『怪談聖 あやしかいわ』について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミ。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 ◯…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 

 こういう書き方をするのは、初見の人に本を勧めつつ、できるだけ先入観を持たない状態で触れてほしいからで、評価が下に進むほど、ネタバレしてしまう部分も増える、というわけです。よければ、こちらもどうぞ。

 

 実話怪談という「本」について - 惨状と説教

 

総評

 A

 

 糸柳寿昭作。2021年刊行。

 ありそうでなかった、会話劇主体の実話怪談集。会話だけで構成される作品が一冊の中に何編か混じっている本は見かけるが、そればっかりというのは珍しい。
 

各作品評

 「モテる男」…◯。怪異とは別のところでオチた話。実話怪談は話の内容だけでなく、体験者のキャラクターも大事な要素だったりする。
 「申し訳ございません」…◯
 「店が満席だった話」…◯

あらためて、総評

 セリフのやり取りで起承転結を描こうとすると自然と小噺的になるのか、「いいオチがついた」という具合に整った話が多い…と思いきや、じゃり、と砂を噛んだような違和感を残して閉じる怪談もあってとても良い。
 

 良い怪談というのは、漠然とした言い方をすると「周波数の合う」怪談であって、上手いこと文章から響くものがあると、紙面から凶々しいものが黒く立ち昇る感がある。これは話の中で人が何人死ぬとか、不穏なアイテムが登場するとかには実は関係がなくて、誰も不幸にならなくてもケレンミがなくても、怖い怪談は怖い。
 会話劇はそういう意味で散文よりも波長が合いやすいというか、この本に登場する話も、特に強烈な霊体験でなくても、「あ、嫌だな」と読んでいて思うことが何回かあった。もちろん怪談として良いことではある。

 

 ただ、怪談がみんな会話を主体に書くと「打率」が上がるかというと恐らくそうでもなくて、この本の作者が巧みなんだろうと思う。
 色んな業界に見聞の広い方なのか、怪談提供者の誰とでも世間話ができてしまい、その描写が上手く怪異との落差、前フリになっている。恐怖そのものをガリガリ掘り下げるだけでなく、無関係に見える生活の周縁とか細部を描写することを重視している印象があり、それが実際に怪談の質を上げている。
 また、巧みといえば巻末に作者自身による各作品評兼後日談が載っているのも面白かった。意外と見なかったな、こういうの、と思う。

 

 余談だが、作品の一つの中で「怪談を好き勝手に良いとか悪いとか批評して、幽霊からしたら愉快なわけがない」という記述があって、実話怪談の書評を思うがままに書き散らしている身としてギョッとしてしまった。すみません。

 

 第46回はこれでおわり。次回は、『弔い怪談 葬歌』を紹介します。以上、よろしくお願いいたします。

西蔵の山中でPCR検査は受けられない。『チベット旅行記』の感想について

はじめに

 先週の土曜日、外出先でのこと。建物の入り口に設けられた体温モニターの前に立ったとき、「ん?」と思わせるものがあった。

 36.4度。平熱が36度を下回っている俺なので、いくらか高めと言っていい。「ん? ん?」。そういう引っかかるものを密かに抱えたまま、その日の夜を迎えた。

 21時ごろ、少しずつ呼吸が苦しくなってきた。妙に痰がからんだ。

 このご時世、集合住宅の薄い壁の向こうで隣人が執拗に何度も痰を切ろうとして咳を繰り返しているのはなかなか恐怖を感じさせるかもしれない。

 そんなことを想像してはみたものの、当の本人だって息が苦しいわけなので、しかたなく何度も咳をするしかなかった。

 (自分にしては)微熱、呼吸の苦しさ。どうしても「ある可能性」が思い浮かぶ。今の家には体温計がないので、現在の体温はわからない。あまり深く考えたくないので布団に逃避した。

 

 翌日、日曜日。朝7時半ごろ、普段よりもかなり早めに目が覚めた。単に覚醒したというわけではなく、息が苦しいのが原因で目を覚ました、という実感があった。

 呼吸を整えながら、しばらく状況を冷静に受け止めようと努めた後、俺が最初に起こした行動はコンビニまで体温計を買いに行くことだった。悪い方に、悪い方に想像がふくらんでいく。少し歩いただけで息が切れる気がした。

 購入した体温計でさっそく計った体温は、36.9度。上がっている。もう普段の体質とか関係なく発熱していると言っていい。

 続いて俺が取ったのは、いまとなっては滑稽きわまりないが、家中の匂いを発するものを嗅ぎまわって自分の嗅覚を確認することだった。

 洗剤。

 ウィスキー。

 数週間前に買ったまま放置しているオレンジ。

 カレールー。

 …どうかな~。微妙だな~。でも気のせいかもだけど、「感じにくい」気もすんだよな~…。

 来たか、ついに。そう思った。

 コロナウィルス、感染したか。

 ものすごい恐怖が突然わきあがってきた。主な原因は昨晩から引きずっている胸の苦しさで、噂では一部の感染者に、深刻なレベルまで進行した呼吸器の不全を生じながら自覚することができない症例があるというのを思い出したのだ。

 正直「ちょっと苦しい」ぐらいでしかないのだが、実際のところはどうなのだ? 自分の体のことなのにまるでわからん。

 まさか、救急車呼ばないと後悔する状態ってことはないよな…。いやいや、ちょっと待て、そもそも、もしも本当に状態がひっぱくしていて病院に搬送されたとして、すぐに受け付けてもらえるものなのか? もう、そんな余裕どこにもないって聞くぞ?

 「救急車で搬送先を探してもたらい回し」とか「自宅療養を指示されて待機してる間に急変した」とか、報道で見聞きして漠然と「こえーな」としか思っていなかったこと(なんて危機意識の低さだ!)、それでもこの社会のどこかで実際に起きていたことが、凶暴な奔流のようになって自分に同化してくるのを感じた。

 

 あれ、俺ここで一人で死ぬ? 嘘ぉ? っていうあっけなさが本当にマジで死ぬときっぽい、っていう実感があって日曜に8時に絶望する。

 そうなんだよ、日曜の早朝なんだよ、いま。なんで平日の昼間じゃねーんだよ~もう~…。

 とにかく、これからどうすべきかアドバイスを誰かにあおがねば、ってことで、まず、自治体の相談窓口に電話。24時間窓口開けててすげえよ。頭が下がる。

 そこで近所の緊急診療施設の電話番号を教えてもらい、続けて電話。状況説明して「来てもらって大丈夫ですよ」と言ってもらい、安心するとともに、ようやく少し落ち着いてくる。

 緊急診療施設ではあわせて、近隣の大きな病院でも急ぎの診療を受け付けているとの情報をもらった。PCR検査受けるのなら、結果出せるのはそっちの方が早いかもね、とのこと。

 目下、俺の一番の心配事は自覚している「少し呼吸が苦しいです」という症状が実際はそれどころじゃない危機に陥っている、という可能性だったのだが、他の人間と話している間に、検査結果という少し未来のことまで想像する余裕が出てきた。病院にも電話して考えた結果、こちらまで出向くことにする。時間は午前9時、起きてから1時間強が経過していた。

 

チベット旅行記』の感想について

 …というのが前置きである。

 その後の細かい顛末は書かない。大山鳴動してなんとやら、結局、PCR検査は陰性であり、呼吸もよくある気管支炎というかたちに落ち着いたからだ。

 もし他の誰かが自身の体調に抑えきれない不安を感じたときに、それを軽んじて笑ったり、ましてやその後に起こす行動に制限をかけるようなマネは俺がこの文章でまったく意図していないことで、実際に危機感を覚える場面があったら、ためらわずに医療機関に連絡するべきだと思うけども、少なくとも俺の場合は全然問題なかったのだった。それにもかかわらず自室でひとり死を思ったりして、これはかなりバツが悪い。

 ただ、一つ後日談を追記するなら、俺はおよそ8,000円という高額を支払い、いわゆるパルスオキシメーターという器具を購入した。指先にセットすると血中の酸素量や心拍を計測してくれるというやつだ。これで、いつ自分の呼吸器に主観では判断できない不安を生じても問題ない(現在の酸素割合99%、心拍53。徐脈だがまあ健康と言える)。

 

 話がまたズレた。『チベット旅行記』の感想だ。一種の冒険記であり、明治時代に日本を出立、インドからネパールを経由してチベットに入国した河口慧海という僧侶(兼冒険家)の旅を記録した手記である。

 現在、中国との間で強烈な緊張関係にあるチベットだが、1800年代後半の当時は当時で、諸外国(特に西欧)に対して厳密に国家間交流を閉ざしており、まともな方法では外国人は領地にも入れないという特殊な状況にあった。

 そうした国を目指して、日本の僧侶が中国大陸の苛烈な自然を攻略しながら突き進んでいく物語がつまらないわけがない…と思いきや、実はこの本、何回も読み通そうとしては失敗して屈してきた作品なのだった。

 

 身もふたもないことを言うと、文章を記している本人に内容をドラマに仕立てようという意思があまりないんだろうな。

 物語で何が起きたかを過剰な修辞で盛り立てようとするのは書き手として三流だと思うけど、一方で、やっぱり文章のメリハリは大事なわけで、河口慧海の言葉遣いにはそうした視点が欠損しており、どんなトラブルも、生命の危機でさえもが、きわめて淡々と日記でも書くようにしか(というか日記なんだけど)記されていない。

 今回、それが読破にいたったのは、面白がるポイントのチューニングが上手いこと合ったのだと思う。

 読んでいてどこに意識を合わせたかというと、河口慧海という人物の奇妙さに集中した。過酷な環境で死ぬかもしれない、悪人に殺されるかもしれない、という状況さえ他人事のように記述するそのキテレツさを楽しむことで、本の様相が変貌したと言える。

 河口慧海というのはメチャクチャな人物で、自分で選び取ってチベットを訪ねることに決めていながら「チベットの町もチベット人もとにかく汚ぇ」なんてことを繰り返し書いており、「チベット人は500人いたらそのうち450人まではクズ」みたいなことまで言い出して、お前、そんなこと言うくらいなら行くんじゃねえよ、という気もするが、河口慧海の心的内部では誰かへの悪口というのは我々の世間一般の悪口といくらか重さの置きどころが違っていて、散々こき下ろした相手でも評価するところは評価する、非難も称賛もどちらも慧海の精神においては同じく平坦であり、自分が下した評価というものにまるでとらわれる気配がない感じがただよっていて、不思議なのだ。

 慧海も妙だが、それに接するチベット人にもおかしいのがいて、チベットに入国してから携行した薬で病人を治して評判を呼んだ慧海と話しているとき、唐突に「お前のせいで国内の医者が面目を潰したから、近々毒を盛られて殺られると思うよ」など、まったく脈絡なく言ったりする。

 「それだと勉強ができなくなるから困るんですけど」と答える慧海も普通ではなく、やはり『チベット旅行記』は何かの活劇というより、出てくる人間のトンチキさを楽しんだ方が面白いと思うのだった。

 

 身近に頼れる者がいない中でときには身体の不調を抱えて過酷な旅を続ける河口慧海に、前述のコロナ疑惑をふまえて親近感を覚える瞬間もあったが、慧海が未開地で渡ろうとした川の急流に巻き込まれて溺死しかけたり、高山における気圧の影響か血塊を唐突に吐き出したりし、それを「まあ死ぬなら死ぬでしかたがないな」と言って取り合えずやるべきことはその場でただ座禅、瞑想しているうちに体調を戻してしまうという怪人であることを考えるとまるで比較にならず、苦笑いするしかない(繰り返すが心身に不調を覚えること自体は笑えるものではないので、みんな異常を感じたらすぐに医療の判断をあおぐべきだとは思う)。

 ところで余談だが、訪問した不案内な土地を持ち前の知識とアイテムによってなんなく攻略し、一切まったく焦る気配を見せずに余裕しゃくしゃく、という河口慧海のキャラクターは、いかにも昨今の「なろう系」主人公を想起させるところがある(もうトレンドとして古いんですかね?)。

 ただ、河口慧海の場合、自身の生死でさえあんまり勘定に入っていないがチベット仏教の学習には執着するという、かなり奇態な人物に映っており、それと対峙するチベット人もトンチキである状況でのトンチキ対話・対決となっているため、別にカッコよくもなんともなく、「なろう系って、実は主人公の有能さと人格の理解可能性が並び立ってないと成立しないバランスなんだな」と知ってすげえな、と思った。主人公も周囲も異常だと、憧れようがないのである。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

 

チベット旅行記〈上〉 (白水uブックス)

チベット旅行記〈上〉 (白水uブックス)

  • 作者:河口 慧海
  • 発売日: 2004/08/01
  • メディア: 新書
 
チベット旅行記〈下〉 (白水uブックス)

チベット旅行記〈下〉 (白水uブックス)

  • 作者:河口 慧海
  • 発売日: 2004/08/01
  • メディア: 新書
 

 

世界は美しいが人間は完全ではない。『ノマドランド』の感想について

はじめに

 観終わってから気づいたことに、俺の抱いた印象以外のものも含めて三通りの鑑賞のかたちがあったのかな、というのがあって、まず、それについて書いておく。

 映画の内容は、不況の影響で自宅を手放さざるを得なくなった(極端な事例だと地場産業が崩壊してしまったせいで、その地区が行政から放棄されていたりする)アメリカの人々を題材としたもの。彼らがトレーラーハウスを住居代わりにしながら、期間労働によって居場所と賃金をつなぎつつ、アメリカ国内を移動していく様子が描かれている。

 冒頭で述べた三つの鑑賞形式だが、

 1. 自宅を失ったのはあくまで一つのきっかけであり、主題はアメリカの自然が持つ荒々しい自然の美しさと、そこに暮らす人間の喜びと孤独

 2. 非常時における社会的弱者への救済が機能しないアメリカ行政に対する批判

 3. 2で露呈した制度上の不備に対し、その後社会に復帰する機会が与えられても意図的にそれを拒絶するという、個人的かつ信条的な反抗

 …がそれぞれ成り立つのかな、と思った。

 この2、3の観点に重要さを置くほど、この映画は社会的な意味合いを含んだ作品ということになると思うが、じゃあ俺は、というと実は完全に1のみの視点で鑑賞していた。世界の美しさと人間の孤独。

 2、3も普通にあるべきだよな、と気がついたのは観終わってからで、まあ俺が能天気というか市民意識が欠損しているというか、以下の文章は1ばっかりの視点ばかりで書かれているため、まるで的を射ていないかもしれないし、人によっては「このバカ野郎」ってなもんかもしれない。すんません。

感想

 面白かった。

 不思議な映画だった。

 感想として、融け合うことなくその二つが両立する、そういう印象の映画だった。

 人間同士の交流が主題の一つであり、空間的にはアメリカの大自然を縦横無尽、というきわめて「オープン」な世界観にもかかわらず、それを丸ごと反転させたように個人の孤独を追い続ける内省的な作品になっていて、邦画のダウナーなやつとか好きな人にも訴えてくるものがあると思う。つうか俺なんだけど。

 不思議な映画、という印象は、いくつかのカットに関して、それが挿入された「意味合い」みたいなものが伝わってくる水準に達していない、ささいな日常の描写がはさまってくるからで、この挿話はなんのためにあったんだ? というのがよく起きる。

 俺は北野武の映画が好きで、あの作風に鑑賞のベースが影響されると、「何てことのない日常」が繰り返し描かれるのは、やがて致命的な破壊を受ける前フリなんじゃないかと思ってしまうんだけど、『ノマドランド』では別にそういうことはない。

 しかし、「別にそういうことはないんだな。これからデカい災厄が降りかかったりはしないんだな」と観ていて理解するまでに割と時間がかかった。とにかく、「なぜ描いた?」という描写がかなり多かった。

 悪口ではない。そういう雰囲気の映画なのだ。なお、上述したように『ノマドランド』を社会的な問題提起をメインにした作品として観ると、それぞれの場面の印象が変わる可能性は高い(キャンプ場でのトイレ掃除のシーンとか)。

 『ノマドランド』に映されるアメリカの大地は本当に美しい。そして、そこを放浪する個人を描いた作品として俺は観た。

 砂漠、雪原に水辺。どこも荒々しく、そして、地球というのはこうした場所がちゃんと実在する、足で踏みしめることができる、美しい場所なんだな、ということがわかる。

 こうした自然は、車で走っていると太陽の昇り沈みがよく映える。そして、ドえれえ僻地でも、とにかく車道が通っている。車道はこの映画における一つのメタファーである気がする。

 この世界は美しい。

 それは衝撃的なほど、その美しさに触れた人間の心情をノックアウトするが、しかし、支配しつくしてはくれない。もう永遠に、誰とも接点を持たず、実社会から追放されきっても構わない、そう覚悟を決めさせてくれるところまでは、残念だが達しない。

 自然の力が足りないのではなく、人間という生き物が本質的に中途半端なのだ。他人との触れ合いを求める気持ちがどこかで生きながらえ、自然の荘厳さによって圧倒的に、何度焼き尽くされても、そこに留まることができない。自然は美しいが、人間はその美を知りながら、そこに永住できない。

 完全なものと調和できるのは同じ完全なものだけだ。人間にはできない。人間の心が完全じゃないからだ。

 『ノマドランド』に描かれているのは、完全な自然を愛しながらも一体化しきれない人間の不完全さ、恍惚と不協和のちりちりするような往復だ。車道はその暗喩であって、完全な自然の風景に放り込まれた人工の異物であり、自然へのアクセスを簡便にすると同時に、そこからの逃亡も可能にするという、ヘンテコな存在…そんな風にも見えた。

 いい映画だと思う。

 ところで、アカデミー賞作品賞を受賞していることは鑑賞した後に知った。それはたぶん、作品の社会的側面から評価されたのかな。いよいよもってトンチンカンな見方をしていた気がしてならない。

 以上、よろしくお願いします。

 

 

 

『魔王: 奸智と暴力のサイバー犯罪帝国を築いた男』の感想について

はじめに

 原題である「mastermind」は、本来、黒幕だとか首謀者だとかいうぐらいの意味である。

 そう考えると、「魔王」という邦題は大見得を切りすぎな感もあるが、最後まで読み通すとなんとなく腑に落ちるところもある。本書は作品の類型で言えばドキュメンタリーであり、あくまで一つの記録に過ぎない。しかし同時に、一人の人間の犯罪活動を通じて、世界というとらえどころのないものの真実を切り出すことに、かなりの精度で成功している…そう思わせる作品でもある。

 

感想

 ポール・コールダー・ルルーという男がいた。ポールはプログラマーであり、それも超ド級の凄腕だった。

 彼はアメリカ国家安全保障局NSA)でさえ突破できない強力な暗号ソフトの下敷きを開発したほか、アメリカ中の薬局と医師、物流業者をインターネット上でバイパスして中毒性の観点からグレーゾーンにある薬品を大量に流通させる仕組みを整備し、膨大な利益をたたき出した。そして、手にした利益を元手にして今度は国際的な麻薬の製造にも着手するほか、私兵を組織してソマリアの海賊と渡り合ったり、アフリカでクーデターを起こそうとしたり、といった具合に順当に「事業」を拡大していく。

 

 読んでいて印象的だったのは、事業を拡大していくポールに、熱狂というか、異常な尊大さに陥っていく、という感じがあまり見受けられないところだ。ポールは自らの内なる悪徳をコントロールできずに破滅していく『マクベス』のような悪漢とは対照的で、手がけるビジネスは果てしなく拡大していくのに、どこかで妙に冷めているように見える。

 ポールにとっての犯罪は、おそらく、コンピュータ上のプログラミングと感覚的にあまり違わなかったのではないか。俺はプログラマ―ではないので、色々な点で想像でしかないのだが、そこにあるのはロジックと実行、いくらかの期待だけであり、ポールは淡々と、自分の頭の中にある論理的思考を現実の世界に落とし込んでいっただけ、それがこの世に実際に何を巻き起こすかを観察していただけのようにも見える。

 そういう人格のせいか、物語の後半で彼は思いもよらない行動に出ることになる…のだが、それはいったん脇に置くとして、ここに生まれたのは、ポールによる支配と同時に、ポール自身でさえシステムの一部=コマでしかないという変テコで矛盾した状況である。もしかすると、支配者(魔王)というのは、ケタ外れに有能であるだけでなく、逆説的に、自らを超える巨大なシステムを構築して始動させた者に与えられる称号なのかもしれなかった。

 

 あらためて、『魔王』は二つの意味で複雑な本だ。スリリングで、娯楽としてものすごく面白いが、読み進めるのは非常に骨が折れる。

 一つ目の理由は、あらすじが猛烈に入り組んでいることだ。「魔王」ポールでさえ数ある中心人物の一人に過ぎず、彼を追う捜査官や司法関係者、ポールの取り巻き、作者であるエヴァン・ラトリフ本人など、無数の登場人物が紹介され、視点があちこちに飛んでいく。

 こうしたキャラクターの多さから、二つ目の複雑さが生まれてくる。つまり、登場する人たちみんな、考えていること、目指していることがてんでバラバラなので、一体誰が「良いモノ」で誰が「悪モノ」なんだかよくわからないのだ。

 

 さすがにそれぐらいわかるだろう、ポールとその一派である犯罪者一味が悪者で、それを追う捜査側が善人だろう、と言いたくなるが、そう簡単でもない。

 ここで、上述したポールの驚くべき行動について触れることにするが、これまでの悪行が白日にさらされ終盤で逮捕されたポールは、なんと司法の側について、自分の仲間を裏切って組織の解体が促進されるのに協力し始めるのだ。

 この貢献を通じて、あわよくば自分の心証を改善してやろう、という思惑がそれほど感じられないのがポール・コールダー・ルルーという人物の異常なところで、彼にとってはかつての仲間を捕まえることに協力するという判断でさえ、「論理的思考を現実に反映させる実験」としか認識していないように映る。

 一方、捜査する側も目的意識はばらばらで、協力に転じたポールを除く、彼の部下を検挙することが大事だ、という派閥もあれば、あくまでポール自身を罰することが重要だ、というグループもある。そういうわけで、善も悪も各々まったく一枚岩ではなく、ポールの犯罪を契機に集まった様々な人物が、好き勝手に自分の合理的だと信じる判断に従って行動している状態になってしまうのだった。

 

 『魔王』というタイトルについて、あらためて、こんなことを考えてみる。

 もし、この世を本気でめちゃめちゃにしてやりたい者がいるとしたら、そいつがもっとも望んでいることは何だろうか。

 大勢の人間を麻薬漬けにすることだろうか。

 膨大な数の人間を殺して世界を恐怖に陥れることだろうか。

 それらも、もちろん「魔王」の願いではあるだろうが、一番の望みはたぶん、自分以外の人間たちがばらばらになり連帯できなくなること、相互に不信を抱き、あらゆる共同体が破綻していくことではないだろうか。

 そういう意味で、ポール・コールダー・ルルーは正しく「魔王」だった。ポールをいかに罰するか、あるいは彼が収監された後の巻き添えからいかに逃れるかをめぐって、あらゆる関係者が結託という判断に失敗したように見えるからだ。

 それが単なる混乱ではなく、個々の選択としてはこれが合理的で最善、と判断したうえで行動しているというところがさらに悲劇的で、まあ善も悪もどちらも、いかなる分断工作にも困惑せず鉄のような結束、というのも恐ろしいが、どうも世の中というのは基本的に、瓦解して分散していくベクトルの方が強いのかもな、ということを思った。

 

 犯罪ドキュメンタリーである『魔王』が、できごとの記録と並行して世界の真実でさえ描き出したんじゃねえか? というのは、こんな感想から抱いた実感だった。だから、ここに書いておく。2,700円というのは大層高額で財布が痛んだが、その価値はあるエンターテインメントだったと思う。以上、よろしくお願いいたします。

 

国分拓『ガリンペイロ』の感想について

はじめに

 作者買い、と言ってよいと思う。書店の店頭で本の表紙と書き手の名前を目にしたときには早くも「買い」だと考えていた。
 2016年、NHKスペシャル 大アマゾン 最後の秘境 第2集『ガリンペイロ 黄金を求める男たち』を観たときの印象を割と鮮明に覚えている。アマゾンの奥地に政府の管轄から外れた非合法の金鉱があり、一攫千金を狙う夢追い人から前科者のアウトローまでが集まって、「黄金の悪魔」と通称される強大な支配者の元で金を掘っている。彼らは「ガリンペイロ」と呼ばれている…という内容だった。
 採掘の現場は非常に猥雑な世界だ。常に暴力の匂いが立ち込めており、売春婦ともあけすけにセックスが行われている。しかし、観ていてなぜか記憶に残ったのは、生命の躍動とは真逆の、ある種の虚しさのようなものだった。きわめてスリリングな題材を扱っており、実際、常に緊張感に包まれているのだが、どこか抑揚を欠いているというか、人肌の体温にさえわずかに届かない冷ややかさのようなものを感じさせるドキュメンタリーだったのを覚えている。
 

感想

 まず注意が必要なポイントとして、この本はあくまで、ドキュメンタリーの『ガリンペイロ』を下敷きにした創作、フィクションである*1。この辺は本の装丁からは何やらわかりにくく、国分氏の取材記録としての文章を期待して読み始めて「あれ?」となってしまったので、苦情を言っておく。
 ただ、創作ではあるものの国分氏の生の感情を感じさせる部分もあった。そのことは後で言及することにする。
 
 ラップ小僧やマカク(猿)、「黄金の悪魔」まで、番組で放送された人物たちが本の中にも登場し、フィクションである点を生かして、その内面にまで踏み込んでいく。そこで描写されているのは、テレビ放送のときと同じくある種の虚しさだ。無数の男たちが金塊を掘り出すために匂い立つような生命力を発散させているにも関わらず、この地を最も強く支配しているのは実は虚しさであり、その事実が執拗に描かれている。
 
 金鉱はなぜ虚しさに覆われているのだろうか。金の取り分が、元締めである「黄金の悪魔」にあまりに有利に定められているからだろうか。掘り出した額面の7割を「黄金の悪魔」が取り、残りの3割を鉱員の頭数で分割することになっており、よく考えれば(考えなくても?)不平等という言葉でさえはるかにかすむような契約と言える。
 あるいは、根本的に採掘でひと山当てる可能性があまりに低すぎるからだろうか。一攫千金を夢見て金鉱にやってくる者が多数いるにも関わらず、人生を丸ごと逆転するような「一発」はほぼ伝説にしか存在せず、採掘場には大金をつかめないまま齢だけ重ねてしまった老人たちが大勢いる。中には、そのまま密林で人生を終えてしまった者の墓さえある。そういうことだろうか。
 
 ただ、俺は一番大きな理由は別のところにあるような気もする。そもそも、金鉱にやってくる連中のほとんどにおいて、「もし大金を得たらどうするつもりか」というビジョンが決定的に欠落しているのだ。それが、拭いされない虚しさの最も大きな原因であると思う。
 ガリンペイロの中には、離れた地で暮らす家族を養うために金を掘るという明確な目的意識を持つ者もいる。しかし、大半の男はそうではなく、ただ漠然と、「デカい一発を当てて人生を変える」ために金鉱にやってくる。大金によって何がどう変わるのかまでは考えていない。ただこの場所に来さえすればチャンスがつかめる、自分こそがその幸運に恵まれると信じている(そして、何事も起きないままずるずると年老いていく)。その薄っぺらさと、ここにいるほぼ全員がそのことに自分でもなんとなく気がついていること、それこそが虚しさの多勢を占めているのではないか。
 
 国分氏が描きたかったのは、金鉱が表層上、エネルギッシュで猥雑であるほど、対照的に鮮明になっていくこの虚しさだったのだと思う。そして、それを映像だけではなく文字として自分自身に咀嚼するために、氏は筆を取っていると思う。ここにフィクションでありながら国分氏本人の存在を強く感じる。
 思い返すと、氏の「作品」である『ヤノマミ』もテレビ放送のあとに文章化という経路をたどったコンテンツだった(これがどっちも激烈に良かったので今回も買ったのだ)。『ヤノマミ』の書籍版を読んだときも、たぶん個人の体験としてあまりに強烈すぎて、映像の編集だけではなくて文字化しないと自我のどこに配置したらいいかわかんなくなったんだろうな…という、戦慄と同情のような感想を抱いた。『ガリンペイロ』もたぶん同じで、あの空間を覆い尽くしていた虚しさを飲み込むために、国分氏は自らに向けて文章にする必要を感じたのだと思う。
 
 一点、踏み込むならば、『ガリンペイロ』の虚しさが国分氏を、そして読者(俺)を強烈に打ちのめすのは、その虚しさが覆わんとする範囲が、南米の最果てから伸びて、広く世界全体まで及ぶのではないか、と錯覚させるからだと思う。
 我々が自分にもはっきりしない期待や、過大な自尊心に突き動かされて故郷を離れたものの、何も成し遂げられないまま老いていき(国分さん自身は十分な仕事をしているけど)、絶望の中で朽ち果てていくこと。…ガリンペイロたちとその他の人間とで環境はまるで違うし、俺だってアマゾンの奥地で金を掘ろうとは思わないが、彼らが抱いていた希望とその背後に潜む恐怖には覚えがあるし、似たようなことは世界中で起きているだろう。まあ、そんなことを思ったのだ。
 これは買ってよかった本。国分さん、いつかまたこの世界の(文明上の)暗部まで行って、つらい目に遭ってきてね、その話を聞かせてね…ってのはひどいのかな。以上、よろしくお願いいたします。
 
ガリンペイロ

ガリンペイロ

 

 

*1: 発行元の新潮社によると「ノンフィクション」だそうです。取材できる部分を超えて各人の心理に踏み込んでいるように見えたのでフィクションと表記したのですが、失礼しました。

『実話怪談 花筐』について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミ。(少なくとも俺には)。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 ◯…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 

 こういう書き方をするのは、初見の人に本を勧めつつ、できるだけ先入観を持たない状態で触れてほしいからで、評価が下に進むほど、ネタバレしてしまう部分も増える、というわけです。よければ、こちらもどうぞ。

 

 実話怪談という「本」について - 惨状と説教

 

総評

 S

 

 鈴木捧作。2020年刊行。

 幽霊らしきものが登場するいかにもオーソドックスな実話怪談から、とらえどころのない奇談、民話のようなものまで、色々な話が収められている。
 実話怪談のどこに魅力を感じるかは本当に人それぞれだけど、話に一挙にリアリティをもたらす、凄みのある一文が読みたい、というのは誰にも共通していると思っていて、この作家はすごくそれが上手だと思っている。けっして仰々しくなく、むしろすごく静かなのに印象的な一節。そういう文章をさりげなく、かつ美しく挿してくる。この点はすべての人にすすめる。
 個人的な好き好きについては、長くなる。詳しくは「あらためて、総評」で。

 

 この本はkindle unlimitedで読めます。 

各作品評

 本当に嗜好にハマった作品ばっかりで、個人的にどれも素晴らしかった。
 旅番組…◯
 花瓶の中の世界…◎
 石へそ…◯
 父の書斎…◯。後述。
 巨人…◯
 不法投棄…◯
 パネル…◯
 裏々ビデオ…◯
 獣…◎
 ゲルニカ…◯。後述。
 本当に大切なこと…◯
 淵を覗く…☆。後述。
 指切り…◯

あらためて、総評

 文脈から切り離すと良さがわかりづらいかもしれないが、俺はこの本の次のような文章が好きだった。
二人のすぐ後ろから、パーマが伸び切ったような髪形の陰気な女がついてきている。…『旅番組』

時間は午後一時を少し回ったところだ。

太陽がアスファルトの地面を容赦なく焼いていた。…『花瓶の中の世界』

あれは人ではなくて、観光地や映画館などの記念撮影スポットにある「等身大パネル」だ。少し角度を変えて眺めると、結構厚みのある発泡スチロール素材だということまで見てとれる。…『パネル』 

それを見た瞬間、目の後ろあたりに氷を押し当てられたような鋭い感触があった。…『ゲルニカ

このとき時間は深夜一時頃だったが、確認するのは翌朝になってからの方がいい、と直感が告げていた。…『天袋』

 なんというか、悲しいかな結局は虚構として処理されがちな実話怪談というジャンルにおいて、さりげなく、しかし鋭く、一瞬で「リアル」にピントを合わせるような文章だと思う。物語の解像度が上がるというか、怪談的に言えば部屋の空気がいきなり冷える、陰影が濃くなるような感覚がある。

 

 『父の書斎』について。親しいはずの人間と人間の関係にも存在する、立ち入ることのできない部分からもたらされる寂しさや諦念のようなものがあって、この本の他の作品にもそれは共通している。

 恐怖だけではなく、わかりえあえなさからも怪異は生まれる、というのは俺の好きなスタイルだ。いま、少なくとも表面上は何の問題もなく見える人間関係は奇跡のようなものでしかなく、それが崩れる可能性が未来には無数に潜んでおり、怪異はときとして、それを先回りまでして見せつけることがある。

 すごいのは、もの悲しい一方でしっかり「おっかない」というところで、『パネル』や『獣』などはかなりゾクゾクさせられる。もしかして、相手の心理に立ち入りすぎたからこそ破綻を迎えたのだろうか? こんな結末になるぐらいなら、少し距離感を感じさせてさびしいぐらいが俺たちには丁度いいのか? …そんなことを考え出すと、なおさら悲しい。

 

 こういう人間の悲哀みたいなものが見え隠れする一方で、『ゲルニカ』のような、楽天的というか、人間の強さ、潜在性みたいな話が混じっているのも面白い。不可解さに対して途方に暮れる瞬間と、未知をパワフルに探求する瞬間と、その振れ幅みたいなものが広く感じられて良いのだが、怪談という営みにとってわりと本質的なことかもな、と思う。

 

 『淵を覗く』について。現代の怪談と巨大水棲生物の組み合わせ(しかも正体が淡水なのにアレですよ?)という時点で個人的には役満だった。子供時代の夏の思い出という抒情性、最後にもってこられた、世界のシッポをつかんだような、それでいてまったく意味不明で宙ぶらりんになるようなオチも含めて、素晴らしいと思う。大好きです。

 

 第45回はこれでおわり。次回は、『弔い怪談 葬歌』を紹介します。以上、よろしくお願いいたします。

 

実話怪談 花筐 (竹書房怪談文庫)

実話怪談 花筐 (竹書房怪談文庫)

 

 

『厭談 祟ノ怪』について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミ。(少なくとも俺には)。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 ◯…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 

 こういう書き方をするのは、初見の人に本を勧めつつ、できるだけ先入観を持たない状態で触れてほしいからで、評価が下に進むほど、ネタバレしてしまう部分も増える、というわけです。よければ、こちらもどうぞ。

 

 実話怪談という「本」について - 惨状と説教

 

総評

 C

 

 夜馬裕作。2020年刊行。

 怪談一話あたりが比較的長め。その分量を生かしてドラマティックな展開を見せるというか、メリハリのきいた作品が多いという印象の作品集。

 

 この本はkindle unlimitedで読めます。 

各作品評

 なし

あらためて、総評

 好きな人にはしっかりハマるだろうな、という感想を抱いた。
 俺はあまり趣味ではないけど、これは批判ではなくて、誰かにとってはきっと評価が高い、というのを言い換えたことにしてくれ、と思う。話の途中に伏線が張られ、オチにはどんでん返しがあり、といった具合に、話としてすごくメリハリがきいている。
 
 俺向きではないな、という印象を見つめてみると、自分が実話怪談というジャンルに何を期待しているのか、少し具体的になった気がしたので、そのことについてちょっと書く。
 怖がりたい、というのが、動機としてはもちろん一番大きいわけだが、俺はたぶん、「世界とはこういう場所だ(こういう場所であってもいい)」、それを示すことを、実話怪談に期待しているんだと思う。こういう不可解なことが実際にありました、と語ってもらうことで、この世界について納得したいのだ。
 事実のツメが甘い怪談を、俺が蛇蝎のように嫌うのはそういう背景からだ。そうやって選り好みした結果として明らかになるのは、俺の個人的な世界観そのもの、ってオチだろうし、それに合う怪談を書くかどうかも相性の問題、書けなくても誰が悪いわけでもないのだが、いずれにしても、俺の好きな「実話怪談」には、ドラマティックさはもちろん、恐怖でさえも、けっして必須の要素ではなかったりするんだよな…と、そんなことを思った。
 
 第44回はこれでおわり。次回は、『実話怪談 花筐』を紹介します。以上、よろしくお願いいたします。

 

厭談 祟ノ怪 (竹書房怪談文庫)

厭談 祟ノ怪 (竹書房怪談文庫)