『血界戦線 Back 2 Back』災蠱競売篇は、なぜつまらないのかについて 2/2

ここまでの話

sanjou.hatenablog.jp 長すぎる。

 

② 登場人物たちが「いま何をしたいのか」、最後までわからない(続き)

 災蠱競売篇は、人命を犠牲することで強力な兵士を製造できる道具であるカロプス人蠱をめぐって攻防が起きる。

 攻め側であるライブラやグリーディナッツが勝利するためには、次のいずれかをクリアする必要がある。

 1.カロプス人蠱と契約したリチャード・インセイン・フーを確保する

 2.フーを警護しているタイクーン・ブラザーズを倒すか(倒せれば、だが)

 

 反対に、防御側であるフーたちズールディーズ側にも、選択肢がいくつかある。タイクーン・ブラザーズはめちゃくちゃ強いので、ライブラたちに実力差を思い知らせてあきらめさせてもいいし、徹底的に攻撃して全滅させてもいい。

 どちらの陣営にも、選択肢はある。ただ、「俺たちはいま、これを目指しているんだよな」と誰も言わないので、みんな何をしたいのかよくわからない。

 

 ところで、「攻め側」には勝利するための手段がもう一つあるようだ。それは、物語の後半にレオと一緒に逃げ出した、カロプス人蠱の中身を消滅させることだ。

 スティーブンが「中身」の命を奪おうとしたのは、そうすることでフーと人蠱の契約完了を阻害できると判断したからだろう。なぜ、スティーブンがそう考えたのか、単にやってみる価値があると思っただけなのかは、わからない。

 実際、スティーブンの読みは当たっていたらしく、フーは「中身」を取り戻すことにこだわる。大富豪のフーなら、逃げ出した中身と同じだけの人命を用意することはできるはずだが。

 というか極端な話、人蠱の中身をすべて白紙にして、新たに100人分の命を調達することもできそうだ。それにもかかわらず、そうしないということは、やはり、逃げ出した「中身」以外では契約を完了できないのだろう。

 

 整理すると、以下のような仮説が立つと思う。

 1. 人蠱で一度兵士の生成を始めると、その材料にした中身以外では生成を完了できない。

 2. そして、一度生成が始まると、リセットできない。

 3. だから、生成中の中身がなんらかの理由で抜け出してしまうと、中身を回収するまで、人蠱はずっと使用できなくなる。

 

 これは俺の推測だ。ただ、こう考えれば、フーが逃げ出した中身にこだわる理由はわかる。

 また、「人蠱が多数の命を代償にして強力な兵士を生み出す道具なら、フーは私兵をどんどん犠牲にして、タイクーン・ブラザーズ以外の兵力を増やせばよかったのでは? 」と思っていたが、この仮説ならそうしなかった理由も説明できる。

 でも、こういうルールは作中で書かれていない(はずな)ので、読む側がそうやって補完することに面倒くささを感じる。そして、次に書く批判が、災蠱競売篇の状況をさらにわかりにくくしている。

③ 血界の眷属(ブラッドブリード)と各キャラクターの力関係がよくわからない

 作中で、血界の眷属はきわめて強力な存在と説明されている。これに勝てるとはっきり言えるのは、いまのところ次の二つだけだと思う。

 1. クラウス(レオの能力によって相手の本当の名前を把握している場合。「拳客のエデン」でオズマルドには負けていたので、単独だと厳しい?)

 2. 裸獣汁外衛賤厳(ザップとツェッドの師匠。単独でも血界の眷属に勝てる)

 

 これ以外のキャラクターは、対血界の眷属戦において、できても時間稼ぎだけ…と言えないのがややこしい。

 例えば、師匠の支援によって一時的にパワーアップしたザップとツェッドは、タイクーン・ブラザーズ戦において勝つ気で戦っているように見える。怪人キュリアスやその仲間たちも、おそらくは勝つ気で戦っている。

 つまり、血界の眷属は強力だが、クラウスや師匠以外は勝てないというわけではなく、他のキャラクターにも倒せる可能性があるということだ。タイクーン・ブラザーズが特別に強かったので勝てなかったわけだが。

 

 前回の記事で、「作中の力関係が明確なら、それぞれの目的をいちいち明示しなくてもいい」と書いた。

 つまり、どう頑張っても血界の眷属に勝てないキャラが戦っていれば、その目的は時間稼ぎや陽動になるし、勝てそうなキャラなら倒すつもりで戦っているだろうから、読者にも戦闘の理由がわかりやすいということだ。

 しかし、実際はこのようにパワーバランスが曖昧なので、結局、みんながいま何をしたいのかよくわからない。勝つ気で戦っているのか、他の狙いがあるのか(もしくは、最初は勝つつもりだったけど、無理そうだから他の考えに変わったのか)。

 しかも、災蠱競売篇はこれまでも書いてきたとおり、必ずしも相手を倒さなくてもいい作戦なのだ。タイクーン・ブラザーズを倒さなくても、フーと人蠱さえ押さえてしまえば、それでもいい。

 こうなると、読んでいてかなり苦しい。「結局、みんないま、何がしたいの?」というのがずっとわからない。

じゃあ、このままでは悪いのか

 いまさらだが、以下はネタバレになる。

 

 

 

 

 災蠱競売篇を通じてタイクーン・ブラザーズという敵をあそこまで強力に描いておいて、コピーした敵の能力で自爆して負けることに、納得のいかない読者もいると思う(一応、師匠が伏線を張ってはいる)。

 人蠱と契約したフーが、大義も何もない単なる非道な金持ちだったのもがっかりだった。人蠱を使って何がしたかったのかぐらい、描いてもいいのに。

 

 最後は、自滅したタイクーン・ブラザーズの血液が人蠱にかかったため、人蠱が暴走し(?)、フーを取り込んでしまう。この場面の解釈も推測であり、誰も何が起きたのか説明してくれないので、「まあ、そういうものだったんだろう」と思うが、3年の間、読者の側が色々わからないとところを補完しながら、こういうオチになった背景まで想像するしかないのか、というのは釈然としない。

 

 じゃあ、『血界戦線』はもっとわかりやすい漫画になった方がいいのか?

 これはけっこう難しい。俺はこれまで『血界戦線』を読んできて、そもそも、「わかりにくい」と思ったことがないからだ。災蠱競売篇ではじめて、そう思ったのだ。

 これまでずっと、わかりやすいし、面白かった。単純に、短いストーリーが多かったのがその理由だと思う。

 災蠱競売篇はかつてない長編だった。そのために、血界の血族とのパワーバランスの曖昧さとか、色々と説明が足りない部分が目立ってきたのだと思う。

 今後、通常営業として(?)短編中心に戻るのであれば、おそらくスタイルを変えなくてもいい。というか、変えない方がいいのかもしれない。

 『血界戦線』は言葉による説明よりも画面の力、必殺技の迫力が持つ説得力でまとめる漫画だと思うからだ。短い話なら、読者は背景を自分で補完しながら、喜んでついていく。

 

 ただ、3rdシーズン(Beat 3 Peat)もおそらく、最後は長編になるのだろうから、そのときもまた、こういう展開になるとしたら、正直嫌だな、と思う。別に長編にしなくてもいいけど、たぶん長編だろうし、そのときの敵はタイクーン・ブラザーズよりも強力になるんだろう。

 それなら、よっぽど話を単純にした方がいいと思うけど、たぶん無理だろう。何しろ、キャラクターが大勢いて、しかもみんな魅力的なので、どうしても同時多発的に各地でイベントが起きる構成になってしまう。

 しょうがない。長々書いたが、ここで終わる。次回は、「わかりにくいんだけど」がとにかくないようにして欲しい、と思っている。

 

 

『血界戦線 Back 2 Back』災蠱競売篇は、なぜつまらないのかについて 1/2

はじめに

 色々と、長々と書くので、最初に要点だけ書いておく。

 

① 話が長すぎる

② 登場人物たちが「いま何をしたいのか」、最後までわからない

③ 血界の眷属(ブラッドブリード)と各キャラクターの力関係がよくわからない

 

 はっきり言うが、こういう理由でつまらない。これをふまえて、続きを書く。

 

① 話が長すぎる

 基本的にはこれだ。災蠱競売篇は2019年上旬に始まって2022年上旬に完結してるので、3年かかったことになる。

 これは、3年間って長いよな、というのとは少し違う。3年の間、延々とキャラクターが何をやっているかよくわからなかった上、結局のところ最後までよくわからなかったので、それが長い、ということだ。

 そういうわけで、以下の②・③につながる。

 

② 登場人物たちが「いま何をしたいのか」、最後までわからない

 災蠱競売篇ではいくつかの勢力が入り乱れて物語が展開する。

 ・クラウスやレオたちの「ライブラ」。

 ・人命と引き換えに強力な兵士を製造する道具(「カロプス人蠱」)を出品したオークション機関の「ズールディーズ」と、人蠱を落札したリチャード・インセイン・フー、フーを警護する吸血鬼である「タイクーン・ブラザーズ」

 ・以前登場した怪人であるキュリアス率いる異能者集団「グリーディナッツ」

 ・アメリカ合衆国大統領直属部隊「Ex-G.I.」

 ・その他(警察、堕落王フェムト、次元怪盗ヴェネランダ)

 

 ライブラ、グリーディナッツ、Ex-G.I.は人蠱を回収したい。

 ズールディーズたちはフーと人蠱の「契約」を完了させたい(たぶん。ちゃんと説明されていない気がする)

 

 なんだ、単純じゃないか、と思うが、実際はそうではない。それは、最終的な目的は一つでも、それを達成するためのルートはいくつかあるためだ。

 

 まず、ズールディーズ側だが、彼らの目的はフーと人蠱の契約完了にある。

 ライブラ等の敵対勢力からの攻撃を防ぐ、いわば防御側と言える。ただし、後半になって契約を完了させるのに必要な材料となる人蠱の中身が逃げてしまい、一緒に逃亡しているレオを捕まえることが目的に加わるため、攻撃的な面も増える。

 あくまで契約の完了までの準備が整えばいいので、別にライブラやグリーディナッツを全滅させなくてもいい。タイクーン・ブラザーズがきわめて強力なので、相手を全滅させようと思えば可能かもしれないが、兵力は実質この二人だけなのが問題だ。

 どういうことかというと、攻撃に転じると守るべきフーが無防備になってしまうのだ。「あれ? 人蠱が兵士を増産する道具なら、それで戦力を増やせばいいんじゃないの?」…そう思った人は、俺と同じ疑問を持っていて、これは最後に書く。

 いずれにしても、ズールディーズ側としては敵対陣営を全滅させてもいいし、実力差を思い知らせて追い払うだけでもいいのだが、どちらが目的なのかは、ずっとわからない。

 

 一方、ライブラやグリーディナッツといった「攻め側」の目的は人蠱の回収だ。これも達成する方法はいくつかあると思われる。

 例えば、タイクーン・ブラザーズを引き付けて攻撃をさばきながら、同じ陣営の誰かがフーを取り押さえてしまってもいい。ただ、一番単純なやり方がある。

 それは、タイクーン・ブラザーズを倒してしまうことだ。この二人を完全に無力化できれば、フーを守る者がいなくなるので、勝ちが確定する。

 「え、そんなことできるの?」と思う人もいるだろう。なにしろ、災蠱競売篇の全篇を通じて、この二人がどれだけ強いかがずっと描かれているからだ。

 答えを言うと、倒せることは倒せる(実際に、倒して決着したので)。倒せそうなキャラクターも攻め側に何人かいる。

 では、攻め側の目的はタイクーン・ブラザーズを倒すことなのか。これが、よくわからない。災蠱競売篇を通じて、攻め側の目的が何なのか、明確に説明される場面はほとんどない。

 攻め側は、タイクーン・ブラザーズを出し抜いてフーを確保したいのか、正面衝突でタイクーン・ブラザーズを倒したいのか、誰が何をしたいのかまったくわからない。誰も、自分たちがいま何をしたいのか言ってくれないからだ。

 

 「攻め側」の目的を描写しなくても、彼らの目的がはっきりとわかる(読者に伝わる)方法が、あることはある。何かというと、血界の眷属と他のキャラクターとの力関係を明確にすることだ。

 例えば、明らかに弱いキャラクターがタイクーン・ブラザーズと戦っていれば、勝つ気のない時間稼ぎや陽動のために戦闘していることがわかる。反対に、倒せるキャラクターなら勝つ気でやっている、ということになる。

 しかし、災蠱競売篇で、そのあたりのパワーバランスは明らかではない。というか、『血界戦線』という漫画は最初からずっと、そこをあまり明らかにしていない。これが批判の③につながっていく(2/2に続く)。

 

セックスの同意について

※ この記事では暴力と性を題材にしています。

 

ニュー・シネマ・パラダイス』の編集フィルムの過激なバージョン

 映画を観ていると、ときどきセックスのシーンが出てくる。その中でも、個人的に印象に残っているものは次の作品で描かれている。

 『ジョゼと虎と魚たち』。

 『そこのみにて光輝く』。

 『オールドボーイ』。

 『薔薇の名前』。

 『弓』(はちょっと違うか)。

 ドラマだけど、最近の『白い巨塔』。

 

 共通点を挙げると、割とみんな追い詰められていることが多い。例えば『そこのみにて光輝く』の綾野剛池脇千鶴とか、両者ともに世の中的にどん詰まりで、目の前に現れた相手にかろうじて希望を見出した…というほどポジティブでもなく、単に飢え果てた結果、どうにかお互いに食い合っているというか。

 俺が良いと思う情交は、そういうダウナーな感じのものが多い。それは一種の衝動だったり、感情の決壊だったりする。そのため、言葉は交わされず、合意があるとすれば、声に出されないその場の雰囲気でなされている(ことになっている)。

 それが情緒だと俺は思うし、言葉という理性の象徴を欠くことでしか表現できない哀愁があると思っている。もしも、「よろしいですか」「よろしいです」の一幕がはさまれたら、これらの場面が持つ雰囲気はかなり損なわれるだろう。

 例えば、「映画の中では省略されているけど、画面に映っていないところで言葉がやり取りされたのですよ」という解釈でもダメなのだ。言葉による意思確認が欠如している、ということが重要なのだから。

 でも、現実はそうではなくなりつつある(と言えるほど、そもそも、俺はみんながどうやって相手と関係を持っているのか知らないが)。そして、それはやはり、進歩と呼ぶべきだろう。

 

猫を焼く

www3.nhk.or.jp

 スペインで、相手からの同意がない性行為をすべて性的暴行として罪に問うことができるようにする法律の改正案が可決されたという。

 性的暴行の容疑を取り扱うというのは、それなりに特殊なシチュエーションだと思う。なので、「じゃあ、いちいち関係もつ前に念書交わすのか」とか、「こんな法律をつくって、どれだけ女の側を言った者勝ちで優遇するんだ(こういうことを言う人は得てして女の側だけが悪用すると言う)」というのは、反論として少しズレてるな、と感じる。

 性暴力の加害者として訴えられる状況なんて、そうそう起きることではないんだから、そんなレアケースを恐れて法律に反対するのは重箱の隅なのでは…。

 そう思うのは、俺が男だからそう思うだけなのか。女性の6.5%は、一回以上男性から無理やりに性交された経験があるという統計がある。

  つまり、女性たちの一定数が、自分の身に起きたことを暴行として認識しており、それが立件されれば、スペインだったら犯罪ということだ。

 ん? 統計的に男性が加害者であることが多いということは、スペインの法律も基本的に、その被害に遭った女性を救済・保護するために運用されるのか。

 じゃあ、「このルールで相手を陥れて得するのは女ばっかり」というのも、あながち間違いじゃないのかもしれないな、と統計的に加害者であることが多い性別の俺は思う。

 よくわからないが、「じゃあ、あなたの性別を保護する法律を整備するから、自分と同じ性別の十数人に一人が性暴力に遭う社会で暮らしたいですか。別に、法律を悪用しようと思えばできますけど」と聞かれたら、男性はどう答えるだろう。おそらく、多くが「暮らしたくない」と言うのではないかと思う。

 

 その昔、ヨーロッパでは娯楽として猫を火に投げ込み、猫が苦しんで踊るのを見て楽しんでいたという。現代では猫を祀る(?)のんきな祭りと化しているベルギーのイーペル猫祭りも、その起源は高所から猫を投げ落として殺す行為にあったらしい。

 色々な文化・風習があるにしても、現代社会で動物を苦しめて喜んでいたら批判されて当然で、かつては当たり前の楽しみだったものも、徐々に変わっていくのだ。

 例えば、俺は『ガキの使い』で浜田が理不尽に後輩芸人にビンタを張るのが好きなんだけれども、女性芸人の髪を引っ張ったり胸を揉んだりする場面ではもう笑えないだろう。

 それは、ときどき耳にする「昔のテレビは面白かった。いまは規制ばかり」という意見では擁護することができないと思う。失われた「猫焼き」と同じだからだ。

 人間は、もうそういうものを面白いと感じないところまで、進歩しているのだ(じゃあ、男性芸人なら先輩にビンタ張られてもいいのか、という批判はあるだろう。実際、今の若い人はもう、あれを観ても笑わないのかもしれない)。

 

 新しい世界では、俺が上で挙げたような映画のシーンは情緒でも悲哀でもなんでもなく、単なる犯罪であり、それで映画そのものまでが古臭い遺物になるのかもしれない。どうなるかはわからない。

 以前、人類最古の文芸作品と呼ばれる『ギルガメシュ叙事詩』を読んだとき、その野蛮な価値観には確かに時間の流れを感じた覚えがある。ただ、一方で、変わらないと思った部分もあった。

 自分にとって大切なものが、世界の気まぐれによって永遠に失われたとき、人間は自分がこれまでしてきたのと同じことをただ繰り返し、そのむなしさを埋めることしかできない。物語で描かれていたそうした人生観は、数千年のときを超えていると感じた。

 俺の好きな映画を、次の世代や、その次の世代の人たちが観たとき、「あのシーンは今だったら犯罪だし、全般的に古臭いけど、◯◯の場面だけはよかったな」と思うだろうか。だったら、嬉しいと思っている。

 

色々と惜しいトンチキ映画だった『哭悲 THE SADNESS』の感想について

ゾンビがカンフーを使って何が悪い

 同じ時期に公開されたアジアのホラー映画だと『女神の継承』の方が圧倒的に怖くて、完成度という点でも優っていたと思う。

 

sanjou.hatenablog.jp

 

 『哭悲』も『女神の継承』も、どちらも全編にわたってすごく暴力的で救いがないんだけど、『哭悲』では『女神の継承』で感じたような、観ている側まで追い詰められるようなストレスはなかった。邪悪なものがスクリーンを超えて現実に染み出してくるような気配もなかった。

 というか、どっちかっていうとトンチキというか、『哭悲』はどこかすっとボケた映画だったと思う。なんなら、冒頭のウイルスが変異するCGからしてトンチキだった。

 単純に、ゾンビ化した人たちがみんな楽しそうだったから、というのもあるかも(…ゾンビでいいんだよな? 「よみがえった死者」ではなく、「病気で暴力的&ハイ」になってる系です)。

 感染して楽しくなっちゃってたら、タイトルの「THE SADNESS」ってのはおかしくね? ということで、ここは不満というか、もったいないと俺も思っていて、このあと書く。

 

 ゾンビ化した人たちがガンガン人を刺したりぶっ飛ばしたり、カンフーっぽい蹴りを見せてくれたり手榴弾で人を爆破したりする。

 この感じはどこかで体験したことがあるな〜と思ったら北野映画なのだった。

 

 以前書いたけど、俺は映画の暴力シーンを観ていると笑ってしまうことがあって、北野映画で人が脈絡なくぶん殴られたり重機に吊るされて海に沈められたりすると爆笑してしまうんだけど、『哭悲』も同じ感覚を覚えた。

 そういう、陽気な暴力をみんながどこかエンジョイしてる雰囲気があるので、怖さや絶望感でいうと、そこまででもなかった。

 

 エンジョイといえば、おじさんのウインクがよかったな。このおじさんというのは電車内でヒロインにからむ、うだつの上がらなさそうなサラリーマンなんだけど、この映画の第三の主人公と言っていい。

 おじさんは感染してから、以前から目をつけていたヒロインを追いかけ続けるメインヴィランになる。最初は傘だった装備が防災用の斧になって攻撃力が上がるところも、ドラクエとかの主人公っぽい。

 とんでもなく非道なキャラクターのおじさんは、一方で明らかにファニーに描写されていて、それが映画のトンチキさを増しているというか、『JOKER』みたいにしたかったのかなあ。だとしたら失敗してるとしか言えないんだけど、そこが面白かったりするので難しい。

 

 グロテスクさも、個人的にはそんなにキツいと思わなかった。延々と人が傷つけらる描写が続くんだけど、破壊されているというより、真っ赤なゼリーの塊がぶっかけられて顔や体に貼り付いてる感じ。

 ダメージを負っても「損傷」とか「変形」って感じがあんまりないのも、この作品に悲惨さが薄い理由かも。血糊の量はすごい。

 あと、音楽の挿入とか映像の早回しとか、演出がけっこうかかるのも人工っぽくて、恐怖感を遠ざけてた気がするなあ。

 一方、他の人の感想を読んでると、怖かった、という人もいるみたいで、ホラー映画ってマジで評価が難しい。

 俺の仮説では、北野映画とか『ガキの使い』で、理不尽な暴力を観ると笑ってしまうやつだと怖さを感じないのでは、と思っているので、参考にしてください。あと、性暴力の場面が多いので、そういう点でも鑑賞は注意。

 

色々ともったいない

 ここからネタバレありで。

 仕事に出かけた先で感染パニックに巻き込まれたヒロイン(カイティン)を救出するため、男主人公のジュンジョーがバイクに乗って、ゾンビの群れをかいくぐりながら台北市内を捜索する、というのがメインストーリー。

 カイティンの勤め先がどこかとか、バイクでまっすぐ行ったらどの程度時間がかかるとか、そういう情報はあまり出てこない。そのため、ジュンジョーがどういう計画でカイティンの元に向かっているのか、よくわからない(うまく合流できたとして、その後感染者たちの中でどうするつもりだったのかもわからない)。

 途中でジュンジョーが山みたいなところに着くと、トンネルが潰されてしまっているのだが、あれはカイティンの勤め先への道だったのだろうか。しかたなく方向転換する途中で、ゾンビの集団と軽くモメる。

 行き当たりばったりというか、ずっと天気がいいのもあって、なんかゆるいロードムービーみたいだ。もちろん、都合よくヒロインのところに真っすぐ到着できない方がリアルかもしれないが、そこの現実感はいらないんだよな…。

 一方、途中でゲットした鎌がジュンジョーのアイコンになったのは上手かったと思う。このおかげで、画面に顔が映ってなくても、それがジュンジョーだとわかるので(これが後半、生きてくる)。

 

 ウイルスが精神にどう影響するかも、なんだかブレていて、① 本来の暴力性や性欲が過剰に促進される(⇒悪人がさらに悪に)と、② 自分でも望んでいない残酷なことをやりたくなってしまう(⇒善人が悪に)が混在している気がする。

 基本的に①なんだろうけど、後半は②と説明されているような気もして、どっちなんだよ、という。

 実際のところ、「人間という生き物は、常に自らの悪意に苦しみながら、それを押し殺して善を保っている」という理解なら、①と②は矛盾しないし、作品のメッセージ的にはそれが正しいと思う。ただ、そこの説明は足りてないよな~と思う。

 

 そして、「THE SADNESS」の描写についてだ。ウイルスに感染して暴力的になった人々も、罪悪感は残っているので、悪事を働きながらも涙を流す、という説明がされている。

 ただ、劇中で涙を流した感染者はあまりおらず、基本的にみんな、明るく楽しく暴力を振るっている。全然、SADNESSじゃない。

 これはすごくもったいないことだ。この設定を生かせば映画館の観客のメンタルを地獄の底に落とせそうな、そういうナイスな発想なのになあ、と思う。

 

 一方で、良かったところもたくさんある。

・序盤、近くの家屋の屋上に大量に出血した人物が現れるところ(不穏で良い)

・ヒロインを駅に送る途中で見かけた、シーツをかけられた血みどろの遺体(不穏で良い)

・感染して飛び降りてくる人。ここ、絶望感あって好き。この場面以外、感染者がみんな他傷に向かうのは、この映画がホラーとしてすごく損してるところだと思う。

・テレビ放送がほぼ停止してしまっている中、たまたま映る不気味なアニメ(不穏で良い)

・町内放送(本格的な開戦のゴングとしては100点に近い)

・エンディング(唯一正気だった人間が、ウイルス以外の理由で狂ってしまうという、すごくキレイな落とし方)

 

 色々と惜しいけど、トータルでは面白かった。配信は2022年8月現在でされてないけど、もしも始まったら観て欲しいと思う。あと、全然関係ないけど、台湾ってすごくあったかそうだな、と思った。

 ジュンジョーが市内をバイクで流してるシーンはずっとポカポカで本当に南国って感じだ。やっぱりロードムービーじゃねーか。ところどころで人死んでるけど。

klockworx-v.com

今日、脳から捨てたものについて ⑩

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

・お前の改名興味NAME

 『ガキの使い』、「月亭方正がラップバトルに挑戦」。「即興 嘘つき旅館」もそうだが、うまくやろうとしてうまくいくと企画としては失敗で、うまくいかないことの方がうまくいっているというのは、不思議な感じがする。

 

・お仕着せがましい

 こんな言葉はない(と思う)。

 

・てんぷらはかわいいねえ

 『正反対な君と僕』で谷君の家で飼われている猫に対し、谷君の祖母が発した言葉。本当にかわいい。背中にハート柄がある。

 

・ハライチ G

 岩井の才能が欲しい。

 

・濃さ、濃度、ねばり気的には非常に近いですよ

 『ガキの使い』、「ききとんかつソース」で田中が発した言葉。この回で田中が他に口にしたセリフとして、「なつかしのまい泉」がある。

 

・絶対最終版(変更不可).xls

 絶対最終版(変更不可)2.xlsに続く。

 

・ハンパじゃねーッ

 『GANTZ』、和泉がチビ星人と戦っていたときに発したセリフ。

 

・ジョン太夫…家が爆発した…

 『ピューと吹く! ジャガー』。あえて不幸な状況に身を置くことで幸運を呼ぶという、ジョンダ流開運術の結果として訪れたもの。人生で笑った漫画の場面トップ10に入る。

 

・カチカチカッチンナ先生

 『とっても!ラッキーマン』。豆腐を打って鍛えて鉄の硬さにするという修業を命じる人。

 俺は言葉や単語を脳から捨てるためにノートに書き出しながら一度口に出す必要があるため、職場において、平成中ごろ~後半の漫画のセリフを脈絡なくいきなり言う男になっている。

 

 以上。

ロックについて

はじめに

サマソニで複数の日本人バンドのMCが問題に?音楽に対する姿勢やメッセージ性についてのいろいろな意見のまとめ

前の演者の印象的な場面にふわっと乗っかろ、ぐらいの意図で片言マネたんだろ、と軽く思ってたが、海外のイベントで日本人の次のアクトが下手な英語マネしてたら意図がなんだろうがムカつくからやっぱダメだな。

2022/08/22 08:11

b.hatena.ne.jp

 俺の中でロックなバンドを挙げろというと四つあって、スピッツSlipknotoasisエレファントカシマシということになる。

 ただ、この四つのバンドがロックという概念を同じ意味で共有しているかというと、それはまったく違っている。言い換えると、俺にとってロックとは複数の側面を持つ言葉で、ただ一つの意味に集約できない。

 

 スピッツは、歌詞と世界観がロックだと思う。草野マサムネの作詞には全霊で生きている虫とか花とか動物とか、路上とか泥の上でうごめいているものと人間と星と月とファミレスとラブホテルをつないでしまうことが可能で、この「力」をロックと呼びたい。

 出てくる人間が誰かに示す愛情も、セックスのことしか考えていないやつと、もっと原始的なリビドーのやつと、なぜかハンティングナイフを相手に送りつけようとするやつが出てくるので、振れ幅がすごいとかいうレベルを超えており、これをロックと呼びたい。

 

 Slipknotは覆面を被ってそろいのツナギを着た9人組で、見るからに明らかにイロモノであり、デスボイスのボーカルに打楽器隊が3人もいるというよくわからない構成をしていて、とにかく音が重く、それでいて曲が最高にポップだ。

 アイオワの農家しかない田舎から出てきて、退屈と憎悪が異様な濃度のまま膨張しており、ロックスターになったのにそれほど幸せな感じがしない。一方で、聴いていて楽しい曲をつくるセンスがあるものだから、激烈に暴力的で歌詞も陰鬱なのに文字通り「音楽」として成立してしまっていて、無茶苦茶に暴れているのに、その怒りに同調しながらみんな笑顔になってしまうという、そのマジックをロックと呼びたい。

 

 Oasisは多くの人間がこうなりたいと思う生き方をずーっと続けてきたからロックだ。

 良い声と傲慢さと愛嬌を兼ね備えたボーカルと、天才的なソングライティングと傲慢さと愛嬌を兼ね備えたその兄貴がバンドを組んで、良い声を持っている弟が兄の作る良い曲を歌って歌って、ずっと歌っていたら世界で一番になってしまった、という話だ。

 ステージにリアム・ギャラガーが出てきて、彼が両手を後ろ手に組んで歌うと、世界の中心がズレる。この世界には世界の中心がいくつかあり、それは基本的に人間の数だけあるので70億個ぐらいあるのだが、リアムが歌い出すとその数が減る。

 多くの人間がそうなりたかった。ほとんどの人間はそうなれなかったが、その代わりにリアムを見ているだけで幸せだった。少なくとも、この世界で、自分たちの一人だけは夢を叶えることに成功したと、見ていればわかるからだ。その希望をロックと呼びたい。

 

 エレファントカシマシ宮本浩次は最初からずっと戦っていて、それは世間との戦いのように見えて実は余技で、本当は自分自身と戦っている。ずっと、ずっと自分と戦っている。

 宮本浩次にとっての彼自身は、たぶん彼の理想と比べるとあまりに怠惰でいい加減だという点で戦うべき敵なんだろうけど、同時に、戦って倒せば倒すほど「悪い部分がなくなっていく」というところが、むしろ悲劇なのかもしれない。

 当たり前だが、「俺、いい加減にやってんじゃねえ」と思いながら自分と戦って倒すわけだから、次に出てくる敵としての自分は、もっとマジメになっているわけで、これを戦って倒すのは前よりもさらに苦しく、宮本はこんなことをずっとやっている。

 こういう宮本浩次に対し、宮本すげえ、と思って声援を送ると、「ふざけんなこの野郎、俺にエールなんか送ってる場合かお前は。お前自身はどうなってんだ、バカ野郎」と言い返してくるのが宮本で、でもそれが相手に対する何よりのエールになっているので、この狂気じみた誠実さと屈折をロックと呼びたい。

 

 ロックの意味は、ロックによって違う。

 誰それの行いを、ロックだとか、ロックじゃないとか言っても、あんまり意味がなくて、一つの「ロック」をずっとやってきた誰かが、別のロックじゃないことをしても、それで全部がおじゃんになるかというと、そんなに厳しくなくてもいいんじゃないの、と俺は思う。

  「理屈はともかく、単にダセぇよな」。それはある。俺もダセぇと思うし、不快だと思う(事前に、ネタにするってマキシマムザホルモンとリンダ・リンダズで取り決めてたならわからないが)。

 

 おそろしいのは、(ある一つの意味での)ロックじゃない言葉や行いというのが、割とするっと何気なく出てくるもんなんじゃないか、ということだ。

 この、するっと出てくる、というのは、その人の品性や倫理とはあまり関係がないのかもしれない。なんというか、ある種の技術や心構えとして警戒を絶やさず、意識的に遠ざけないと、どれだけ良い人からもこぼれ出てくるのかもしれない(「いやいや、だから、みんな注意して生きようぜ、って話だろ」と言われれば、そのとおりです)。

 そういう意味でも、俺はこれを批判するべきだと思うけど、一方で、これが致命的な汚点であるように言っても、誰もあまり、得るものがないんじゃないかなあ、という気がする。

 面白いと思ってやってしまいました、と言って謝れば終わる話だと俺は思っていて、それとマキシマムザホルモンの「ロック」とは関係がない気がする。

 なんとなく、その場の勢いでやったような気がするので、それを言語化するのは相当嫌な行為だと思うが、逆に言えば、謝ればそれで済む話じゃないだろうか(違ったらすいません。第三者が勝手に結論出すのも変かもしれないし)。

 なんか、ロックかどうかとか、日本の国民性がどうとか、ズレてんだよな、と考えている。

人類は林檎の夢を見るか、について

ここまでのあらすじsanjou.hatenablog.jp

 いま流行りの画像生成AIを使って◯◯(例:林檎)に関する注文を出すと、人間がこれまでネットにあげてきた林檎に関する膨大な情報を渉猟して一つのイメージにまとめることができる。

 別に、林檎の画像が欲しければ画像検索でフリー素材がいくらでも手に入る。だが、それは画像をつくった誰かにとっての林檎であって(別に、そこまで気合い入れてつくってないかもしれないが)、「俺にとっての林檎」ではないし、「俺とみんな、人類全体にとっての林檎」でもない。

 「俺にとっての林檎」や「みんなの林檎」を見えるようにしたければ自分でつくるしかないが、俺にそういうスキルはない。また、できたとしても膨大な手間がかかる。

 

 かつて、「俺とみんな、人類全体にとっての林檎」が見たければ、天才画家の力を借りる必要があった。

 林檎という例えについて、実際の果物のリンゴで「みんなの林檎」を描くことに成功した画家は正直思いつかない。いないのかもしれない。

 ただ、「最愛」や「無垢」、「希望」、「存在の骨そのものまでしみ込んだ絶望や悪意」といった概念を人物の姿によって表現し、人類全体の奥底に届いた作家はいたと思う。モディリアーニとか、ベーコンとか。

 脱線するが、モディリアーニやベーコンなどの画家がスペシャルなのは、彼が大切だと感じたものや感情を動かされたもの、人間や裸体、生物を描いたものが、結果として人類全体が奥底で抱いているビジョンに届いたからだと思う。

 これらの芸術家は、個人が個人的な活動を続けた結果、ある意味で人間全体を代表してしまった。そういう才能や手間を称えることが、画家を評価するということの意味の一つだと思う。

 

 話を戻す。

 そういう意味で、昔は画家の力を借りないと視覚的な媒体で人類全体の中には入れなかったのだが(俺はデザイナーのことをよく知らないけど、きっと、同じような天才はいるのだろう)、いまはAIの力によって、インターネットという集合知を一枚の絵にまとめることができる。

 一つの絵にする、というこの統合作業によって、人類の集合的無意識の中にある「みんなの林檎」に届く。だとしたら、AIすごくねえ? ということだ。

 「いやいや、それって、出てきた絵の良い悪いよりプロセスの方を評価してるだけだろ」という批判はあると思います。それで本当に「みんなの林檎」だって言えるのか? という。それは、いまんところ言い返せません。その通りかも。

 

脱線ついでに、言葉とイメージについて

 「俺の林檎」について、絵で描くことは難しくても、頭でイメージすることならできるだろう、と思いきや、それがけっこう難しい。

 例えば本を読んでいて、「林檎」という文字を視界に入れても、俺は頭の中に赤や緑の林檎を思い浮かべていないからだ。俺は基本的に、文字を脳内にイメージする行為を完全に放棄して文章を読んでいる。

 もしかすると、これは全然ピンと来ない人がたくさんいるのかもしれない。人によっては、頭の中でビジュアライズしているのかもしれないが、俺はまったくやらない。

 そのせいか、小説とかで出てくる地理関係や方角に関する記述を理解するのを、俺は異様に苦手にしている。◯◯は△△の北にあって、とか言われてもなんのことだがまるでわからない。こういうやつはどのくらいいるのだろうか?

 

 とにかく、俺は文章を頭の中で視覚化しない。

 それでどうやって理解しているかというと、「言語覚」としか言いようのないところで感じている気がする。視「覚」とか聴「覚」と同じ、言葉をキャッチして認識するための感覚だ。

 そこで言葉は言葉として扱われていて、いちいちビジュアルに再構成されない。赤い(緑でもいいけど)あの林檎とも、音としてのringoとも違う、言葉の世界の「りんご」があるということで、これは不思議なことだな、と最近思う。

 ただ、その「言葉の世界のりんご」は本当に俺のためだけに存在し、俺以外に感じようがなく、それを誰かと共有しようすると、目に見える赤い林檎や音としてringoに変換せざるを得ない。

 このときに取りこぼされるものはあまりに多い。その不可能さが悲しく、同時に贅沢なものだな、と思うが、もしかすると、この壁を突破するためのアートが詩なのかもしれないな、と思う。

 

 

Bacon

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