前回の記事の内容(下記)から、いくらか続いているんですけど、こんなことを思ったという話。
面白い作品は、マンガに限らず、シリアスの中に笑えるところが入っていることが多いと思う。
これは、その物語がいわゆるギャグパートと真剣パートで構成されてる、というケースはもちろんのこと、いまストーリーで重心が置かれてるトーンは緊迫そのものなのに、一瞬脱力したり違和感が残ったりするような妙な描写がはさまっている場合もあって、よくも綱渡りというか、雰囲気が台無しになりかねないことをするもんだ、と感心する。
これは一つの技巧なのだろう。感動を数値化するのはナンセンスかもしれないが、例えば真面目な展開をひたすら積み上げていった結果として与えられる感動や衝撃というのは、実は心理的に、「度合い」の上限が決まってしまうのではないか。
笑いだとか違和感だとか、緊迫感で満ちた中に強引にでもそういう異物を挿入することで、目指している感動の天井が取り除かれるのでは、と思う。
俺が好きな漫画家の中で抜群にこれが上手いのは『スピナマラダ!』『ゴールデンカムイ』の野田サトル。
『スピナマラダ!』の最終盤での笑いの使い方はものすごく鮮烈だったし、『ゴールデンカムイ』でも登場人物が生き死にを賭けて激しく殺しあってる場面で唐突におちゃらけた描写が入るのが、独特のテンポになっていてすごいのだ(余談だけど、これマンガ以外の媒体でやろうとしたら本当に大変だろうな。小説で同じ感覚にさせてくれた作家を見たことがない)。
そういうわけで、シリアスに含まれたギャグは作劇の一つのテクニックである、と思っている。思っていた、けれど…という話。
これは、サッカー漫画『アオアシ』を書いている小林有吾さんのブログに載っていた記事。
同氏の『フェルマーの料理』という作品(これも超面白いです)の新刊情報がないかな、と思って閲覧していて、たまたま目に入ったのだ。
ある日、故郷から上京してきた小林氏が、製作に煮詰まって出版社の作業室でカンヅメになっていた。
部屋の中には他の漫画家さんたちもいて、作業をしている。小林氏も作品を進めたいが、かたちにならない。
彼が焦ったり、現実逃避でふて寝したりしている横で、漫画家さんたちはひとり、またひとりと部屋からいなくなっていく。しかし、その中で最後まで残って一心不乱に作業を続けている人がいた。
その作家さんは、小林氏がいつ視線を向けて姿を確認しても、同じ姿勢でひたすら作業を続けていた。明け方までそうだったという。
この人が何者だったかは当該の記事で確かめてもらうとして(ファンかどうかはともかく、「なるほど…」と腑に落ちるものがあると思います)、本当に嘘偽りなく、この作家さんは野田サトルに次いで、「すごいとこでギャグ入れてくるな」と俺が思っている人です。
それで、こんな風に思いました。
シリアスのみで押すのではなく、物語に適当に笑いを入れること。
この手法を取る場面に正解もタブーもなく、どんなシーンでそうしてもいいこと。
これは「売れる」「面白い」漫画の鉄則であり、あとはそのタイミングや、比率の問題である…と、俺はそう思っていたけど、そればかりじゃないのかもしれないな。
これは意図された演出とか、技法とかいう単純なもの(だけ)ではなく、もっとライブ的な、こういう作り方をしないと精神がちぎれてしまうという類のものかもしれない。
別に、「実は、あのギャグとかテンパりすぎて行き当たりばったりで書き込んでたんだろ?」ってことじゃないんです。
なんというか、異様な重圧でわけわかんないぐらい追い込まれた中で、精神が自然に適切な表現を生み出すというか、一種の修行からのトランスに似たものじゃねえのか? と思ったんですね。
まあ、噂では〆切間際の漫画家さんの作業というのはどこも修羅場になると聞くので、「時間を忘れたように集中する姿」と「作品が世に与えた影響」をイコールで結ぶのは短絡的かもしれないけど、説得力があるというか、その作家さんはたぶん、いつその姿を見てもそうなんだろうな、という気がするようなエピソードだと思います。そういう話。
以上、よろしくお願いいたします。