ちなみに、前出のサイトでは故人にバーチャルの花を手向けたり線香をあげたりすることもできる。
なんだかなあ、いちいちデジタルで安っぽいんだよなあ、と「死んだら自我は消滅」派にもかかわらずウェットな感想をもちつつ呆れてしまうが、そこで故人に寄せられた見知らぬ人々の言葉に見を通すと、半笑いでもいられなくなる。
たくさんの人たちがこの電脳上の空間を使って、「そちらで元気にやっていますか」と死者に語りかけている。
こちらは今日は暑かった、こういうことがあった、と故人に報告しながら、「あなたに会えなくなってさびしい」「生きているときはつらかったと思うけど、いまは天国で元気にやっていると信じている」、そういう言葉がそこに並んでいる。
遺されてしまった人たちには、こういう場所が必要なのかもしれないな。俺とはまったく異なる死生観だけど、そこに込められた想いや哀惜に対して想像力が働くくらいのキャパシティは俺の脳にも残っている。
別に手紙でやれないこともない行為だが、データとして集積され、他の人たちと共有されるというのが、現代のひとつのかたちなのかもしれない。それがかえってグロテスクだと感じる人もいるかもしれないが、俺は段々と、安っぽいとかくだらないとかどうにも言えなくなってしまった(死者の没後デジタルカウントだけはそれでもなぜか恐ろしいが)。
10年以上前にNHKが製作した、南米のヤノマミという少数民族を追ったすさまじいドキュメンタリーがあった。
よく話題にのぼるシーンだが、父親のわからない子どもを身ごもった少女が、集落を離れて密林に入っていく。彼女はそこで、生まれた赤ん坊を自分たちの村に迎えるか、「天に還す」かを一人で決めなければならないのだ。
天に還す場合は、赤子を殺めた後、亡骸をシロアリの巣に入れる。
ヤノマミの死生観では人間は死ぬと精霊になり、天で精霊だけの層を形成しているのだという。再び人間になるときはそこから地上に降りてくるが、母親に受け入れられるまでは精霊の状態なので、もし拒絶された場合は精霊のまま天に還っていく。なんだか、地上と天界とどちらが存在の拠点なんだかわからなくなる話だと思う。
ちなみに、天の精霊は人間だったときに男だったらアリやハエ、女だったらダニやノミになって地上に降りてくることもあるそうだ。アリ=シロアリだとすれば、拒絶された赤ん坊を天に還すのはかつて精霊だった男たちの役目ということになり、ここにも一つの円環が形成されている。
年齢の問題で親になる決心がつかないとか、家族に育てていく余裕がないとか、現実的に赤ん坊を受け入れられない事情は発生しうる。そこに精霊という一種の装置が必要になるのが興味深い。
罪悪感なのだろうとは思うが、なんの感傷もなく淡々と口減らしする文化でもよさそうなのに、そうはなかなかならないみたいだ。
世界中で人間たちが総がかりで、創造力と技術を駆使して、故人が無になるのではなく、ただ安らかであるように、自分たちもいつかそこに加われるように祈っているんだと思うと不思議な感じがする。
人間はどこの時代でも文化でも、基本的にそういうものらしい。合理的でなくて居心地が悪いが、そういう非合理性と人間の知性は矛盾するようで裏表というか、人類という種の最後に非合理がすべてをねじ伏せてさらっていくような気もする。俺もいつまで「死んだら無」でいられるかわからない。じいさんとばあさんがどこかにいるなら、まあいつかよろしく頼む、というようなことをお盆の終わりに思った。