明石市長の暴言をめぐる意見について思うことと「火をつけてこい」と口にした時点でアウトだということについて

はじめに

 また俺の中の逆張りクソ野郎が暴れ出してしまった。

 

 先日、明石市市長が道路の拡幅工事をめぐって担当者を叱責した際、「火をつけて捕まってこい」と口に出して発言していたことが報道された。

 この暴言に対し、はじめは批判の方が大きかった(と思う)。

 しかしその後、市長の発言の全文が広まるにつれて、立ち退きに応じない相手には自分も一緒に土下座に行ってもいいという本人の言葉や、現場周辺での事故を危惧していることなどが周知され、徐々に擁護する意見が出始めた。

 

 擁護する意見としては、あくまで俺が見聞した範囲で、次のようなものがある。

 

 ・「火をつけて捕まってこい」という暴言は許されないものだが、市政の長としてのそれまでの功績は、それとは区別して評価される必要がある

 ・「火をつけて捕まってこい」という言葉は悪いが、市民を思う市長の真意をくむ必要がある

 ・「火をつけて捕まってこい」という暴言は悪いが、言葉のかたちとは別に、叱責される担当者にも問題があるし、市長の熱意自体は評価する

 

 いずれの意見にしても、「火をつけて捕まってこい」とする市長の発言はまずい、と前置きはしつつ、そういう言葉が発された状況も含めて、この件は「総合的に」判断するべきである、としている。

 こうした意見がどの程度大勢なのかはわからない。なんにせよこの意見からうかがえるのは「火をつけて捕まってこい」と口に出した後でも、場合によっては市長に引き続き市政の舵取りをお願いしてもいい、という考えであると思う。

 

 「火をつけて捕まってこい」と口に出しても、その先を続けて良いらしい。

 

 そうなんですか。

 

 そうなんですか?

 

「火をつけて捕まってこい」と言葉にした時点ですべてアウトであると思うこと

 市長の発言の全文が周知されたことは良かったと思う。部分部分だけが切り取られるのはフェアでないからだ。

 逆に言えば、俺はそこには公平性がちゃんと実現された以外の意義はないと思っている。

 「火をつけて捕まってこい」と言った時点でアウトだ。その先はない。その後に市長が何を言おうが、それまでに市長が何を成し遂げていようが、関係ない。アウトだ。くどいようだが、市長職としてのその先が続いてはならないと思う。

 

 なぜ俺がここまで口に出されたこの言葉にこだわるかは後で書くとして、俺が不思議に思うのは、果たして市長を擁護している人たちは、彼の言葉が最初からこの全文のかたちで世間に広まっていたら、今のように市長の立場に理解を示しただろうか、ということだ。

 はじめから「火をつけてこい」「家を売れ」「辞表を書け」という言葉と「あそこでまた人が亡くなったら」「自分が土下座してもいい」という言葉がはじめから明確に併記されていたら、いまの実際の気持ちと同じくらい強く、市長を擁護していたのだろうか。

 あるいは反対に、最初は事故を危惧する言葉が口にされていたのが、実はその後に「火をつけて捕まってこい」という言葉が続いていることがわかった、という場合だったらどうだろうか。

 これは屁理屈?

 でも俺は、人間の意見や考えというのは、話を持って行く順番が違ったせいで同じことを言っているはずなのに有利になったり不利になったりするものだからこそ、むしろ入れ替わった場合を仮定することで冷静に評価されないとならないものだと思う。

 

 上で挙げた、市長を擁護する意見に対して。

 まず、今回の暴言とこれまでの功績は区別されなくてはならない、という意見には同意する。市長が「火をつけてこい」と言おうと、あるいはもっとひどいことを言おうと、それは市長がこれまでに成し遂げたことをみじんも損なわない。

 しかし、あるいはだからこそ、市長が市政に貢献した成果も、今回の暴言をかばうことはできない。暴言が成果を損なわないように、成果も暴言の結果を償えない。

 

 市長の言葉は悪かったが、その真意を汲む必要がある、あるいは言葉は許されないが熱意を認めるという意見には、もっと強く反論したい。

 それは、なぜ俺が口から出た言葉、暴言があったという事実にここまでこだわるかという理由にかかっている。

 俺たちが、目の前の人間がどんな人間で、何を考えているかを知ろうとするとき、彼/彼女が実際に口を動かして発した言葉それ自体を軽んじては絶対にいけない、なによりもそれに重きを置かなくてはならない、俺はそう信じている。

 もちろん、生活していく中で言葉が必要以上に過ぎることはある。しかし仮に、本来なら発されてはならない言葉が口に出されるたびに、功績のある人間、熱意のある人間というのは、その真意を汲んでもらえる資格があるものなのか? その本当の意図が検討されるべきなのか?

 じゃあ、なんの功績もない人間の本当の気持ちは? いや、というか、熱意・人情・思いやり、それらが言葉の裏に本当にあることを、誰が客観的に証明できる?

 気持ちとか真意とか、俺は二の次だと思うのだ。

 人が本当に何を考えているかなんて、まず言葉でしか伝えられないはずだ。そして言葉を発する側からしても、それが相手にどのように受け取られるかなんて究極的にはわからないはずだ。

 だからこそ俺たちは、自分の考えをどんなかたちで言葉にするか日々真剣に考えて、ポジティブな場合なら少しでも自分の真心と同じかたちにしようと努力するし、ネガティブなケースなら下手なことを言って揚げ足をとられないように慎重になるんじゃないのか。

 まず何よりもかたちになって発せられたもの、そこに注意しないで、相手の真意がどうとかと言葉以外のところに重きを置いて、言葉だけとれば犯罪教唆そのものの内容を口にした権力者にもその先が与えられるなら…

 なんというか、それこそ上手く言葉にならないが、俺もみんなも自分たちの子供に、それでいいと本当に言えるのか? 「火をつけてこい」という人間が市政の長として人の上に立っていていいと。功績と、真意さえあればその先が認められるのがこの社会だと。

 

おわりに。無能な社会人の一人として

 市長を擁護する意見の中に、暴言の事実を込みで考えてもこの人が適任だからよい、というものがある。

 確かに、市をもっと良くする人材が他にいないなら、そういう選択にならざるを得ないのかもしれない。

 でも、暴言をはかないし同じくらい市を良くできる人材を見つける、という選択肢だってあっていいはずだ。「しかたがない」という現実主義は、「もっといいものがいたっていい」という理想主義と併存してはじめて説得力を持つんじゃないか? 俺は明石市のことを良く知らないから、そこまで強く言えないけれど…

 

 俺に怒りは結局、目的を達するために他に言いようがいくらでもある中で、最悪の犯罪教唆そのものである暴言が、なぜか、その後に続いた言葉やこれまでの功績、真意といった要素で曖昧になっていくことへの戸惑いなのだと思う。

 俺は市政の内情も知らないし、世間そのものについて無知だ。これは別に、だからこれまでの大言を多めに見てね、というつもりで言っているのではなくて、無垢な目線で見ているという自負でもあるつもりだ。

 なんで、「火をつけてこい」なんて人を擁護してるんだよ? 本当にわからないのだ。本当に。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

 

 最後に。それでも、自分の発言をすべて事実だと認めた市長の態度を、掛け値なしに尊敬する。俺はこの人をごく個人的に絶対に許さないが、これだけは、ならわないといけないと思った。

 

 

 

 

そこの君、ヤンジャンをコンビニの棚に戻したら『バトゥーキ』を買おうぜ、ということについて

はじめに

 基本的に題名の通りなんですが、そのままだとあんまりなので俺がこのマンガについてものすごく手のひらをかえしたところから話を始めます。

 

 例えばですね、タイムマシンを使って昨日の俺を今日に連れてきて今日の俺と二人で並んで立ったとしますよね。

 同じ人間の昨日と今日なのでほとんど一緒であって、なんならそのまま生活を取り替えることもできるのですが、ある部分だけ大きく違うところがあります。

 昨日の俺は、あるマンガのことを、ものすごく面白い別の作品を以前描いていた人があるとき錯乱して描き始めた得体の知れない上に読みづらい…というか、ありていに言ってつまらないマンガだと思っています。

 一方今日の俺は、同じマンガのことを前作とは少し毛色が違うけど、人をものすごく集中させる力のある傑作だと思っています。ちなみにこの俺は手のひらを急激に返したせいで手首が折れ曲がっています。

 このマンガこそが『バトゥーキ』です。

 

『バトゥーキ』は腰を据えて、できれば単行本で読まないと良さがわかりにくい

 言い訳なんですが、俺が『バトゥーキ』を当初ものすごく低く評価してしまったのはたぶん理由があります。

 大変恥ずかしながら、俺が最初に『バトゥーキ』を読んだのはコンビニでの立ち読みでした。そして一読して、なんて読みづらい上に子供の頭身と肩幅がおかしいマンガなのかと思いました。

 その後もヤンジャンの誌上で見る『バトゥーキ』はいつも読みづらく、子供の頭身と肩幅がおかしかった。

 それがなんで単行本を一日のうちに既刊2冊買ってそろえることになったのか。それは、一昨日漫喫で気まぐれに1巻の冒頭を手にとって再読してみたからで、ちゃんと集中して読んでみると、作品の印象がまったく異なっていることに気がついたわけです。

 腰を据えて読んでみると、『バトゥーキ』が多くの要素から構成された複雑な作品であることがわかります。多彩な視覚表現からナレーション、複雑なコマ割など。

 突拍子もないビジュアルとか第三者の目線で挿入される印象的なフレーズはおかざき真理の『阿・吽』に似ている気がしますが、もっと混沌としている。 

 じっくり向き合うことで、ようやくそれらを読み手の方で再構成することができ、やがて大きなうねりに乗っかって翻弄されるような陶酔感、集中があるんですけど、走り読みだと大まかな筋書きしか追えないので、それが「読みづれえ」となった理由だと思います。そういうことにしたい。

 なお、子供の頭身と肩幅だけはいまだにおかしいと思っています。

 

どれだけ強く、

 そんなんをふまえて、『バトゥーキ』の感想をもう少しくわしく書きます。

 ものすごく単純に言うと、『バトゥーキ』は格闘技のカポエイラをテーマに三條一里という少女の試練と成長を描く物語です。

 このカポエイラですが、蹴り技を主体にダンスとみまごう派手な動きで魅せる、最強格闘技議論におけるロマン枠の一つじゃないかと個人的には思っています。

 実際のところ、スタミナの消耗も激しそうだし、寝かされたら終わりのイメージがあるし、何より世の中の「何でもあり」ルールに出身者がほとんどいないことで、結局あんまり強くない可能性が高いですけど、一笑にふすのも抵抗を感じる存在感があります。

 カポエイラ、才能のある人がマジでやったらどこまで強いのか。『バトゥーキ』に期待していることの一つにそれがあります。

 今のところまだ町のチンピラを蹴り飛ばすのが主な使い道…と思いきや、おそらくかなりの使い手である打撃系ともマッチアップしていて、今後、ちゃんと理論立てた説明込みで、いわゆる最強議論に一石を投じて欲しいな、と思います。

 

どれだけ楽しく、

 もうひとつ、『バトゥーキ』で描かれるカポエイラはとても楽しそうです。

 音楽や舞踏とわかちがたく結ばれているということで、格闘技であると同時に表現手段、さらにはコミュニケーションの方法としても描かれていて、それが他のマンガにおける格闘技描写とは少し違うところです。

 子供同士の遊びとして紹介される場面も楽しそうだし、2巻まで読んで実は俺が一番印象に残ったのも、迫力の格闘戦ではなく、カポエイラの達人による「田植え」で花が咲く描写や、目の前の相手を理解し自分を伝える手段としての部分を強調して描かれたところでした。

 

そして、どれだけ自由であるか。

 読み進めるとわかるとおり、主人公・一里は実はものすごくハードな生い立ちを背負っています。この少女の生き様をカポエイラを通じて追っていく中で大きなキーワードとなるのが、強さ・楽しさを包含した上で描かれる「自由さ」であると思います。

 カポエイラはアフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちが移住先のブラジルで権力に包囲されながら培った技術であるらしく、そのルーツ自体が自由という概念と深くつながっています。

 そのカポエイラが、一里をどのようにして解き放つか。

 物語の序盤、友達づきあいも娯楽も制限され、門限まで決められた不自由な一里は、2巻の終わりである意味自由を手に入れます。ただ、当然それは目指すものではないし、代わりに強大な呪縛も背負うことになります。

 頑張れいっち。ここまで面白いマンガに気づかなくってごめんな、と手の平返しで折れた手首をぶら下げながらエールを送るので、以上、よろしくお願いします(でも頭身と肩幅はマジで直した方がいいと思う)。

 

 

 

バトゥーキ 2 (ヤングジャンプコミックス)

バトゥーキ 2 (ヤングジャンプコミックス)

 

 

 

 

先に左右を倒さないと蘇生させてくるパターン。『ゴールデンゴールド』5巻の感想について

 あいかわらずべらぼうに面白かったですが、今巻はあまり大きな波乱がなかったので(終盤のぞく)簡潔に。

 

 まず印象に残ったところ。ばあちゃんの変貌とフクノカミの扱いをめぐって、琉花がお母さんともめました。琉花は母親が持ち出す世間の常識や社会人としての自信にまったく太刀打ちできず、コテンパンに論破されます。

 琉花の悔しさが、とてもよくわかる。俺もよく親に口げんかでつっかかっては、自分がいかに世間知らずであるか、また自らの考えを言葉にまとめるのがどれだけヘタクソかを毎回思い知らされていたからです。

 しかも子供である以上は、口論の後も自分を言い負かした相手(要は親ですね)の庇護のもとで生きていくしかない。小さいなりの自分のプライドをへし折った相手にこれからも育ててもらわなくてはならない無力感があります。もちろん、本来はありがたいことです。

 

 ただ、今回のケースで言えば、俺は琉花の方が正しいんじゃないかと思うんですね。

 お母さんが琉花を言い負かすのに持ち出した知識・合理性は、あくまで一般常識の世界におけるルールです。

 でも、フクノカミという存在は明らかに超自然的なものであって、その異常な存在によって実際に離島に常軌を逸した繁栄が起こり、自分たちの家族が人格まで変質するという事態に発展している。

 この状況は、常識の範疇ではなく、もっと俯瞰した視点で考えたり、あるいは、何か本来であればいてはいけないはずのものによって自分たちの家庭が侵食されているから守ろうぜ、というすごくシンプルなスジで解決するべきだと思います。

 それを、儲かる/儲からないとか、これまで諦めていた夢の実現とかっていう基準で判断しようとするのは、現状を普通の大人の解釈に有利なように不当に引き寄せてマウントをとってるだけじゃない? と思うわけです。

 琉花はお母さんに論破されたのをきっかけに世の中のこととか経済のことをもっと勉強しようと思い立ったようで、それは黒蓮先生の言うとおり立派な心がけだけど、この問題に立ち向かう上では適切でない「常識的」というルートに、それも完全な初心者として踏み込もうとしているようで、それは悪手だったりしないかしら? とか。

 このマンガが、本来ならある意味非常識な発想でしか解決できない難問が、ぱっと見の利益の多寡や合理性の問題に置き換えられた結果どんどん悪化していく様子を描きたい…かどうかは別として、そんなことを思いました。

 

  他にはばあちゃんの過去編ですね。大人顔負けの利発な少女だったばあちゃんがやがて青年期を迎え、島に戻ってきた昔の知り合いと結婚し、子供をもうけ、夫を見送り…という半生が、絵巻物のように流れていきます。表現としてとても高度なことをやってるなと思いました。ぐっときました。

 これまで、フクノカミが人間社会に働きかけるチャンネルとしてばあちゃんを選んだのは、単にばあちゃんが琉花の近親者かつ商店の事業主で都合がよかったからだと思っていたけど、若い頃の才覚を見るに他にも理由があるのかな?

 

 後は寧島さらに大繁栄、編集・青木君カムバック、マザコン密談とかでしょうか。かつて寧島で起きたと思われる事件の一端も少しだけ紹介されます。

 前の巻に比べればそれほど大きな事件はなく、と思っていたら、最後にデカいのがきましたね。

 琉花がちょっと剣呑な感じなのでリスクヘッジなんでしょうか? 自発的にやってたので自分のためではあるんでしょうが、スタンドを持つ者同士の戦いみたいなことに展開…はしないだろうな。たぶん。以上、よろしくお願いいたします。

 

 

偉そうなのに間違っている奴の言うことはすべて無視していいかということについて

はじめに

 あまりオチのない話。

 

 『スプラトゥーン2』が好きで、一昨年の秋に買って以降いまだにこればっかりやっている。

 で、今日こんな記事を読んだ。

 「スプラトゥーン」の中毒性が極端に高い理由 | ゲーム・エンタメ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 不思議な記事だな、というのが俺の感想だった。それは、この記事がスプラトゥーン2を批判しようとしているのに(おそらくそうだろう)、その悪いところの指摘がかなりふわふわしているからだ。

 この記事では、「スプラトゥーン2はゲームとしてものすごくよくできている →よくできているが、できすぎているがゆえに時間は吸われるわ熱中しすぎるわで危ない」というかたちで、優れた面を危険な面に反転させることで批判を加えようとしている。

 ただ、「よくできてるからこそ危ないんだぜ」とひっくり返してからの掘り下げが、実は全然足りていない。だから、たぶん読む側としてはそりゃ完成度の高いハマれるゲームはみんなそうだろう、なんでスプラトゥーンだけ批判される? という気持ちになる。

 

 ここからが本題。

 実際、この記事に対する反応は冷笑的なものが多い。スプラトゥーン2を批判したら批判を返されている状況だ。

 ただ俺はというと、上で書いたようなことを思いつつ、けっこう的を射ているな、とも感じていた。確かに俺もものすごく時間をつっこんでるゲームだし、記事で紹介されているようにプレイしていて罵詈雑言を吐くことが実体験としてあるからである。

 思うのだが、今回のケースは「専門家を名乗る何者か」×「大上段から発信されたにもかかわらずあまり練られていない浅薄な内容」×「それでもおそらくここには原稿料が発生している」からこそ、読者からかなり強い反発を招いたんじゃないだろうか。

 そうではなくて、一般ユーザーの目線から見て、基本的に素晴らしいゲームだけどこういう怖い面もあるなと漠然と思いました、というテイであれば、みんなもっと冷静に聞いたのではないか、なんなら自分の身を振り返ったのではないか、と思う。

 

 だから、自分の意見を表すとき、目的が炎上や売名にあるならともかく(今回のケースがどうかは知らない)、真摯に相手の心を動かそうと思ったら、インパクトよりもパッケージのし方を優先して考えた方が目的にかないやすいのだろう。

 ただこれは、発信する側の心構えの問題。俺はこの件でもう一つ思ったことがあって、じゃあ記事を読む側は「こいつ偉そうな割に全然たいしたこと考えてないな」と判断した瞬間、即自分のモードを拒絶・批判に切り替えていいのか? けっこうそれは損だったりしないのか? と考えた。

 

 伝えたいメッセージがあるならそれを包むパッケージもちゃんと考えようぜ、というのが今回の発信する側の教訓。

 でもメッセージとパッケージは一応別のモノのはずで、いや、イカやってて思わずトサカ来ちゃうことがあるやつけっこういるでしょ、プレイヤーやその家族としてちょっと考えた方がいいのはそのとおりじゃねえ? とは思ったんですね。

 じゃあ、パッケージの例で言ったら、あんた、あまりに礼儀を欠く相手からあるときクソまみれの箱が送られてきて、中身に一片の値打ちを期待していちいちその包装をひもときますか?

 そんな時間、忍耐ありますか? 暇なんですか? ということなんですが、まあ時間・忍耐ないですけど、一概にこいつアホだから石投げていいわ、ってのも一方で違うかも、という、まとまらないですがそう思ったので、以上、よろしくお願いいたします(苦しい)。

 

 

海は深くて暗い。『サカナとヤクザ』の感想について

はじめに

 いま話題の、海産物がアンダーグラウンド暴力団の資金源となっている実態を追ったルポルタージュ

 とても面白く読んだのだが、一方で物足りない部分もあった。

 俺が興味があったのは、要するに俺たちはこのまま魚を食い続けていていいのか、ということだった。

 例えば出張先で、地元で評判の魚の美味い居酒屋に行って旬の魚を食う。

 例えば家族の夕飯で、みんなで仲良く海鮮を使った鍋を囲む。

 それらサカナの出所がヤクザであり、サカナを食うことが暴力団の資金源になっているなら、果たして今後も引き続き海の幸に舌鼓を打つことは許されるんだろうか?

 俺が知りたかったのはそこだったのだが、結論から言うとそのあたりのことははっきりとしないのだった。

 その理由は、この本で匂わされているサカナに関する闇が、ヤクザという具体的な勢力よりももっと漠然とした、ずっと大きな何かだからだと思う。

 題名にある「ヤクザ」は、漁業界全体の底を流れる暗くて巨大なうねりにおいては、あくまでひとつの要素でしかない。海を舞台にして、ヤクザを含む無数の黒々としたものが複雑にからまりあっている。

 よってこの本で示されているものは、俺たちが平凡にサカナを食い続けることが具体的にどう暴力団を潤し、どれぐらいヤバいことなのか、という情報ではない。もっと漠然とした、つかみどころのないものを暗示する内容という方が近いと思う。

 

アワビ、ナマコ、カニ、鰻、みんな違ってみんな黒い。

 この本は、漁業という大きなカテゴリーからズームインして、アワビやナマコなど個々の海産物に着目して章を割り振っている。

 各章を順番に読んでいくと、あることに気がつく。

 例えば第1章の三陸アワビでは、この海産品の密漁を防ぐのが難しい理由として、犯罪者側の周到な準備もさることながら、2011年の震災によって防犯体制が機能しなくなってしまい、そこを狙われていることが挙げられていた。

 また、第3章の北海道ナマコ。密漁と聞くと誰かが漁業をする海域を侵犯する犯罪というイメージがあるが、必ずしもそういうケースばかりではない。

 なぜか。それは、ナマコの一部は北海道にある発電所付近の一部で「密漁」されているのだが、周辺の漁師は電力会社によってこの沿海における漁業権を法律的に放棄させられているため、厳密に言うとこのエリアにおける漁は他の誰がナマコを獲る権利をも侵害していないからである。

 また、第5章の北海のカニをめぐる北方領土問題、第6章の鰻に関する漁獲制限・輸出制限偽装など、読むとわかるのは、各海産物ごとに、抱えている問題がまったく違うということだ。

 ひとつの海産品に関する問題が、他の魚介にも通用する部分として、いわば横串として刺さっていかない。だから読み手は、各分野ごとにまったく違う病巣を抱えているものを、漁業界としてひとつにくくって理解しようとすることになる。

 上で挙げた、ものすごくとらえどころのない大きなものを相手にしているという印象は、ここから来るのだと思う。

 

 なんだか批判めいたことばかり書いてしまっている。ただ、こういう色々な分野、様々な問題の集積のような本で良かったとも思うのだ。

 各海産品における問題はどれも大きい。詰めていけばそれぞれが一冊の本になりそうだ。でも、

 「三陸アワビにおけるヤクザの漁法」とか、

 「北方領土問題に翻弄されたカニ漁の繁栄とこれからの課題」とか、

 なんというか、それが一冊の本として店頭に並んでいたとして、それ読みたい!って気持ちになるかどうかは別だよな、と思う(キャッチを作る俺のセンスのなさのせいって気もするけど)。

 『サカナとヤクザ』。この題名、あまりにでかくて複雑なものを思いっきり無理してひとくくりにしたものだと、読んでみれば感じるだろう。

 でも一方で、商品としては抜群の訴求力だと思う。ということは、表社会に問題提起をする上でも、結局それが一般効果的な方法だったということなのだろう。

 

おわりに

 あらためて、筆者の行動力と胆力は賞賛に値する。

 密漁された「汚い」アワビは養殖物の綺麗なアワビと混交され、区別がつかなくされて市場に流れるという。筆者はそのルートを探るするために自分で市場でバイトまでする。

 また、密漁者にもガッツリ取材する。すごい。

 そして、海上保安庁など取り締まる側の努力にも敬意を表する。

 密漁でアワビやナマコががんがん獲られていると知って、じゃあ警備はどうなってるの?と思うけど、張り込み、流通ネットワークへの潜入など、ちゃんとなさっているのだ。

 実際のところ、取り締まり側に内通者がいて情報がもれることもあるそうだが、それは、問題の一筋縄のいかなさの一部に過ぎない。やはり、文中で保安庁の人が取材に答えた言葉から伝わる、海産物が暴力団の手に渡る悔しさ、それを防ごうという執念をこの本で知れたのはよかった。

 

 上でも書いたとおり、漁業界は全体としてわけがわからない。国内外で誰かがひっそりと美味い汁を吸っている部分、そのままで放置されすぎてなあなあになっている部分が多すぎるようで、水産業全体をいっぺんに改善するのはまずできないと感じさせられる。

 ただ一方で、そういう結論で終わらせていいのかな? という気はする。

 全体を変えるのが無理なら、まず個々の問題からあたっていくしかない。

 やっぱり、漁業からダークな部分は減らされるべきだと思うのだ。だから、「水産ってのはわけがわかんねえな」と全体からつかんだ印象の中で完結するのではなく、まず一つ一つの問題を整理し、見つめていく必要があるように思う。

 

 本書を読むと次のような文言にときどきぶつかる。

 「漁業におけるダークな要素は必要悪」

 「消費者も共犯」

 俺たちはワルモノから彼らと同罪だと思われていて、実際そうなのかもしれない。

 それはやっぱまずいだろう。カニやウニを今後も食っていく上で(食っていいんですよね? どうだろう?)、食卓にのぼったものを見る意識を変える努力をしていこうと思うので、以上、よろしくお願いいたします。

 

*以下、本書から学んだ各海産物の問題点をまとめてみました。参考まで。

 

 ・アワビ…市場流通量の約半数が密漁モノという異常な状況。

 正規品に比べ密漁品だと仲介業者も買いたたける上、市場もそれを承知で受け入れて小売店、消費者に流しているので、流通経路全体が腐敗していると言える。

 ・ナマコ…日本国内よりも中国での消費の方が多いことから専門に獲る漁があまりいないため、密漁が横行しやすい。

 アワビ同様、正規品に対する表の値段よりも安い地下経路が形成されている。日本のナマコは絶滅危惧種(!)

 ・カニ北方領土問題により日本船は拿捕される危険があるところ、かつてはリスクを冒して密漁が行われていた。

 現行、ロシアから正規に輸入するルートが整備され管理が厳格になったが、中国に流れる裏道がつくられた。その過程で生まれたカネやカニそのものが、正規ルートを迂回したかたちで日本に流れ込んでいる。日本の資本もこれを承知で流通に絡んでいる。

 ・鰻…一番闇が深く、グローバル。卵からの完全養殖が実用化されていない点を含め、種として不明なことが多く、食っていいのか悪いのかもよくわからない。

 絶滅危惧種でありながら現在のように外食チェーンやスーパーでも消費される現状はさすがにヤバそうだが、減ってない説もある模様。

 国内・国外の流通にそれぞれ暗い部分を抱えている。

 例えば国内では、各県で漁獲に関する基準が共有されておらず、国内の流動も正確に管理されていないため、ひとつの県で許容量を超えて穫られたシラスを、他県産と偽って「輸入」する手口が横行している。

 一方国外。例えば一大養殖地である台湾ではルール上完全輸出禁止になっているはずが、香港に流れ、養殖などやっていないはずの香港産として日本に出荷されるという、「ウナギロンダリング」ルートが形成されている。なんとなく愉快な響きだが、深入りしたら東京湾に浮かぶことになる、と筆者は取材対象から注意されていた…。

 

 

 

NHKスペシャル「“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」を観た感想について

はじめに

 先日、引退を表明した吉田沙保里の昔のエピソードで小さい頃から父親にレスリングの教育をされていたと知って、「うわーっ」と思った。

 今日、市川海老蔵(現 團十郎)の息子が父親のかつての跡を襲名したと聞いて、やっぱり「うわーっ」と思っている。

 ファンの方からはものすごく怒られるかもしれないが、あまりポジティブではない意味の「うわーっ」である。

 要は自由じゃなくて大変だなあ、とか、もっと言えば、小さくてまだ何も知らない見たこともないときから、そんなに強く大人の影響下においていいのかな、とかそういう「うわーっ」である。

 怒らないで欲しいのは、俺はこの手の「うわーっ」が多いんです。

 SMAPの解散騒動のときも思っていた。もう本人たちが辞めたいんだから周囲があれこれ言わずに好きにさせてやれよ、と思ったし、解散後の今までありがとうありがとう、ってのも、彼らはお互い嫌でしかたなくてバラけたのに、その嫌な過去にそこまでお礼言われるってのはつらくねえか? とか思ってたんです。なんかかえって怒りに火を注いだ気もします。

 

 もちろん子供への教育を含めて、誰かに周囲の人間が与える影響について、そんなに簡単に良いの悪い言えるはずがない。

 サラリーマンの家庭で気ままに育った俺に家業という概念や親の悲願について気楽に批判する資格はない。それに、重圧を伴うそうした期待や、英才教育があったからこそ、偉業を達成することができるというのも事実だろうと思う。

 さらに言えば、今回のケースでは親子で同じ競技を選んでいたり、歌舞伎という世界であったからこそ「周囲からの重圧」というものが見えやすくなっただけで、実は他の誰もが、多かれ少なかれ、他者からのそうした束縛の中で生きているとも言える。

 誰もがみんな、他の誰かに縛られ、支えられ、生かされている。

 

NHKスペシャル「“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢」を観て思ったことについて

 これを観たのである。

 俺はあまりこの人のことをよく知らなくて、彼が自撮りによって届けた高所の世界の映像も、目にしたのは今日がはじめてだった。

 率直に言って感動した。もしこれをリアルタイムで共有したら、すごい衝撃を受けただろうと思った。

 番組でも取り上げられていたが、彼の実績には競技としての登山のルールでは評価できない、いわばプロとしての得点に値しないところはあったようだ。番組に登場していた、生前彼と接点があった登山家の方も、栗城さんのことを「演出家」という表現に寄せることもありうるような言い方をしていた。

 それでも俺は、登山家としての「採点」とは別のところで、彼が伝えた映像をすげえ「画」だと思ったし、それに感銘を受けた人がいたということもよくわかる気がした。

 また、栗城さん自身にとっても、この「画」を伝えた体験は、生涯忘れがたいものとして、精神に強く焼き付けられたのではないかと思う。

 何かを成し遂げたい、周りに評価されたいという渇望と、それに突き動かされて自らをアピールしたところ、周りは彼の存在を認めただけでなく、その行為に救われさえした。

 求めていたものとそれに対するレスポンスが完璧に噛み合ったとき、その体験はもはや絶対に消し去りがたく、どうしようもなくこの人の心に焼き付けられたのだと思う。

 

 その後栗城さんは、登山活動の中で両手の指9本を失ったらしい。そして、最後は専門家の目から見れば絶対に無理だろうという登山ルートに挑戦して、亡くなってしまった。

 栗城さんの経歴を、かつての成功から、事故の連続へ、評価を挽回するべく無茶をして、最後の事故死へとたどる、幸福から不幸への下降線として描くことは簡単だと思う。また、彼への評価と期待を、それと並行して下降していくもう一本の線として描くことも簡単だろう。

 彼が亡くなった背景について、周囲の俺たちはなぜ彼を止めることができなかったのかと問うことも、問題としては簡単だと思う。

 でも、俺は栗城さんのことも知らないし周囲のことも知らないので勝手なことを言うが、なんと言うか、実はもっと全然簡単じゃないんじゃないか、本当は。

 

 栗城さんの登山に失敗が続くようになって、どれだけ彼への期待が薄れて罵詈雑言が増えても、最後まで純粋に彼を応援していた人はいたはずだ。

 それであれば彼の最後の挑戦は、誰かの祈りと、それに応えようとする勇戦でもあったはずだ。彼が最後はどれだけ追い詰められ、自己本位になったように見えても。また周りが軽率に煽って、彼の逃げ場をなくしていた事実があったとしても。

 次に同じようなことが誰かの身に起きたとき、それを防がなくていいかどうかは、別の問題だ。崇高な部分があったとしても、止めなくてはいけないケースはあると思う。思うのだが。

 一方で、初期の成功によって心に刻まれたものが、同じ体験をもう一度と彼に強く望ませていたのであれば、周りが何を言おうと、彼を止めることは難しかったかもしれない。

 少なくとも、死ぬ前の彼の制止できなさや焦りの原因を、同じ時期の周囲の批判や期待だけに求めるのは、俺は不完全なんじゃないかと思う。この人の一生を、未来の果てまで方向づけてしまうものがあったんじゃないかと思う。

 だから、まあ、簡単じゃないのだと思う。

 

 なんにせよ、ファンというのはどこかグロテスクだな、と番組を観ていて思った。

 批判を超えて口汚く罵るような人間は俺には気味が悪い。

 でも支持する方についても、山に登る前には頑張れと言い、結果として事故死を迎える直前、吐き気がするので撤退すると言えば失望したと言い、亡くなればショックだと言う、それらが同一人物とは思わないが、言葉を受け止める側からすればそれらはひとカタマリの何者かに見えるはずで、正体不明の怪物に違いないと思う。

 自分を棚にあげることはできない。

 俺も好きなアーティストに「まだ新しいアルバム出ねーのかよ」と言い、好きな漫画家に「お、隔月で描いてるんだ。偉いじゃん」と言い(これは最近新作が出た桜玉吉)、あるいは「おい、いつの間にか10週描いたら休むのがそういうスタイルみたいになってんじゃねーか」とか言っている(これは、えーと…)。

 やはりファンというのはどれだけ小さく見積もっても絶対にゼロにならない部分で、グロテスクなのだと思う。

 

 この文章に結論はない。とにかく簡単じゃないなあと思っただけなので、以上、よろしくお願いいたします。

 

 最後に余談ですが、生前栗城さんにアドバイスを授けたことがあるとして番組に出演されていた登山家の方の淡々とした話しぶりもすごく印象に残っています。

 批判したいわけではまったくなくて、この方の性格というより、たぶんそこで生きていればそういう口調で語る以外になくなる、そういう世界なのかもしれないな、と思いました。

週刊SPA!の『ヤレる女子大学生ランキング』の抗議運動に関して、汚い大人の男の立場から思うことについて

はじめに

 週刊SPA!で「ヤレる女子大学生ランキング」という記事が掲載され、批判を浴びている。

 批判の原動力になったのはNGOの代表も務める学生の方が発起人となった抗議署名活動で、俺はこの抗議運動とセットにして、記事の存在についても知ったかたちである。

 学生の意見に全面的に同意している。日経ビジネスオンラインの記事で小田嶋隆も書いていたが、ゴミ記事だと思う。

 この抗議運動に対して、記事を擁護する意図なのか、「火のないところに煙は立たない」という反論をする人がいる。

 実態としてそういう事実があったのが明るみに出ただけだろう、ということを言いたいのだと思う(どうもその「事実」というのも怪しいもののようだが)。ならば、この「火のないところに云々」という例えをそのまま借りて、考え直してみて欲しい。

 仮に、本当にどこかの大学の女性と記事にあるような手段を通じて「ヤレた」とする。

 それを文章にする。つまり、火をつける。火は勝手につかない。記事が火を起こす。煙が立つ。

 そのとき、燃えている火はたまたま火の元の近くにいただけの、所属を除けば本来なんの関係もない誰かまで巻き込んで燃えることになると、俺たちは考えるべきだと思う。

 そもそも、燃やせば煙が立つからといって燃やしていいかどうかもわからないが、少なくとも火の近くにいただけの無関係のものまで起こした火が巻き込めば、それは明確に悪である。

 そして、女性を大学名でくくってひとまとめにつけられた火は、同じ大学にいたというだけの誰かを必ず巻き込んで燃えるだろう。

 その誰かがどこかの家庭の大切な娘であると、大切な友人であると、恋人であると、あるいは他人との関係性以前に尊重し保護されるべきひとつの人格であると、「火のないところに云々」というとき、俺たちは考えてみるべきではないのか。

 

 批判を受けてSPA!が出した謝罪に対し、学生は謝罪よりも対話を求めるそうだ。おそらくずっと年下の若者に、醜いというだけでなく、「理解しがたい」と思われているのだろう。もの悲しいと思う。

 

本題。俺はたぶんSPA!を読む側の人間であるということ

 ここからが本題である。

 前記したとおり、俺はSPA!の件の記事を若者による批判とセットで知った。セットで知ったからこそ、その怒りや不快感に同調した。

 じゃあ仮に、批判の存在を知らず、たとえばコンビニの店頭とかでその見出しをはじめて見たのだったらどう思ったか? 

 断言する。恥ずかしい話だし、上で記事の擁護者を批判しておきながらおかしな話だが、そうしないと自分の立ち位置がはっきりしないからはっきり言う。

 

 俺はたぶん、不快だともなんとも思わなかっただろう。

 

 コンビニの棚で「ヤレる女子大学生ランキング」という文字を目にしたとき、俺は絶対なんの違和感も持たないだろう。あるいは、ラーメン屋で読むものがなくてたまたまテーブルの上のSPA!があったら、手にとって読んでみることさえするだろう。

 そのとき俺は、「へえ、○○の学生ってこうすればヤレるんだ」とは思わない。

 別にこの期に及んで良識ぶっているわけではなくて、無感覚に、本当に何も思わないだろう。

 この無感覚さはうまく言葉にできなくて、もちろん記事を実践してヤろうとも思わず、それどころか内容が正しいかどうかも考えず、とにかく空気のように、単に一時的に目を刺激する文字の列として、ラーメンと餃子が来るまで、なんの感情の変化もなくそれを消費するだろう。

 それでも、俺はたぶんこの記事を読んだ後○○出身の人にあったら、「あ、あの記事の学校と同じ人だ」と思う。必ず思う。そしてそれは、間違いなく、その人を大なり小なり卑しめているに違いない。

 

 俺は学生の運動を通してSPA!の記事を知ったことで、「記事の批判に同調し、擁護する立場には反論する回路」につながった。

 しかし、偶然そのルートを通らなければ、俺はこの記事が誰かを傷つける可能性を想像せず、記事を消費する側でもありえた。

 単に風見鶏なだけと言われればそれまでだが、俺はこういう風に分裂していて、おそらく本質的には、SPA!を読む側の人間であって、そして本当は、この学生の方の敵なのだと思う。

 

おわりに

 「ヤレる女子大学生ランキング」的なものと戦う人は、不潔でねじまがった、性的な欲求を満たすことを優先し人を支配しようとする、欲望としてある意味明確で、なんというか、ある種の熱気をもったものや人だけを相手にするのではないと思う。

 もっと目に見えない、それはそれで汚く歪んでいるのかもしれないが、ヤりたいとも思わずヤるための記事を読み、そういうものが存在する空気にもなんとなく慣れきって、醜悪なものをあえて許すという積極性もないまま、その手の文言と自由気ままに近づいたり離れたりしている者。俺のような者。

 そういうものたちと、戦うことになるのだと思う。

 

 最近、そういうもののおかしさがようやく可視化されてきたのかもしれない。

 本当は単なるクソなのに、表現の自由とか価値観の多様性とかの言説に守られたり、あるいは、あって当然のものとして議論の俎上にさえ乗らなかったもの。

 そういうものが、取り除かれるべき単に不快なゴミとして、若い人たちによって示されつつある気がする。

 30前半の俺は自分を若者の箱に入れるかどうか迷うことがあって、本当は一緒になってくだらないものをなくしたいが、上に書いたとおり俺自身がくだらないものでもあり、精神的にはたぶん汚いおっさんの方で、やっぱり迷っているが、若者のことは応援している。

 どの立場で? わからない。処分される害毒が薬や消毒液を本当に受け入れられるだろうか。

 でも俺も、昔はそういう若者だったのだ。そのまま成長はできなかったが。

 とりとめもなくなったがそういうわけなので、以上、よろしくお願いいたします。