SONICMANIA(ソニックマニア)2022の参加をあきらめたことについて

ソニックマニアずっと好き

 ソニックマニアというのはサマーソニック前日の夜から日付をまたいで夜明けまで開催されている、文字通り前夜祭的なイベントだ。

 会場は幕張メッセの中に屋内ステージを組む。コンクリートを打たれた、広くて暗い、無機的なスペースにレーザーや照明をガンガンに当てることで独特の浮遊感が生まれる。

 俺はこのイベントが好きで、2013年にThe Stone Rosesが来日して以来、ほぼ毎回参加している(ローゼスは2013年に観られて本当によかった。結局、あのあと再解散? してしまったし)。

 Marilyn MansonThe Prodigyも、Perfumeサカナクション電気グルーヴも体験したし、何よりKasabian! 人生で最高に楽しい思い出の一つだった。

 観客の群れでもみくちゃになりながらロックアンセムでばきばきのぐしゃぐしゃに踊るのが楽しいのはもちろん、疲れたらステージの近辺を離れて、会場後方にあるスペースでコンクリの上に座って、ぼんやり雰囲気を楽しむのもいい。

 特に、イベント終盤の明け方近くになると参加者もちらほら力尽きてきて、後方のこの空きスペースに、疲労感と満足感でまったりしながら、「まだ踊ってるやつらすげ~な~」って見ながら、俺ももう一回混ざりに行こうかな、という不思議な空間が形成される。俺はこれが好き。

 ソニックマニア、大好きだ。いつかまた行きたい。

 でも、今年は行かなかった。

誰のせいでもないが、幻想は失われた

www.summersonic.com

 ソニックマニアサマーソニックともに、今年はオンデマンドでも配信されている。感染症の拡大とは別に、仕事などで出られない人は必ずいるわけで、素晴らしい取り組みだと思う。今後もぜひ推進してほしい。

 

 ことわっておくと、これは誰を批判するつもりの記事でもない。アーティストも悪くないし、運営も悪くないし、参加した人も悪くない。

 あえて悪いものがあるとすれば感染症であり、それにまつわる俺の心境の変化について書いている。それは、「こんなに感染者が多いのに、音楽フェスなんてやってる場合か?」という疑問や怒りではなく、ある種の幻滅…と言っていいのか、なんというか、冷めてしまった、ということだ。

 あくまで、俺個人の話であって、他の人たちも同様に幻滅するべき、とはまったく思っていない。ただ、逆に言えば、俺にとってライブに参加するときに大切に感じていた夢は失われたので、まあ、それを悼(いた)む目的で書いている。

 

 ソニックマニア2022の開催が決まり、参加アーティストが公表されたとき、最初、俺は行くつもりだった。

 Kasabianという、フロントマンのトム・ミーガンがパートナーへのドメスティック・バイオレンスを犯したため脱退したUKロックの雄が、サージ一人の体制でどれだけすごいものを見せてくれるか観たかったし、電気グルーヴサカナクションも好きだし、Primal Screamも初体験したかった(サカナクションはその後、欠場)。

 ただ、その後感染者がどんどん増えてきて(下図)、「ありゃりゃ、これはちょっとまずいな」と思った。

 

(出典:日本国内の感染者数(NHKまとめ))

 

 ソニックマニアは屋内のイベントであり、もちろん換気は対策するだろうけど、ステージを観ているときのぐっちゃぐちゃの密度の中で、隣同士の飛沫を防げるものではないだろう。

 通常の呼吸だけでなく、あの空間にいれば必ず声を出す。マスクだって、熱気の中で体を動かしていたら、とてもしていられないはずだ。

 サマーソニックの運営は、ガイドラインでマスクの着用と声出しの禁止を呼びかけている。その中で誰かがマスクを外し、声を出すことを、黙認されていると取るべきではないし、ガイドラインに従えという人がいたら、それは空気が読めないのではなく、正論なだけだ。

 でも、あの熱狂の空間でそんなことしてられるか?

 できない参加者も大勢いるだろう。それが自然だ。

 だから難しいのだ。だから「なあなあ」になる。それは避けられないことで、俺はそれで守れない人間や運営を責めても仕方がないと思う。

 もしも誰かが「マスクしようや。決まりなんだからよ」と言ったら、それが100%正しいし、本来なら、参加者全員がそうするべきなのだ。

 一方で、できないなら来るな、というか、できないやつが一定数いるんだからそもそも開くな、というのも難しいから、この話は面倒くさくて大変なのだ。それは、一部の人たちから生きる理由や飯を食う手段そのものを断ち切ることだから。

 

 ここからが本題になる(それほど合理的な話でもないので、何を言ってんだ、という人もいるだろう)。

 感染者が増大して、行くかどうか考えたときに、俺はふとこう思った。

 「アーティストとライブの参加者は、どちらが感染するリスクが高いのだろうか?」

 空気感染の危険性があるのは、基本的に人間同士の距離が2m、長くて10mという情報が多い。

 アーティストのいるステージには広さがあるし、観客とも一定の距離が保たれている。おそらく、演者同士の陽性チェックもしているだろう。そこまで危険はなさそうだ。

 一方、観ている側はそうではない。ケタ違いに密度が高いし、横にいる相手が陰性か陽性かもお互いにわからない。つまり、「具体的に何倍」とは言えないが、ステージよりも観客の方が圧倒的に感染リスクが高い。

 

 それはいいことなのか?

 ライブという空間において、タレントと客の関係はそれでも壊れないものなのか?

 

 これを読んでも、ピンと来ないという人がおそらく多いと思う。俺も自分で、書いていて驚いている。

 つまり、感染のリスクについて考えた結果、いまの状況でのライブは、アーティストと観客の関係性を(俺個人としては)維持できない、と思ったのだ。

 スター ⇒ star(星)、アイドル ⇒ idle(偶像)という言葉に表れているとおり、あの人たちは本来、規格外の存在だ。平等の立場ではないと思うし、金を払って拝ませてもらっている(別に、対価を払ってるんだから対等だ、という意見があってもいいけど)。

 それでも、俺はライブの空間というのはアーティスト単独では生み出せず、観客との融合の中でつくられるものだと思う。その場で一緒に形成するものだと思っている。

 そのときに、いまの社会に強大な影響をふるっている病気に感染する危険性を観客がより多く負って観ている、それは、ライブとしてあるべき姿なのか?

 実際のところ、フロアでライブを見ることがどの程度のリスクなのか、数字で計測できない(誰にもわからない)。

 ほぼ確実に言えるのは、日常生活よりも高いということで、よく言えば「それでも、感染らない可能性が高い」し、悪く言えば「どの程度安心か危険かさえ不明」ということだ。

 その上に、アーティストと一緒に熱狂の空気は築けるのか?

 

 築けるだろう。俺は無理、というだけの話なのだ。

 繰り返すが、アーティストと観客は平等ではないと思っている。

 でも、ライブという空間で、どんなスターもアイドルも、こちらに託すしかないものがある、とも思っている。その点で、俺たちは同等なんだ、だからあの一体感なんだ。そう信じていた。

 観客がはるかに高いリスクを負ってつくられるいまのかたちを見て、感染症がその幻想を壊してしまった、という話だ。

 

それでも、幻想は生き返るので

 アーティストも平等に感染のリスクを負うべき、ということではない(そんな無茶な)。あえて言えば、「開催しない方がいい」としか言えないかもしれないが、それではアーティストや運営会社は生活できなくなってしまう。

 今の時点の結論はない。だから、俺は誰も責めない。

 開催という選択を止めろ、と断言できないし、開催すれば人は来る。そして、来た人の一部はルールを守れない。しかたがない。馬鹿にしているわけでも皮肉でもなく、そういうものだと思う。

 ただ、「このかたちである限り、あれは俺の中では『ライブ』じゃねえ」という人間はいる。俺のことだ。

 こうである限り俺は永遠にライブに行けない。それは困る。

 

 これでいい、とアーティストも運営も考えてはいない、と信じている。

 それが、「陰性証明必須、マスク絶対厳守」というベタなルールの追加なのか、「感染数がもっと増えたら次回は中止」なのか、「オンライン配信の体制強化」なのかはわからない。

 でも、俺の中のスターやアイドルを求める幻想は、必ず、都合よく生き返ろうとするだろう。だって、やっぱり観たいもん。スペシャルで、世界で一番カッコよかったりきれいなものを。

 またいつか、行ける日が来るのを祈っている(感染症が終息するのが一番いい)。

人工知能は異形の夢を見るか、について

AIすごくね?

 AIに絵(画像)を描いてもらうことが話題になっている。

 どちらかと言うと冷ややかに見ていた。特に「◯◯(画家の名前)風」に描いた何か、という画像を見たときは、けっこう不愉快な感じがした。

 「あくまで◯◯風の、だからな。楽しんでる連中はそこんとこ勘違いすんなよ」

 面倒くささ丸出しで、そう思っている。

 

 別に美術の知識があるわけでもないが、画家というのはみんなそれぞれの人生や信念があって個々の作品に「たどりついた」のだと思っている。描くものには理由があって描かれたんだし、描いてないものは描いてないのだ。

 ◯◯がもしあれを描いたら、という仮定にはなんの意味もない。

 自分の描いた絵以外描けなかったことも含めて、◯◯という画家なのだ。

 しかし、なんか段々と、「◯◯風の何か」から「◯◯が描いた何か」にぐずぐずとスライドしつつある気配があって、勝手にムカついていたのだった。

 

人工知能は異形の夢を見るか?

nlab.itmedia.co.jp

https://image.itmedia.co.jp/nl/articles/2208/04/l_rj_220804midjourney01_w540.jpg

 

 ところが、ですよ。

 これはすごくないですか? 異形崇拝という単語で生成されたものらしいけど、「おお…」と思ってしまった。

 俺は当のサービスを触っていないので、実際に出力するまでは細かい条件やコツがあるのかもしれないが、「異形崇拝」という漠然としたお題でも、ものすごくそれっぽいものが出てくるようだ。

 

 いやいや、というか。この「それっぽさ」を表現(と言っていいかわからないが…)できていること自体が、不思議と言えば不思議だ。

 本来、異形という単語でイメージされる範囲はかなり広い気がする。その中で絶妙に、異形でありながら神性を感じられるものが抽出されているのは、崇拝という言葉が組み合わさり、うまく意味を形成したのだろうか?

 単語を与えただけでは、全然トンチンカンな出力しかしなさそうなのに、実際は、かなり「らしい」ものが出てくる。ざわざわするぜ。何が働いてそうなったのか、興味深さと、怖さと嬉しさと。

 

I have an apple.

画像

出展:魔術として理解するお絵描きAI講座|深津 貴之 (fladdict)|note

 

 別のユーザーが「I love apple.」というお題で注文したところ、こういうものが出てきたらしい。いいねー。

 何がいいか、何と比べていいかというと、いわゆる画像検索で表示される「林檎」と比べると、AIが生成したものの方がずっと好ましくて、興味深い。

 

 それはデザイン性の問題? それも一つの理由かもしれないが、もう一つ理由があると思う。

 AIが画像をクリエイトする仕組みはよく知らないが、ネット上に上げられている膨大な林檎の画像や情報を集約した結果として、成果を表示しているのだろう。

 このときの、集約というのがポイントだ。つまり、インターネットというのが地球の数多くの人間が接続しているある種の阿頼耶識集合的無意識だとすれば、そこから汲み出された「林檎」は、人類の精神の底で共有された林檎の原型とも言える。

 俺たちは、デザイナー個人の美意識を反映したものではなく、数えきれない俺たち自身の心の中にある「林檎」を見る術を手に入れたのだ。俺はそれがすごいと思う(続く)。

支配について

俺の布団

 数日前、台風が来ているのに布団を干しっぱなしにして外出したところ、思いっきり風で飛ばされた結果、隣の部屋の軒先に引っかかってしまった。

 たぐり寄せるために竿を伸ばしてみると、届くことは届くのだが、うまいこと引き寄せられない。表面だけをなでているような状態だ。

 台風一過でその後は晴天が続いている。俺の布団はその場所でじりじり焼かれ、自分の布団が目の前で干物になってしまっているのである。

 

 ふと思いついて、この日、竿の先にペンを固定して即席の鉤(かぎ)をつくってみた。

 これがハマった。布団は数日ぶりに回収された。

 ついでに、コクワガタも捕れた。

 

俺の言葉

 自宅の裏がけっこうな山だ。おそらく、クワガタはそこから飛んできて布団に引っ付いたまま俺に回収されてしまったのだろう。

 コクワガタというと雑魚で有名であり、昆虫採集では点数にカウントされるかどうかで今でも意見が分かれている。

 俺もはっきり言ってなんの魅力も感じない虫だと思っていた。が、あらためて部屋の中で観察して思ったことがある。

 

 かわいい。

 

 すっげーかわいい。何これ?

 かわいいし、ビューティフルだ。

 

f:id:kajika0:20220816194520j:image

 

 昆虫というのは頭・胸・腹の三つの構造に分かれており、クワガタやカブトムシのような甲虫はそのつくりが特にわかりやすい。

 このコクワガタを観察すると、腹が特に長く(頭と胸を足したよりも長い)、逆に頭はとても小さいことがわかる。

 その小さい頭に、小さいあごがついているかわい~。

 光沢の現れ方も違っていて、頭と胸はつやつやと漆黒だが、腹は古い材木のようなムラがあり、部分的に灰色がかっていて味わいがある。

 かちゃかちゃよく動き、その中でも二つの触角は、体が動きを止めているときでも何かを探っている。形状は櫛(くし)に近く、先端に一番大きい「歯」がついていて、それが段々と小さくなりながら並んでいる。

 よく見ると、歯の部分を除いた柄にも発見があり、触角というのが単なる一本の棒ではないことがわかる。触角は途中で、関節のように少し反って曲がっているのだ。柄が曲がった櫛、ということだ。

 クワガタはそれを常に動かしながら、辺りを探っている。「どういう状況なんですかね?」という感じに見える。

 もう一つ興味深かったのが足で、付け根にだいだい色の点が付いている。蛍光的な色合いではなく、ちょっと褪せた金色のような感じのオレンジ色だ。なんだろう? 何かの器官にも見えないが…。

 その後、かわいいかわいいとひと通り言ってからリリースした。

 

 言葉。

 この文章の主旨は言葉だ。

 「いいもの」を見ると、言葉が湧いてくる。

 俺はその感覚が好きで、そういう感覚を持っている俺自身が好きだが、この感覚は底の方でサディズムや偏執と根が入り混じっているので、あまり、人に言うことではないんだろうな、と思う。

 いいものを見たとき、俺は色々なラベルのついた瓶やタッパーのような容器にそれを分解して収めて、それらは単語と呼ばれているが、その瓶をもっともいい感じに並べ替え、その配置を俺自身のために楽しむ。

 そうやって物を支配している。もしくは支配した気になっている。

 下賤な趣味だと思う。でも好きだから止められない。

 ものを書いているときの顔はたぶん放送できない表情をしているので、その代わりにできた文章の方を載せておく。

天国について

天国に行きたいか?

 死んだ後に行く天国というのは、どういう場所なんだろうな、と考えることがある(ちなみに、俺自身は無神論寄りで、特定の信仰を持たない)。

 そもそも、天国に行ったとき、俺は何歳の姿になるのだろうか? 死んだときの年齢なのだろうか? それとも、好きな年齢のときの俺なのだろうか?

 そして、天国には他の人たちもいるはずなのだが、そのとき彼ら・彼女らはいったい何歳のその人たちでいるのだろうか? その人たちも、自分の好きな年齢の姿でいるのだろうか?

 

 俺にはこれまで、幸せだった時期というのがあまりなく(幸せだった出来事はある)、あえて挙げると、本当に10歳以前にさかのぼってしまう。であるから、例えば天国の俺が10歳に戻ったとして、俺の父母に天国で会うことを考えてみる。

 俺としては、今の自分の姿が10歳なのでその頃の40代の父と母でいて欲しいが、二人には二人の「この時代のこの姿」というのがあるとすると、年齢とか時期が食い違ってしまう。

 俺、10歳。母も10歳。父だけ80歳とか、そういうことになるかもしれない。

 10歳のお袋と80歳の親父に会ってもなあ、と天国にいる10歳の俺は思う可能性がある。…と、これは逆の立場にも言えて、80歳の父としては40代の俺に会いたいのかもしれないし、どうもうまいこと行かない。

 

 どうすればいいかというと、天国が一人一人、別々にあればいい。

 俺の天国では、俺は10歳で父と母は40代。

 父の天国では、父は80歳で母も80歳、俺は40代。

 母の天国では母は10歳、俺と父は、もしかするといないかもしれない(いて欲しいが)。

 もちろん、神の用意する天国だから全く別の魔法のようなロジックで動いていてもおかしくないが、どうも今の理性では、天国は個々人に分かれているもの、という方が腑に落ちる。

 だから、思う。天国って孤独だなあ。どれだけそこで幸せで、もう何の心配もなくても、本当にいるのは自分だけなのだから。

 

はてなブックマーク、ミュート機能導入 

bookmark.hatenastaff.com

 はてなブックマークは、ユーザーの投票形式でプラットフォームにニュースやウェブ記事を表示し、それにコメントをつけることができるSNSの一種だ。気に入ったユーザー(ブックマーカー)をフォローしてコメントを確認したり、誰かのつけたコメントに星をつけたりすることができる(twitterのふぁぼに該当する)。

 以前から、「特定の話題や人物に関するニュースをトップ画面に表示させたくない」という意見が一定数あって、運営がそれに対応してくれたかたちだと思う。

 

 ヘビーユーザーでありながらこう言うのもなんだけど、俺は、仮に利用者が不快になろうとも利用時間の合計が増えるならいかなる手でも使うという点で、すべてのSNSは邪悪だと思っている。

 普通に考えると、不快な体験が続けばそのサービスから去りそうなものだが、そうもいかないのが人間の不合理なところで、不愉快なニュースにわざわざコメントをつけ、かえって怒りを増幅させたりする。そして、SNSを提供する側としては、利用時間が増えるならユーザーが怒ろうがなんだろうがかまわないのだ。

 

 SNSがユーザーの快適さを気にかけるのは、不快さが利用時間や利用者の減少につながっていると判断した場合だけだと思う。

 そういう意味で、今回のはてなブックマークの動きは興味深くて、もしかすると、ユーザーが減っているのかもしれない。ユーザーがうなぎ上りに増えているなら、こういう手は加えないはずだ。減少していることの一因に、「見たくないものばかり出てくる」というのがある、運営がそう判断したのではないかと思う。

 

 SNS等で自分に快適な環境をセッティングした結果、表示される内容が偏り、さながら泡に閉じ込められたようになってしまうことをフィルターバブルという。

 自分にとって不都合な情報でも、それが正しく、俺たちの立場をうまくバランスしてくれるものなら視界に入るべきで、フィルターバブルが完成するとそれが果たせなくなってしまう。そうすると、同じような意見を持つ人たちとしか接点が生まれず、考えが極端になる危険性がある。

 それはまずい。そして、もっと根本的に、情報=他者と接触しているのに快適なだけ、という状況そのものが、上で書いた「天国」のように孤独で横暴な世界観と同義なんじゃないか、という気がする。

 つまり、ただ快適なだけの環境というのは、同じことを考えている者同士で集まっている、というグループですらなく、本当はたった一人なんじゃないか、と思う。

 そう考えると、少しヒヤリとする。

 俺は10歳でいたいから、あなた(両親)は40代でいてくれよな、と俺が願うときの両親が、本人たちとは無関係のがらんどうでしかあり得ないように、環境を突き詰めていくと、集団でさえやがて分解してしまうのではないだろうか。

 

 …というのは妄想に過ぎない話で、ありがたく、いくつかの話題についてミュートさせてもらおうと思っている。でも、こういうことを進めていくと、と考えたときの「ヒヤッ」とする感じも覚えておくつもりでいる。

2022年8月11日について

 風が強い日だった。海岸に椅子を持っていて本を読んでいた。波がいくつも重なって立って、天気はいいが、海が沸いているようだった。

 犬が散歩しながら何匹も目の前を通っていく。あるとき、茶色が濃い柴犬が一匹、急に立ち止まったので首のリードが飼い主の手との間で、びん、と張った。

 しばらく砂地の匂いを嗅いだ後、前足で一ヶ所を掘り始める。お、掘ってるな、と思う。

 犬はそこでおしっこをして、よし、という感じで去っていった。

 次にスパニエルに似た洋犬がやってきて、前の柴犬がおしっこをしたあたりで、ん? という感じで立ち止まった。ん? ん?という感じで興味たっぷりで鼻を動かしている。

 おおー、と思っている俺を置いて、何もせずに去っていった。

 次に大きいプードルがやってきて、また同じところで匂いを嗅いで、去っていった。

 次に来た犬は何も関心を示さなかった。そういう性格なのかもしれないし、もう臭いが消えてなくなっているからかはわからない。

 

アンチ・ジャンプスケア派こそ観るべき…なのか? 悪辣な傑作、『女神の継承』の感想について:後半戦

 前半戦はこちら。色々と内容がエグいから観る前に気をつけような、でも俳優と演出はめちゃめちゃよかったよ、という話。

 

sanjou.hatenablog.jp

 

 

 

 

 以下、ネタバレ再開。

 

 

 

 

 

ネタバレ解禁③ 「この車は赤い」の意味は?

 無数の悪霊にとり憑かれた女性ミンを救うため、ミンと思われる顔に布をかぶった人物は車に乗せられ、儀式の現場である廃墟に向かう。

 その車は黒いのだが、なぜか「この車は赤い」というステッカーが貼ってある。その意味はなんだったのだろうか?

 

 外部サイトで監督本人からヒントが出されているので、紹介する。

タイ人の迷信なんです。

例えば、車を買って、霊媒師や占い師に『この色の車をあなたが運転すると運が悪い』と云われたとしても、もう買い替えるお金がないんですよ。

だからシールを貼っている。この考え方が最後の儀式に繋がっていく

 

 おそらく、「この車は赤い」にはいくつかの意味がかかっている。

 一つ目。車に乗った布を被った人物はミンであると嘘をついていることの暗示。実際には、布の内側にいるのはミンの母親のノイであり、ミンを呪う悪霊たちと、映画を観ている観客の両方をだまそうとしている。

 二つ目。ミンの叔母であり女神・バヤンの巫女でもあるニムが、本当はバヤンを完全には信じていなかったことの暗示。

 ニムは儀式の前日に死亡してしまい、『女神の継承』は彼女がまだ生きていた時点のインタビューでエンディングを迎えるのだが、ニムはそこで、「バヤンの存在を感じたことはない」と告白する。

 それでもニムは巫女としての仕事を長年続けてきたし、バヤンの存在を感じるか、と姉であるノイに尋ねられた際は、「会ったことはないが、存在は感じる」と嘘をついた。黒い車に貼られた「この車は赤い」というステッカーは、彼女の嘘を示している。

 三つ目。ここで、嘘と真実が逆転する(ただし、これは憶測)。

 つまり、目に見える色が黒であろうと、「赤色」というある種の呪いを込めれば赤になるということ。

 それは、食べてもいい犬と食べてはいけない犬を人間が都合よく使い分けているように、意識の持ちようこそが現実を左右する強い力を持つということ。

 深読みを承知でもう一つ、ニム役のサワニー・ウトーンマのコメントを引用する。

「私は生きてる」

 

ネタバレ解禁④ 死んだニムの家に湧いていた蛆虫の謎

 儀式の前日、ノイはニムに電話をするが出ない。彼女の家から着信音は聴こえるので、不安になったノイが鍵を破壊して中に入ると、ニムは死んでしまっている。儀式に利用すると思われる供物には蛆虫が湧いている。

 ニムが死んだ理由は、悪霊に殺されたという説と、生前のインタビューでバヤンへの疑いを口にしたため、バヤンに殺されたという説がある。どちらが正解かはいったんおいて、あることが気になる。

 これは推測なのだが、ニムに電話をかけてもつながらず、ノイがすぐに不安になるということは、ニムが死ぬ前日まで、ニムとノイは連絡が取れていたのではないか。毎日できていた連絡が急に絶えたから、ノイは心配になったのだと思う。

 そうなると、蛆虫の存在は妙だ。確かに蠅はすごい早さで繁殖するとはいえ、一日や二日掃除をしなかったぐらいで、作中で描かれたほど大量に増えたりはしない。

 つまり、ニムはまだ生きているうちから、儀式の準備を放棄し、家で虫が増えるにまかせていた、ということになる(もちろん、超常的なパワーで虫が急に増殖した可能性もあるが)。

 ここで疑問が生まれる。ニムはミンを救うための用意をしていたはずなのだが、本当に救済するつもりがあったのか。

 というか、彼女は本当に、悪霊やバヤンに殺されたのか。

 

ネタバレ解禁⑤ 俺は犯人はニムだと思う。

 何をもって犯人とするか、ということなので、最後にミンもしくはノイを乗っ取ったのは誰か、というとニムではないかと思う。

 証明ではなく、こう思うぐらいの話なのだが、他の謎と合わせて整理していく。

 

・ニムは本当の霊能力者だったのか?

⇒ Yes.

 『女神の継承』のエンディングで、生前のニムが女神バヤンの存在を感じたことはない、と告白したことから、そもそもニムは霊能力者ではなかったのでは? という疑問が生まれる。

 しかし、ニムは作中で、卵を使った儀式や正気を失ったミンの一時的なケアを成功させているので、特殊な力があるのは確かなのだ。むしろ、こうした能力があるのにバヤンを信じ切れなかった、というのが物語のミソではないかと思う。

 

・祈祷師サンティは本当の霊能力者か?

⇒ おそらく、Yes.

 祈祷師サンティの役どころは、普段は見せかけの儀式で金を稼ぎながらも、本物の霊能力も持つ祈祷師というものだ。

 ニムと比較すると、サンティの能力は疑わしい。ニムとは違って直接霊能力を示す場面も(おそらく)ないし、終盤に描かれる本気の儀式も、ビジネスでやっているショーと違うかと言われると、同じようなも雰囲気じゃねえ? という気もする。

 彼は洞察力には長けているが、それも霊能力というより、単に情報収集が得意なだけかもしれない。本物、と判断するのは難しい。

 ただ、上で書いたとおり、ニムはほぼ確実に真の霊能力者だ。そのニムがサンティを頼っていたということ、また、悪霊が封じ込められて振動する壺を見てもサンティが平然としていたことから、やっぱり常人とも違うんじゃないかな、と思う。おそらく、彼も本物だったのではないだろうか?

 

・最終盤、ノイ/ミンに乗り移ったのは誰だったのか?

 で、これである。

 実は、俺は中盤から割りと、ニムが黒幕なのでは、という目線で見ていた。そのため、死んでしまったときは「あれ、違ったか」と思ったのだ。

 ただ、よく考えてみれば死者になることで得られる、あるアドバンテージがある。

 その利点とは、他人に乗り移れるということだ。そもそも、『女神の継承』という物語自体が、ずっとそのこと、死者とは他人に乗り移って苦しめるもの、ということを描いているのだ。

 

 もしかすると、何かの目的を果たすために、ニムは自ら命を絶ったのではないか?

 そして、他人に乗り移れる悪霊となり、誰かにとり憑いたのでは? では、それは誰だったのか?

 

 おそらく、その相手は姉のノイか姪のミン、どちらかだろう。

 もちろん、ノイとミンだけでなく、カメラクルーを除くほぼ全員が悪霊にとり憑かれたので、一族の長兄であるマニやサンティの弟子たちにニムがとり憑いていてもいいのだが、それはあんまり面白くないので。

 なお、ノイとミンは両方とも「誰か」にとり憑かれているので(ノイの場合はただのトランス状態という可能性もあるが)、一方に乗り移ったのがニムなら、もう一方は何だったのか、ということについても考える。

 

 まず、ミンの方にニムがとり憑いていた場合。ミンはすでに複数の悪霊に支配されているが、そのうちの一体としてニムが加わった、と考える。

 このケースは、ミンが最後にノイにガソリンをかけて火を放つシーンをより合理的に説明できるという利点がある。中盤で明らかにされるとおり、ノイは自分が巫女になりたくなかったため、様々な工作を働いて妹のニムに役目を押し付けた経緯がある。

 まだ生きていたときのニムはそれを許したように見えたが、実際は違ったのかもしれない。そして、ノイの告白を受けて許すかどうか悩んだのち、姉に復讐することにする。

 こうしてニムは自死を選び、死後にミンの体を使って姉に復讐を果たした。

 このとき、ノイの中には何が乗り移っていたかというと、おそらくバヤンなのだろう(ノイ本人もそう言っていたし)。

 

 ただ、もっと色々と説明がクリアになりそうなのは、ノイにニムがとり憑いており、ミンにはバヤンが憑いている場合である。

 終盤、ノイは途中で失敗した儀式をやり直す、と宣言して「バヤンが自分の中にいるのを感じる」と発言する。

 ただ、注意しないといけないのは、前の巫女であるニムは生前、バヤンの存在を感じなかった、と告白していることだ。つまり、本来ならバヤンは巫女でもいるかいないかわからないものなのだ(巫女によって感じ方が違う可能性もあるし、極論、ニムにはバヤンが憑いていなかった可能性もあるが…)。

 そうなると、ノイが「中にいる」と感じるものがバヤンであるはずがなく、別の何かといえば、それはニムではないか、と推測する。

 バヤン(ニム?)に憑かれたノイは、儀式を再開すると言った後、なぜか線香を灰に埋めて消してしまう。これで悪霊の力が強まったのか、その場にいる者は全員とり憑かれて発狂する。

 ニムはこうしてその場から正気の人間を排除することで、ノイを守れる者をノイ自身の手によって除外させたのではないだろうか。その後、ノイはやって来たミンによって首を絞められる。ノイは無力化された後、火を放たれ、ニムの恨みも晴らされる。

 このとき、ミンの中にはおそらく、バヤンがいるのだろう。根拠としては、かつて自分を継承するのを拒否したノイにミンの体を使って報復したというのもあるが、もっと大きな理由が二つある。

 一つ目。これもほとんど憶測だが、ミンにバヤンが憑くところまで、ニムの狙い(願い)のうちだったということ。

 ノイをそそのかし、線香を消させた時点で人間側の全滅はほぼ確定している。このとき、バヤンがもし実在し、次の継承先を求めているなら、この危険地帯からミンを救出するため、ミンに憑かざるを得ない。

 ニムが「いるかどうかわからない」と言ったものが、継承者の危機を救うために出現せざるを得なくなる。

 これはものすごく大きなポイントだ。ニムは死者となって人間を追い込むことで、自らはバヤンを追い込んだのではないか。自分が実在を追い求めたバヤンを。

 二つ目の理由は、ずっとシンプルだ。

 映画のタイトルが『女神の継承』なら、実際に女神がちゃんと(?)、主人公に継承されて終わった方がすっきりする。まあ、そういうことだ。

 

 長々書いたが、正しいかどうかはよくわからない。

 この映画には他にも、冒頭で現れた盲目の老婆やミンの見る謎の夢、ミンと兄との関係など、不明点が多い。

 また、強大な一神教でありながら信者を救済できないキリスト教の存在もテーマだと思うが、この文章では触れなかった。

 もっと合理的な解釈もあると思うので、しばらく感想を掘ってみたい。また、前半戦で書いたとおり、ジャンプスケアの連続には文句を言うけど、それでも楽しかった。

 いつか配信されたら、また観たいな、と思う。

 

 ちなみに、ミン目線でのスピンオフ企画があるそうですよ。観たいかって言われると…まあ、観たいか。以上です。

アンチ・ジャンプスケア派こそ観るべき…なのか? 悪辣な傑作、『女神の継承』の感想について:前半戦

はじめに

 『女神の継承』(公開中)、『NOPE』(8月26日公開)、『LAMB』(9月23日公開)と夏から秋にかけて観たいホラー映画が目白押しになっている。

 俺は『哭村』という映画が好きで、監督を務めたナ・ホンジンが原案を手がけた『女神の継承』の公開をずっと待っていた(本作の監督はバンジョン・ピサンタナクーンという別の方)。

 で、観てきた。その感想を書く。

 ちなみに、原題は”The Medium”。「媒体」の意。

 

 ネタバレを全開にした感想は下記で。鑑賞するかどうか、注意点だけ先に書いておく(これもいくらか内容を話すので、完全に情報なしで観たい人は回避してください)。

 

① 強烈なジャンプスケア(ホラーでよくある、お化けが画面にドーン、効果音ズギャーン)が何回もある。

 今作はタイにおける巫女の活動を記録に残す、というフェイクドキュメンタリー形式で、カメラマンの回した映像か、監視カメラに残った記録ということになっている。その画面に唐突に、デカい音とともに怖いものがガンガン飛び込んでくる。

 嫌いな人は避けた方がいいかもしれない。俺は基本的にジャンプスケアが嫌いなので、その点で『女神の継承』は大きく評価を下げている。

 でも、ですね。

 それでもこの映画を酷評できないのも確かなのだ。

 つまり、それぐらいよくできている。いきなりのビックリとか無関係に、ひたすら不穏な演出が全編バチバチに決まっている。

 安いビックリで驚かされるムカつきを、いい意味での恐怖や作品への称賛が上回ってしまっているのだ。それゆえ、アンチ・ジャンプスケア派こそ観て欲しい、と思わなくもない。

 

② ショッキングな性描写がある。そのどぎつさ、おそらく観客のメンタルを削りに来ているという意図を感じる点で、あまり例がないようなパターンだった。

 俺は一人で観ていたので連れ合いを気にする必要はなかったが、同行者ありなら関係性によってはかなり厳しいかもしれない。一応、作品自体R-18がかかっている。

 

③ 犬が死ぬ。これも、かなり衝撃的なかたちで訪れる。

 ただ、人でなしっぽい感想でアレだが、俺は割りとその場面が好きだった。俳優の演技のなせる技だと思う。

 

 以上。気になった方は下のトレイラーを観て、いい感じじゃん、と思ったらお勧めします。本当にすごい完成度だと思う。欠点は本当に、ビックリがきついだけ。

 

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 ちなみに、俺は予告の最後のシーンを観ても何が起きてるかよくわからず、映画館で本編を観てようやく気づいた。まあ、気づかない方がいいこともあります。

 

 

ネタバレ解禁① 俳優の演技

 ここからネタバレ解禁です。わからなかったところ、憶測も含めて全部書く。

 ちなみに一番の主旨を言うと、俺は「犯人はニム」だと思ってます(詳しくは後半戦で)。

 

 まず、演技。全員、最高に素晴らしかった。

 悪霊に憑かれたミンを演じたナリルヤ・グルモンコルペチ、女神バヤンの巫女としてミンを救おうとするニム役のサワニー・ウトーンマはもちろん、ニムの兄姉も、みんなみんなよかった。

 物語の序盤、まずミンが土俗の女神バヤンから選ばれて変調していき、それから全員が、その影響によって破滅していく。日常から焦燥、決意にいたり、最後に破壊される振れ幅を、みんなが完全に表現しきった。

 ニムのお姉さん、ノイがよかったな。ノイは昔、バヤンの巫女になることを拒否した過去があるのだが、娘であるミンを救うために、バヤンと最後に同化することを選ぶ。

 最終盤に映ったノイの、瞳孔が開き切って完全にぶっ飛んでしまった狂気の表情には、かつて自分が務めを果たさずに妹のニムにそれを押し付けてしまった後ろめたさが清算された解放感が混じっていて、素晴らしかった。

 

 ニムもいい。前述のとおり、女神や悪霊側ではなく人間側に主犯がいるとしたらニムだと思っている。

 しかし、それは緻密な計画ではなく苦悩と孤独の戦いだったはずだ。まあ、俺のニム犯人説が普通に間違いだとしても、彼女がタフで優しくて孤高の役回りだったことは間違いなく、そういう説得力のある演技だった。

 

 そして、ミン。

 これが単純に良いこととも言えないが、日本の22歳の俳優でこれができる人物は、個人の資質としても、それを許可する周囲の環境としても存在しないと思う。美しさ、それから正気、最後に人間性を次々に奪われて破壊されつくす様子を完全に表現した。

 途中から出てくる祈祷師・サンティいわく、ノイが途中で受けさせた邪術やノイの亡くなった夫の家系に恨みを持つ無数の悪霊、さらに動物・植物霊によって、ミンの精神は多重に支配されている(ただし、サンティの言葉は完全には信用できない)。

 このため、ミン役はいくつもの壊れ方を演じなければならない。自分が失われていく中でふと正気に戻ったときの絶望、悪霊に憑かれたときの下品なしゃべり方、言葉さえ通じない四足獣。

 ナリルヤ・グルモンコルペチはすべてを演じた。物語の佳境で描かれる六日間の監視カメラ映像は、「こんなものを六日間も観るの…?」という絶望体験であると同時に、俳優のバリエーションをこれ以上なく堪能する時間でもあった。

 これ、本当に見たくなかったよ。あの動き方すごすぎるんだけど、映像加工してるのかな…。

 あと、上で書いた犬を鍋に入れてしまうシーンの演技ですね。なんか、楽しんでやってるっていう悪意と、完全な無感情とがまぜこぜになってて、すごいなあ、と思った。

 

 普段はこんな美人。

 

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ネタバレ解禁② 人数が増えても「ホラー」に収めるすごさ

 例えば、「◯◯したら××日後に死ぬ」という呪いが作品に出てくるとして、極論、それを世界規模で解放したら、それはもうホラーとして成立しないよな、と思っている。

 人数と恐怖に関する法則みたいなものがあると思っていて、場合によって一人より二人、二人より三人の方が怖いということはあっても、基本的に登場人物が増えるほど、怖さは表現しにくくなっていくと思う。

 これはホラーとしては成り立たないというだけで、SFやパニックものとしては可能だろうし、実際に小説の『リング』シリーズはこれをやっている(次の映画である『貞子DX』も?)。でも怖くはないよな、そういうシンプルな理由で、ホラーにするのは厳しいよな、と思う。

 しかし、『女神の継承』の終盤はかなりの大人数を描いて「ホラー」の中に収めている。人数は20人ぐらい? 世界全体とはさすがに比較にならないが、けっこうな数だ。

 祈祷師・サンティがミンを救うために計画したのは、ミンを苦しめている悪霊たちを母親であるノイにまとめて移し、ノイを「媒体」として壺の中に吐き出させる方法だった。この儀式を取り仕切るために、サンティの弟子や、あまり姿を見せなかったカメラクルーたちも協力する。

 大勢の人たちがスクリーンに出てきて、これで絶望感は演出できるのかな~と思ってたけど、杞憂だったな。すごかった。中だるみなく全員を壊しきった。

 何十人も出てきても、場所としては離れててお互い助けられない、ってのがポイントかも。なんにせよ、サンティの弟子が何人も儀式の準備で動き回ってる場面は、「こんな雰囲気だけど、ここからちゃんと『ホラー』してみせるぜ」っていう決意表明と受け取って観ていた(後半戦に続く)。