深い緑と青い春。『猿神のロスト・シティ―地上最後の秘境に眠る謎の文明を探せ』の感想について

はじめに

 青春小説のフォーマットの一つに「探して、見つけて、そして失う」というものがあって、村上春樹とかポール・オースターとかよくこういう構成を使うのだが、逆に言うとこのフォーマットにならっているとその作品はぐっと青春小説らしくなるのである。

 本当に? 仮にその舞台が猛獣ひしめく密林でも?

 イエス。密林でもそうなる。なるったらなる。この『猿神のロスト・シティ』を読めばわかる。

 

感想

 地球上のあらゆる土地が踏破され、まだ発見されていない未知の文明などとうていありそうもないこの21世紀。

 しかし、南米はホンジュラスの密林――かねてより『シウダー・ブランカ(白い都市)』と呼ばれる幻の街の伝説がささやかれるこの地に、時代の進歩がもたらした技術が遺跡らしきものの観測に成功した。真実を確かめるべく、ジャガー、毒蛇、凶暴なアリが跋扈し、麻薬組織の勢力圏でもあるこの土地に、科学者、ジャーナリスト、元軍人たちの混合チームが挑む…

 という本。

 

 面白かった。先に不満な点を挙げると、本書の解説を担当された方が文中でも述べているとおり、仰々しく期待をあおる導入に比べて、実際の「探検」部分はかなり少ないこと。

 この土地をめぐる歴史と筆者たちが今回の探索にこぎつけるまでの労苦はかなりページを割かれて語られるのだが、それが終わってさあいよいよ探検、と思って始まったジャングル内での生活や冒険にかかる部分は、わりとすぐに終わってしまう。

 結局、調査を経て『シウダー・ブランカ』らしきものは見つかるのだが、以降は「あれ、もう帰っちゃうの?」というくらいあっさりと密林をあとに。つまんないわけじゃないんですけどね。あやうく毒蛇に噛まれそうになる話とか。でももうちょい期待してた。

 

 ただ、実は面白いのはみんなが帰国してから。

 チームのメンバーがそれぞれの国に帰った後、彼らは各国で同時多発的に謎の病気を発症する。

 診断の結果、病気の正体は一種の寄生原虫だということがわかるのだが、この病気への罹患がひとつの重みを伴ってくるのは、彼らが現地での調査をとおして得た仮説に、「『シウダー・ブランカ』はどうやら病の流行が原因で遺棄された場所であるらしい」というものがあることによる。

 500年ほど前、まさに彼らと同じ欧米人によって、天然痘チフスといった病原体がこの地に持ち込まれた。欧米人自身は抗体を持っているが、現地の人々は免疫がなく、これらに感染してなすすべく死んでいく。『シウダー・ブランカ』もおそらくはそうした経緯の中で生活の場として機能しなくなり、葬られた。

 それがときを経て、今度は欧米人の方が、吸血性の虫を媒介に感染する別の病に苦しめられる側になったわけで、ここにはつい報復という言葉が浮かんでしまう(筆者自身もそう書いている)。もちろん科学的にみればこれが呪いとかではないのはわかるんだけど、何か教訓的な話でもある。

 

 作品の終盤、『シウダー・ブランカ』の探索から一年後、筆者はもう一度現地を訪れる。

 自分たちの行いは、考古学的な「発見」であるが、それと同時にひとつの「破壊」なのではないか、貴重な自然環境を不可逆的なかたちで開拓してしまったのではないか、といううしろめたさが彼の中にあったことが、文中では語られている。

 はたして彼の不安どおり、一年ぶりに訪れた密林は人の手によって開発され、前年訪れたときよりも生活しやすい環境へと変じていた。

 この描写が妙にいい。毒蛇と吸血昆虫うようよで夜はまったくの闇が降りる野蛮な世界。そういうものでも、いざ変わってしまうと自分のなかに愛着があったこと、もう取り戻せないことへの寂しさがあることがわかるらしい。

 作者はここでかつてのチームメイトと再会するんだけど、そこにも少しよそよそしさが感じられて、人と場所というのはやっぱりセットで、場所の方が変わってしまえば人と人との関係性も以前のようにはいかないという、ここにも不思議な悲しさがあってよかった。

 

 胸躍る冒険、というには少し活劇の要素が少ないが(実際、考古学とアドベンチャーとを区別しなくてはいけない、という意見が本書には散見される)、深緑と泥沼の死地を舞台にするわりに妙にせつない読後感があり、なかなかよい本でした。

 

猿神のロスト・シティ―地上最後の秘境に眠る謎の文明を探せ

猿神のロスト・シティ―地上最後の秘境に眠る謎の文明を探せ

 

 

ソニックマニア2017の感想について~Kasabian編~

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  2017ソニックマニア、邦楽テクノUKロック行脚。後半はKasabian編(前篇はこちらソニックマニア2017の感想について~Perfume、Liam Gallagher編~ - 惨状と説教)。 

Kasabian…『異次元』。
 リアムのステージが終わってフロアの観客が動き、次のKasabianのために最前列よりやや後ろあたりに移動。リアムとKasabianは客層がかぶっていると読んだのでそれほど場内の変動はないかな?  と思っていたんだけど、けっこう動く。
 ステージセットが始まって、ときどき前の人たちがざわつくな、と思ったら、新作『For Crying Out Loud』のジャケットにもなったローディーのおじさんが出てきて機材の準備をしていた。そんな場面もありつつ、時刻は1時20分。ついに本命kasabian、そのステージの火蓋が切られる。
 
 開演の気配とともに、後方から押し寄せる人の圧を受けて場内が詰まる。「お?」と思っているうちはまだ余裕があったが、さらに詰まる。どんどん詰まる。正直ちょっとヤバくないか?  と思うと同時に鳴らされる、新作の一曲目『Ill Ray(The King)』。
 観客、爆発。わけわかんないぐらい動いてるやつとか、体ごとぶつかってくるようなやつもいる。こっちのモードが追い付かないまま、出現した混沌に呑まれる。
 一曲目からそんなテンションで大丈夫? と自分も観客なのに思う…間もなく、揺さぶられぶつかり合いながら、二曲目『Bumblebeee』に突入し、場内の熱量がまったく落ちないままこれも完走。
 続いて『Eez-Eh』、『Underdog』、『Shoot the Runner』、そして新作から『You’re in Love With a Psycho』へ。
 このあたりから最初の危険ささえあった無秩序は少し消化され、演奏に集中できるようになるが、場内の熱気自体はまったくなくなっておらず、あくまで吹き出る衝動が最低限の方向を見つけただけ。なんとかケガをしないで済む空間を無意識に計算し、残りの意識はなにもかも叫び、踊って、手を突き上げることに全振りする俺らは、もう漫画に出てくる野蛮人に近い。
 続く曲、『Club Foot』で再び混沌出現。
 1stの一曲目にして作中最大の攻撃力の『Club Foot』。このイントロは暗黙のうちに「暴れる曲」という符号なんだろう、鳴ると同時に場内がまたもや荒れる。ただ、今回は俺も含め前方はみんな覚悟ができていたようで、なんというか、うまく乗り切った。楽しくさえあった。ヤバい。
 その後は、『Treat』、『Switchblade Smiles』、『Bless This Acid House』、『Stevie』、最後はダウナーなのになぜか踊れる『L.S.F. (Lost Souls Forever)』で〆…だったが、メンバーが去って暗転した後も続く『L.S.F』のコーラス部分の合唱が止まない中、再びライトアップ、新作より『Comeback Kid』でアンコールパートに突入。『Vlad the Impaler』へと続き、全員狼のように吠える『Fire』で本当の閉演となった。
 Kasabianの曲はそれこそ原始人が叫んでいるようなコーラスが多く(『Bumblebee』のラララ・ラーラー、『Club Foot』のアーアアアーアアー、『Fire』のウーウウウーウーウウウウー…)、気分はもうマンモス肉片手に暗やみの中焚火の周り。それを束ねて煽って床にしゃがませ→ジャンプさせる酋長、トムとサージ。
 トムは特に男前でもないんですが、野蛮人たちを統率する族長には大切な素晴らしい声をお持ち。朗々とフロアを渡っていく歌声には、熱狂を一瞬忘れて感動させられてしまう場面があった。
 サージは無人島で10年生活したアンガールズみたいな体系・風貌だけど、チャーミングで目が離せない。ベースのクリスもステージ上で不思議な存在感があったな。ドラムのイアンもそうですが、この二人のリズム隊でバランスとって成立してる部分が絶対にあるのでしょう。
 UKの酋長が作った幕張の未開地。異次元。最高のアクトでした。
 

 おわりに

 全体として、非常に楽しめました。今回Kasabianかぶったため電気グル―ヴが見られなかったのだけが残念。ライブのタイムテーブルはおそらく運営が一番頭悩ませる部分で、その上で組まれたものだろうから文句も言えないですが。 
 
 日付も深夜を過ぎると、会場内後方では座ったり横になったりしてくたばってる人がけっこういます。運営的にすすめられる方法かはわからないですが(防犯的な意味も含む)、俺はこの体勢、わりと好きです。始めて聞く音楽を他の人たちと一緒にゆるく聴いてる、大規模でオールナイトのイベントだけたぶん現れる、弛緩と緊張の混じった独特の時間帯。
 
  最後に、Kasabianを前方で観ていて抱いた感想で、批判というのとはちょっと違う、でもまあネガティブな話で、これ最前列で見るのはちょっと覚悟がいるな、と思いました。体の小さい人、女性は怖いと思うし、注意しても防ぎようのないケガや痴漢など、不快な思いをさせられておかしくない、そういうレベルの混み方と荒れ方でした。おいお前、知らない人に体当たりしてくんのマジでやめろ。
 だから規制してくれ、とも言えなくて、こういう空間でないと生みだせない、体験できない恍惚があって、うーん難しいなあと思いました。ガタイのいいジャイアン的なやつを伴っていくなど、自衛がいるかもしれません。面倒な話ですが。
 なお俺の被害を報告すると、Kasabianの演奏中、なぜか知らない外人に急に持ち上げられました。意味がわからなかったですが、なんとなく俺も彼を持ち上げ返しました。俺の行動も意味がわかりません。その後彼とは握手しました。 
 
 幕張メッセを去って、海浜幕張駅から東京駅、中央線へ。車内にぎゅう詰めの乗客のリストにはほぼ参加者証となるバンドが巻かれている。それが少しずつ減っていって、最後、中央線ではもう俺だけになった中、寝過ごさないことだけ祈りながら目を閉じる。
 去年は急に休んだけど、来年も、今後も、きっとあるよね。またソニマニで。次回も行きます。

ソニックマニア2017の感想について~Perfume、Liam Gallagher編~

はじめに

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 音楽イベント観に行くのを「参戦」とか言いだしたら人間もう終わりである、というのは以前書いたとおりである。

 なんかわざわざ人に言って聞かせてる感じがするじゃないか。うるっせーつぅんだよ、というのも以前書いたとおりである。

 

 というわけでソニックマニア幕張メッセで開催されているサマーソニックの前夜祭的なやつ)2017に参戦してきた。なお、このツカミも以前書いたとおりである。

  流れはPerfume、元OASISフロントマン・Liam Gallegher、そしてKasabianの邦楽テクノ→UKロックコースです。

 

 Perfume…眼福。影法師さえ美しい。

 ソニックマニアは昨年開催されなかったので、来場は2年ぶり。

 夜の東京駅を、おそらく他の参加者と思われる人たちと方向を同じにしながら京葉線に向かう。降りた海浜幕張駅には、もうはっきりと幕張メッセに向かう人の流れができている。

 22時、Perfume開演。俺の位置はフロアほぼ真ん中あたり。

 詳細なセットリストは他に譲るとして(そこまで熱心なファンじゃないので、知らない曲があったというのもありますが…)、GLITTER、ポリリズム、Spring Of Life、ワンルームディスコなど踊れる曲をつなげながら演じられた約50分。

 俺はソニックマニアで過去2回Perfumeのステージを観ていて、まあ毎回思うことなんですが、三人がとにかくかわいい&美しい。

 電子的な音楽と汗を浮かべて踊る身体性との絶妙な協調。幕張メッセの無機質な壁に、踊る彼女たちの影がステージの光で投げられているんですが、もうそれさえ美しい。

 一方、最前列ではまた違ったと思うけど、フェスとして熱狂が俺のいる位置まで波及していたかというと微妙かな?という気がしました。

 観ているだけで楽しいのでついじっと見いっちゃうのもあるし、「ややファン」ぐらいの立ち位置だと、周りが静かだったりするとなかなか忘我で踊りにくいのもあるし、という感じ。このあたり、単純に集客数が上がって全員バカになれる空気を大勢で共有できると違ってくるんだろうな、と思います。

 

 Liam Gallegher…残光。なれど力強く。

 日付もそろそろ変わる23時35分、Perfumeと同じステージを引き継いで登場するのは、かのOASISのフロントマン・Liam Gallegher。

 ビッグネームの面目躍如でフロアはかなり人が入っており、OASISを解散→Beady Eye結成するもこちらも解散→本格的にソロシンガーへ、と進んできたリアムがいまどんなステージを見せてくれるのか、いわばその現在地に対する注目度の高さが現れたのかもしれない。

 予定時刻にほぼ遅れなく開演(リアムのことだから時間なんか守んねーんじゃねーの、とか思ってたんですが)。のっけからOASIS1stアルバムの第1曲『Rock ’N’ Roll Star』で始まり、続いた曲も同じくOASISの『Morning Glory』。

 3曲目は先日公開のソロ曲『Wall Of Glass』。そこからOASIS時代、OASIS解散以後を混ぜながら、最後は『Live Forever』、そしてなんと『Wonderwall』で〆。

 リアムと言えばその声質が「ジョン・レノンジョン・ライドンを足したような声」というものから「ゲロ声」まで、通常ありえないレベルの毀誉褒貶があることで有名で、じゃあ今回はというと正直あまり安定はしていなかったと思う。

 OASIS時代の曲の方がひどく、『Live Forever』サビの「You and I are gonna live forever」なんててめえ自分が声出ねえから客に歌わせてねえか、という。一方、OASIS後の曲は美しく声が出ていたような。まあ、あまり聞き慣れていない分評価が甘くなるのかもしれませんが。

 

 リアムのステージには観る前に思ったことがいっぱいあったし、観た後にもある。

 率直に言うと俺が好きなのはあくまでOASISのボーカルであるリアムであり、その後の活動で発表された曲にはあまりピンと来ていない部分があって、たぶんリアムの方もそういうやつが何人かはいることは理解していて。

 その上でどうやってステージを作ってくるのだろう、というのが最初に思ったことだった。リアムがいまの自分はソロのシンガーだから、という理由で最近の曲だけをやってもそれは当然の判断だけど、正直、それは俺が求めているのとは別だな、と思った。

 結果、リアムはOASIS時代の曲を演奏の皮きりに選び、最後にも『Wonderwall』を持ってきた。その背景はわからない。

 観客の反応は、やはりOASIS時代のものの方が大きかったと思う。解散以後の曲として選ばれたものに縦ノリするタイプのものがないから、というのも影響はしたかもしれないが、「聞かせる系」の歌であってもすべてが合唱可能だったOASIS時代と比べると、残酷な言い方をすれば落差があったはずだ。

 でも、かえって明らかになったと感じるものもあった。それは、リアム・ギャラガーというミュージシャンが、曲や観客の反応に左右されない部分を持つ、やはりすさまじい存在感の持ち主であるということ。

 不安定でもやはり耳を奪われてしまう声。ふてぶてしく、余裕満々でありながら全力でもあるという不思議な雰囲気。40代も半ばに入ったオッサンなのに、ステージ上の一挙手一投足から、子供を見るような気持ちで目が離せない。

 もちろん以前に比べて年は食った。変わらないけど変わり続けるリアム。そんなリアムの現在地を知ろうとすると、どうしても過去の思い出と未来の観測が混じってしまって(例えばOASIS再結成とか…)よくわからなくなる。でも、稀代のロックスターってそういうものかもしれないな。100点満点とは言わないけど、観てよかったと思うステージでした。

 

 長くなったので続きは後編で。後編はKasabianです。

sanjou.hatenablog.jp

異次元でした。

『ジョン・ウィック2』の感想と『サマーウォーズ』と物語の作り方について

はじめに

 『ジョン・ウィック2』を観る人間はだいたい2種類に大別される。ジョン・ウィックが劇中で最初に銃を撃ったとき、「お前銃撃つのかよ!」とツッコむ人間とツッコまない人間である。

 

 と言っても観ていない人にはなんのこっちゃわからないと思うので説明する。

 

 『ジョン・ウィック』の世界ではアウトローとしてランクが低い人間は銃を持つことができない。また、敵であっても意外とみんないいやつが多いので、例えば冒頭でマフィアのアジトに車で乗り込んできたジョン・ウィックが車がオシャカになったので降りてきたとき、誰もジョン・ウィックを遠距離から銃でハジいたり自分の車で轢き殺そうとはせず、一人ずつジョン・ウィックに素手で襲いかかっていく。

 それに対するジョン、打撃と組み技、投げ技を駆使して相手を次々に返り討ちにする。「なんでこいつらお互いに銃使わないんだろ?」という最初の疑問が解決されないまま延々とステゴロが続くので、お、そうか、つまりそういう肉弾的な方向でやっていくんですね、と思ったあたりでジョンが普通かつ唐突に銃を撃つ。なのでツッコむ。「お前銃撃つのかよ!」

 

あらためて『ジョン・ウィック2』の感想と『サマーウォーズ』との対比について

 ここまででおそらくわかるとおり、この映画に対する好意的な感想は俺にはない。ちなみに上でアウトローとしてランクが低いと銃が持てないとかなんとか書いたが嘘である。

 この映画には一つの約束がある。それは、この映画における敵役は単にジョンにスタイリッシュに殺されるための小道具であり、基本的にバカであるということである。

 俺はそれがなかなか理解できず、また、それが理解できるまでに「なんで○○しないの?」というのをずいぶん繰り返した。だいぶ時間と体力がかかった。

 フォローすると、逆にこの約束を把握してからはそれなりに楽しめて、チートで攻撃力と防御力をMAXにしたシューティングゲームのキャラのようなジョンが周囲全員敵と化した街の中で無双していくのは確かに爽快だった。

 ただ、かなしいかなジョンの攻撃のパターンはゲームのプレイヤーでいうと中の下くらいの感じで、そんなにバリエーションが無いので、チートしてなかったらお前わりとすぐ死んでるよな、とかも思った。暗がり行くのに暗視ゴーグルも持ってねえし、そりゃゴーグルかけたらキアヌの男前ぶりは映えなくなるけど、そんなにカッコつけるのが大事か?

 

 細かいこと言うなよ、それは言うだけ野暮なんだよ、という人がたぶんいて、うるせえな細かくねえよ、と言いかけて、俺にはある別の映画にまつわる思い出がよみがえる。

 『サマーウォーズ』である。

 

 『サマーウォーズ』も色々と批判のある映画で、そのうちの一つにご都合主義というものがあって、例えばラスボスとの戦いで味方の一人が相手の鉄壁の防御をわりとあっさり無効化してくれるんだけど、それが「いや、お前何を好き勝手反則技使ってんだよ」という。

 かくいう俺はどうか。…俺は実は『サマーウォーズ』が好きで、なのでそういう批判をする人にたぶん言ってしまうだろう、この言葉を。「細かいこと言うなよ、それは言うだけ野暮なんだよ」。

 ありゃ…?

 

物語における約束ごとについて

 そういうわけで、物語における言うだけ野暮について、俺は『ジョン・ウィック2』と『サマーウォーズ』という二つの映画でできた鏡を境に、自分自身と対立することになってしまった。困った。

 これはどういうことなんだろうか、と考えて、おそらくポイントは、「この物語はなんであるか(何を楽しむものか)」という創作としてのメッセージと、「この物語においてはこういうことが起きる(もしくは起きない)」という約束事という、二つの要素にあると思う。

 例えば『ジョン・ウィック2』において、俺は「この映画はジョン・ウィックがひたすら近接格闘でスタイリッシュに敵を倒していくのが最優先の映画」というメッセージを序盤で受け取ることに失敗した。そして、それを受信するより先に「敵がジョンを倒すために効率という概念を持つことはありません。敵は単にジョンのにぎやかしです」という約束を押し付けられたのでムカついた。

 一方、『サマーウォーズ』では俺は「これは美麗かつ迫力のアニメーションを使ったボーイとガールのひと夏の甘酸っぱいやつで曲を効果的に使ってドーンでスカッとする映画」というメッセージを早々に理解しており、最後のスカッはもう決められていたようなものなので、そこに至る過程は、ある意味なんだろうと正直どうでもよかった。

 要約すると、「この映画は○○です」というメッセージが観客に伝わる前に約束事を押し付けるのは避けるべきで、これが許容値を超えるとその劇は破綻してしまう。逆に初期にメッセージさえ伝わってしまえば、あとはわりと無茶な約束でも容認される、ということである。

 

おわりに。しかし、そもそもメッセージが伝わるとはどういうことなのか?

 要約すると、とか上で気楽にのたまった。だが、よく考えるとここには二つの大きな問題が潜んでいる。

 一つ目。メッセージが伝わるかどうかが作品の成否に大きく関与するとして、果たして作成者はそのことをどこまで気にするべきなのだろうか?

 それが作品の出来を左右するんなら最優先事項じゃん、ってなもんだ。でも、おそらくそう簡単ではない。

 例えばこのメッセージを伝えることに気をとられる、それこそ観客全員に平等に理解させることに作品の持ち時間を過剰に割きすぎるのは本末転倒だ。だいたい観ている奴にも作品と波長の合う奴合わない奴、頭の回転が速い奴遅い奴がいるのだ。

 そうなると、波長が合いにくい、もしくは単に頭の回転が鈍い奴は放っておいて、ターゲットを「メッセージの理解が早い奴」に絞り、結果として多くの人に高い満足を与える、という判断は成立する。早々に作品の骨子を理解できる奴にとっては、作品はちゃんとメッセージ→約束事の追加という順番を踏んでいるので、何の問題もない。たとえグズの少数派が辺境で不平を言うことになったとしても。

 それこそ『ジョン・ウィック2』に同じことが言えて、世の中的にはこの映画の評価は割と高く、俺は冒頭で偉そうに能書きたれたけど、要は大多数が早々にメッセージを受理するのに成功したのに対し、それに失敗した、能力がなかったのである。そんなやつは無視することにしていたのかハナから存在を想定されていなかったのか、ともかく作品としての『ジョン・ウィック2』は成功していたとも言える。

 

 二つ目。俺は物語としてのメッセージが伝わる前に約束事を増やすな、と書いたが、これは意外と難しいのではないか、とも思う。

 『ジョン・ウィック2』の例で考えてみる。この映画のメッセージは「これはジョンが近接格闘中心に無双する映画です」、約束事は「敵はジョンを攻撃するうえで効率という概念のないデクであり、ジョンを目立たせるためだけに存在します」である。

 俺は後者の方が先に来たのでムカついたわけだけど、こういう事態が発生するにはある種のいたしかたなさがある。

 なぜか。それは、敵がまったく頭を使わないこと(約束事)が、俺にこの映画はジョンの近接格闘を見せるのが目的の映画なんだな、ということ(メッセージ)を理解させてくれたからである。

 つまり、順番としてはメッセージが先にあるべきなのだが、皮肉にも約束事がメッセージを明確化するのにとても優秀な役割を果たす…というか表裏と言える関係にあるので、順番が転倒してしまう、ということである。

 創作物を紹介する広告には、ある意味この転倒が起きさせない役割があるのだろう。約束事は秘めつつ、メッセージだけを先に伝え、作品と観客とが不幸な出会い方をしないようにするという。

 また、前作の流れを受けて、というのもメッセージと約束事の関係をふまえたひとつの作品の作り方だと思う。『ジョン・ウィック1』を観た人は2に対しきっと俺のようなツッコみをしないし、最初からまったく別の見方をしているはずだ。

 そういう作品外部の助けを借りず、創作物が何を訴え、何を気にするべきで何を無視するべきかは単体で完結しているべきじゃないですか、そういう美学がないですか…と俺は思うんだけど、それはけっこうイバラの道なのかもしれない。

 そういうわけで、作品そのものについては好みじゃないですが、色々考える機会になった『ジョン・ウィック2』でした。俺はおとなしく『サマーウォーズ』観てきゃっきゃします。以上。

 

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幸運を超えて従えて。『BLUE GIANT SUPREME』2巻の感想について

はじめに

 『ライフ・イズ・ビューティフル』の前半部分が好きで、なんでかというと人と幸運というものとの交錯が、好もしく描かれているからだと思う。

 観た方ならわかるとおり、この映画では主人公の恋に様々な偶然やラッキーが味方する。重要なのは、彼がこれらの幸運をただ享受するわけではなくて、彼がそれらを最大限生かすために知恵を絞って、はじめて活路が開かれていくということである。

 最後に、彼は高嶺の花であるヒロインを射止める。そして、そこには意外なくらい幸運の影響が感じられない。主人公が全力を尽くして(その中には自分の未来を信じぬくことも含まれる)自らの希望をかなえるとき、幸運は上手いこと俺たち観客の前から姿を消すのだ。ただ、努力した主人公に祝福だけを残して。

 

BLUE GIANT SUPREME』2巻の感想について

 はじめに書いてしまうと、ストーリーの中では幕間に近い巻である。

 日本を発ってドイツはミュンヘンにやって来た大は、この地でプレイングを続ける中で一人の女性ベーシストが演奏する姿を目にする。ハンナ・ペータースという名の彼女がハンブルクに住んでいることを知った大は、彼女と一緒に演奏することで得られるものの大きさを確信し、共にバンドを組むべく、自らもハンブルクへと向かうことにする。

 

 某巨大掲示板のスレッドでも言われていたけど、ドイツという異国の地で、大は次々に色んな人に親切にされる。宿を提供してもらい、観客を連れてきてもらい、ハンブルクでは自身が探すハンナとの出会いの場までセッティングしてもらっている。

 大は確かに魅力的なキャラクターだけど、彼が人たらしだから、というだけでこの厚遇は説明できない。まあラッキーと言っていいと思う。

 で、じゃあ大を助けるこれらの幸運は物語の熱気をさまたげるか、読者をしらけさせたかというと、少なくとも俺の場合はそうではなかった。

 結局はこれも大の魅力のひとつの紹介にいきついてしまうんだけど、大はとにかく自分の目指す地点への最短距離を、最速で、かつ(矛盾するようだけど)寄れる範囲の寄り道をしながら猛進していくようなキャラクターで、へこまないわけでも自信を失わないわけでもないんだが、ともかく自分の回転をまったく落とさない(「へでもねえや」)。それでいて、雪の中を独歩する一匹の猫とのちょっとした出会いを胸の中に留めていたりする。

 「俺だから大丈夫」。演奏をひかえた大がこの巻でそう言うとき、そうだ、お前はそう言えなきゃダメなやつだ、と思う。自分だから大丈夫。どんな人でも漠然と思っていることだけど、クズほど自分を甘やかして言ってしまう言葉だけど、そのセリフを口にするのは大こそがふさわしい。

 そして、そんな大には幸運が味方してもいいと思う。主人公だからラッキーが起こるというご都合主義の原因と結果ではなく、ラッキーを単に数ある要素の一つとして従えて前進し、その偶然性が読者の目に目立つ前にかき消してしまう説得力が、大にはあると思うんである。

 

おわりに

 以前、同じ漫画についてこんな記事を書いた後で、非常に節操のない話になってしまいましたすいません。でも、根源は一緒なんであって、要は不幸にするにしてもラッキーにめぐり合わせるにしても、うまいこと俺らをだましてください、ってことで。

 上で書いたとおり今巻はつなぎで、次回、大が共演を熱望していたハンナとのセッションが始まることを予感させて終わっている。大自ら一緒に組んだら凄いことになると公言した両者は、次巻ファーストコンタクトとなるんでしょうか? そして、その暁には果たして何が起こるんでしょうか? 期待。(おわり)

 

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収束へ。終息へ。『へうげもの』24巻の感想について

 もう織部と家康以外の武将の話はしないって約束したじゃないですか。したじゃないですか。してませんでしたっけ?
 
 
 
 
 してない。
 
 してないが、ともかく俺が『へうげもの』であまりピンときていない部分である多くのキャラクターの取り扱いが中心の巻になった。
 なったが、数寄の頂点たる織部と、権力の頂点にして究極の無粋である家康という対決に向けて、色々と整理され収束していった巻でもあった。
 
 まず大阪夏の陣が徳川方の勝利で決着。バーニング大阪城。徳川大正義の流れはもう止めようがないところ。
 大巨人・豊臣秀頼は徳川治世以降で登場したキャラクターの中では俺がぶっちぎりで好きな人物で、初登場の場面では変な笑いが出て止まらなかったし、その後もその体のみならず規格外の器の大きさを示して家康さえちょっとビビらすなど素晴らしく素敵だったが、今巻で退場。退場? あれ、巻きに入ってるはずなのに伏線が増えてるような…?
 
 そして織部。家康暗殺を企てた息子をかばって、自ら最後の舞台へと近づいていく。息子の件がなくても家康は理屈をつけて腹を切らせようとするだろうけど、とにかくこれで織部は退路がなくなったわけで、おそらく死の足音をこころのどこか聞き始めている気持ちなのだと思う。
 その他、いくつかのサイドストーリーがまとめられた。真田幸村、そして稀代のじゃじゃ馬の最期など。思えば幸村は若かりし織部が城に潜入するミッションのときにも接点があった、なかなか古い付き合いだった。今巻の真田の忍術には腹抱えて笑わさせてもらいました。
 
 
 巻末の煽りを見ると次巻大団円とあるから、次が最終巻となるのだろうか?
 前巻(23巻)の感想で「俺はいまの織部より昔の織部の方が好きだった」と書いたけど、ここにいたって軽薄にもそれは考え直す次第で、自分の死を予感しながらあくまでへらへらしつつ老獪な織部は、老いたいまの織部なりの魅力を持ちつつも、昔日からの続きを生きてきた織部だった。俺の中で、ようやく、茶杓ネコババしたり樹上の茶室から湯釜と一緒に崩落したりしていたおっさんと、いまのジイさんがつながった。そして、「ああ。こいつ死ぬんだな。こいつ自身もそのことがわかってるんだな」と思った。
 待つ、次巻。
 
 余談。爆笑したと前述した真田幸村の秘密兵器ですが、この絵を見てあらためて思ったのは山田芳裕はモノとモノに高低差がある構図を迫力たっぷりに描くのが図抜けて上手いということで、何が言いたいかというといつかまた度胸星の続きを描いてくれよ、ということで、これも待っているよ。いつまでも。いつまでも。おわり。

 

 

嗜好品2種。『紅茶スパイ―英国人プラントハンター中国をゆく』と『胡椒 暴虐の世界史』を読んで思ったことについて

 どちらも1600年~1900年ごろのヨーロッパとアジア間の貿易をテーマに扱った作品である。

 最初探していたのは前者だったのだが、図書館でおさめられていた棚をあらためて見ると後者も面白そうだな、ということで手にとった。こういう、本来ターゲットにしていた本と題材を共有する別の本を目で見て手に取って確認しやすい、というのは実物の本の強みであって、だから俺は生身の本が好きである。タブレットを持ってない、それもある。ネットで情報を調べるのがド下手、それもある。

 

 本題。前者の主人公はヒトで、ロバート・フォーチュンというイギリス人。イギリス人紅茶大好き、というのは容易にイメージできるところだが、1800年中ごろまでその栽培方法と製品としての精製手段は産地中国に秘められており、意外にもイギリスはその方法をよく知らなかった。

 そこで、植物学者であるフォーチュンがプラントハンターとして中国に潜入し、自国イギリスのために茶にかかる秘儀と植物それ自体を盗みだしてくる、というお話。活劇というか、冒険としての娯楽性を求めると肩すかしだけど、それは本書の良い面と裏表で、現地の中国人従者との人間関係に苦労しながら、きったねえ市街と山地の泥濘の中を大量の苗と種を抱えてよろよろ行くその地味さは、想像するとなかなかこころに訴えるものがある。

 個人的には作中で登場し植物の輸送に関する観念を根底から一変させた(作中では地球の生態系を変えた、とさえ表現されている)技術、テラリウムが面白かった。要は、植物を土と一緒にガラス容器に入れておくだけで日光と植物自体が呼吸する気体によって草木が必要とするエネルギーが循環し、生きていく環境として完成するという発見である。

 1800年代の時点ですでに見つかっていた技術に2000年に入ってから驚くのもとんまな話だが、個人的に植物すげえなっていうのに気づかされた時期でもあったので、面白かったです。

 

 後者の主人公はヒトではなくモノ、胡椒である。本書で引用されている、「胡椒とは、みんながその周りで踊る花嫁である」という言葉が示すとおり、欧米の商人と政府、宣教師、船に船員として乗せられた囚人、軍人、アジアの領主、アジアの住民、はてはアジア・ヨーロッパの航路間に生息する(していた)野生動物にいたるまで、胡椒という物品を中心に、その行き来に関わった人たち、その利害をめぐってよくぞこれだけの影響を世の中に及ぼした、という顛末を書いた作品。

 胡椒をかけると物が腐らなくなるしあと肉とかうまくなるんだぜ、という目的のもとヨーロッパ人がアジアに行って大儲け、というのが世界史を学ぶのを中学でやめた者の認識だったが、その辺あらためて整理し教えてもらうと、まあもちろんそんな話ではまったく済んでいなくて、行く側来られる側、画策と暴力、死屍累々の世界だった。

 アメリカ政府がベトナム戦争にさきがけて東南アジアへの軍事介入をおこなった初の事例は胡椒がらみだったこと、ドードーの絶滅もこの香辛料が関係していることも、本書をとおして知った話。

 

 この手の本を読んでいいなあと思うのは、自分の認識が色々と相対化される効果があるところである。おそらく一つの題材について総合的に、客観的に書こうとすると自然とそういう記述になる、ならざるを得ないのだと思うが、絶対的に汚いものも綺麗なものも、悪い者も良い者もあまりいないらしいことがわかる。

 たとえば自然。アヘンにまみれたきったねえ市街がある同じ国の中、静かな山中の茶畑が霧の降る中に雄大に広がっていたり、マラリア蚊の徘徊する地獄のような沼沢地と熱帯の美しい大自然が同じ島に存在したりして、それぞれヨーロッパ人をドン引きさせたり楽しませたりしている。

 たとえば人。来られるアジアの側も一方的に搾取されるばかりでなくて、そこにたくらみごとがあったりしてしたたかである。

 もっとも、元囚人の船員による悪行、望まない胡椒栽培に縛り付けられて実質的に奴隷化した現地農民の例など、それは悪だろ、というのももちろんあって、暴力を単なる歴史的要素の一つとしてその善悪を評価せず、というのは「暴虐の世界史」と題された本の目指すところではないと思うが、まあこういうしっかり書かれた本を読むとそんなことを思う。

 あとはですね、たとえばイギリス人というと紅茶、紅茶を語らせたらビンタはるまで語ってやめないというイメージがありますよね。でも、イギリスで紅茶が愛飲されるようになったのはせいぜいここ数百年の話であって、ましてやその栽培のエッセンスに到達してからは200年も経っていないし、それだって言うなれば知識財産の盗用によって現実化されたということがこの本を読むとわかる。

 だからってイギリスにおける紅茶文化がおとしめられるわけではなくて、むしろその国における文化と育まれた期間の長さ、経緯とは、ある程度切り離して考える必要があるんじゃなかろうか、ということも思いました。おわり。

 

紅茶スパイ―英国人プラントハンター中国をゆく

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胡椒 暴虐の世界史

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