それでも「彼女たち」の物語。『裏バイト:逃亡禁止』7巻の感想について 2/2

sanjou.hatenablog.jp

 続き。

 

 7巻で登場した強大な怪異によって世界がやり直されてしまったため、主人公である白浜和美(ハマちゃん)と黒嶺ユメ(ユメちゃん)の二人は一度消滅し、再生された。

 7巻の最後に登場する二人はつくり直された二人ということになるが、これまでと同一人物と言えるだろうか?

 

 身もフタもないことを言ってしまえば、二人が別の世界でも同一人物かどうかは、作者の意図と、こちらがそれを受け入れるかどうか、にかかっていると思う。

 この文章の前半で『GANTZ』の思い出を書いた。

 あの作品ではそんなに、復活を経たキャラクターの同一性を重要視していないというか、かえってそこを曖昧にしてやろうと感じるぐらいだったので、これって再生しても別人なんじゃねえの? と俺は思ったのだ。

 他の作品だと、『亜人』ではこの点をもっと明確にしている。

 亜人は死んでも肉体を再生できるが、復帰するときに頭部がイチから再生された場合、それは別人であり、そもそもの人格は頭を破壊された時点で消滅している。例え、記憶や性格がまったく同じでもそれは別の人間である、とされる。

 反対に、『ドラゴンボール』や『シャーマンキング』で死んでから復活したキャラクターを、元の人物とは別人だと考える人はいないだろうが、『エヴァンゲリオン』になると、また微妙な感じがする。

 エヴァの世界はテレビ版から新劇場版にかけてループしている。視聴者はみんな、碇シンジのことは世界が別でも同じ存在として認識している(と思う)が、よく考えるとこれは割りと微妙な話で、マリの参戦も含めてテレビ版と新劇場版では、起きていることが違うのに、二つの世界の碇シンジを同一視していいのか? と思わなくもない。

 

 でも、たぶん同じでいいのだ。

 というのは、作ってる側がおそらく同一人物と見て欲しくて、こっちも特に異論がないからだ。

 そんなものだと思う(ただ、エヴァはややこしいので俺が解釈を誤っているのかもしれない)。

 この問題は、システムとして復活があり得る、もしくはいわゆるループを扱うすべての作品に共通するテーマだと思っていて、結局のところ、作った人が「同じです」と言ってこちらが「そうですね」と言えば、理屈はともかく同じなんである。

 

 話が明後日の方向にズレてしまったが、『裏バイト』に戻る。

 作品的にはたぶん、世界を途中からやり直した後でも、ハマちゃんとユメちゃんは同じ存在、ということらしい。

 俺も別に異論はない。

 ただ、それでも主人公二人が一回消滅してしまったのはすげえな、と思う。そして、それは結局、「本当に同じ二人なのか?」という疑念がどこかに残っているからこそ、主人公がマジで死んじゃったぜオイ、ということのすごさが際立つのだと思う。

 例えるなら、ドラゴンボール的な死と亜人的な死の、ほぼドラゴンボール寄りだけど少しだけ亜人感が残っているというか、そんな位置づけだ(わかりにくい)。

 

 遺跡発掘の話ばかりしてしまったが、他の章でも重要なことが起きている。

 気象調査のエピソードでは別の世界の存在が明かされる(そこから来ているモノたち的に、並行世界というわけでもなく、ガチの異界っぽい)。

 また、「Q」というこの漫画の重要単語をそのまま名前に持つ組織から、藍川という新しいキャラクターが登場した。「デザイナー」が二度目のやり直しを起こしたのは藍川を警戒したためらしく、かなり重要なキャラクターなんだろう。

 

 料亭スタッフ編ではユメちゃんが呪いに倒れ、「ユメちゃんが死んだら私も死のうかな」とハマちゃんが口にするほどの一心同体さが描かれる。

 そして、人材レンタル編で重要だと思ったセリフは、ハマちゃんが発したと思われるこれである。

 「世の中案外、偽物ばっかだったりして」

 

結局

 結局は、ポイントはユメちゃんなのだ。

 色々書いたけどユメちゃんが焦点だ。

 「ユメちゃんが死んだら私も死のうかな」も、「偽物ばっかだったりして」も、あまりに不穏すぎる。

 『裏バイト』を読んでいるとなんとなく感じるが、黒嶺ユメというキャラクターは、まるで「ハマちゃんの願いや過去の何かしらをきっかけにして生まれた」かのような人物なのだ。

 このキャラクターの奇妙さを『裏バイト』が絶妙にボカしながら延々と描いてきたせいで、ただのセリフがそれだけ終わらない響きを持つ。

 7巻の最後のやりとりを見ると、ユメちゃんが物語の焦点であることは間違いなさそうなのだ。でも、長くなりすぎたので、そのことは、またあらためて書こうと思う。