はじめに
正しく生きることと、哲学と倫理の違いについて重要な巻だと思ったので書いておく。
内容としては、生徒個人に関するエピソードが三つと、今の学年の総括となる「なぜ人を殺してはいけないのか」のディスカッション、最後に高柳が学生だった頃の思い出となっている。
それぞれの話の詳細は書かないが、気づいたことをいくつか。
学生の頃の高柳は、いまと違ってかなり感情表現が豊かだったみたいだ(いまでも混乱してあわてることはあるけど)。
その分、恩師からも指摘されているが、危うい部分というか欠点というか、どこか病んでいるように見えるところが、いまよりもまだ、あらわであるように見える。
現在もぱっと見ヤバそうなキャラクターではある。ただ、これも高柳なりに身につけた処世術で、こうしたわかりやすい外見を繕っていて、彼が実際に隠しておきたいのは他のところにあるのかもしれない。
もう一つ。小ネタだが、教師陣の名前は全部植物が入ってるらしい(既出?)。
最後。7巻に出てくる生徒である南條という女子が抱えている問題について。
彼女が何に悩み苦しんでいるか、作中では明確になっておらず、作者の雨瀬さんのブログによると、あえてボカしたものらしい。個人的には、おそらく妊娠、出産か堕胎かということだと思う。
謎解きが要点ではないが、その後の「なぜ人を殺してはいけないのか」という議論はそれをふまえて読むのもありだと思うので、俺個人はこう読んだという意味で書いておく。
本題
以降、『ここは今から倫理です』の話はほぼ出てこない。
俺がいまだにあまり納得のいっていない世間の決まりに、エスカレーターの左側を歩いて通る人のために空けましょう、というものがある(地方によって左右が逆らしいですね)。
なんで納得いかないかというと、単純に、JRというサービスの大元が「歩くな」と言っているからだ。もしかすると、他の鉄道会社や商業施設では明言していないのかもしれないが、エスカレーターそのものが歩いて利用することを想定していないらしいので、一般的にやはりダメなのだと思う。
そういう俺は片側を空け、急いでいるときは歩いてしまったりするので都合がいいったらないが、「おかしなこと・やってはいけないこと」をやってるな、という自責の念はある。
ところが、最近になって少し心境の変化があった。本当に正しいのは、「空けない・空ける」どっちなのかな、と思うようになった。
なぜか。
仮に、俺が朝の通勤ラッシュ時間に、「歩く側」に立って止まっていたとする。
おそらく、猛烈な反発を喰うだろう。確かにルール上はそこに立っていても問題ないのだけど、馬鹿正直にそれを守っている融通の利かない奴、と思われるならまだいい方で、「先に進みたい自分の進路を不当に妨害されている」とか、「そもそも、こいつがなぜここに立っているのかわからない(『本来のルール』に思いいたらない)」と感じる人も出てきそうだ。
結果として、その付近にいくらかの混乱を生んだり、もしかすると暴力沙汰になるかもしれない。
「本来のルール」を守れない人間がイラつこうが予定の時間に遅れようが関係ないかもしれないが、それだけで済まず、秩序が乱れ、場合によってはぶん殴られて怪我や障害を負って家族に負担をかけるのは、本当に完全に「正しい」のだろうか? これが、段々わからない。
強調しておくと「だから、体の不自由な者や事情のある人も、自分で無理をしてもエスカレーターの一方側に身を寄せなさい」ということではない。
言いたいのは、本来なら同じ基準でその場にいるすべての者を支配するべき「正しさ」と、社会の側にそれを受け入れられない構造ができあがってしまっていて、別の「正しさ」と食い違ってしまっている、ということだ。
①「エスカレーターでは立ち止まれよ」という正しさと、②「止まってるとルールを守れない人間にからまれて嫌な思いをするよ」という合理性の対決ではない。
①と、③「自分のためではなく、家族や周囲に負担や心配をかけることをしてはいけないよ」という、正しさと正しさの対決なのだと思う(続く)。