『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』の感想について ②

ソーシャル・ネットワーク栗城史多氏に何を及ぼしたか

 「登山家」栗城史多氏の半生と死を追ったノンフィクション。

 前回、登山という世界における異物としての栗城氏の存在に想像をたくましくしてみたが、その続き。

 

 栗城氏とその死については、SNSの功罪という点から語られることが多い。

 ウェブを利用した情報発信と人々との交流は、彼の自己プロデュースを強力に推進した。一方で、こうした不特定多数とのつながりが、膨大な数の批判と直接触れてしまうチャンネルにもなり、山で結果を出せなくなった晩年の栗城氏を追い詰めていったのではないか、という意見もある。

 

 『デス・ゾーン』を読んでみて、栗城氏がネットに情報をいかに発信するか、どのような反応を得られるかに強いこだわりを持っていたのは確かだと感じた。

 ただ同時に、彼の躍進と最期について、SNSがもたらした現代的で特異な現象と考えるのは正確性を欠くかもしれない、とも考えた。

 その理由は単純で、文中で紹介される、栗城氏と実生活で接点を持った多くの人々による彼への影響が、ネット上の有象無象の匿名の声に見劣りするとは思えなかったからだ。

  栗城氏が高山をエンターテインメントの舞台として人々に提供するとき、足跡のログ関係や映像に関する技術は生命線だった。登山中、リアルタイムで進路の選択について相談できるプロフェッショナルの存在も同様だ。

 『デス・ゾーン』では、こうした多くのアドバイザーや後方支援の存在が描かれている。それは「単独」を謳う彼のキャッチコピーを偽る懸念も場合によっては抱えるわけだが、いずれにしても栗城氏の背後には彼に助言し、サポートする人たちがいた。

 また、高額な海外遠征費用をまかなうため、栗城氏は自らの卓越したプロデュース能力を駆使して多様な人脈を作り上げていた。

 その中には財産家もいれば政治家もいるし、自己啓発のプロもいて、正直、きわめてクセの強い海千山千という印象の面々だ。本書には「彼ら」についても大半が実名で赤裸々に書かれている。

 栗城氏はこうしたネットワークを巧みに形成して多額の支援費用を集金し、やがて、登山だけではなく自己啓発的な講演活動の比重を増していく。

 当然、こうした人脈は一方的に利用するだけでは済まされない。「彼ら」が栗城氏を支援するのは、将来的に相応のリターンを見込んだからであり、ゆくゆく山から引退した後は、某党から政治家として立候補する、という生臭い話もあったという。

 サポートスタッフや後援者から寄せられる期待と重圧を、栗城氏が感じていなかったとは思えない。また、さらに邪推すれば次のようにも言えるかもしれない。

 つまり、彼がまだ20代のころ、マッキンリーを初挑戦で登頂したときには理解していなかったしがらみや報恩という概念が、齢を重ねるにつれて次第に現実感を持って重たくまとわりついてきたのが彼の後年なのかもしれない、ということだ。

 こうして考えてみると、栗城氏の後年のあり方について、SNS等のネット上に形成された人物評や言論だけに過大な影響を求めるなら、それはスジが違う気がする。

 むしろ、大昔から人間が繰り返してきたように、具体的な顔つきの思い浮かぶ誰かのため、その恩に報いるため、義理を果たすため、あるいは恥をそそぐために、追い詰められていったことの、一つの変形としてとらえるのが正しいのではないか。そんな風に感じた(③に続く)。