『第五脳釘怪談』について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミ。(少なくとも俺には)。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 ◯…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 

 こういう書き方をするのは、初見の人に本を勧めつつ、できるだけ先入観を持たない状態で触れてほしいからで、評価が下に進むほど、ネタバレしてしまう部分も増える、というわけです。よければ、こちらもどうぞ。

 

 実話怪談という「本」について - 惨状と説教

 

総評

 A

 朱雀門出作。2020年刊行。

 

 俺の大好きな怪談作家、朱雀門出。その実話怪談シリーズである『脳釘怪談』が第五弾にして竹書房復帰である。
 出版社から刊行されていたシリーズの続編を電子書籍にて自主出版(『第三・四脳釘怪談』)という形態も珍しかったが、それを経て出版社からの販路に戻るというのは、かなり稀有なパターンではないだろうか。
 
 そういう異例の売られ方に対応するように…というわけじゃないが、作風の方も特異なのが『脳釘怪談』である。
 その特徴はひと言で表現すれば「禍々しい」。実話怪談の多くの作品とは雰囲気が明確にズレており、不穏で、凶悪な一方でとらえどころがない、砂利道の上に動物の内臓をぶちまけたような怪談が並ぶ。

 

 この本はkindle unlimitedで読めます。 

 

各作品評

 送り先…◯
 誰かが乗っている…◯
 箪笥から降りる人形の話…◯。「人形が言い訳をしに来そうで」という一文がいかにもこの作家らしくて良い。
 おじいさんとすれ違う…◯
 窒息オーディション…◎
 

あらためて、総評

 朱雀門出の怪談は題名からして奇妙な響きがある。今回も、『あゆいの男』『ギガ雛』『食人の間』『窒息オーディション』など、中身を読む前からジャンキーが思わず笑みをこぼしてしまうようなタイトルが並ぶ。
 
 ただ、以下は少し批評めいたことを言わせてもらいたい。
 正月に同シリーズの『脳釘怪談(無印)』、『脳釘怪談 呪殺』の猛烈な凶悪さにぶっ飛ばされたため、その比較になってしまうのだが、今回は、やや一般的な怪談に寄りつつないだろうか?
 
 俺は、朱雀門出の怪談の良さは、異様で凶悪な世界観をなんでもないように話す語り口にあると思っている。話そのものの異常さはもちろん、一見、その奇天烈さに無自覚な語り手の奇怪さとの相乗効果こそが大きな役割を果たしている。
 つまり、朱雀門出の怪談は作家本人こそが一番怖い。この人自身がマジで恐ろしい。
 
 そんな具合で過去のシリーズでしれっとやってみせていたのに比べると、今回の恐怖はかなりわかりやすく書かれているというか、作家自身が話の恐ろしさにかなり自覚的になっている気がする(それが当然と言えばそうなんだけど)。
 良い本だし、この作家しか書けない怪談だけど、俺は、もっともっと突き放してくれてよかったな。(なお、twitterの方の語り口は十分どうかしてるし、味わいとしてはあちらの方が俺の欲しがっているものに近い)。
  
 第39回はこれでおわり。次回は、『怪談四十九夜 断末魔』を紹介します。以上、よろしくお願いいたします。

 

第五脳釘怪談 (竹書房怪談文庫)

第五脳釘怪談 (竹書房怪談文庫)

 

 

『呪術廻戦』14巻の感想について

感想

 収録は第116話・渋谷事変34~第124話・渋谷事変42 まで。
 
 冒頭で宿儺vs.漏瑚が決着。

 前巻で陀艮のあとを引き取って呪術師たちと対峙し、まるで主人公のようだった漏瑚。今巻でも、なんだか悪役じゃなかったみたいな描かれ方です。

 そこに宿儺がかける言葉がいいですね。13巻の感想でも書いたとおり、宿儺はポジション的にも強さ的にもこの漫画の全勢力を完全に俯瞰しているので、めちゃ残酷なこともできるし、反対に、すごく優しいことも(たぶん本人にはそのつもりはないが)言えるんだな、と思いました。まさに、呪いたちの「王」なわけですね。
 
 でも、ベースとしては宿儺はやっぱり超悪役です。エグすぎる。
 っていうか、この火力は今後どう太刀打ちするんだろうか?
 個人的には、『呪術廻戦』はバトル漫画として俺が楽しめる(≒ 想像力が追いつく)破壊力の、そろそろ臨界に達しつつある。これがワンピースとか、ましてやドラゴンボールとかトリコの終盤くらいまでいっちゃうと、ピンとこなくなっちゃう。
 逆に言えば、いまの宿儺とか漏瑚あたりの火力を物語の頂点としつつ、真人みたいな変化球や釘崎とかがちょこちょこやってる絶妙なバランスが俺の一番好きなアンバイで、なにとぞ、この具合で。いまが本当に気持ちいいところです、と思ってます。
 
 今巻も退場者続出。あの人の散り際は『レオン』のオマージュでしょうか。
 それと同時に思ったのは、たぶん作者は真人を闇の主人公として描きたいのかな、ということ。物語の重心が大きく彼に寄りつつあるというか、この因縁の作り方は敵勢力の単なる幹部で終わらないな、と。そういう14巻でした。
 

『呪術廻戦』はネクスト鬼滅か?

 本筋と全然関係ないんですが、最近、「ネクスト鬼滅」というコピーとともに『呪術廻戦』が挙げられることがあります。
 俺が鬼滅読んでないのもあって「違う作風のものを無理くりくくるなや!」っていう反発もあったんですが、最近はこんなことを思ってもいます。
 
 あくまで仮説なんですが、少年漫画は、ワンピースあたりにジャンル全体を漠然と代表させると同時に、「だからワンピ読んどきゃとりあえずOK」的に、他の作品まではなかなか拡大・販促されていかなかったところがあった。
 しかし、各々の作品には潜在的に、性別や世代を超えて訴えかける商品としての魅力がちゃんとあった。その壁を、鬼滅が一大ブームによってぶっ壊した。
 ネクスト鬼滅という表現は、鬼滅に続く2作目を探せ、というより、少年漫画というマーケット自体の再評価をあらわすフレーズなのかな、と思うわけです。「少年」と言いつつ、いい歳こいた大人も、女性でも楽しめる市場が、以前から、それも広大に、ちゃんと存在しているじゃないか、という。
 そういう風に考えると、俺も抵抗が少ないというか、「おお、そうだ。『呪術廻戦』も壮年でも女性でもたぶん楽しめるぜ!」という感じになります。そうだ、みな『呪術廻戦』を読むとよいのだ。キャラがページめくったらいきなりサイの目になってたりするけどな。
 
 15巻は3月だそうです。2か月後に刊行は、嬉しいけど少し心配でもあり、先生は健康第一で頑張って欲しいと思います。以上、よろしくお願いいたします。

 

呪術廻戦 14 (ジャンプコミックスDIGITAL)

呪術廻戦 14 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 マジで売れまくってるらしくて、コンビニで買おうと思ったら一冊も見かけませんでした。

夢について

 夢を見た。

 夢の中で俺の子供が生まれて、俺は生まれた赤ん坊を誰かから腕の中に手渡された。

 俺は赤ん坊を見た。玉のようだと思った。文字通り玉のようだと思った。実際、赤ん坊は柔らかい毛布で包みこまれてふかふかのぐるぐるになっていて、幾層にも重なったあたたかさの隙間から顔だけのぞいているようなかたちだったので、丸々していた。

 腕の中に抱えると、その丸々したのが毛布越しで手足を動かしてもぞもぞした。

 うんこするのかな、と思った。

 こいつはうんこをするのか。じゃあ俺がきれいにしてやらないといけないな、と思った。

 うんこをするよ、と言ったのは、赤ん坊を俺に手渡した人だった。

 そいつはうんこをする。だから世話をしないといけない。

 教えて諭すような声音だった。そうか、うんこをするから俺が世話するのか。俺は深く理解した。

 その人が何者だかよくわからない。ただ、声には聞き覚えがあるような気がする。その声は、俺の嫌いな父親によく似ているような気がした。

『チ。―地球の運動について―』1巻の感想について

はじめに

 絵はあんまり上手くない。表紙イラストはたぶん頑張って描いていて、本紙の方はもっと未熟なビジュアルになっている。
 なんでそんなことを最初から言ったかというと、この漫画について、絵の巧拙はたいした問題じゃないからだ。要するに、ひたすら強烈に面白い。ここから試し読みができるので読んでみて欲しい。
 

感想

 舞台は15世紀。C(キリスト、だろう)教による原典的な解釈が全てに優越した時代。地球が宇宙の中心にあり、太陽を含むあらゆる天体がその周りを回っているという天動説以外は認められない中、科学と合理性を重んじる立場から地動説の正しさを主張する人々の物語。
 
 とてもシンプルなストーリーで、まずこれは信念をめぐる物語だ。
 この時代では、地動説を主張すると審問によって殺されてしまう。社会的に、という意味ではなく、異端として、文字通り刑死の定めを課せられてしまうのだ。
 フィクションの主人公が、自分の主張を貫くことに命をかけるのは珍しくない。しかし、そのほとんどは信念がどうこうよりも、対立するライバルたちとの闘争の方に重心が置かれ、その点をエンターテインメント化することによって成立している。『チ。―地球の運動について―』のように、信念のために命を放棄できるかを真正面から問いかける物語はものすごく希少な気がする(ただ、何百年か前までこの世界は実際にそういう場所だった)。
 
 何を信じているか、を突き詰めると、その根底には美しさという概念が存在する。世界があるべき姿を知性の光の前にさらしたとき、人間は、それを美しいと感じずにはいられないように「作られている」。
 そして、この美しさの意外なほど近くに、死もまた潜んでいる。なぜなら、ごく一部の苛烈な人間にとって、自分が美しいと感じる真実を否定することは自分自身の存在意義を認めないのと同じであり、ときとして真実=美が自分の生命に勝ってしまうからだ。
 第1部の主人公ラファウにとっての美しさとは合理性であり、彼は物語を通して大きく変わったようでいて、何に最大の美を感じるかという点では、実は一本の芯が最初から最後まで通っていた。彼が変わった部分があるとすれば、世界は自分のためにある、という感覚から、自分こそが世界の真実をさらすために「使われる」べきだという転倒だったかもしれない。
 
 というわけで、(ケレン味の利いた漫画的演出や、人を食ったような題名とは裏腹に)ものすごく愚直で、熱をはらんだ作品だった。他の人にも読んで欲しい。
 ところで、繰り返すが絵はあんまり上手くない。この点をなんで二度もこするかというと、物語への感動とはまったく関係のないところで、ある感銘を受けたからだ。
 それは、絵という漫画作品におけるキーファクターが発展途上でも、スタートラインは切れる、切られるべき、ということだった(特に、この作者のように隔絶して優れている才能があれば)。
 俺たちが未体験の何かを始めるとき、そしてその成果を人前にさらそうとするとき、そのタイミングは技量がある一定の水準に到達してから、と考えがちだ。
 でも、それは本当に重要だろうか? まるで無意味な心配とは言わないけど、「見せても恥ずかしくないレベルを上回ってからリリースすること」は、何にも優先して大事なことだろうか?
 『チ。―地球の運動について―』において、恐怖という感情が人生の大切なファクターとして扱われている。恐れは、けっして避けるべきものではなく、むしろ人生の本質となるものとして語られている。これをさらに解釈すると、人生においては恐れないこと、ではなく、何を恐れるかが大事、ということになるかもしれない。
 この漫画の作者は、たぶんとても若い。嫉妬してしまうほどに。そして大きな才能を武器にスタートを切った。
 皮肉なことに、齢を重ねるほど、新しいことを始めることへの恐怖は増していく。長く生きて経験を積んだだけ、その恐れって実は全然意味なくないか? という知見が身についているべきなのに、まったく真逆の方向にブーストがかかってしまうバグが、人生には存在する…気がする。作品とは関係ないが、そんなことを思った。俺もそういう恐怖を振り払って、人生を正しく恐れたい。
 
 以上、よろしくお願いいたします。

 

 

美しいものについて

 美しい写真を見た。チョウセンアサガオの花と、闇の中でその花の蜜を吸うスズメガの写真だ。

 

https://assets.media-platform.com/bi/dist/images/2020/11/26/53ade3a95afbd3aa548b4569.jpg

 

 見た瞬間、しん、と静まり返るというか、見ている側の抱えていたざわざわしたものが整えられるような感覚があった。

 

 この写真の何がそこまで俺に美しさを感じさせたのか、自分で考えてみて、それは次のようなことだと思った。

 チョウセンアサガオは人体に入ると身体的な異常や幻覚を引き起こす成分を多量に含んでおり、薬用もされるが毒性の強い植物である。なぜここまで強烈な毒を有しているのかはわからないが、花ごと動物に食べられないためだとか、生存の過程で必要だったのだろう。

 それが花弁の奥に蜜をたくわえていて、昆虫を呼んでいる。植物が「呼ぶ」という表現は奇妙に感じられるかもしれないが、これは実際に呼んでいるのであって、植物は蜜に惹かれた生き物の体に花粉をこすりつけることによって、遠く離れたところに咲いている同種との間の受粉を媒介してもらうのだ。

 写真に写っているスズメガは空中でホバーリングしているが、ときどきは花弁の上で羽を休ませることもあるだろう。そのとき、脚の先や体に花粉が付く。

 このスズメガという生き物だが、成虫になればこのように優雅に忙しく空中を飛び回っているものの、幼生の頃はいわゆる芋虫という存在で、葉っぱの上だとか地面だとかを鈍重にのたくっている。

 美しい成虫と醜い幼虫、という対比が大切なのではない。幼虫の、生命そのものという具合で満々とみなぎるような様子は、それはそれで、ある意味美しい。

 重要なのは、変化するということだ。もちろん、観察を通じて衝撃的なその変態に驚かされるのも見ている人間の勝手な主観なのだが、とにかく、幼虫が自分で吐きだした糸で作った繭の中で自らをどろどろに溶かし、羽を備えてまるで違う姿になって出てくる、というのが壮絶なことで、そんな生き物は地球上に昆虫ぐらいしか存在しない(ということにしておく。実際は甲殻類とかも幼生からの過程でなかなかすごい変身をする)。

 

 あらためて、写真を見る。スズメガが口吻(こうふん)を伸ばし、チョウセンアサガオの花の蜜を吸っている。

 そこにあるのは協力ではない。花からすれば受粉が果たされさえすればいいのであって、虫の食事のことなど本質的にはどうでもいいし、虫の方も、自分の食事が重要であり、自分の体につく花粉のことなんて考えたこともないだろう。

 二種類の生き物は、同じ目的をまったくもって共有していない。写真に写った闇の中で屹然と咲く花弁と、針のように立った虫の口吻がそれぞれ象徴するように、自分の持っている強みというか性質というか、生命の漠然としたエネルギーを具体的なかたちにしたものを手探りで伸ばしていった先に必要なものがあったので、その結果として接触しただけだ。

 だからこの写真は強い緊張感によって支配されている。しかし、野性の中でお互いの性能を命の設計のままに伸長していった結果が、一方的な捕食でも、競争でもないこと、お互いに利用している意識さえなく、孤高と、第三者の目から見てはじめて理解できる「分かち合い」とが二層に重なっている状態であることに、妙な協調を感じる気もする。そして、それが進化の過程で猛毒を獲得したチョウセンアサガオと、同じく進化の産物として完全変態を行うスズメガの間で交わされていることに、俺はより特別な美しさを感じる。

 

 というのが俺がこの写真を美しいと感じた理由である、らしい。

 らしいというのは、最初に美しいと感じたときにはこんなことを言語化して考えていなかったからだ。なんでこの写真に心惹かれるのかな? と整理した結果、こういう理屈を掘り当てたことに自分でも驚いている。

 本当に美しいと感じるものにはちゃんと(その人なりの)理由がある。その人が世界に求めるもの、かくあるべき、と信じているものが表れているんだろう。

 つまり、美しいものというのはある意味で自分の名刺のようなもので、これは言い換えると、人間は自らの美から、それが自分の世界観自体である以上は逃れられないし、場合によっては、それを放棄するぐらいなら破滅する可能性があるということである…というのは『チ。 ―地球の運動について』という漫画を読んで思ったことでもあるのだが、長くなりすぎたのでここでやめておく。

 以上、よろしくお願いいたします。

全人類よ、NETFLIX実写版『今際の国のアリス』を観たか、ということについて

はじめに

 原作の漫画が大好きで、いわゆるデスゲームものなんだけど、ときに荒唐無稽、ときにものすごく高度に論理的に設計された数多くのゲームの攻略に、他の漫画がまったくかすんでしまうぐらいウエットな人情の描写が掛け合わされていて、それが素晴らしかった。

 そこまで好きな作品が映像化されるとなれば、期待よりも不安、むしろ無視してやろうか、という感情の方がときに上回ってしまうんですが…。

 NETFLIXの実写版、最高だった。

 「かくれんぼ」も「まじょがり」も、あの原作に引けをとらない出来と約束すれば、俺と同じ原作ファンもきっと興味をひかれるでしょう。観てくれ。すごくいい。

 もちろん、原作未読の人にもおすすめです。流血耐性がある人でないとかなり厳しいけど、本当によくできていて、衝撃的な内容だと思う。

 

各キャスト評

 おおざっぱなストーリーは原作通りです。細かい翻案がいくつかあるのと、「らんなうぇい」が「でぃすたんす」となり、アリスとウサギが挑むことに。あと「あんけえと」はたぶんなくなったのかな(ドードー君はどうするのか)。

 

 以下は、各キャスト評です。

 マジでみんな、端役も含めてよかったんですが、特に印象に残った人たちに触れていきます。原作及び実写版のネタバレ上等なので、ストーリーを全然知らない人は、まずは本当にNETFLIXで作品を見てほしい。特に第3話の「かくれんぼ」は、観る人によっては人生観変わるので、ちゃんと作品で触れないと、しても遅い後悔をすることになります。マジで。

www.netflix.com

 

山崎賢人 as アリス

 正直、全く興味のない俳優さんだったんですけど、よかったですね。
 原作通り、実写のアリスも平時の凡庸で芯がない面と、非常時の激情ほとばしり発想がバキバキにキレる面が共存するキャラクターです(高校生から大学中退のニートに変わった)。
 で、それを演じる山崎さんなんですが、日常では全然魅力ないんですよね。正直、ハンサムにもあまり感じられない(ように写されている?)、単に瞳や唇といったパーツの綺麗な男子、という感じ。ところが、それがそのまま振れ幅になっていて、緊急時のカッコよさ、生命力ったらものすごかったです。
 一つ、苦言というわけじゃないんだけど実写版固有の描き方として、かなり♢(知能ジャンル)に強いキャラクターになってますね。
 最初のげえむ(「おみくじ」の実写化はさすがに無理だったらしい)を攻略したのも閃きっていうよりは論理力の部分だし、「電球のスイッチ」もアリスが解くことになってます。
 まあ、原作のアリスの強みってちゃんと説明しにくいところがあって、見ようによってはただ運が良いだけだったりするので、この書き換えは仕方ないかもしれません。
 
・土屋太鳳 as ウサギ
 原作のウサギは身体の絞り上げられた筋肉質な美少女、という感じなので、そこから考えると、土屋太鳳の外見はややふっくらしてたかな。
 でも、ドライな部分と優しさが共存する演技は原作のイメージ通りで、すごく良かったです。
 
・町田啓太 as カルベ
 今作で目を見開かされた俳優その1。金の短髪に柄シャツ似合い過ぎ。めちゃくちゃ男前でした。
 原作でも体力・胆力・人間力◎で早期退場が惜しまれたカルベの魅力を、120%表現しきった役者さんだと思います。すごくよかった。
 
森永悠希 as チョータ
 原作から翻案されて、サラリーマンになりました。一芸に秀でたアリス、総合できわめて優秀なカルベに対して、明確な強みはないけど優しい人物、という点は同じです。
 漫画史に本気で残ると思う、あの「かくれんぼ」で実写版でも最期を迎えますが、その終わり方が原作と少し変えられています。これはシブキの項でも触れますが、映像化に際して、あの場面に新たな説得力を込められた理由の一端は、俳優さんの実力によるものだと思います。良い演技でした。
 
水崎綾女 as シブキ
 原作のシブキはスレンダーなシルエットなので、いくらか肉感的な俳優さんになりました。
 シブキは原作でも実写版でもすごく難しいキャラクターで、「かくれんぼ」においてカルベやチョータには親友であるアリスに生存を譲る動機があるんですが、彼女にはわかりやすい理由がないんですよね。この点について、原作ではアリスたちの友情にほだされて、という描き方になっていて、そこに説得力を込められる漫画版がまずすごいわけです。
 これが実写版ではだいぶ違っていて、まず、映像のシブキはチョータに邪魔されて動くことができず、アリスと接触することなくタイムアップを迎えるしかなかった。もちろん、そうすると問題が重なってくる。シブキの生きたいという希望はどうなるの? というか、チョータがアリスを生かすために間接的にシブキを殺したようなものでは?
 こうした問題が、残り時間の少なさを受け入れ、諦める俳優の演技と、さらに言うなら、これまでの荒廃していた心理が、自分を邪魔しているはずのチョータに対して最後のより所を見出して救済された、というかたちで回収されます。この反転を演じた芝居はすごかった。原作とは違うんだけど、本当に良かったです。
 
村上虹郎 as チシヤ
 目を見開かされた俳優その2。めちゃくちゃよかった。
 村上虹郎の演技はほとんど知らなかったんですが、マジでよかった。
 チシヤってある意味、実写化にあたって一番難しいキャラクターだったと思います。芝居がかったふるまいをするので、それが絵だとフィクションとしてうまく中和されるんですが、実写になると、ただ安っぽいだけの浮いた感じになる危険がものすごくある。
 でも、村上虹郎のチシヤはとんでもない完成度でした。あの人を食った感じ、好奇心と虚無感の併存、事態をひっかき回しながら、何もかもにどこか他人事な感じ、本当にすごかったと思う。
 
 他のキャストもみんな良くて、なんなら、役名のない人物までハマってたと思います。
 

シーズン2は?

 最終エピソードのあの終わり方なので、断然期待してしまう。というか、ミラに仲里依紗すえておいて続きはない、は許されないでしょう。

 別に出来がそんなに良くなければ言及しないんですが、ここまでよくできてると…。「すうとり」も「さばいばる」も見たいし、「かまゆで」も「どくぼう」もエピソードに余裕があれば是非…。そして、やっぱり何と言っても「びじんとうひょう」なんだよな。

 統計にもとづく成績に超絶シビアと聞くNETFLIXなので、視聴結果次第なんでしょうけど、マジで期待してます。みんな観ましょう。それは俺が続編を観たいから。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

www.netflix.com

『エモ怖』について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミ。(少なくとも俺には)。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 ◯…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 

 こういう書き方をするのは、初見の人に本を勧めつつ、できるだけ先入観を持たない状態で触れてほしいからで、評価が下に進むほど、ネタバレしてしまう部分も増える、というわけです。よければ、こちらもどうぞ。

 

 実話怪談という「本」について - 惨状と説教

 

総評

 A

 

 松村進吉/丸山政也/鳴崎朝寝作。2020年刊行。

 前回からだいぶ期間が空いてしまって、率直に言うと、こころの調子を思いっきりぶっ壊していた。

 これが怪談を読みすぎたせいなのか(30冊以上も連続して怪談の感想を書くため、2ヶ月近く実話怪談に自分を漬けた経験などないので)、あるいは、そもそも調子を崩しかけていたので怪談を欲していたのかわからないが、とにかく10月中旬頃に、バランスが完全に変な方向に振れてしまい、もう怪談が読めなくなってしまった。 

 最近ようやく安定が戻ってきたので再び読み始めたのだ。復帰第一弾。ちゃんと続くかわかんないけど。

 

 で、予定を変更して『エモ怖』である(当初の想定では我妻俊樹の紹介だった)。

 題名の通りで、怪談の本筋である恐怖以外の感情として「エモさ」をテーマにすえた作品構成になっている。

 表紙の印象が、いつもの無闇におどろおどろしい竹書房の実話怪談と違う。怪談に軽薄さを交えてパッケージするのは、個人的には好かないが、商用として俯瞰してみて、試みは色々やっていくべきだろう。

 ところで「エモさ」とはなんぞや?

 …と言って説明が簡単につくなら、そもそもこの言葉自体必要ないわけだが、あえて言うと、切なさとか喪失感、その一方で身を切るような激情とか、たぶんそういうのが一体になった感情、だと思います。

 それで、全体としてはけっこういい本なんだけど、その感想を書き起こすにあたっては一つ問題があって、えっとね、鳴崎朝寝(執筆陣の一人)のことばっかりになってしまうんですわ。

 これは本当に申し訳ない。でも俺にとっては、今回は鳴崎朝寝になってしまった。元から好きな作家だし。そういうことです。

 

 この本はkindle unlimitedで読めます。 

 

各作品評

 オレンジの扉…◯

 くちなしと海…◯

 いける・いけない・かえれない…◯。後述。

 石添さんと見る世界…◎。傑作。後述。

 終点より先…◯

 憧れの延長線上…◯

 

あらためて、総評

 以前、『宵口怪談 無明』の感想でも書いたとおり、鳴崎朝寝という作家さんは、怪談というフォーマットを通じて恐怖はもちろん喪失感を描くことができてしまう変わった書き手で、そういう意味では「エモさ」を題材にした今作は十八番だったのではないだろうか。
 失われてしまったもの、記憶から忘れ去られていたものが、何かの偶然か幸か不幸か波長が重なってしまい、いま目の前に出現する。そして、それらは再び鮮やかに、まるでもう一度こころに傷をつけるように消滅していく。その瞬間が切り取られていて、とてもいいのだ。
 
 『いける・いけない・かえれない』について。
 「エモい」かというと正直よくわからないが、純粋に怪談として面白い。何のためにこういう怪異が起きているのかちっともわからず、何か深い意図があるのか、悪意なのか、なんでもないのか、見当がつかないところがいい。この不可解さがとっても実話怪談的だが、そういう意味の分からなさを押しつけがましく寄せてくる感じもなく、なんというか、絶妙の温度感だと思う。
 
 『石添さんと見る世界』。これは確かに、エモい(気がする)。霊視能力がある知人とつるんでいるうちに自分もその影響を受けるようになり、段々怖くなってこちらの方は身を引いてしまう、という話。
 俺が感心したのは、石添さん(霊視ができる人)の顛末を書かなかったところだ。
 この手の怪談で、怪異に踏み込むブレーキが壊れた人はたいてい破滅を迎えるが、この話はそこに言及していない。主人公が石添さんと距離を取って、二人の思い出はそこで終わっている。
 そのことがかえって「空隙」を意識させるというか、実話怪談に慣れた読者ほど、ここに新鮮な風通しみたいなものを感じる。恐怖の演出から一歩引いた分は、それだけ喪失感とか追憶の表現にあてられていて、そこも本のコンセプトにマッチしていると思う。素晴らしい。
 
 というわけで、鳴崎朝寝の話ばっかりになった。好きな作家だからしょうがない。単著、また出ないかな。待ってます。マジで。
 
 第38回はこれでおわり。次回は、『第五脳釘怪談』を紹介します。以上、よろしくお願いいたします。

 

エモ怖 (竹書房怪談文庫)

エモ怖 (竹書房怪談文庫)