労働について

 『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』という本の中で、現代では教養を身につける目的がすべて、ビジネスにひもづけられるようになってしまっている、ということが書いてあった。

 本来の教養というものがあるとすれば、はじめからビジネスに役立てることを目指してはいけない。お金儲けを目指して修養を積み、物事を吸収したり学んだりするのはおかしいぜ、ということだ。

 基本的には同意するんだけども、一方で俺の感覚と少しだけズレてるな、というのは、今の俺たちの生活って、おおよそ大体ビジネスと化しているというか、一日のすべてが労働になっていて、何もかもビジネスのため、って当たり前っちゃ当たり前なんだよな、と思う。

 本の中で言われていることのイメージは、一日8時間労働、週40時間の仕事に生かすために俺たちは音楽を聴いたり映画を観たりしているぞ、という感じだと思う。

 それに対して俺のイメージは、俺たちは働くために飯を食い、働くために眠っていて、働く以外の時間が全部労働のために最適化されることを目指しており、これははっきり仕事をしている時間帯以外も準仕事中、みたいな感じで、一日8時間どころか10数時間も仕事しているようなものであり、そうなるとまあ、あらゆるものがビジネスで活用されるためにある、というのも当然と言えば当然なんじゃないの、と思う。良い悪いは別として。

 俺たちはそのうち、働くために金を稼ぐようになるかもしれない(おいおい…)。

 

 要するに、労働という言葉が示すイメージは俺の中でかなり範囲が広い。

 基本的な定義としては、時間や体力を使って何か対価を得ることを、俺の中で労働と呼ぶ。そこから広がって、直接働く時間や体力を確保するための休息や工夫も、目的としては働くためにあるんですよね、という感じで半分労働と化しているということなのだ。

 ところで、ここまでの話では俺が異様な仕事人間のようだが、別にそういうことではない。単に、働くのが嫌いだけど他の生き方もあまりよくわからん、と思っているうちに仕事とそれ以外の部分が上手に仕切れなくなっているだけだ。

 

 それで、時間や体力を消費して対価を得ることを労働と呼ぶように、感情を消費して何かを得ることも労働と呼ぶ。これを俗に、感情労働という。

 ここで必ずしも現金化が起きるわけではなく、ここでの対価は収入とは限らず、漠然としたやりがいや情報だったり、費やしたのとは別の新たな感情だったりする。でも、いずれにしても労働である。「仕事」なのだ。

 暴論かもしれないが、感情や時間を消費して情報を得たり別の気持ちになるのは「仕事」なんである。

 俺たちは映画を観たりゲームをしたりして、そこには時間を費やすと同時に集中力や緊張が伴い、その対価として達成感や興奮を得る。これは労働なんである。

 そんなバカな、だって映画を観るときはむしろお金を払うぐらいだし、ゲームだって好き好んでやってるのに、と思うが、やっぱり労働なんである。

 

 言うまでもなく、俺は間違っている。「労働」「仕事」という言葉を拡大解釈し広げ続けた結果、おかしなことになっている。

 俺は最近、何もしないで海辺で太陽をじっと見ているのが一番好きだが、ここまで書いた立場で考えれば、これだって時間を代償に感情を緊張からリラックスに置き換えているのだから労働になってしまう。

 だから、間違っているのだが、間違っていなんだよ、いくらかは。と、どこかで思ってしまうのはやっぱり、俺もみんなも働きすぎなんだと思う。

 そんなに働かないで、もっとみんな休んだ方がいい。さらに言うなら、「もっと休め」という言説も含めて、お互いのことをもう、ネットとかであんまりごちゃごちゃ言うんじゃねえ、ということを思っている。