世界の終わりについて

今週のお題「人生最大のピンチ」

 

 保育園児だったとき、園で縁日のようなものが開かれるので、親に小遣いを持たせてもらって一人で遊びに行った。

 その場で使った金額が思ったよりも少なかったので、残ったお金でスーパーでお菓子を買ってしまった(「しまった」というのは、我が家では、市販のお菓子の買い食いが厳禁だったからだ)。

 家に帰ってお菓子を食べていて、親にどこで買ったのか、と聞かれた。俺はとっさに、「友達の◯◯ちゃんに保育園で会って、○○ちゃんのお母さんに買ってもらった」と嘘をついた。

 これは、俺が自分の人生で覚えている最初の嘘だ。

 母親は、お礼を言うために、連絡網を使って◯◯ちゃんの家に電話をかけ始めた。俺は、自分が電話をかけているわけでもないのに、頭の中に呼び出し音が鳴っているのが聴こえるようで、この世の終わりだと思いながら電話がつながらないことだけを祈っていた。

 電話はつながった。

 

 高校生のとき、学校の帰りの通学路を一人で歩いていたら、少し前方を俺の好きな子が男子生徒と歩いているのを見た。

 俺はこの世の終わりだと思った。次の分かれ道で別の方向に行こうと考えながら、二人がこちらを振り返らないことだけを祈っていた。

 二人は振り返らなかった。

 

 大学3年のとき、大学側から「お前、何学期も成績悪すぎるから退学な。自主退学すれば中退にはしてやるから」という通知が家に届いた。

 晴天の霹靂…ではないはずで、確かに授業は出ないわ、出ても課題は出さないわで単位をもらえないことが多かったのだが、なぜか俺は驚いた。何を驚くことがあるんだ、と今は思うが、とにかく驚いた。

 俺は世界の終わりだと思いながら、通知を手に持ったまま、なぜか家の近所を歩き回った。よく晴れた日だった。

 歩きながら、親になんて言うかを考えていたのと、おそらく働かないといけないから仕事を探さねば、と思った。それから、とりあえず大学の恩師に「これまでお世話になりました」と伝えに行こうと考えた。

 会いに行くと、先生は「これはやる気のないやつをビビらせるために送ってるもので、実際、もう一学期成績が悪いと完全アウトだけど、一応首の皮一枚残ってるぞ」と言った。

 俺は感情が追いつかなかったので、そうですか、とだけ答えた(念のため書くが、他校でも同様かどうかは知らないので、こんなものが来ないように頑張るのが一番いい)。

 

 社会人になって勤め始めて、催事の数日前に発注しておかないといけない資材を前日まで放置していたとか、大事な表計算資料の関数が俺のせいで完全に狂っているまま編集が進んでいたとか、出張のためにいつまでに終わっていないといけない決裁が俺のせいで1mmも回っていないまま出張当日になってしまいました、なんなら出張行ってきちゃいましたとか、多すぎてもうよくわからない。

 

 俺はその都度に世界の終わりだと思ったが、別に、世界は終わらなかった。

 いま思うと、どうってことないよなあ、ということしかないが、そのときの絶望感を忘れないで、似たような状況にある人や過去の俺を笑わないようにしたい。

 「今の俺の世界」と「昔の俺の世界」は違う。

 「昔の俺」にとってはそこが「今の世界」で、それは実際に終わりそうだったのだ。

 誰かの世界の終わりを見て、それがどんなにささいに見えても、それを笑うことを成長や知性と呼ぶべきではないと思う。

 

 一方で、「確かにヤバそうだが、別にどうってことねえはずだ」という感覚を、今の世界に持ち込む図太さも必要な気がする。

 その方がなんとなく、生きてて楽そうだし。それに、たぶん本当に、多くのことはどうってことないのだろうから。まあ、そう思っている。