との関係を上手く構成できなかったことにあるということだ。

 本の冒頭から、父方の祖父から受けた性的虐待や、保護者としての責任感を欠いた両親に関するエピソードが長いこと続く。

 正直、読み始める前は、自意識を持てあました若者がヒッピームーブメントの中で暴力的な宗教に取り込まれてしまったもの、という先入観を持っていたが、実際に読んでみると、生まれついた家族との関係性が破壊され、盲目的に次のファミリーに流れ着いた、としか読めないのだ。短絡的な因果関係のとらえ方かもしれないが…。

 

 冒頭で書いた呪いの理屈で言うと、彼女の場合、まず肉親によって家族に関する呪いがかかり、そこから解放されるために加わったチャールズ・マンソンの「家族」では、呪いを解くのに失敗してしまった、ということになる。

 その後、マンソンの逮捕、自身の入院と里親の援助によって再出発した彼女は、いまは自らの手で新しい家族を育み、幸せに暮らしている。

 おそらく、これでようやく呪いは解けたのだろう。

 そこには新たな家族の存在があったわけで、「それって呪いは本当に解けたのか?」とやっぱり恐ろしいと感じてしまうんだけど、大体みんな、そんなものなのかもしれない。

 そんなものというのは、要するにみんな、家族なら家族、そうでないなら性や思想にまつわることで何かしらの呪いがかかっていて、それを解くための正しい方法を、延々と似たものの中で探しているだけなのかもしれない。

 みんながみんな同じような不幸を背負っていることを集合した巨大な不幸せ、とする見方もあれば、全員同じなら差もないしフラットだろ、という見方もあって、今のところ俺は後者である。

 

 余談。

 作中で紹介されるチャールズ・マンソンは段々と本性をあらわすというよりは割りと最初からヤバい人物だが、マンソンのファミリーたちはその危険性を自らの中で補正してしまい、「彼はノーマル(でありつつ、良い意味でスペシャル)」という認識から抜け出すことができない。

 これは、マンソンの化けの皮が剥がれて、単なる暴力的な狂人であることが露呈するほぼ終盤になってようやく終わるのだが(メンバーによっては終わらない)、これもまあ、そういうものなんだろうというか、逆に言えばマンソンが追い詰められて破綻しなければ彼の実像はファミリーにもマンソン自身にも誰にもわからず、というか、窮地で追い詰められて明らかになるものだけが実像なら、ほとんどの人間に実像なんてないんじゃねーか?という気もして、これはこれでちょっと怖い話であると思った。