セックスの同意について

※ この記事では暴力と性を題材にしています。

 

ニュー・シネマ・パラダイス』の編集フィルムの過激なバージョン

 映画を観ていると、ときどきセックスのシーンが出てくる。その中でも、個人的に印象に残っているものは次の作品で描かれている。

 『ジョゼと虎と魚たち』。

 『そこのみにて光輝く』。

 『オールドボーイ』。

 『薔薇の名前』。

 『弓』(はちょっと違うか)。

 ドラマだけど、最近の『白い巨塔』。

 

 共通点を挙げると、割とみんな追い詰められていることが多い。例えば『そこのみにて光輝く』の綾野剛池脇千鶴とか、両者ともに世の中的にどん詰まりで、目の前に現れた相手にかろうじて希望を見出した…というほどポジティブでもなく、単に飢え果てた結果、どうにかお互いに食い合っているというか。

 俺が良いと思う情交は、そういうダウナーな感じのものが多い。それは一種の衝動だったり、感情の決壊だったりする。そのため、言葉は交わされず、合意があるとすれば、声に出されないその場の雰囲気でなされている(ことになっている)。

 それが情緒だと俺は思うし、言葉という理性の象徴を欠くことでしか表現できない哀愁があると思っている。もしも、「よろしいですか」「よろしいです」の一幕がはさまれたら、これらの場面が持つ雰囲気はかなり損なわれるだろう。

 例えば、「映画の中では省略されているけど、画面に映っていないところで言葉がやり取りされたのですよ」という解釈でもダメなのだ。言葉による意思確認が欠如している、ということが重要なのだから。

 でも、現実はそうではなくなりつつある(と言えるほど、そもそも、俺はみんながどうやって相手と関係を持っているのか知らないが)。そして、それはやはり、進歩と呼ぶべきだろう。

 

猫を焼く

www3.nhk.or.jp

 スペインで、相手からの同意がない性行為をすべて性的暴行として罪に問うことができるようにする法律の改正案が可決されたという。

 性的暴行の容疑を取り扱うというのは、それなりに特殊なシチュエーションだと思う。なので、「じゃあ、いちいち関係もつ前に念書交わすのか」とか、「こんな法律をつくって、どれだけ女の側を言った者勝ちで優遇するんだ(こういうことを言う人は得てして女の側だけが悪用すると言う)」というのは、反論として少しズレてるな、と感じる。

 性暴力の加害者として訴えられる状況なんて、そうそう起きることではないんだから、そんなレアケースを恐れて法律に反対するのは重箱の隅なのでは…。

 そう思うのは、俺が男だからそう思うだけなのか。女性の6.5%は、一回以上男性から無理やりに性交された経験があるという統計がある。

  つまり、女性たちの一定数が、自分の身に起きたことを暴行として認識しており、それが立件されれば、スペインだったら犯罪ということだ。

 ん? 統計的に男性が加害者であることが多いということは、スペインの法律も基本的に、その被害に遭った女性を救済・保護するために運用されるのか。

 じゃあ、「このルールで相手を陥れて得するのは女ばっかり」というのも、あながち間違いじゃないのかもしれないな、と統計的に加害者であることが多い性別の俺は思う。

 よくわからないが、「じゃあ、あなたの性別を保護する法律を整備するから、自分と同じ性別の十数人に一人が性暴力に遭う社会で暮らしたいですか。別に、法律を悪用しようと思えばできますけど」と聞かれたら、男性はどう答えるだろう。おそらく、多くが「暮らしたくない」と言うのではないかと思う。

 

 その昔、ヨーロッパでは娯楽として猫を火に投げ込み、猫が苦しんで踊るのを見て楽しんでいたという。現代では猫を祀る(?)のんきな祭りと化しているベルギーのイーペル猫祭りも、その起源は高所から猫を投げ落として殺す行為にあったらしい。

 色々な文化・風習があるにしても、現代社会で動物を苦しめて喜んでいたら批判されて当然で、かつては当たり前の楽しみだったものも、徐々に変わっていくのだ。

 例えば、俺は『ガキの使い』で浜田が理不尽に後輩芸人にビンタを張るのが好きなんだけれども、女性芸人の髪を引っ張ったり胸を揉んだりする場面ではもう笑えないだろう。

 それは、ときどき耳にする「昔のテレビは面白かった。いまは規制ばかり」という意見では擁護することができないと思う。失われた「猫焼き」と同じだからだ。

 人間は、もうそういうものを面白いと感じないところまで、進歩しているのだ(じゃあ、男性芸人なら先輩にビンタ張られてもいいのか、という批判はあるだろう。実際、今の若い人はもう、あれを観ても笑わないのかもしれない)。

 

 新しい世界では、俺が上で挙げたような映画のシーンは情緒でも悲哀でもなんでもなく、単なる犯罪であり、それで映画そのものまでが古臭い遺物になるのかもしれない。どうなるかはわからない。

 以前、人類最古の文芸作品と呼ばれる『ギルガメシュ叙事詩』を読んだとき、その野蛮な価値観には確かに時間の流れを感じた覚えがある。ただ、一方で、変わらないと思った部分もあった。

 自分にとって大切なものが、世界の気まぐれによって永遠に失われたとき、人間は自分がこれまでしてきたのと同じことをただ繰り返し、そのむなしさを埋めることしかできない。物語で描かれていたそうした人生観は、数千年のときを超えていると感じた。

 俺の好きな映画を、次の世代や、その次の世代の人たちが観たとき、「あのシーンは今だったら犯罪だし、全般的に古臭いけど、◯◯の場面だけはよかったな」と思うだろうか。だったら、嬉しいと思っている。

 

色々と惜しいトンチキ映画だった『哭悲 THE SADNESS』の感想について

ゾンビがカンフーを使って何が悪い

 同じ時期に公開されたアジアのホラー映画だと『女神の継承』の方が圧倒的に怖くて、完成度という点でも優っていたと思う。

 

sanjou.hatenablog.jp

 

 『哭悲』も『女神の継承』も、どちらも全編にわたってすごく暴力的で救いがないんだけど、『哭悲』では『女神の継承』で感じたような、観ている側まで追い詰められるようなストレスはなかった。邪悪なものがスクリーンを超えて現実に染み出してくるような気配もなかった。

 というか、どっちかっていうとトンチキというか、『哭悲』はどこかすっとボケた映画だったと思う。なんなら、冒頭のウイルスが変異するCGからしてトンチキだった。

 単純に、ゾンビ化した人たちがみんな楽しそうだったから、というのもあるかも(…ゾンビでいいんだよな? 「よみがえった死者」ではなく、「病気で暴力的&ハイ」になってる系です)。

 感染して楽しくなっちゃってたら、タイトルの「THE SADNESS」ってのはおかしくね? ということで、ここは不満というか、もったいないと俺も思っていて、このあと書く。

 

 ゾンビ化した人たちがガンガン人を刺したりぶっ飛ばしたり、カンフーっぽい蹴りを見せてくれたり手榴弾で人を爆破したりする。

 この感じはどこかで体験したことがあるな〜と思ったら北野映画なのだった。

 

 以前書いたけど、俺は映画の暴力シーンを観ていると笑ってしまうことがあって、北野映画で人が脈絡なくぶん殴られたり重機に吊るされて海に沈められたりすると爆笑してしまうんだけど、『哭悲』も同じ感覚を覚えた。

 そういう、陽気な暴力をみんながどこかエンジョイしてる雰囲気があるので、怖さや絶望感でいうと、そこまででもなかった。

 

 エンジョイといえば、おじさんのウインクがよかったな。このおじさんというのは電車内でヒロインにからむ、うだつの上がらなさそうなサラリーマンなんだけど、この映画の第三の主人公と言っていい。

 おじさんは感染してから、以前から目をつけていたヒロインを追いかけ続けるメインヴィランになる。最初は傘だった装備が防災用の斧になって攻撃力が上がるところも、ドラクエとかの主人公っぽい。

 とんでもなく非道なキャラクターのおじさんは、一方で明らかにファニーに描写されていて、それが映画のトンチキさを増しているというか、『JOKER』みたいにしたかったのかなあ。だとしたら失敗してるとしか言えないんだけど、そこが面白かったりするので難しい。

 

 グロテスクさも、個人的にはそんなにキツいと思わなかった。延々と人が傷つけらる描写が続くんだけど、破壊されているというより、真っ赤なゼリーの塊がぶっかけられて顔や体に貼り付いてる感じ。

 ダメージを負っても「損傷」とか「変形」って感じがあんまりないのも、この作品に悲惨さが薄い理由かも。血糊の量はすごい。

 あと、音楽の挿入とか映像の早回しとか、演出がけっこうかかるのも人工っぽくて、恐怖感を遠ざけてた気がするなあ。

 一方、他の人の感想を読んでると、怖かった、という人もいるみたいで、ホラー映画ってマジで評価が難しい。

 俺の仮説では、北野映画とか『ガキの使い』で、理不尽な暴力を観ると笑ってしまうやつだと怖さを感じないのでは、と思っているので、参考にしてください。あと、性暴力の場面が多いので、そういう点でも鑑賞は注意。

 

色々ともったいない

 ここからネタバレありで。

 仕事に出かけた先で感染パニックに巻き込まれたヒロイン(カイティン)を救出するため、男主人公のジュンジョーがバイクに乗って、ゾンビの群れをかいくぐりながら台北市内を捜索する、というのがメインストーリー。

 カイティンの勤め先がどこかとか、バイクでまっすぐ行ったらどの程度時間がかかるとか、そういう情報はあまり出てこない。そのため、ジュンジョーがどういう計画でカイティンの元に向かっているのか、よくわからない(うまく合流できたとして、その後感染者たちの中でどうするつもりだったのかもわからない)。

 途中でジュンジョーが山みたいなところに着くと、トンネルが潰されてしまっているのだが、あれはカイティンの勤め先への道だったのだろうか。しかたなく方向転換する途中で、ゾンビの集団と軽くモメる。

 行き当たりばったりというか、ずっと天気がいいのもあって、なんかゆるいロードムービーみたいだ。もちろん、都合よくヒロインのところに真っすぐ到着できない方がリアルかもしれないが、そこの現実感はいらないんだよな…。

 一方、途中でゲットした鎌がジュンジョーのアイコンになったのは上手かったと思う。このおかげで、画面に顔が映ってなくても、それがジュンジョーだとわかるので(これが後半、生きてくる)。

 

 ウイルスが精神にどう影響するかも、なんだかブレていて、① 本来の暴力性や性欲が過剰に促進される(⇒悪人がさらに悪に)と、② 自分でも望んでいない残酷なことをやりたくなってしまう(⇒善人が悪に)が混在している気がする。

 基本的に①なんだろうけど、後半は②と説明されているような気もして、どっちなんだよ、という。

 実際のところ、「人間という生き物は、常に自らの悪意に苦しみながら、それを押し殺して善を保っている」という理解なら、①と②は矛盾しないし、作品のメッセージ的にはそれが正しいと思う。ただ、そこの説明は足りてないよな~と思う。

 

 そして、「THE SADNESS」の描写についてだ。ウイルスに感染して暴力的になった人々も、罪悪感は残っているので、悪事を働きながらも涙を流す、という説明がされている。

 ただ、劇中で涙を流した感染者はあまりおらず、基本的にみんな、明るく楽しく暴力を振るっている。全然、SADNESSじゃない。

 これはすごくもったいないことだ。この設定を生かせば映画館の観客のメンタルを地獄の底に落とせそうな、そういうナイスな発想なのになあ、と思う。

 

 一方で、良かったところもたくさんある。

・序盤、近くの家屋の屋上に大量に出血した人物が現れるところ(不穏で良い)

・ヒロインを駅に送る途中で見かけた、シーツをかけられた血みどろの遺体(不穏で良い)

・感染して飛び降りてくる人。ここ、絶望感あって好き。この場面以外、感染者がみんな他傷に向かうのは、この映画がホラーとしてすごく損してるところだと思う。

・テレビ放送がほぼ停止してしまっている中、たまたま映る不気味なアニメ(不穏で良い)

・町内放送(本格的な開戦のゴングとしては100点に近い)

・エンディング(唯一正気だった人間が、ウイルス以外の理由で狂ってしまうという、すごくキレイな落とし方)

 

 色々と惜しいけど、トータルでは面白かった。配信は2022年8月現在でされてないけど、もしも始まったら観て欲しいと思う。あと、全然関係ないけど、台湾ってすごくあったかそうだな、と思った。

 ジュンジョーが市内をバイクで流してるシーンはずっとポカポカで本当に南国って感じだ。やっぱりロードムービーじゃねーか。ところどころで人死んでるけど。

klockworx-v.com

今日、脳から捨てたものについて ⑩

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

・お前の改名興味NAME

 『ガキの使い』、「月亭方正がラップバトルに挑戦」。「即興 嘘つき旅館」もそうだが、うまくやろうとしてうまくいくと企画としては失敗で、うまくいかないことの方がうまくいっているというのは、不思議な感じがする。

 

・お仕着せがましい

 こんな言葉はない(と思う)。

 

・てんぷらはかわいいねえ

 『正反対な君と僕』で谷君の家で飼われている猫に対し、谷君の祖母が発した言葉。本当にかわいい。背中にハート柄がある。

 

・ハライチ G

 岩井の才能が欲しい。

 

・濃さ、濃度、ねばり気的には非常に近いですよ

 『ガキの使い』、「ききとんかつソース」で田中が発した言葉。この回で田中が他に口にしたセリフとして、「なつかしのまい泉」がある。

 

・絶対最終版(変更不可).xls

 絶対最終版(変更不可)2.xlsに続く。

 

・ハンパじゃねーッ

 『GANTZ』、和泉がチビ星人と戦っていたときに発したセリフ。

 

・ジョン太夫…家が爆発した…

 『ピューと吹く! ジャガー』。あえて不幸な状況に身を置くことで幸運を呼ぶという、ジョンダ流開運術の結果として訪れたもの。人生で笑った漫画の場面トップ10に入る。

 

・カチカチカッチンナ先生

 『とっても!ラッキーマン』。豆腐を打って鍛えて鉄の硬さにするという修業を命じる人。

 俺は言葉や単語を脳から捨てるためにノートに書き出しながら一度口に出す必要があるため、職場において、平成中ごろ~後半の漫画のセリフを脈絡なくいきなり言う男になっている。

 

 以上。

ロックについて

はじめに

サマソニで複数の日本人バンドのMCが問題に?音楽に対する姿勢やメッセージ性についてのいろいろな意見のまとめ

前の演者の印象的な場面にふわっと乗っかろ、ぐらいの意図で片言マネたんだろ、と軽く思ってたが、海外のイベントで日本人の次のアクトが下手な英語マネしてたら意図がなんだろうがムカつくからやっぱダメだな。

2022/08/22 08:11

b.hatena.ne.jp

 俺の中でロックなバンドを挙げろというと四つあって、スピッツSlipknotoasisエレファントカシマシということになる。

 ただ、この四つのバンドがロックという概念を同じ意味で共有しているかというと、それはまったく違っている。言い換えると、俺にとってロックとは複数の側面を持つ言葉で、ただ一つの意味に集約できない。

 

 スピッツは、歌詞と世界観がロックだと思う。草野マサムネの作詞には全霊で生きている虫とか花とか動物とか、路上とか泥の上でうごめいているものと人間と星と月とファミレスとラブホテルをつないでしまうことが可能で、この「力」をロックと呼びたい。

 出てくる人間が誰かに示す愛情も、セックスのことしか考えていないやつと、もっと原始的なリビドーのやつと、なぜかハンティングナイフを相手に送りつけようとするやつが出てくるので、振れ幅がすごいとかいうレベルを超えており、これをロックと呼びたい。

 

 Slipknotは覆面を被ってそろいのツナギを着た9人組で、見るからに明らかにイロモノであり、デスボイスのボーカルに打楽器隊が3人もいるというよくわからない構成をしていて、とにかく音が重く、それでいて曲が最高にポップだ。

 アイオワの農家しかない田舎から出てきて、退屈と憎悪が異様な濃度のまま膨張しており、ロックスターになったのにそれほど幸せな感じがしない。一方で、聴いていて楽しい曲をつくるセンスがあるものだから、激烈に暴力的で歌詞も陰鬱なのに文字通り「音楽」として成立してしまっていて、無茶苦茶に暴れているのに、その怒りに同調しながらみんな笑顔になってしまうという、そのマジックをロックと呼びたい。

 

 Oasisは多くの人間がこうなりたいと思う生き方をずーっと続けてきたからロックだ。

 良い声と傲慢さと愛嬌を兼ね備えたボーカルと、天才的なソングライティングと傲慢さと愛嬌を兼ね備えたその兄貴がバンドを組んで、良い声を持っている弟が兄の作る良い曲を歌って歌って、ずっと歌っていたら世界で一番になってしまった、という話だ。

 ステージにリアム・ギャラガーが出てきて、彼が両手を後ろ手に組んで歌うと、世界の中心がズレる。この世界には世界の中心がいくつかあり、それは基本的に人間の数だけあるので70億個ぐらいあるのだが、リアムが歌い出すとその数が減る。

 多くの人間がそうなりたかった。ほとんどの人間はそうなれなかったが、その代わりにリアムを見ているだけで幸せだった。少なくとも、この世界で、自分たちの一人だけは夢を叶えることに成功したと、見ていればわかるからだ。その希望をロックと呼びたい。

 

 エレファントカシマシ宮本浩次は最初からずっと戦っていて、それは世間との戦いのように見えて実は余技で、本当は自分自身と戦っている。ずっと、ずっと自分と戦っている。

 宮本浩次にとっての彼自身は、たぶん彼の理想と比べるとあまりに怠惰でいい加減だという点で戦うべき敵なんだろうけど、同時に、戦って倒せば倒すほど「悪い部分がなくなっていく」というところが、むしろ悲劇なのかもしれない。

 当たり前だが、「俺、いい加減にやってんじゃねえ」と思いながら自分と戦って倒すわけだから、次に出てくる敵としての自分は、もっとマジメになっているわけで、これを戦って倒すのは前よりもさらに苦しく、宮本はこんなことをずっとやっている。

 こういう宮本浩次に対し、宮本すげえ、と思って声援を送ると、「ふざけんなこの野郎、俺にエールなんか送ってる場合かお前は。お前自身はどうなってんだ、バカ野郎」と言い返してくるのが宮本で、でもそれが相手に対する何よりのエールになっているので、この狂気じみた誠実さと屈折をロックと呼びたい。

 

 ロックの意味は、ロックによって違う。

 誰それの行いを、ロックだとか、ロックじゃないとか言っても、あんまり意味がなくて、一つの「ロック」をずっとやってきた誰かが、別のロックじゃないことをしても、それで全部がおじゃんになるかというと、そんなに厳しくなくてもいいんじゃないの、と俺は思う。

  「理屈はともかく、単にダセぇよな」。それはある。俺もダセぇと思うし、不快だと思う(事前に、ネタにするってマキシマムザホルモンとリンダ・リンダズで取り決めてたならわからないが)。

 

 おそろしいのは、(ある一つの意味での)ロックじゃない言葉や行いというのが、割とするっと何気なく出てくるもんなんじゃないか、ということだ。

 この、するっと出てくる、というのは、その人の品性や倫理とはあまり関係がないのかもしれない。なんというか、ある種の技術や心構えとして警戒を絶やさず、意識的に遠ざけないと、どれだけ良い人からもこぼれ出てくるのかもしれない(「いやいや、だから、みんな注意して生きようぜ、って話だろ」と言われれば、そのとおりです)。

 そういう意味でも、俺はこれを批判するべきだと思うけど、一方で、これが致命的な汚点であるように言っても、誰もあまり、得るものがないんじゃないかなあ、という気がする。

 面白いと思ってやってしまいました、と言って謝れば終わる話だと俺は思っていて、それとマキシマムザホルモンの「ロック」とは関係がない気がする。

 なんとなく、その場の勢いでやったような気がするので、それを言語化するのは相当嫌な行為だと思うが、逆に言えば、謝ればそれで済む話じゃないだろうか(違ったらすいません。第三者が勝手に結論出すのも変かもしれないし)。

 なんか、ロックかどうかとか、日本の国民性がどうとか、ズレてんだよな、と考えている。

人類は林檎の夢を見るか、について

ここまでのあらすじsanjou.hatenablog.jp

 いま流行りの画像生成AIを使って◯◯(例:林檎)に関する注文を出すと、人間がこれまでネットにあげてきた林檎に関する膨大な情報を渉猟して一つのイメージにまとめることができる。

 別に、林檎の画像が欲しければ画像検索でフリー素材がいくらでも手に入る。だが、それは画像をつくった誰かにとっての林檎であって(別に、そこまで気合い入れてつくってないかもしれないが)、「俺にとっての林檎」ではないし、「俺とみんな、人類全体にとっての林檎」でもない。

 「俺にとっての林檎」や「みんなの林檎」を見えるようにしたければ自分でつくるしかないが、俺にそういうスキルはない。また、できたとしても膨大な手間がかかる。

 

 かつて、「俺とみんな、人類全体にとっての林檎」が見たければ、天才画家の力を借りる必要があった。

 林檎という例えについて、実際の果物のリンゴで「みんなの林檎」を描くことに成功した画家は正直思いつかない。いないのかもしれない。

 ただ、「最愛」や「無垢」、「希望」、「存在の骨そのものまでしみ込んだ絶望や悪意」といった概念を人物の姿によって表現し、人類全体の奥底に届いた作家はいたと思う。モディリアーニとか、ベーコンとか。

 脱線するが、モディリアーニやベーコンなどの画家がスペシャルなのは、彼が大切だと感じたものや感情を動かされたもの、人間や裸体、生物を描いたものが、結果として人類全体が奥底で抱いているビジョンに届いたからだと思う。

 これらの芸術家は、個人が個人的な活動を続けた結果、ある意味で人間全体を代表してしまった。そういう才能や手間を称えることが、画家を評価するということの意味の一つだと思う。

 

 話を戻す。

 そういう意味で、昔は画家の力を借りないと視覚的な媒体で人類全体の中には入れなかったのだが(俺はデザイナーのことをよく知らないけど、きっと、同じような天才はいるのだろう)、いまはAIの力によって、インターネットという集合知を一枚の絵にまとめることができる。

 一つの絵にする、というこの統合作業によって、人類の集合的無意識の中にある「みんなの林檎」に届く。だとしたら、AIすごくねえ? ということだ。

 「いやいや、それって、出てきた絵の良い悪いよりプロセスの方を評価してるだけだろ」という批判はあると思います。それで本当に「みんなの林檎」だって言えるのか? という。それは、いまんところ言い返せません。その通りかも。

 

脱線ついでに、言葉とイメージについて

 「俺の林檎」について、絵で描くことは難しくても、頭でイメージすることならできるだろう、と思いきや、それがけっこう難しい。

 例えば本を読んでいて、「林檎」という文字を視界に入れても、俺は頭の中に赤や緑の林檎を思い浮かべていないからだ。俺は基本的に、文字を脳内にイメージする行為を完全に放棄して文章を読んでいる。

 もしかすると、これは全然ピンと来ない人がたくさんいるのかもしれない。人によっては、頭の中でビジュアライズしているのかもしれないが、俺はまったくやらない。

 そのせいか、小説とかで出てくる地理関係や方角に関する記述を理解するのを、俺は異様に苦手にしている。◯◯は△△の北にあって、とか言われてもなんのことだがまるでわからない。こういうやつはどのくらいいるのだろうか?

 

 とにかく、俺は文章を頭の中で視覚化しない。

 それでどうやって理解しているかというと、「言語覚」としか言いようのないところで感じている気がする。視「覚」とか聴「覚」と同じ、言葉をキャッチして認識するための感覚だ。

 そこで言葉は言葉として扱われていて、いちいちビジュアルに再構成されない。赤い(緑でもいいけど)あの林檎とも、音としてのringoとも違う、言葉の世界の「りんご」があるということで、これは不思議なことだな、と最近思う。

 ただ、その「言葉の世界のりんご」は本当に俺のためだけに存在し、俺以外に感じようがなく、それを誰かと共有しようすると、目に見える赤い林檎や音としてringoに変換せざるを得ない。

 このときに取りこぼされるものはあまりに多い。その不可能さが悲しく、同時に贅沢なものだな、と思うが、もしかすると、この壁を突破するためのアートが詩なのかもしれないな、と思う。

 

 

Bacon

Bacon

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SONICMANIA(ソニックマニア)2022の参加をあきらめたことについて

ソニックマニアずっと好き

 ソニックマニアというのはサマーソニック前日の夜から日付をまたいで夜明けまで開催されている、文字通り前夜祭的なイベントだ。

 会場は幕張メッセの中に屋内ステージを組む。コンクリートを打たれた、広くて暗い、無機的なスペースにレーザーや照明をガンガンに当てることで独特の浮遊感が生まれる。

 俺はこのイベントが好きで、2013年にThe Stone Rosesが来日して以来、ほぼ毎回参加している(ローゼスは2013年に観られて本当によかった。結局、あのあと再解散? してしまったし)。

 Marilyn MansonThe Prodigyも、Perfumeサカナクション電気グルーヴも体験したし、何よりKasabian! 人生で最高に楽しい思い出の一つだった。

 観客の群れでもみくちゃになりながらロックアンセムでばきばきのぐしゃぐしゃに踊るのが楽しいのはもちろん、疲れたらステージの近辺を離れて、会場後方にあるスペースでコンクリの上に座って、ぼんやり雰囲気を楽しむのもいい。

 特に、イベント終盤の明け方近くになると参加者もちらほら力尽きてきて、後方のこの空きスペースに、疲労感と満足感でまったりしながら、「まだ踊ってるやつらすげ~な~」って見ながら、俺ももう一回混ざりに行こうかな、という不思議な空間が形成される。俺はこれが好き。

 ソニックマニア、大好きだ。いつかまた行きたい。

 でも、今年は行かなかった。

誰のせいでもないが、幻想は失われた

www.summersonic.com

 ソニックマニアサマーソニックともに、今年はオンデマンドでも配信されている。感染症の拡大とは別に、仕事などで出られない人は必ずいるわけで、素晴らしい取り組みだと思う。今後もぜひ推進してほしい。

 

 ことわっておくと、これは誰を批判するつもりの記事でもない。アーティストも悪くないし、運営も悪くないし、参加した人も悪くない。

 あえて悪いものがあるとすれば感染症であり、それにまつわる俺の心境の変化について書いている。それは、「こんなに感染者が多いのに、音楽フェスなんてやってる場合か?」という疑問や怒りではなく、ある種の幻滅…と言っていいのか、なんというか、冷めてしまった、ということだ。

 あくまで、俺個人の話であって、他の人たちも同様に幻滅するべき、とはまったく思っていない。ただ、逆に言えば、俺にとってライブに参加するときに大切に感じていた夢は失われたので、まあ、それを悼(いた)む目的で書いている。

 

 ソニックマニア2022の開催が決まり、参加アーティストが公表されたとき、最初、俺は行くつもりだった。

 Kasabianという、フロントマンのトム・ミーガンがパートナーへのドメスティック・バイオレンスを犯したため脱退したUKロックの雄が、サージ一人の体制でどれだけすごいものを見せてくれるか観たかったし、電気グルーヴサカナクションも好きだし、Primal Screamも初体験したかった(サカナクションはその後、欠場)。

 ただ、その後感染者がどんどん増えてきて(下図)、「ありゃりゃ、これはちょっとまずいな」と思った。

 

(出典:日本国内の感染者数(NHKまとめ))

 

 ソニックマニアは屋内のイベントであり、もちろん換気は対策するだろうけど、ステージを観ているときのぐっちゃぐちゃの密度の中で、隣同士の飛沫を防げるものではないだろう。

 通常の呼吸だけでなく、あの空間にいれば必ず声を出す。マスクだって、熱気の中で体を動かしていたら、とてもしていられないはずだ。

 サマーソニックの運営は、ガイドラインでマスクの着用と声出しの禁止を呼びかけている。その中で誰かがマスクを外し、声を出すことを、黙認されていると取るべきではないし、ガイドラインに従えという人がいたら、それは空気が読めないのではなく、正論なだけだ。

 でも、あの熱狂の空間でそんなことしてられるか?

 できない参加者も大勢いるだろう。それが自然だ。

 だから難しいのだ。だから「なあなあ」になる。それは避けられないことで、俺はそれで守れない人間や運営を責めても仕方がないと思う。

 もしも誰かが「マスクしようや。決まりなんだからよ」と言ったら、それが100%正しいし、本来なら、参加者全員がそうするべきなのだ。

 一方で、できないなら来るな、というか、できないやつが一定数いるんだからそもそも開くな、というのも難しいから、この話は面倒くさくて大変なのだ。それは、一部の人たちから生きる理由や飯を食う手段そのものを断ち切ることだから。

 

 ここからが本題になる(それほど合理的な話でもないので、何を言ってんだ、という人もいるだろう)。

 感染者が増大して、行くかどうか考えたときに、俺はふとこう思った。

 「アーティストとライブの参加者は、どちらが感染するリスクが高いのだろうか?」

 空気感染の危険性があるのは、基本的に人間同士の距離が2m、長くて10mという情報が多い。

 アーティストのいるステージには広さがあるし、観客とも一定の距離が保たれている。おそらく、演者同士の陽性チェックもしているだろう。そこまで危険はなさそうだ。

 一方、観ている側はそうではない。ケタ違いに密度が高いし、横にいる相手が陰性か陽性かもお互いにわからない。つまり、「具体的に何倍」とは言えないが、ステージよりも観客の方が圧倒的に感染リスクが高い。

 

 それはいいことなのか?

 ライブという空間において、タレントと客の関係はそれでも壊れないものなのか?

 

 これを読んでも、ピンと来ないという人がおそらく多いと思う。俺も自分で、書いていて驚いている。

 つまり、感染のリスクについて考えた結果、いまの状況でのライブは、アーティストと観客の関係性を(俺個人としては)維持できない、と思ったのだ。

 スター ⇒ star(星)、アイドル ⇒ idle(偶像)という言葉に表れているとおり、あの人たちは本来、規格外の存在だ。平等の立場ではないと思うし、金を払って拝ませてもらっている(別に、対価を払ってるんだから対等だ、という意見があってもいいけど)。

 それでも、俺はライブの空間というのはアーティスト単独では生み出せず、観客との融合の中でつくられるものだと思う。その場で一緒に形成するものだと思っている。

 そのときに、いまの社会に強大な影響をふるっている病気に感染する危険性を観客がより多く負って観ている、それは、ライブとしてあるべき姿なのか?

 実際のところ、フロアでライブを見ることがどの程度のリスクなのか、数字で計測できない(誰にもわからない)。

 ほぼ確実に言えるのは、日常生活よりも高いということで、よく言えば「それでも、感染らない可能性が高い」し、悪く言えば「どの程度安心か危険かさえ不明」ということだ。

 その上に、アーティストと一緒に熱狂の空気は築けるのか?

 

 築けるだろう。俺は無理、というだけの話なのだ。

 繰り返すが、アーティストと観客は平等ではないと思っている。

 でも、ライブという空間で、どんなスターもアイドルも、こちらに託すしかないものがある、とも思っている。その点で、俺たちは同等なんだ、だからあの一体感なんだ。そう信じていた。

 観客がはるかに高いリスクを負ってつくられるいまのかたちを見て、感染症がその幻想を壊してしまった、という話だ。

 

それでも、幻想は生き返るので

 アーティストも平等に感染のリスクを負うべき、ということではない(そんな無茶な)。あえて言えば、「開催しない方がいい」としか言えないかもしれないが、それではアーティストや運営会社は生活できなくなってしまう。

 今の時点の結論はない。だから、俺は誰も責めない。

 開催という選択を止めろ、と断言できないし、開催すれば人は来る。そして、来た人の一部はルールを守れない。しかたがない。馬鹿にしているわけでも皮肉でもなく、そういうものだと思う。

 ただ、「このかたちである限り、あれは俺の中では『ライブ』じゃねえ」という人間はいる。俺のことだ。

 こうである限り俺は永遠にライブに行けない。それは困る。

 

 これでいい、とアーティストも運営も考えてはいない、と信じている。

 それが、「陰性証明必須、マスク絶対厳守」というベタなルールの追加なのか、「感染数がもっと増えたら次回は中止」なのか、「オンライン配信の体制強化」なのかはわからない。

 でも、俺の中のスターやアイドルを求める幻想は、必ず、都合よく生き返ろうとするだろう。だって、やっぱり観たいもん。スペシャルで、世界で一番カッコよかったりきれいなものを。

 またいつか、行ける日が来るのを祈っている(感染症が終息するのが一番いい)。

人工知能は異形の夢を見るか、について

AIすごくね?

 AIに絵(画像)を描いてもらうことが話題になっている。

 どちらかと言うと冷ややかに見ていた。特に「◯◯(画家の名前)風」に描いた何か、という画像を見たときは、けっこう不愉快な感じがした。

 「あくまで◯◯風の、だからな。楽しんでる連中はそこんとこ勘違いすんなよ」

 面倒くささ丸出しで、そう思っている。

 

 別に美術の知識があるわけでもないが、画家というのはみんなそれぞれの人生や信念があって個々の作品に「たどりついた」のだと思っている。描くものには理由があって描かれたんだし、描いてないものは描いてないのだ。

 ◯◯がもしあれを描いたら、という仮定にはなんの意味もない。

 自分の描いた絵以外描けなかったことも含めて、◯◯という画家なのだ。

 しかし、なんか段々と、「◯◯風の何か」から「◯◯が描いた何か」にぐずぐずとスライドしつつある気配があって、勝手にムカついていたのだった。

 

人工知能は異形の夢を見るか?

nlab.itmedia.co.jp

https://image.itmedia.co.jp/nl/articles/2208/04/l_rj_220804midjourney01_w540.jpg

 

 ところが、ですよ。

 これはすごくないですか? 異形崇拝という単語で生成されたものらしいけど、「おお…」と思ってしまった。

 俺は当のサービスを触っていないので、実際に出力するまでは細かい条件やコツがあるのかもしれないが、「異形崇拝」という漠然としたお題でも、ものすごくそれっぽいものが出てくるようだ。

 

 いやいや、というか。この「それっぽさ」を表現(と言っていいかわからないが…)できていること自体が、不思議と言えば不思議だ。

 本来、異形という単語でイメージされる範囲はかなり広い気がする。その中で絶妙に、異形でありながら神性を感じられるものが抽出されているのは、崇拝という言葉が組み合わさり、うまく意味を形成したのだろうか?

 単語を与えただけでは、全然トンチンカンな出力しかしなさそうなのに、実際は、かなり「らしい」ものが出てくる。ざわざわするぜ。何が働いてそうなったのか、興味深さと、怖さと嬉しさと。

 

I have an apple.

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出展:魔術として理解するお絵描きAI講座|深津 貴之 (fladdict)|note

 

 別のユーザーが「I love apple.」というお題で注文したところ、こういうものが出てきたらしい。いいねー。

 何がいいか、何と比べていいかというと、いわゆる画像検索で表示される「林檎」と比べると、AIが生成したものの方がずっと好ましくて、興味深い。

 

 それはデザイン性の問題? それも一つの理由かもしれないが、もう一つ理由があると思う。

 AIが画像をクリエイトする仕組みはよく知らないが、ネット上に上げられている膨大な林檎の画像や情報を集約した結果として、成果を表示しているのだろう。

 このときの、集約というのがポイントだ。つまり、インターネットというのが地球の数多くの人間が接続しているある種の阿頼耶識集合的無意識だとすれば、そこから汲み出された「林檎」は、人類の精神の底で共有された林檎の原型とも言える。

 俺たちは、デザイナー個人の美意識を反映したものではなく、数えきれない俺たち自身の心の中にある「林檎」を見る術を手に入れたのだ。俺はそれがすごいと思う(続く)。