自分というのは、思った以上にどうでもいいものなのかもしれないことについて

 何ヶ月か前に、ウクライナの難民を支援するためにUNHCRに5,000円を募金した。

 もちろん、何かの助けになりたいという気持ちがあってそうしたのだ。ただ、もっと全然別のところで、大層に俗な背景もあって、たまたまそのとき余剰で動かしていた仮想通貨で儲けが出ていたのだった。

 俺はこの手の市場にノウハウも知識もまるでなく、機械的に決めた額面に達したら売り買いをしているだけなので、この利益に費やした労力はまったくない。

 リスクという部分を抜きしたら(というのがなかなかできないのが投資、もしくは投機なんだけど)、純粋なあぶく銭ということだ。

 だから、別に5,000円くらいいいか。

 

 …とはならなかった。

 

 戦地から異国へ、生活をかけて脱出している人々には悪いが、5,000円出すか出すまいか、割と悩んだ。

 言い換えると、「あとで後悔したら嫌だなー」と思ったのだ。もちろん、こんなにはっきり言葉にしたわけではないが、とにかく悩んだ。悩んだ経緯があったからこそ、いまこの文章を書いているわけだが、とにかくそれなりに考えた結果、募金したのである。それは「善いこと」をしたかったからだ。

 

 それから数ヶ月が経った。

 俺はあの5,000円を惜しんだかというと、まったく一度も惜しいと思わなかった。

 そういうもの、と言ってしまうとそれまでだが、実行する瞬間のためらいと、その後の後悔(と、反対に善いことをしたという満足感も)はまるで比例しないのだ。

 ちなみに、状況を知っている人は知っているだろうが、2022年6月現在で仮想通貨の市場は大変冷え込んでいる。あの時点で自分のところに生まれた儲けなんて比較にならないぐらいの利益がウォレットからなくなっているのだが、それを込みで考えても、まったく後悔がない。

 妙な話だが、俺は自分がそういうことで後悔しない人間だということを、ようやく知ったのである。

 これが、どのくらいの人にとって「そういうもの」なのだろうか。少なくとも、俺の場合はそうなのだった。

 

 こうして考えると、人間というのは自分のことをまるで知らないんだな、と思う。

 何かを決意するにあたって想定する「自分」というのは、多分に、自分のようでいて誰の顔もしていないというか、そういう不特定多数みたいな表情をいつの間にか抱えているのかもしれないな、と思う。

 不特定多数というのとも、少し違うか。その場で抱いた悩みの大きさと、その後の感情が比例しない人というのは、割と多い気がするからだ。

 だから、なんというか、無意識のうちに「基本的にこういうとき、後からこういう気持ちになる可能性があるよね?」という何者かを自分としていつの間にか抱え込んでいるんだけど、本当はそういうヤツはこの世のどこにもいないんじゃないのか、ということだ。

 もちろん、将来的に俺がいまとは比較にならないほど貧しくなって(別に今も特別裕福ではない)、「あのときの5,000円が…」と考えない保証はないんだけど。

 こういうときに、ちゃんと「自分」によって判断できる人間は強いんだろうな、とも思って書いた話。書いていたら、タイトルと全然違う内容になってしまった。